帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

死を迎えた者の涙

2008年01月11日 | Weblog

また引きこもり青年による悲しい事件が起きました。
こうした事件が起きるたびに、死を受け入れるしかなかったこの青年の妹と弟の無念さが心に染み渡ります。
頚動脈をナイフで切ると即死にはなりません、程度にもよりますが、死に至るまで10分近い時間が必要となります。
寝ているところを襲われ、その痛みにのた打ち回りつつ、遠ざかっていく意識と生きようとする本能および生体活動が激しく脈打つなかで、しかしながら絶対的な事実に抗う事は出来ませんから、最後には死を迎える恐怖と悔しさを受け入れねばならないわけです。
3人の遺体の頬には、「なぜ死ななきゃならないんだ?」という思いから流れ出た涙の痕跡がたくさん残されていたであろうと私は思います。
引きこもりの子を持つ親の苦しみを知らない者たちはこういいます、「親の教育がわるいからだ、親のせいだ、馬鹿な親だ」とです。
そして引きこもっている子には、「こいつ気持ち悪い、変態、気合が入ってないからだ云々」という残酷な言葉が投げられます。
ではこの子は、そして親はこれまで何もして来なかったのか? 何にもしようとは思わなかったのか?
私が断言できるのは、「そんなことあるわけない」という事です。
親は親として出来る限りのことをし、この青年は彼なりに何とかしようと試みてきた、なぜならそうした行動を取るのが人間だからなのですね。
引きこもりになった子はその内になる心にどれだけの苦しい思いを抱えているかという事、それを理解する事は容易なことではありません。
自分の意思とは別に反応してしまう体、自分の思いとは反対に進んでいく未来への時間、その中で孤立する苦しさは普通に生活している者達が想像している以上に厳しいものなのですね。
一番の苦しさはなった本人にしか分かりえないということです。

人を批判する事は建前の正義と口さえあれば、数秒であふれるほど沸いてきます、しかし、それは自分が同じ立場にはならないというあくまでも楽観的考えの基にあるからで、ゆえに簡単に言葉にできるわけです。
口を出すものはいます、しかしながら誰一人としてその口に見あう行動をしようとしてくれる者などいません、これも私自身が経験しています。
こうした人物は、現実に行動を起こす者がいると、今度は雑言罵倒で批判するものです。

そうしないと、自分の立っている足元に不安を覚えるからであり、批判をすることで自分を安心させる。 人の心というものは、かようにあやふやな物なのですね。 
ひきこもりの子、そしてその親はそうした無責任の嵐にさらされた中から必死で這い上がってこなければならないわけです。