明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


富岡八幡事件は、色々明らかになってきたようだが、犯人の富岡茂永は“死んでもこの世に残り、たたり続ける”と平将門みたいなことを送りつけていたそうである。怨霊となって祟ったらそれはそれでたいしたものだが、祟る理由がセコ過ぎである。初詣客に影響が出そうにも思うが、近所のスーパーで産地偽装があり、警察は来るは取材のTVがくるは。しかし夕方いってみたら、A4のお詫びの紙がわずかに1枚貼られているだけで、客も含めて普段と何もかわっていなかった。詣でついでに事件現場見て帰ろう、なんて、関係者はともかく庶民は案外気にしないのではないか。
立像、乾燥させながら修整を加える。羽織を着せるのは少々飽きて来たし、着流しとも考えたが一枚羽織らせることにした。乾燥を防ぐ為に暖房を切って作っていたので着流しは少々寒々しい、と、そんなことも案外影響したかもしれない。羽織らせた分、乾燥に時間がかかりそうである。 来週からは寝姿の制作を始める。手足は人間の実写ですでに用意してあるし、写る部分しか作らない、合成用なので、縮尺気にせず、多少小さめに作っても大丈夫である。その進行具合を見て、ただちに活け締した海産物を入手し、到着次第、2時間程で撮影を完了したい。すぐに関係者で腹中に収めたいところだが、調理を頼もうとした親爺は面倒なのか、それを薄く切れないという。そういえば羊羹みたいな厚切りの刺身しか見たことがない。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

月刊ヘアモード12月号 no・693
不気味の谷へようこそ第9回 脳内イメージを表す人形写真

※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

HP

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昨日の事件、犯人逃走中の一報では女性ファン?があの辺で飲み歩いてないか心配して連絡がきたが、一夜明けると神社関係者はロクなのがいない。T神社の神主は大量のエロビデオを持ってるらしい、等と友人からメールが着た。別に仕えているいるだけで神様じゃないんだから勘弁してやってくれよ、という話しである。いずれにしても地元ではこの話しで持ち切りである。 夕方になり、ようやく乾燥に入る。杖をつき彼方の山を眺めているところである。撮影専用の2体目が少々落ち着きのない状況になる予定なので、1体目はごくオーソドックスにしてみた。自画像など似顔しか残されていない昔の人物だが、だからこそ、誰が見てもああ、あの人だな、と思ってもらえないと具合が悪い。『タウン誌深川』にも書いたが、全国の松尾芭蕉像が、あまりに好き勝手に作られているので、3人の門弟が描いた芭蕉像だけを参考にしたのだが、画力にも差があり、三者三様ではあったが、じっと見ていると確かに一人の人物を対象に描いたのであろうことが感じられて来る。制作中の人物も、自画像でさえ様々であり、後世の人間を惑わせる為に描いたのではないか、とすら思うのであるが、仮にそうだとしても、つい“うっかり”本当のことを描いてしまっている部分もあるだろう。毎日見つめているとそんな気がしてくる。もちろん気がする、というだけではあるが、できるだけ推理力を働かせて毎日続けていると、私もつい“うっかり”実像に迫ってしまうかもしれない、と期待するのである。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

月刊ヘアモード12月号 no・693
不気味の谷へようこそ第9回 脳内イメージを表す人形写真

※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

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昨日近所の富岡八幡宮の宮司富岡長子が弟の茂永と連れの女に殺害され、茂永は共犯の女を殺害後自殺した。以前宮司だった茂永は不祥事からクビになり、それでも多額の退職金が支払れたと聞いていた。金使いの荒い女好きの与太郎だ、とも聞いている。 先代宮司だった父親の退任を受け、長女の富岡長子を宮司にするよう、全国の神社を統括する神社本庁に具申。しかし本庁からは未回答のまま送り返されて来たというから、父親時代から某か問題があったようだが、事あるごとに、茂永が脅迫状を送って来ていたのが祟ったのだろう。神社本庁から離脱し長子が宮司となった。長子は殺害される前日のブログで“一部の神社の神主には、セクハラ、パワハラ、ネグレクト、嫌がらせ……が当たり前のように、横行しているのです。その事が、私が神職の飲み会に参加しなくなった要因の一つなのですが、それらの行為もそうですが、それを周りの人間は止めるどころか、増長させる事を言っていることすら理解出来ないくらい、モラルがない人が多いのです。”と神職者の女好きのだらしなさは、我が弟に限らないことを暴露している。 現場で心臓を刺し自殺した茂永だが、あの乃木大将でさえ明治天皇崩御の翌日割腹した際、介錯なしで死にきれず、うめき声が明け方まで近所に響いた、という。やはり腹をかっさばくのは苦しいところが肝腎なのだな、とどうでもよいことを独りごちた。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

