安倍普三/鈍感力が持ち味で首相になったのか

2007-04-03 06:30:17 | Weblog

 「支持率を気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」――。

 小泉純一郎前首の安倍晋三に手向けた有難いお言葉である。「鈍感力」の必要性を安倍晋三に諭した言葉となっているが、多分生まれつきの体質がどうしようもない状況に立ち至らせてしまったのだろう、鈍感力メタボリック症候群状況にある安部晋三である、必要性ではなく、コレステロール性鈍感力を少しはどうにかしろと忠告を与えるべきではなかっただろうか。

 そのことに気づかなかった小泉首相の鈍感力も手の施しようもない末期症状を見せていたと言うことなのだろうか。

 07年3月29日の「朝日」夕刊の『人・脈・気 安部政権の空気』に「タカ派と結び『美しい国』」と題する記事がある。その冒頭部分を引用すると、<公明党の代表太田昭宏(61)は、連立政権を組む首相安倍普三(52)の「美しい国」を自分なりにとらえようと、外国人に会うたびに尋ねる。日本は美しい国ですか?何が美しい?
 「終身雇用はすばらしい」
 「健康保険が美しい。貧しい人もみなで救っていく精神がある」
 大田は公明新聞記者、創価学会青年部長を経て、安倍と同じ93年に初当選。公明党は「平和の党」を掲げ、所得の低い人々への目配りを唱えてきた。「日本人の助け合いとか、情とかが壊れている。だから首相は、こうやってそれを取り戻すんだと具体的に主張してくれればわかりやすいのに」
 だが、安倍が国会で答えた「美しい国」とは、こういうことだ。
 「明治、大正期に外国人の多くが日本を称賛した。アインシュタインは、謙虚と質素さ、純粋で静かな心、これらを保ってほしいと述べた。質素でも立ち居振る舞いが美しい日本人でありたい」
 明治、大正期はなお封建的な考え方が強く、その時代をあえて理想と語る安部流の「美しい国」は、戦後の価値を否定する復古主義に見える。(後略)>――

 自民党と連立政権を組む公明党のさすがは代表である。鈍感力では安部晋三にいいとこ勝負で競い合っているらしい。安倍政権と連立を組んでいるから、安部の鈍感力が伝染して同じく鈍感力メタボリック症候群化したのか、鈍感力に関して元々同じ穴のムジナにあったから、類は友を呼ぶで連立が組めているのか、多分後者なのだろう。

 「大田は公明新聞記者、創価学会青年部長を経て、安倍と同じ93年に初当選」。新聞記者の経験が自らの客観的認識性の獲得に役立たなかったのか、「日本は美しい国」なのかどうか、「何が美しい」のか、わざわざ外国人に尋ねなければ判断できないらしい。尋ねられた外国人の中には外交辞令的に日本の「美しさ」をデッチ上げることだってあるだろう。あるいは美しいところなんか全然ないと答えるわけにはいかず、無理に答えをひねり出すことだってあるに違いない。新聞記者を経験していながら、そういったことへ向ける視線を持ち合わせていないレベルにまで達している鈍感力らしい。

 それがデッチ上げでなかったとしても、各種情報を通しては知ってはいるが、体験的に日本の政治や制度・社会に精通しているといった外国人はそうそうは多くはいないだろうから、「外国人に会うたびに尋ねる」こと自体、ないものねだりとなりかねない。

 「終身雇用はすばらしい」と言うが、かつてあった「終身雇用」は主として経済拡大期の正社員に限った限定条件付終身雇用制度であることを隠した幻想でしかなく、その幻想さえもはかなく潰えさせてしまったということを日本の社会は経験したばかりであるはずなのに、早くも忘れてしまったらしい。鈍感力がなせる健忘症なのか、それとも鈍感力は単細胞につながるゆえの無考えからの記憶喪失なのか、何とも美しい大田昭宏である。さすが現在の公明党を支える代表だけのことはある。

 不況が恒常化して、いわゆる失われた10年と言われる状況に立ち至ってリストラが企業にとって日常化する以前の正社員の終身雇用は経済の順調な拡大と、不況期に簡単に整理できる雇用調整弁の役目と人件費抑制の役目を担わされていたパートや期間工といった非正規社員の存在、さらに人件費抑制の役目と同時にいつでも簡単に生産量を増減させることができる下請・孫請を抱えていたことによる二重・三重の生産体制が可能としていた制度に過ぎない。

 失われた10年の初期はパートや期間工を整理し、代わりになお人件費を抑制できる外国人労働者を必要な頭数だけ採用して間に合わせていたが、10年の末期に至ると溺れて今にも水底に引きずり込まれそうになった瞬間に中国特需という救いの手が差し延べられて日本経済が息を吹き返すまで、企業は終身雇用を裏切って正社員にまでリストラのナタをなり振り構わずに振るうこととなった。いわば終身雇用は日本の歴史を貫いて確固として据えられていた制度ではなく、景気次第の単なる便宜的慣習に過ぎないことを証明した。

