22年前の1998年の今日は、長野オリンピックの開会式が行われました。地元長野の開催というだけでなく、私の人生のターニングポイントになった一大イベント。
大学を卒業し、長野オリンピックのゴールドスポンサーでもあった地元の銀行に就職して迎えた2年目の冬。「メディア村」に出される臨時店舗での勤務を命じられました。
就職後も英語の勉強を続け、人事部が行うTOEICのIPテストも積極的に受験していたため、声をかけてもらったのだと思います。「英語を使って仕事ができる」という喜びで、二つ返事でその出向を引き受けました。
世界中が注目するオリンピックの雰囲気の中で、またその情報発信の中心であるメディア村での勤務は夢の中にいるようでした。TOEICや英検合格のための勉強が中心であったにも拘らず、いざ外国人を前にしても自然と英語が口をついて出てくるのに感動を覚え、その時から自分の中に「英語に関わる仕事をしたい」という気持ちが芽生え始めました。
オリンピック後は、それまで以上に英語の勉強に力が入り、留学のために退職を決意し、渡米。長野オリンピックから4年後の2002年ソルトレークシティオリンピックの開会式は、シアトルのホームステイ先で見ていたのですから、今振り返ると、人生が変わるスピードを感じます。
人生を変えてくれた長野オリンピックと、チャンスを与えてくれた人事部には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
大学を卒業し、長野オリンピックのゴールドスポンサーでもあった地元の銀行に就職して迎えた2年目の冬。「メディア村」に出される臨時店舗での勤務を命じられました。
就職後も英語の勉強を続け、人事部が行うTOEICのIPテストも積極的に受験していたため、声をかけてもらったのだと思います。「英語を使って仕事ができる」という喜びで、二つ返事でその出向を引き受けました。
世界中が注目するオリンピックの雰囲気の中で、またその情報発信の中心であるメディア村での勤務は夢の中にいるようでした。TOEICや英検合格のための勉強が中心であったにも拘らず、いざ外国人を前にしても自然と英語が口をついて出てくるのに感動を覚え、その時から自分の中に「英語に関わる仕事をしたい」という気持ちが芽生え始めました。
オリンピック後は、それまで以上に英語の勉強に力が入り、留学のために退職を決意し、渡米。長野オリンピックから4年後の2002年ソルトレークシティオリンピックの開会式は、シアトルのホームステイ先で見ていたのですから、今振り返ると、人生が変わるスピードを感じます。
人生を変えてくれた長野オリンピックと、チャンスを与えてくれた人事部には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。