仕事から帰ると、ひと息いれる前に夕食の支度をする。クーラーが壊れているので、汗だくで冷やし中華を作った。 調理の一部始終を冷蔵庫の上から眺めているビーに、薄焼き卵をちぎってあげると、噛まずに飲み込む。好みの味ではないらしく、それ以上欲しそうにはしなかった。猫たちの器にも猫缶を入れて、夕食にする。猫たちはものの五分で食べ終えると、家の中は暑いのでベランダに出た。私は雑誌を読んだり、お笑い番組を見たりしながらゆっくり食べた。
食べ終わって、煙草に火をつけてベランダに出ると、殿とビーがベランダの端に並んで涼んでいた。部屋に戻ってしばらくすると、殿があわてた様子で部屋に駆け込んで来た。何かあったのかとベランダに出ると、向かいの家の塀の上に、体格のいい虎猫がいる。ビーの姿はない。Tが帰り、再度一人分の冷やし中華を作り、食べ終えるのを待って、ビーを探しに出かけた。
「ビー、ビー」
夜中の一時過ぎで、あまり大きな声は出せないけれど、静かな住宅街なので小さな声でも猫の耳なら聞こえるだろう。
「ビー」
「ナー」、と答えた猫は殿だった。まぎらわしいので、殿を連れて一度家に戻り、窓を閉めてからビーを探した。
空き地、神社、駐車場、庭など猫のいそうな場所では立ち止まって何度も呼んでみたがビーは出てこない。
「ビーがこんなに長いこと帰ってこないの珍しいよ」
「うん、いつも二、三時間で腹減って帰って来るからね」
「お腹空いてるはずなのに、帰って来ないなんておかしいよ」
「大丈夫だよ、少しくらい痩せた方がいいんだから、ビーは。この前獣医にちょっと太り気味ですねっていわれたばかりなんだから」
「まあそうだけど。お腹ぶりんぶりんだもんね」
「俺はどっかでうまいもんもらってるんだと思うけどね」
「かなあ。ビーかわいいからねえ。ユニバーサル級のかわいさだからねえ。あたしたちの知らないとこにファンがいてもおかしくないよね。優しい老夫婦かなんかで、うちなんかよりずっと広い家住んでて、うちみたいにクーラーも壊れてなくて、おばあさん暇だから魚屋で買ってきたアラとか自分で煮てあげて、居心地よくて、ついつい長居してるのかもね」
「そうそう。ビーはウハウハでやってるよ。そのうち飽きて帰って来るよ」
半径50メートルくらい歩いたけれど、ビーの気配はない。殿も一晩帰らないことが最近あったし、明日の朝には戻っているだろうと思って、その夜は寝ることにした。
次の朝、目が覚めるとすぐにベッドの下のビーの寝床を覗いてみたが、姿はなかった。急いでシャワーを浴びてから、ビーを探しに外に出た。蝉しぐれを効果音に、目の眩むような真っ白い陽射しがふりそそぎ、すぐに汗でTシャツの背中がびしょ濡れになった。
「ビー」
何度も名を呼んだが出て来ない。こうまで暑いと、アスファルトに出てくるのが嫌で、どこか涼しい場所で眠っているのかもしれない。猛暑の白昼に猫を探すのは難しいと思って、家のすぐ近くにある世田谷観音に行き、「ビーが元気で帰って来ますように」と祈った。つい最近殿が家出したときは、次の日の夜に帰って来た。ビーも夜には戻るだろうと思い、仕事に出かけた。
仕事中はただ目の前にある仕事をこなしていった。手を止めるとビーのことを考えて、心配で仕事が手につかなくなるので、ひたすら仕事に集中した。
同じ部のSさんに昼食に誘われて仕事を中断すると、ビーはどこで何をしているのか、そればかり気になり出した。Sさんにはビーがいなくなったことは話さなかった。Sさんはもともと理系で結論を急ぐようなところがあり、猫がいなくなったと聞けば私が〝恐れていること〟を平気で口に出しかねない。上の空で世間話をしながらパスタを食べると、ぼろ雑巾を口に入れているような気がした。
