明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



『三島由紀夫小百科』が出て、三島由紀夫に対する昨年までの熱がつい蘇って来る。昨日も書いたが、三島にウケることだけを考えた、まさに二人だけの世界という感じであった。『椿説弓張月』の演出について寺山修司との対談で三島は「あんなに血糊を使うはずではなかった。」と現場のせいにしているが、映画『憂国』の撮影現場で「もっと血を!」とぶちまけさせたのは誰だ、と可笑しかった。嘘つきという意味では勝るとも劣らない寺山修司も鼻で笑っていただろう。憂国では切腹の際に溢れるはらわたに豚のモツを使った。スタジオ内に溢れる異臭。三島はそこに香水を振り撒いた。おそらく結果はさらにおぞましいことになったと思うが、そんなズレているところさえ、嫌いではない。 三島にウケようとするあまり二二六の将校をやってもらった時は流血させ過ぎてしまった。この時はどこでも血だらけにする方法を思い付いたのだが、都内各所を血の海にして、一カットで良いのだ、と我に返った。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三島由紀夫で男の死をモチーフとするなら本来いの一番に手掛けるべきなのは『聖セバスチャンの殉教』である。しかしすでに本人にやられてしまった。死の前年、滑り込みのように上演された舞台『椿説弓張月』の武藤太の責め場のシーンに私はセバスチャンを見付けた。さすがの三島も歌舞伎の舞台に立つわけに行かず、かといってその場面には歌舞伎役者ではなく、肉体美の俳優を代役に立てた。そこで三島には武藤太になってもらった。これは陰影のない石塚式ピクトリアリズムであればこそである。制作中は、まさに私と三島の二人の世界であった。 昨年の個展は『椿説男の死』としたが椿説(珍説)としたのは篠山紀信版男の死に敬意を払ってのことであったが、それが5ヶ月後に50年ぶりの出版を知ったのは会期中であった。篠山氏は撮影直後に死なれて非常なショックを受けたそうだが撮影自体は三島主導でつまらなかったと答えている。これは私の想像だが、篠山氏は次には『薔薇刑』のように自分主導の撮影の確約を三島から取っていたに違いなく、それを反故にされたショックがそこには含まれていたのではないか。写真の欠点は無い物は撮れないことである。私は無い物しか撮らないけれども。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




作家を作る時、とっくに亡くなっていようと、本人に見せてウケようと常に考えていた。本人を作中に登場させるということは、単なる挿絵を描くのとは違い、作者を、その作品に乗じて描きたい。なので例えば江戸川乱歩は読者や出版社の求めもあり、猟奇的な作品を書き、そのグロテスクさに辟易となり後の版で削除したりする。そんな本人をバラバラ死体の中で嬉しそうな顔をさせる訳にはいかない。どんなシチュエーションの中にいようと常に他人事のような顔をしていてもらった。そしてご遺族に微笑んでいただき安心する。乱歩邸の乱歩愛用の椅子に深々と座ってみたら胸の内に”ユルス“という乱歩の声が聴こえた。   作家によってはこうしたら本人は絶対喜ぶだろう。、と思ったら、本人自らやっていた、なんて人物もいる。私の読みが当たった、と思いつつ本人にやられていた。となれば本人がやりたくても出来なかった、もしくは考えもしなかったであろう状態に陥ってもらい喜んでいただきたい。とやっていたら、そんなカットが使用された。実は文学青年なんか大嫌いな人で、本なんか読まない、そんな連中ばかり集めた。
 
 
 
 