月刊ヘアモード12月号 no・693
不気味の谷へようこそ第9回 脳内イメージを表す人形写真

※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

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制作中の人物は、これから私に妙な目に遇わされる予定だが、それは本人がそんなことを描いているのだからしかたがない。つまり村山槐多以来の画家である。そちらの世界の人物にも、手がけてみたい魅力ある人物はいくらでもいたが、小説家と違い絵画というビジュアルを残しているので、創作できる範囲は狭い。私が中学1年だったろうか、祖母に連れられ初めて西洋美術館で観たのがロートレックであったが、特徴的な姿形でもあり、私がフランス在住のピエールだったならば、真っ先に手がけたであろう。つまり問題は背景である。そういう意味ではコクトー、デイアギレフ、ニジンスキーなども同様である。バレエを一度観ただけなのに個展を、さらにオイルプリントで、という今思うと赤面物の暴挙に出てしまったが、何事もやらないよりはやった方がマシである。私なら、ニジンスキーの大ジャンプを描ける。いつか再びと思いながら、舞台の模型による再現さえ一時は考えたが、それだけでは不十分。現場でロケするには、極度の出不精には難しい。
海産物をどこから仕入れようか検索している。『貝の穴に河童の居る事』の時は巨大魚イシナギが物語の重要な鍵となっていた。しかし、簡単には上がらない魚である。編集者は他の魚を画像加工しては、といったが、噓をつくには本物を混ぜるのがコツである。東北に毎日の水揚げをネットで流している鮮魚店が幼魚を扱っているのを見つけた。時が来たなら、と安心していたら、おそらく震災によるのであろう。メールどころか電話も不通で慌てた。モデルをお願いした人が痩せてしまったり、床屋や美容室に行ってヘアースタイルが変わってしまい慌てたこともある。いずれにしてもナマモノの撮影は要注意である。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

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某人物の立像が大まかにできて明日には乾燥に入れるだろう。芯に入っている盆栽のアルミ線によりロクロ台に立っているのだが、表面だけでも乾燥したら切り離し、完全に乾燥が終わったら手付かずの着物の裾やら足の部分を制作する。このロクロ台は二十歳で卒業した陶芸学校から借りっ放しの物で、もう一台同級生が持ち出したロクロもある。その学校は、とっくの昔になくなっている。来年は、おそらく久しぶりに二台のロクロを同時に使用しながら、ということになりそうである。そうなると一日中座りっぱなしになるから、エコノミークラス症候群に気を付けなければならない。目的もなくただ散歩する、ということが私にはできない。もっとも飲み仲間のMさんが、よく自転車に乗っていたのに血栓が心臓に来て亡くなっているから、あまりあてにはならない。 これから制作する作品は、私の感心されるくらいなら呆れられたい願望を満足させるための作品になる予定だが、その分、芸人用語でいうところの“すべったら”目も当てられない、という危険をはらんでいる。作ってみてこれはまずい、ということになったら一時熱中した糠床や熱帯魚のようにブログで触れず、なかったことにすれば良いだけだが、今回は私にパンツ一丁で白粉を塗りたくられた爺さんが黙っていないだろうし、おそらく来週には某所から活け締めされた海産物をネットで注文することになるだろうから、できるだけそんな結末は避けたい。ここまで書くと当ブログを昔から読んでいただいている方の中にはアレだな、と勘が働く人もいるかもしれない。もう1つヒントを申せば、この海産物使用は2度目となる。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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不気味の谷へようこそ第9回 脳内イメージを表す人形写真

※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

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先日撮影した人物は全身をバラバラにし、実際は160センチの被写体の身長を180センチ相当にサイズアップ。ポーズも予定通りの状態に組み立て直した。制作中の立像を乾燥状態まで持って行けたら、首を引っこ抜いて、さっそくそのポーズに合わせて寝ているところを制作することにする。フォトショップによる画像の加工は、私は自分勝手にやってきたので、普通はどうするものかは知らないが、私の場合は感覚的にはほとんど粘土による造形と同じ要領である。 この作品はどちらかというと私の“感心されるくらいなら呆れられたい”願望を満足させるための作品であり、またそんなことを始めて、と一部にはすでに呆れられているが、これは私がそういうタチなのであるからいかんともしがたい。決して人を笑わせるためにやっている訳ではなく、この人物の、こんな部分を表現するとしたら、と私の中に真面目に浮んだ作品である。でなかったらパンツ一丁の染みだらけで乳首に白髪の毛が生えた年寄りに白粉塗ったりできないだろう。もっとも、どうせ呆れられるなら、眉間にシワを寄せられるよりは笑ってもらいたくはある。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