〝恐れていること〟をイメージしたり、頭の中で言葉にしたりすることを必死で避けた。縁起の悪いことを考えたくなかっただけでなく、〝恐れていること〟が脳裏をかすめただけで、頭がわれるように痛くなり、めまいがし、吐き気がし、動悸がして、仕事どころではなくなる。他人にも口に出して欲しくなかったので、Sさんだけでなく、職場ではビーがいなくなったことは黙っていた。
別の部の、猫を二匹飼っていて、猫の話をはじめるといつまでも止まらないおじさんにだけ、ビーのことを打ち明けた。
「うちの妹猫が昨日の夜から帰らないんですよ」
「猫砂を家の周りにまいておくといいよ。そしたら匂いで帰って来るからさ」
集中したせいかいつもより一時間ほど早く仕事を終え、急いで家に帰った。いつものように玄関の前で殿が帰りを待っていた。ビーはたいてい家の中で寝ていて、私の足音がすると玄関先まで出迎えに来る。でもその日玄関を開けても、ビーは迎えには出て来なかった。疲れて寝ているのかもしれないと思い、家中を探してみても姿はなかった。すぐ外に出て、ビーの名前を呼びながら、近所を探した。疲れると家に戻って、ビーを待った。心配で何も手につかないので、疲れがとれ次第、何度も外に出てビーを探した。半径二百メートルほどの範囲を、ときどき自転車を止めて、ビーの名前を呼びながら回った。
家にいる間も、ベランダからビーの名前を呼んだ。祈る気持ちで空を見上げると、夏の空にしては星が多く出ていて、流れ星を見つけた。流れ星の、ピョーンと短く伸びた曲線がビーの胴のようで、「ビーは無事だよ、元気に遊んでるよ」、というビーからのメッセージだと思うと涙が出た。
夜になってもやまない蝉の声に混じって、ビーの声が聞こえたような気がしても、次の瞬間には蝉の声だけが聞こえた。
殿は、家の中にいるか、ベランダで涼んでいて、遠くへ出かけようとはしなかった。殿は、妹猫のビーの前では、だっこされるのを嫌がって自分からは決して甘えないのに、ビーがいないと人が変わったように甘えてくる。暑い夜も、一度だっこすると抱かれっぱなしになっていた。
仕事を終えたTから電話があった。
「今から帰るよ」
「うん」
「今日ご飯は?」
「ごめん、何もないの」
「わかった。じゃあ何か買って帰るよ。ヤツは帰って来たの?」
「まだなの」
「そっか。困った子だね」
「早く帰って来て」
「うん、急いで帰るよ」
一人で家にいると、ビーがいないことがさみしくて泣いてしまう。すると、ベランダで涼んでいた殿が帰って来て「ナー」と鳴く。殿の背中に顔をつけて泣いても、殿は嫌がりもしないで喉を鳴らし、全身にブルルルル、という音が響き渡る。殿が息を吸うときのブルルルルと、息を吐く時のクルルルルという音が、さざ波のように反復して鳴り響き、少しだけ気分を落ち着けてくれた。
Tが帰ってきて、コンビニ弁当だけでは足りないようだったので、そうめんを茹でて一緒に食べた。
食べ終わるとすぐに、二人でビーを探しに出た。じっとりと暑い空気が動かない熱帯夜で、少し歩くだけで喉が渇く。喉の渇きを感じるたびに、ビーに飲む水があるのか心配になった。こうした〝恐れていること〟は、言霊になるのがいやなのでTにもいわなかった。ふだんは言霊だの迷信だの全く信じていないけれど、今はどんな可能性にでも賭けたい。〝恐れていること〟が脳裏をかすめるだびに、自分の太ももの肉をぎゅうっとつねりあげた。その痛みで胸の苦しさを紛らわせた。
歩いて探しては家に戻り、一休みしてから一人で自転車で探しに出かけることを何度か繰り返した。
車の多い通りを避けて、夜の町を歩いていると、これまで見たことのない猫を何匹も目にした。猫に出会う度に、ビーの姿を念じながら、「見かけたら、家に帰るように伝えて」と、言葉ではなくイメージでテレパシーを送った。
深夜、ベランダに使用済みトイレ砂を 少しおいてから、力尽きて簡単に眠りに落ちた。
ひどいめにあったにゃ!
