「相撲」 エッセイ BY 翔
夕飯は鳥鍋、 その前にビールを飲みつつ親父と二人で相撲ウオッチ。
実のところ、僕そのものは相撲をほとんど見なくて、逆に親父と母親は大の相撲好き。
僕が親父と一緒に相撲を”じっくり”見るのは、正直言って始めての事かもしれない。
誰がどうなっているのか?が、よく解らない僕は親父に聞きつつ見ているけど、 僕の質問に余り明確には答えない。
と言うか、多分面倒くさいのだと思う・・・・・
遙か昔、小学校低学年の頃の話。
セミの声がヒグラシに変わる頃に、外から泥まみれになって帰ってきた僕の首根っこを捕まえると、そのまま風呂場に連れて行き、風呂に放り込んだ。
薪で焚かれた風呂のお湯は、今のようにガスで沸かされた物とは違い、肌に刺すような刺々しさがある。
いやあちらこちらに出来た擦り傷に沁みていたという方が正解かもしれない。
頭からシャンプーと石けんまみれにされて、薩摩芋みたいにゴロゴリ洗うと、必ず最後はバケツで頭からお湯をドカッ!・・・。
洗っている間に、火力が落ちにくい薪釜故、 湯温が上がっていても、お構いなしにやる親父なので、時々「あちちち!」
先に僕をあげると、母親がタオルで包んでくれるが、頭をごしごしと拭いている時の柔らかい音と、 親父が体を洗うタオルの音が混ざり合う。
風呂上がりにタオルを首からさげ、パンツ一丁でビールを飲む親父が見ていたのは、相撲・野球・ボクシング・そしてプロレス。
枝豆をつまんでいる親父の皿から、ポチポチと手を出して盗み食い?していた僕の記憶に残る親父の顔は、ひげそり後の残るツルツルだった・・・・
「ノコッター! ノコッター!」 の声に浮かぶかすかな記憶。
今はそこに多数の皺が刻まれ、その一本一本に、当時の懐かしい面影と想い出だけが残されている。
テレビに映る力士の取り組みは、次第に重量級となっていき、それまでの若手から頂点を制する物達の闘いへシフトし、いよいよクライマックスを迎える。
その横から、「御飯出来たよ!」 と声をかける母親。
これもも何一つ変わってはいない・・・・
ふっと心は時を飛び越え、 そこには当時も今も変わらない親子の姿、 家庭の姿がある。
幸せでいて、しかしながら必ず将来は終わりがくる小さな宴(幸せ)。
後どれくらいこうした時が送れるのだろうか・・・・・と、何とも言えない悲しい気持がふつふつと沸いて来るが、それが人の定めなのだと。