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昼過ぎに制作中の人物に合成する人の手脚を撮影する。私の撮影は、現場では実に馬鹿々しい状況であることが多い。私の中には画が浮んでいるが、そうでない人からすれば実に奇妙なものであろう。そういう意味でいえば、本日の撮影はトップクラスの馬鹿々しさであった。パンツ一丁のおじさんに艶消し用の白粉を塗っての撮影である。できればこんなことはしたくないのだが、最初に浮んだ画がこれだったのでしかたがない。養老孟司がいうところの“人間は頭に浮かんだ物を作るように出来ている”という仕組みのせいである。もっとも目の前のおじさんも、身体に白粉を塗られ、なおかつあられもないポーズを取らされていい迷惑であろうが、数時間後にちゃんと元を取るのである。 おじさんは本日休みだったのだが、明日は仕事だし、軽く打ち上げを、とT千穂へ。定年後、酔っぱらってコタツの角で額を二十数針縫っているし、頭にホッチキスも体験済みだし鎖骨も折り、救急車9回、パトカー2回の強者であるが、女性客が多くなり次第に本性が現れてくる。カウンタ−に南京の医学生だという美女が登場するに及んで最高調。早く帰るといっていたのに数年間惚れ込んでいるほとんどの怪我の原因である女性に、自分だと出てくれないからメールしてくれという。あまりぐずぐずいうので、Iさんと私とおじさんで、彼女が飲んでいる立ち飲み屋へ。満面の笑みでパンツ一丁の元を取るおじさんであった。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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以前、サンディエゴ写真美術館(Museum of Photographic Arts)の館長デボラ・クロチコさんに作品を見ていただいた時、私と同じようなアプローチをしている人はいますか、と訊いてみたら、考えて紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンだったから、多分いないのであろう。何故そんな質問をしたかというと、もし他にもいる、といわれてそいつが私より面白いことをしていたら、現在やっているようなことは即座に止めるつもりでいたからである。良い悪いはともかく、地球上に私一人である、という気分が私には必要なので、それさえ味わえるなら私は耐えられる。 デボラさんにお会いしてもう一つ感じたことがある。私が制作してきた人物でご存知だったのはおそらく三島由紀夫だけだったろう。ということである。その場におられたご主人がどんな人かは知らないが、おそらくブラックミュージック好きで、私のロバート•ジョンソンに反応してくれたが、デボラさんにあんたは余計なことはいわず黙ってなさい、的なことをいわれていたようである。そういう意味においては、現在制作中の人物は三島以上に知られているだろう。デボラさんは私の作品を見てユニーク々と連発してくれたのが何より嬉しかったが、日本人は何ですかこれは?となってしまって成分を知るまで血が巡ってくれず、即座にドヒャーッとなってくれない。今回はとても判りやすくドヒャー用に制作しているのだが。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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とりあえずただ立っているところを作り始めた。ただといっても遠くの景色を眺めている。乾燥するところまで持って行ったら、その間に暇な人間の手と脚を撮影し、それに合成する撮影専用の寝転がっている状態を作る。3作目もすでに構想は出来上がっているのだが、この人物ばかり作ってはいられない。もともと予定していなかったのを、急に思いついて作り始めた人物である。よって森鴎外の背景の撮影か、江戸川乱歩の撮影を考えている。考えているといっても所詮考えているのが私なので当てにならないのだが、行き当たりばったりのくせに、こうやって計画的に粛々と進めている、といいたい、という見栄がある。頭で考えているのに、急に思いついて止むに止まれなくなる、なんていうのはいかにも駄目な人間の典型ではないか。実際考えてはいるのだが、現在制作中の人物のように、棚からボタモチが落ちてくるように、思いついてしまえば計画は変更されて行く。だったら計画変更、頓挫がばれないよう、余計なことを書かなければ良いではないか、という話しであるが、なんでこのような作品を作り続けているのか、それはこんな人間だからだ、というのが当ブログである。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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悪癖  


いけない、と思いながら、どうしても悪癖が出る。頭部が完成すると、そこから身体部分を制作するのは楽しいのだが、その快感を増幅させるために、その手前でぐずぐずして自分を焦らしてしまうのである。頭部の仕上げなど後でも良いのに、ことさら手を加えてみたり、某店を一斉に出禁になった常連の“落ち武者会”にその頭部を持参してみたり。これは身体制作前の20代の頃からの習慣なのだが、これも頭部を持ち歩き、家に帰れば制作が待っているのだ、と何を飲んでも楽しく美味しいという悪癖というより奇癖に近い。実に困ったものである。ポケットに入れて持ち歩いて壊しはしないのか、と心配されるが、ぶつけたところでちょっと凹む程度で仕上げ前ならどうということはない。制作中の人物はすでに3パターンもの画が浮んでいて、1カ所は、ロケ先の了解もすでに得た。そのついでに企画が1つ浮び、近々打ち合せをすることにもなった。御馳走を前に、すでに口中は唾液で溢れかえっている。ここからは一挙に行きたい。 私は二日酔いをしないことと、モニターを一日中見つめていても疲れない体質、というのは実に幸運といえるだろう。だからといって寝床に本を敷いて、寝心地を悪くして睡眠時間を削る、というのはさすがにもう止めるべきである。そもそもそんなことをせずとも歳のせいで夜中に何度もトイレに起きる。家ではアルコールはすべて生で飲むが、よって外でも最近はなんとかハイや、なんとか割りはできるだけ避けている。 幼少期からお馴染みの、好きなことに没頭している時に湧き出る快感物質が過ぎて、涎を垂らしながらショック死、そんな死に方はできないものであろうか。

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

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