レンゲショウマの花は蝋のよう
レンゲショウマにまた2つ花が咲いた。
また月曜。ダーが会社を休むので、
つられて休日気分の中仕事へ。WJが救い。
お昼は神田でラーメン、味玉入り。まだ暑い。
隣の作業台で仕事をする甘木さんは、
連日4時まで休みなしで働いておかしなテンションに。
帰りは駅でダーと待ち合わせ。
駅について電話すると「まだ家」というので
一瞬キレそうになるけどぐっと我慢。
久々に外食なのに最初から喧嘩してはつまらない。
薬局で柔軟剤とかいろいろ買ったり、
植木屋を覗いたりして待つ。
植木屋ではリンドウがオンシーズン。
トラジの焼肉。ビールを軽く飲んで、
美味いものを食べるうちに、
待たされてムカッときたことはどうでもよくなった。
お腹が減っていたので最初に出たキムチすらめちゃ美味い。
ダーも私も大人らしく、肉は塩・タレカルビ、ヒレ角など計4人前に抑える。
味付け葱と一緒に食べるとさっぱり。
苦しくなる前にシメのコムタンクッパ、ダーはテグタンクッパ。
ダーは「この夏は辛いものばかり食べたくなる」
クッパの途中で結局苦しくなったけど、完食。牛に感謝。
殿ちんをお風呂に入れてから何日か、
風呂の排水溝に白い毛が溜まるのを取り除いていた。
お風呂に入れると毛がかなり抜けてさっぱりし、
殿を撫でても前ほどは手に毛がつかない。
ビーもお風呂に入れることにする。
ダーはさっそくビーをつれてお風呂へ。
先日は、生半可な気持ちでビーを風呂に連れていき、
一撃必殺の蹴りをくらったけれど、
こっちの覚悟が決まっていると、
ビーも覚悟を決めて暴れはしない。
むしろ怯えて、バスルームからビーのあらん限りの大声が聞こえる。
「にゃーあーおーうー!」 私はタオルを持って外で待ち構えながら、
「ビー、だいじょぶ、だいじょぶだよー、すぐだよ、ビー」となだめ続ける。
殿が来てバスルームの戸に鼻を近づけ、
ビーと一緒になって鳴く。
バスルームから出たビーは、
嫌な時間が終わったことでホッとして、
タオルでくるんでも嫌がらず大人しいので、
タオル3枚でよく拭く。
乱れた毛並みをビーが舐めていると殿も来て、
舐めるのを手伝っているけれど、
毛並みと逆方向に出鱈目に舐めている。
モンチは、誰もいなくなったバスルームをそっと覗いて、
濡れているので飛び退り、何だかよくわからないけど、
ビー姉ちゃんを苦しめたあの2人は極悪人に違いないという風に、逃げ惑った。
夜、寝ようとベッドに行くとビーも来て、
枕元で毛づくろいをするのを眺める。
少し寒かったのか、毛布でくるむとそのまま寝て、
朝まで私の腕の中で寝る。
季節は梅雨。雨で散歩もできないので、外に出る気がしないCと私は、家でボブ・マーリーの歌を一つ一つ覚えようとしていた。
wake up turn I lose,
for the rain falling.