 そのことは昨今の派遣労働者や請負形態の雇用の多用が証明している。日本の経済が回復して企業が活況を呈してくると、またぞろ会社への忠誠心を求めるには終身雇用の保証が最善とばかりに新入社員の採用に熱心になっているが、一方に派遣や請負、パートといった非正規社員を抱えての本質的には従来とほぼ変わらない終身雇用であって、不景気に出会うことなく正社員の地位を生涯約束されて恩恵を受けることができる者のみに有効な「終身雇用はすばらしい」の限定つきでしかない。

こういった事情まで把握していなかったこととして外国人が「終身雇用はすばらしい」と言うのは許されもするが、終身雇用であったはずの正社員までが情け容赦なく次々とリストラされて、20年、30年と家のローンを組んでいた者の中には支払いを滞らせて家を手放さなければならなくなった者も出たのは記憶が薄れるにはまだそう遠くはない光景である。それを記憶からこぼれ落として遠い光景とし、外国人の言葉を言葉どおりにしか受け止めることができないお粗末な客観的認識力はやはり鈍感力が現代風にメタボリック症候群化しているお陰か。

 江戸時代、幕府の怒りを買って、今で言う企業の倒産に当たる廃藩が命じられない限り、武士は終身雇用制度で守られていた。しかしそれを可能にしていたのは、百姓に対する過酷な搾取であった。搾取は逆に百姓を食えなくし、土地を捨て、家族を捨てて都会に逃げる走り百姓となる者が多く出て、江戸といった都市の治安を乱すまでになっていた。都市への人口流入を防ぐために人返の法(ひとがえしのほう)が制定されている。生涯廃藩を免れて藩士の身分を全うすることができ、終身雇用の恩恵を受けることができた武士にとっては、例え末端の地位にあって、内職に明け暮れなければ生活が成り立たなかった武士であったとしても、食えない百姓、故郷を捨てる百姓から比較したら、「終身雇用はすばらしい」と確実に言えるに違いない。外国人が言ったように。

 しかしそのような武士であっても、明治維新後の廃藩置県で武士の地位を失うことによって、百姓やその他の身分の者たちを除いた武士だけの美しい「終身雇用制」は敢えなく費え去ることとなった。今日の終身雇用と同じく、永遠の命を宿していたわけではなかったと言うことである。

 物事には裏と表があり、プラス・マイナスがある。常に何らかの矛盾を付き纏わせている。矛盾のない制度・社会など存在しない。政治はその是正の役目を担っている。しかし政治党派は自分たちに不都合が起きなければ、矛盾に目をつぶったり、矛盾の上にアグラをかいて知っちらん顔する。あるいは小泉純一郎のように、「格差はどの時代にもどの社会にもある」と開き直る。鈍感力が必要なわけである。

 大田公明党代表は自らの「日本は美しい国ですか?何が美しい?」という問いに対する次の外国人の「健康保険が美しい。貧しい人もみなで救っていく精神がある」の回答にも何も感じなかったらしく、現在政治家をしている意味を失うほどの鈍感力を発揮している。

 健康保険制度自体の理念は「美し」くとも、基本的にはカネで成り立たせている有償制度であることに代わりはない。当然利用側のカネの力によって、受けることができるサービスに違いが出てくる。

 極端な場合、健康保険料を払えずに1年を超えた滞納者は保険証を取り上げられ、医療機関で治療を受ける場合は窓口で全額自己負担したあと、自治体に手続きを取ることで保険給付の7割の払い戻しを受けることができる被保険者資格証明書を利用するよう義務付けられる。

 当然、自費で全額負担できないような病気治療の場合は他人に借金するか、サラ金に借金するか、あるいは放置しても少々の苦痛で凌げるなら、治療を放棄するかの選択に迫られる。

 インターネットで調べた07年3月8日(木)の「しんぶん赤旗」によると、06年度の国民健康保険の保険料の滞納は480世帯を超え、そのうち1年以上滞納して保険証を失い、資格証明書を発行された世帯は35万世帯で、いずれも過去最高だという。

 このような状況は日本社会の格差拡大状況と呼応しあった光景としてあるものであり、健康保険制度の一つの無視できない深刻な矛盾としてあるものだろう。この矛盾は「貧しい人もみなで救っていく精神」が有効な基本原理とはなっていないことからの矛盾でもある。

 鈍感力に侵されていない政治家なら、「いや、矛盾も抱えているのですよ」と逆に指摘していただろう。指摘もできず、額面どおりにしか受け止めることができない鈍感力しか持ち合わせていなかった。小なりと言えども連立政権の一方を担った政党の代表である、かつては客観的認識性を欠かすことのできない新聞記者をしていた。それらを見事に裏切るその鈍感力は誇ってもいい鈍感力と言える。

