数日前の天声人語の総裁選がらみの記事に、ある英誌が日本人の失望する能力の欠如、その能力が閉塞した状況を破る鍵だといったような事が書かれていた、と紹介していた。失望する能力の欠如、なるほど、うまいことを言うものだと思わず笑ってしまったが、たしかに同じ失望を幾度となく味わわされているくせに、国民は現状を打破しようとはしない。最近の政治の不始末はなにおかいわんやだ。しかも落とし前はつけていない。
歴史的に見れば、どこの国民も、いや人類と言ってもいいかもしれない、失望する能力を欠いているからこそ、同じ過ちを繰り返しているのだが、それにしても、戦後の、平和ボケした日本人の「失望する能力」の欠如は際立っている。だまされてもだまされても、踏みつけにされても現状維持を続ける日本人、おとなしい羊の群れそのもの。
失望に対する言葉としては希望だろうか。ギリシャ神話によれば、神の火を盗んで人間に与え、罰せられたプロメテウス、その罰のひとつでプロメテウスの弟に与えられた美女パンドラが持ってきた箱をあけると、ありとあらゆる災いが飛び出し、世の中に出て行った。あわててふたをすると、中から「私を出してください、きっとお役に立ちます」といって出てきたのが「希望」だから人間はどんなに絶望しても、希望を抱き、立ち直れ、生きることができる、ということだった。
阿刀田高は、希望こそ神が人間に与えた最大の罰であった、という。挫折しても失望しても、かすかな希望があるからこそ、なんどもかなえられない失望を辛酸を経験しながら人は生きる、希望がかなえられることは少ないにもかかわらず。一理ある。
とはいえ、失望するから希望するのだろう。失望する能力がないというのは、希望する能力も欠如していることになる。夢を抱けない国民に未来はない。これは由々しきことだ。