「雨が降ってるうちにいっとけ、みたいな」
「そっか『caya』って梅雨の歌だ」
ワンフレーズごとに、歌詞の意味を考えながら覚えていく。
I feel so high I even touch the sky
above the falling rain.
「すんげ~ハイになっちゃって」
「雨を越えて空に手が届きそう」
歌うたびに、雨雲の上に広がる青空のイメージが浮かんできて、梅雨も悪くなかった。
I feel so good in my neighbourhood
so here I come again.
I got have caya now.
「地元にいていい感じ! だから帰ってきたぜ! さあいっとけ!」
「なんか変な歌詞だけど、ニュアンスはわかるね」
梅雨のボブは、『caya』だけではない。
Misty morning don’t see no sun.
「湿った朝、太陽さえ見えない」
「見てないよね~最近」
「先週一週間の日照時間、35分だって」
「どおりでうちの動物たち、元気なかったわけだ」
「うちの猫たちは雨でも外に遊びに行ってずぶ濡れで帰ってきた」
「ビー、洗われて毛まで剃られて元気になったの?」
「うん、二日間くらいへこんでたけど、三日目にはすっかり忘れて元気になった」
三日目にはネズミ狩も再開し、シラッと獲物をくわえて帰ってきた。ビーは賢いので、同じトリモチにかかることはないと思った。
「うちの動物は猫だけじゃないからね」とC。
「何?」
「旦那と旦那の兄貴。毎晩群れをなして、ゲームばっかやってる」
「あはは。梅雨も晴れも関係ないじゃん」
I know you out there somewhere having fun.
「君は外に出てどこかで遊んでる? 変な歌詞だね。前後関係がよくわからない」
One of my best friends say,in a reggae riddem.
「友達が言った、レゲエのリズムで」
「イナレゲリデム!」
Don’t jumping the water,if you can’t swim.
「泳げないなら飛び込むな」
「当たり前だっつーの」
太陽が恋しくて次に選んだのは、
『Sun is shining』。
Sun is shining,the weather is sweet.
「この曲さあ、こんなに晴れがましい歌詞なのに、メロディはねっとりしてるよね」
「ほんと。しかもなんか暗いってゆうか」
「ビートルズの『good day sunshine』とかまさに太陽の中散歩する感じなのに」
To the rescure, here I am!
want you to know ya,here I stand!
「マンデモーニン、変な歌だね」
「チューズデイーブニン、こんな曲ボブにしか作れない」
「ウェンズデモーニン、このぐったりした感じ」
「サースデイーブニン、でもさ」
「フライデーモーニン、何?」
「ジャマイカとか、ほんとに暑いとこのぐらいぐったりしちゃうのかもね」
そして、大好きな『Time will tell』。
Time alone,oh time will tell.
Think you'er'in heven but living in hell.
「あんたたちは天国にいると思ってるかもしれないけど、ここは地獄なんだぜ!」
「そんな歌詞だったんだあ。もっと優しい感じの歌かと思ってたのに」
「ファンシーなメロディなのに。重い歌詞だったんだね」
『Time will tell』を覚えたあたりで梅雨が明け、真夏のボブ、『Africa Unite』にとりかかることにした。
Africa unite,Cause we are moving right out of babylon.
And we are going to our father's land
私とCがこの世界に生まれて間もない頃、ボブ・マーリーが来日し、中上健二がインタビューをした。紀州の土にまみれた中上と、すでに神様のように地球を俯瞰するボブとの、ちっとも会話がかみ合わないそのインタビューの中でボブがいっている。
「ラスタファリズムは黒人だけのものじゃない。それぞれの国で、それぞれの時代で解釈があっていい」
私とCにとってラスタファリズムとは、私がCで、Cが私で、私はビーで、ビーは殿で、殿は世田谷観音の桜の木で、桜は私で、といった感覚。わたしはあなた、あなたはわたし。
『Africa Unite』を完璧にマスターして、いくつか台風が通り過ぎて、暑さがピークに達した頃、ビーが家出した。