 どうにか保険料が支払えて「貧しい人もみなで救っていく精神」の恩恵を僅かながらでも受けることができ、どうにか「美しい」とすることができたとしても、利用側のカネの力によって受けることができるサービスに違いが出てくると既に言ったように、低所得者が受けることのできる医療サービスは高額所得者が受けることができる医療サービスと殆どの場合一致しない。高額所得者は年に何回と決めて定期的に健康診断を受ける余裕を持てるが、低所得に向かうほど、病気が発症してから病院に行くといった傾向にある。あるいは高額所得者は病気になったとしても、有名大学病院の腕利きの医者と世界最先端の医療機器、高額な薬、さらに快適な広々とした個室に守られて、明日の生活を心配することなく治療に専念できる。明日の生活を心配しなければならない者にとってはいくら「健康保険が美しい」制度であったとしても、その有り難味は限定的となる。公明党が「所得の低い人々への目配りを唱えてきた」とする割には、「健康保険が美しい。貧しい人もみなで救っていく精神がある」とする外国人の言葉を、視野の狭さ・鈍感力を長所としているからだろうが、あまりにも素直に受け取って、何ら疑問にも感じない「美しい」「目配り」となっている。

 個々の人間に於いてはときには美しい行いもするだろう。だが社会全体を見たとき、美しい社会など存在しない。これは絶対真理である。すべての人間の利害を完璧に満足させる方法など存在しないからだ。利益の配分がどうしても偏って、特定の人間の利害のみを満足させるといった格差・矛盾を生じせしめる。その上人間は自分の利益だけを貪欲に追求しようとする。結果として格差・矛盾のない社会は存在しないことになるのだから、美しい社会など存在しないは当然の結論である。

 ところが政治家は「格差のない社会・時代は存在しない」と〝美しい社会〟の否定を一方で行いながら、その一方で、日本の歴史・伝統・文化がさも美しく彩られているかのごとく言ったり、さも実現可能であるかのように「美しい国つくり」と言ったり、何々は「美しい制度」だと言われて、何とも思わなかったり、〝美しい社会〟の肯定を行う矛盾を平気で犯して何とも思わない。やはり鈍感力の恩恵を受けた矛盾行為なのか。

 鈍感力政治家・大田は言う。 「日本人の助け合いとか、情とかが壊れている。だから首相は、こうやってそれを取り戻すんだと具体的に主張してくれればわかりやすいのに」

 美しくない故障箇所が分かっているなら、外国人に「日本は美しい国ですか?何が美しい?」などと回りくどいことはせずに、「取り戻す」政策を自ら創造し、自ら「主張」すればいいのではないか。そこまで鈍感力に蝕まれているのだろうか。

 「日本人の助け合いとか、情とかが壊れている」とするのは、かつては(「壊れ」る前は)〝美しい社会〟が存在していたことを示す。当然のこととして、「日本人の助け合い」と「情」が絶対価値として存在しない以上、美しい社会は存在させ得ない。このことはいつの時代、いつの社会も矛盾や格差は存在した=美しい社会など存在しないという絶対真理を否定することになる。

 仮に「日本人の助け合い」と「情」が絶対価値として存在していたとするなら、政治は不要のものとなる。なぜなら、「助け合い」や「情」そのものが絶対価値の力を発して、〝美しい社会〟を必然とするからである。「日本人の助け合いとか、情」とか言い出すこと自体、〝美しい社会〟の肯定に走る矛盾行為であろう。

 但し絶対価値とすると、壊れるはずもないこととなって、「日本人の助け合いとか、情とかが壊れている」はさらに論理矛盾を来たす。矛盾と気づかないところが、やはり鈍感力を本質性としているからなのか。

 安倍晋三にしても、鈍感力の親分小泉純一郎の一の子分なのだから止むを得ないことなのか、自らの鈍感力に言いなりの矛盾したことを言って、何ら恥じない。〝美しい社会〟の肯定となる「美しい国」など創造しようがないのに疑うことを知らない鈍感力を曝して「美し国づくり」を目指す一点張りの得意顔を振り撒いている。

 政治は制度・社会の矛盾を是正する役目を担っていると言ったが、すべての人間のすべての利害を完璧に満足させる方法など存在しない以上、どのような政策をつくり上げようと、その政策自体に何らかの矛盾を孕むことになる。いわばどう逆立ちしても、格差・矛盾をパソコン上でファイルを【Delet】キーを押して抹消するようには抹消できようもないのだから、できることとしてこれまでの政治がつくり出してきた社会の格差・矛盾を可能な限り繕うことのできる政策を、それでも内部に何らかの矛盾を抱えることになるが、そのことを認識しながら一つ一つ積み上げていく努力を果たしていく。それを政治の基本とした場合、当然のこととして個々の矛盾・足元の矛盾にこそ目を向けなければならないにも関わらず、「美しい国づくり」と称して存在しないし、また存在させようもない格差・矛盾のない〝美しい社会〟の肯定となる未熟で愚かしい倒錯した矛盾概念に囚われて得意然と自己満足している。生半の鈍感力では成し得ないスローガンとなっている。