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




高校時代の友人で患者の自殺率の低さを密かに誇る精神科医からアマテラスは元々アマタ、アマネクテラス(遍照)だと聞いた。さらに便所にまで神様がいるとなれば日本に陰影などなくて当然であろう。 陰影を出さない私の手法を、とりあえず石塚式ピクトリアリズムと呼んでいる。ピクトリアリズムというのは元々西洋に起こった印象派絵画などのイメージを採り入れた絵画的手法であるが、私の場合は浮世絵、日本画的な物を写真に採り入れようと考えたので、日本的ピクトリアリズムとでもいいたいが、そんなことを試みる一派でもいるならともかく、私一人で日本などとはいえようがない。しかしながら私の行く手を、自由を阻害しているのは陰影である、という私の見立ては正しかった。以来やりたい放題である。ただし行く手を、自由をというのはあくまで私の事情であり、よって私は水槽の金魚を相手に日々暮らしている訳である。 そんな手段を入手したとなれば、現実についこの間まで生きていたような人や事などモチーフにしていられず、寒山拾得や千年前の人などをモチーフにしてこそであろう。私には水槽の金魚がいる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『虎渓三笑』の最後の一人、慧遠法師を再開した。随分久しぶりの感じである。そもそもこの人物が、修行のため山を降りないと決めていた僧である。もう前後のことは忘れてしまったし、ここに至ればどうでも良いことであるが、寒山拾得制作にさいし策もなく、とりあえず面白い話だ、作ってみよう。と最初に足を踏み外した?のはこの『虎渓三笑図』だったかもしれない。そしてこの四十年の間に笑っている人物はおそらく五人ほどしか作ったことがないのにいきなり笑う三人の首を作ってしまった。どうせ踏み外すなら意外な物が出来た方が良い。 さらにやろうやろうと思いながら、人形同士の共演は何回もやってない。まして三人は初めてだろう。3人が越えてしまう虎渓の石橋は目星はついている。その背景には切り立つ中国調岩壁。それをどうするか。楽しいから良いようなもののたった一カットのために、今さらながらコスパが悪すぎである。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鯉をロデオのように乗りこなす琴高仙人の鯉をそろそろ脂が乗って来たろうし、円谷英二や葛飾北斎で使ったタコのように撮影を考えている。タコの場合は前日に活け締めされた物を瀬戸内海から取り寄せたが、鯉も活け締め血抜きされた物を、と考えたが、どうも鯉の場合は鮮度の都合上、生きている物を調理の直前に締める物のようである。臭味の元である血も、栄養があり鯉の場合は洗わずに調理をなんてサイトもある。いずれにしても撮影はより迅速に済ませる必要がありそうである。その点に関しては蛸の一回目で、せっかく昨日まで生きていたので撮影後刺身で、と考えていたが、鮮度の証しに思えた匂いも臭味に変じ、何より蛸の眼が恨みがましい独特の目で、撮影後お茶で茹で、それでもその気になれず、冷凍庫に放り込み、さらに一週間以上待たなければならず、それに凝りて、北斎の時は撮影後ただちに行き付けの店に持ち込み、たこしゃふにしてみんなで食べた。鯉を締めるなら、撮影にさし支えない部分から包丁を入れ、など出来るだろう。色々考えると養殖物にしたいところである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




拾得というのは豊干禅師に拾われたから拾得というそうだが、虎を撮影し早く豊干を完成させたいところだが、虎はむしろ寒山と拾得、虎と豊干が寄り添うように眠る『四睡図』にかかせない。猫の虎化を断念したのはこれによる。つまり事前に飼い主にマタタビ導入をお願いしてみたところで、寝ている猫など撮れる物ではない。だったらグウタラしている動物園の虎に猫の部品を貼り付けた方が良さそうである。豊干は阿弥陀如来の化身、寒山と拾得は文殊菩薩と普賢菩薩で獰猛な虎と穏やかに眠る姿は悟りの境地を描いたものとされる。 修業のため山を降りないと決めていた慧遠法師が、訪ねて来た陶淵明と陸修静を帰りに送って行く際、つい話に夢中になり、境界を越えてしまって思わず笑う三人を描いた『虎渓三笑図』も、おっちょこちょいの愉快な三人組という訳ではなく、三人はそれぞれ仏教、儒教、道教を象徴しており、俗世を離れた禅味あるいは三教一体を表している。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


私くらいの方向音痴になると、それは全方向に、時間や季節にまで及び、年の半ば辺りに、これから暑くなるのか寒くなるのか一瞬考えたりする。 竹竿に骸骨掲げた一休宗純は、”門松は“というだけあり、インスタやブロクで元旦にはアップしたい。作るのは上半身だけでも良いと思っている。隔月連載の『タウン誌深川』も一休で行きたいが、方向音痴ゆえ、念のため来春新年号の締め切りを確認したら今月末であった。それはそうである。ということで先に立ち姿の一休を作り、年内に、寒山と拾得以外の頭部がすでにある連中の仕上げ前の状態には持って行きたい。 そろそろ豊干禅師の乗る虎を撮影しなければならないが、虎を見たことがない日本人絵師の描いた味を出すため猫を虎に変えて見たが、猫を撮るのは大変である。逆に虎を猫化した方が良いかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今週は天気が良かったので、グヤトーンという国産ギターのボディの色を塗り替えた。中学生の時田舎の親戚の納屋に打ち捨てられていたのをもらったのが最初で、それは母にいつの間にか捨てられてしまい、次は壊し、これは三台目である。いわゆるチャーが最初に弾いたエレキギターという奴で、未だにレコーディングに使ったなんて聞いて感心してしまう。ちゃちなギターだが、私もどうも最初の感触が忘れられない。 酒場で知り合い下手くそ同士でスタジオで雑音を出しあった、ウチはブラックですからが口癖のトラックドライバ"ーSさんを誘い御茶ノ水へ。拾得が持つ箒の材料を買い、その後楽器屋を回り、欠品であったトレモロアームを買ったりして、まだ早かったので、よく行った木場のサイゼリアへ。 引っ越しも手伝ってもらったSさんは50も半ばだが、何が凄いといって中学生になってようやくコウノトリはおかしいと気が付いたという。これはもうこれだけで友人として語るに足る男だといいたい。しかし酒が弱い人は弱けりゃ弱いなりににびちび飲めば良いのにかってに酔ってお開きに持って行かれるのがどうも不満である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本の下から『中国神仙奇談』『列仙伝・神仙伝』が出てきた。蝦蟇仙人 と鉄拐仙人、鯉に乗る琴高仙人を手掛けてみて、仙人でないと作りようがないキャラクターが面白く、他のモチーフを探していたのだが、また同時に龍を作る理由を探していた節がある。それもこれも予定していなかった一休禅師を作ったことで流れが変わった。内心作りたいからといって龍なんて作ってはいけない、と考えながら、私のことだから、おそらく作ることになるだろう、と思っていたが、龍虎図の一方の虎を動物園の虎にしたこともあり、それらを作るくらいなら、本来の人物を作るべきだろう、と。いずれにしても、一休を作り流れが変わった。この成り行き任せ、行き当たりばったりの様は、まさに私そのものであり、気が付くと予定と違う所に着地している。 これは悪いことではなく、常に意外なことが待っているので面白くはある。若い頃ならともかく、残りの時間を考えると、変化の度合いを加速すべきであろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