 <安倍が国会で答えた「美しい国」とは、こういうことだ。
 「明治、大正期に外国人の多くが日本を称賛した。アインシュタインは、謙虚と質素さ、純粋で静かな心、これらを保ってほしいと述べた。質素でも立ち居振る舞いが美しい日本人でありたい。>

 公明党代表大田昭宏に言わせれば、「明治、大正期」に限らず、会う外国人が「終身雇用はすばらしい」、「健康保険が美しい」と「日本を称賛」している。「美しい国作り」など目指す必要はないくらいだ。

 「アインシュタインは、謙虚と質素さ、純粋で静かな心、これらを保ってほしいと述べた」

 アインシュタインは著名なノーベル物理学賞受賞者という高い地位と優秀な学者として備えていると思われる高度な知性を持った大事なお客様として1922(大正11)年に来日している。当然大事なお客様にふさわしい歓待を受けたはずで、そのような懇切丁寧・恭しい歓待を通して接することとなった、あるいは目にすることとなった日本人の立ち居振る舞いを観察しただろうから、その過程で生じた日本人評価は当然割り引いて受け止めるだけの客観的認識性を作動させなければならない。

 だが、安倍晋三は鈍感力を自らの才能・自らの持ち味としているからだろう、割り引くなどという勿体無いことはクスリにもしていないらしい。アインシュタインが来日した1922(大正11)年前後の日本の社会を『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)の最後に記載されている「日本疑獄史年表」からざっと眺めてみると、1918(大正7)年に「八幡製鉄と政界をめぐる汚職。押川所長が自殺している」とする「八幡製鉄所事件」が起きている。1920(大正9)年には「市会議員、業者をめぐる大汚職で67名が連座した」とする「東京砂利ガス疑獄」。1921(大正10)年には「満州鉄道会社をめぐる疑獄事件で、中西満鉄副総裁が罪に問われた」とする「満鉄疑獄」。同じ1921(大正10)年の「植民地における阿片密売に関して汚職事件が発生して、世論を騒然とさせた」とする「阿片密売事件」。1922(大正11)年の「震災後の東京復興計画を巡って汚職事件が発生、十河信二氏らが疑いをうけた」とする「帝都復興院疑獄」。1925(大正14)年の「遊郭移転問題に関して汚職が発生。箕浦元逓相、岩崎政友会幹事長その他が連座した」とする「松島遊郭事件」等々、引きもきらずに続き、その後も続いている現在と変わらない、国家経営に力ある者が総体的につくり出している日本社会の醜い姿である。公明党の大田は「日本人の助け合いとか、情とかが壊れている」と言っていたが、最初から「壊れて」いたと気づかない鈍感力が言わせ言葉であることが分かる。

 これが「安倍が国会で答えた『美しい国』」日本、「あえて理想と語る」と解釈された日本なのである。「明治、大正期に外国人の多くが」このような美しい「日本を称賛した」ということなのだろう。「アインシュタインは」汚職、贈収賄、不正をつくり出している日本人の「謙虚と質素さ、純粋で静かな心、これらを保ってほしいと述べた」ということなのだろう。

 だから「質素でも立ち居振る舞いが美しい日本人でありたい」と当時から幻想でしかない日本人像を頭に描く鈍感力すさまじい倒錯に酔い痴れることができ、そのような「立ち居振る舞いが美しい日本人」像に満ち満ちた「美しい国づくり」を自らの政治の理想と掲げる鈍感力の発揮が可能となる。

 まさか鈍感力安部晋三は自らの鈍感力に素直に従って、インターネット上にまことしやかに流布している『アインシュタインの予言』なるものを頭から信じ込むといったことはしていないとは思う。信じているとしたら、笑うしかないで済ますわけにはいかない。迷惑をこうむるのは国民である。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。
 その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」――

 一度は天皇を筆頭に「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有スト」信じ込んだ日本人である。天皇主義者でもあり、優越民族意識に犯された国家主義者でもある安倍晋三が鈍感力そのままに『アインシュタインの予言』を信じ込んでいたとしても不思議はない。頭から無考え・無条件に信じ込んでいるからこそ、「アインシュタインは、謙虚と質素さ、純粋で静かな心、これらを保ってほしいと述べた」とする幻想でしかないことを事実とする倒錯を行うことができるのだろう。 

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