口から己の魂、分身を飛ばす術を持つ鉄拐(てっかい)仙人を作って、すでに作った相棒である蝦蟇仙人とのペアを揃えるか、お笑い三人組虎渓三笑図の最後の一人を作るか迷う。  常日頃、私より性能の良い、もう一人の私がへそ下三寸辺りにいて、といっているが、それは着想し、それをキャッチすることには長けているが、いつ、どこで何をする、という私の都合に関しては無頓着なので、性能の落ちるもう一人が、仕方なしに頭を悩ませることになる。 青々としてイグサの香りも爽やかな、一休が道端で寒さをしのぐために包まる物が届いたが、ベランダで紫外線や風雨にさらしたところで古びるには時間がかかる。大きめの鍋に入れお茶で煮込む。ワイヤーブラシでこすったりもしなくてはならないだろう。永井荷風独居の畳で一度汚し加工をやったがお茶で煮込んだくらいでは歯が立たず、欠局着色することになった。荷風は居候していても畳の上で煮炊きをし、タバコの焼け焦げだらけで平然としていた。世田谷文学館で展示の際、文学館の台所で100円ライターと線香で焼け焦げを着けた覚えがある。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今年から取り組んでいるモチーフは、いよいよ話し合う相手も周囲には絶無となった。コロナ禍も相まって、孤独感もいよいよ深まって来たが、これは鍵っ子だった幼い頃から好物とするところであり、おそらく今まで作って来た作品の、様相は違えど彩りを添えていただろう。大きい声ではいえないが、このコロナ禍は幼い頃夢みた、どこかの王様に石の塔に幽閉され“宿題や算数などやらないで良いからここで一生好きな事だけをしておれ。図書室もあるし、クレヨン画用紙使い放題ぢゃ”の状態に似ている。そんな私を憂いた母は、私に”みんなが困っている時に嬉しそうな顔をしてはならない“とチック症になる程うるさく伝えたのであろう。さすがである。 そんな訳で,、むしろ数百年前の絵師とばかり交わっているような今日この頃であるが、こうして振り返ってみると、必然的に到達すべきモチーフであった、と風狂の人一休宗純の顔を見つめながら想うのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




知識や技術は必要が生じてから身につけるべきで、事前に持ったり知ったりすると余計な使い方をしてしまう。粗忽者は特に気をつけなければならない。そんな訳で、禅宗でも特に臨済宗が、師の姿をかたちにして残して来た、と知ったのは最近の話である。姿を後世に残すことに対する執念は大変なもので、例えば曽我蛇足の肖像画と、一休本人の髪や髭を植えたという木像は、年齢表情こそそれぞれだが、斜め向きの画と木像の正面像の骨格に矛盾がなく、描いた絵師、仏師はそれぞれでも、明らかに同一の人物を描いた、ということが判る。おかげで1300年生まれの人物を描くことが出来る。勿論、なければないで今までも作って来たが、事実が残っているのならば、出来るだけ従うべきであろう。 松尾芭蕉を制作した時、門弟が師の肖像を後世に残したというのに、それを無視し、日本中にかってな芭蕉像が乱造され続けたことに憤慨し、嫌味なくらい門弟の描いた肖像だけを参考にした。    



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


今のところ目を空いたまままで骸骨を枕にしている一休和尚を見ていて、ようやく方向性が見えて来たような気がする。寒山と捨得は、すでにできている頭部は、捨てる気にはならないが、個展の中のラインナップということでなければ、十分寒山拾得といえるが、風狂の人、一休宗純を手がけた後では物足りない。材料が届かなくて一休の頭部を完成させることになったが、予定通り鉄拐仙人を作っていたなら、今のような心持ちにはなっていなかっただろう。ちょっとしたことで状況は変わる。棚から落ちて来るぼた餅は確実に受け止めなければならない。こんなことを40年も繰り返し、行き当たりばったり枝葉を伸ばして行くと、気がついたら、考えもしなかった場所に一人立っている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »