初めに認めまいとする意志ありの従軍慰安婦認識

2007-04-24 16:17:20 | Weblog

 世の中の動きが慌しい今の時代で2週間も前の出来事となると、既に昔の部類に入るのだろうか。だが、問題自体は引き続いている。

 4月8日(07年)日曜日、フジテレビ朝7時半からの「報道2001」で従軍慰安婦問題を扱っていた。軍の強制があったとする立場となかったとする立場が相互に議論を闘わせる形式を取っている。

 なかったとする立場は初めから認めまいとする意志を基本姿勢とし、それを固定観念化させているから、最初から平行線を辿ることは分かっていた。但し、否定の上に否定を重ねても、言っていることに矛盾がないわけではない。録画の関心があった一部分を文書化して、分析を試みることにした。

 <秦郁彦(現代史家)、縦書きの二つの従軍慰安婦募集広告文を纏めて写したフリップを見せる(向かって右側の広告は、「軍」慰安婦急募、とあり、左側が、慰安婦至急大募集、広告主に、今井紹介所とある)。

 「昭和、これは18年なんですが、今の韓国ですね、当時日本の統治下にあった京城、ソウルですね。その京城日報というですね、朝鮮じゃあ一番大きな新聞です。だから、首都と言うことを考えますとね、まあ、ワシントンポストのようなものと考えていいと思います。最大の新聞に堂々とこういう広告が出ていたわけです」
 小池アナ「慰安婦募集しますと。大募集――」
 秦「ええ、至急、大募集。こち側(左側)はハングルがちょっと、ちょこちょこと見えますけども、これは、ですから、その、もうちょっと小さい朝鮮人向けの新聞でもあったわけです」
 小池「月収が書いてありますけど、これは当時かなり高いんですか?」
 秦「ええ、京城帝国大学のね、卒業生の初任給が75円と言うときで、300円で、前借が3000円ですから」
 小池「これで、じゃあ実際に応募した人がいるんでしょうね?」
 秦「これはもうたくさんいたと思いますよ。あの、こんな条件。但しこれは日本内地でも、それから朝鮮もですね、非常に多くの人は朝鮮の内部の、中の慰安所じゃなくて、その遊郭で働いていた人――」
 小池「こうやって募集したんだから、強制連行じゃない?軍が連れてきたんじゃない」

 藍谷邦雄・弁護士「こうして広告したから、これで全部を否定するという、まず、ことが言えるのかということですね。それと、当時この、今慰安婦の募集というふうに出してあるのでね、今秦さんはその実証をなさらないけども、これによって応募があったのかどうなのかと。それからもう一つは当時、慰安婦と言う言葉がですね、どう市民の間で、いや京城なり、まあソウルですね、ソウルの市民の人たちにどう受け止められていたのかと。例えば言葉をですね、どう受け止めるのかというのは、色々その後にもあります。例えば韓国では女子挺身隊というので、日本に連れてこられた工場で働いた女性たちがいます。で、これと慰安婦の問題を非常に混同してですね、女子挺身隊というのがイコール慰安婦であるように把えていた時代もある」

 小池アナ「こういう募集をして、応募した人たちもいる、だろうと。これは推定されますか?」
 藍谷「それは分かりません」
 小池アナ「分からない?」
 高嶋伸欣(のぶよし)・琉球大学教授「証拠があるかっていう話はここでは必ず出てくるんですけども、それに対してもう一つ大事な事実があって、敗戦になったときですね、日本政府はそういう証拠類を焼けという指示を出しているわけですよ。日本軍全軍に対してと、それから実は内務省。警察関係ですね。に対して、戦犯の追及をするという条項がポツダム宣言の中にしているということもあるから、特に捕虜虐待の件が焦点だったのですけど、それと付随するような、ええ、危険な記録はできるだけ焼けと、言うことを敗戦の混乱の中の交通事情の悪い中、内務省課長だった奥野さんがね、自分は全国を駆けまわって指示を出して、見事それをやったと、それを自慢話で繰り返し自身で――」
 小池アナ「ちょっと待ってください。ちょっとコマーシャルいかせてください」
 ――CM――
 小池アナ「資料がないからと言って、それで証明することにならないんだということを高嶋さんはおっしゃってる。それについて一言」
 秦「最初はそういうことを言う人はいなかったんです。ところが色々と探してみてもですね、見つからないので、探し方が悪いと最初はそう言っていた。で、やっぱり見つからない。最近になってですね、高嶋さんのようにね、いや、それは軍が意図的に滅失したからだと。しかしね、この世の中に一つしかない文書って、滅多にないんですよ。特に上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていくわけです。そのうちのどれか、残ってるんです。ですから戦後ですね、戦後防衛庁戦史室(?)で、その今数10万点の旧軍の資料ありますね。それはみな集めてきたんですよ。その焼け残ったやつを。それから命令出した場合、記憶によって覚えている人もいるわけです。さらに言えば、さっきこれ目撃証言についての話が出なかったんですけど、韓国の女性、元慰安婦たちですね、、出てきた一人たちの中で、身の上話がずっとあるわけです。誰一人証人がいないんです」

 小池アナ「自分で言ってるだけ?」
 秦「言ってるだけでね。普通はですね、そういうひどい目に遭ったとか近所の人だとか、友達だとか、家族だとか、連れてきて証言させますよね。そうしないともう法廷では取り上げてくれない。一人も出ていないです」>(以上)――
* * * * * * * *
 「京城日報」を『日本史広辞典』(山川出版社)で調べてみると、次のように出ていた。<1906年(明治39)9月に創刊され、第2次大戦終戦まで発行された統監府・朝鮮総督府の機関新聞。――>

 秦郁彦は巧妙にも「京城日報」を「ワシントンポスト」と同等と比較したが、当時の朝鮮が「日本の統治下にあった」は日本の植民地として統治下にあったのであって、当然体制内容は日本政府そのものであり、全体主義に彩られていたのである。「京城日報」はその機関紙、言ってみれば政府系御用新聞、政府の代弁者である。「ワシントンポスト」と比較できようがなく、当然「ワシントンポスト」を持ち出して「広告」を正当付けしようとすること自体狡猾に過ぎる。

 逆にそういった政府系御用新聞に「『軍』慰安婦急募」の広告が載ったと言うことは、朝鮮総督府(朝鮮支配の最高機関)公認の「広告」であり、政府が軍と一体となって軍慰安所を積極的に認知していたということを示す。

 また広告に記載されている慰安婦の給与だが、ただでさえ女性の地位が低かった戦前の日本で、慰安婦なる類の職業は社会的にまだ蔑まれていた場所に置かれていた。親によって自分たちが食うために売られた女性の場合は買主でもある雇い主の投資したカネの回収手段として寝る場所と着る物・食い扶持を支給されるぐらいで男を取らされる搾取される存在でもあった。そういった社会的地位の低さから判断しても、社会的境遇の過酷さ・悲惨さから判断しても、彼女たちが一般的には恵まれた報酬を受けていたとは常識的には考えにくい。そのような常識を覆す「京城帝国大学の卒業生の初任給が75円」に対して「300円」という、帝大卒業生の4倍の破格の月給であり、さらに40倍もの「3000円」の前借という、普通なら出さないに違いない金額状況の裏を返すなら、人件費は需要と供給の関係で決まっていくのだから、女性側の供給不足状況にあり、なかなか集まらなかったから、それだけの金額を提示しなければならなかったという募集事情にあったことの逆証明でもあろう。

 とすると、それだけの金額を出したのだから、「これはもうたくさんいたと思いますよ。あの、こんな条件」とストレートに推測するのは短絡的に過ぎる。

 当時の朝鮮と中国とでは国の違いはあるが、破格待遇の有効性を疑わせる記事がある。一度ブログで引用しているが、1944年日本軍天津防衛司令部が天津特別市政府警察局に<軍人慰労のため「妓女」を150人出す>よう<1944年5月30日>に通知、天津特別市政府警察局は公娼業者の集りである<「天津特別市楽戸連合会」を招集し、勧誘させた>ところ、<229人が「自発的に応募」して性病検査を受けたが、12人が塀を乗り越えて逃げ出>す「自発的」状況を曝した。<残った86人が「慰安婦」として選ばれ、防衛指令部の曹長が兵士10人とともにトラック4台で迎えに来た>が、<86人のうち半数の42人も逃亡した>という事実。

 秦現代史家が示した「慰安婦募集広告」は昭和18年、1943年のことで、上記状況に限った額面上からの判断からすると、1年後の1944年の中国の天津では軍は「広告」という中間過程を省いた軍の指示による直接募集の形式を取っている。

 破格の待遇という条件は変わらないのだから、「広告」で応募があるなら、その条件も維持されるはずで(公娼業者への直接広告という手もある)、それが取り除かれて警察を仲介者に仕立てた直接的な勧誘の形を取っているのは、やはり応募が少ないことを物語っているのではないだろうか。

 いわば軍や警察が正面に出なければならない程に集まらない状況にあった、秦の言う「これはもうたくさんいたと思いますよ」云々とは反対の状況にあったことを示していると言えるだろう。

 軍や警察が正面に出ることで、公娼業者は広告業者のように中間に位置するのではなく、一切の主導権もなく軍の指示に従うだけの立場に立たさる。

 「借金などはすべて取消して、自由の身にする」、本人に1カ月ごとに麦粉2袋。家族に月ごとに雑穀30キロ。慰安婦の衣食住・医薬品・化粧品は軍の無料配給。花代は兵士「一回十元」、下士官「二十元」、将校「三十元」と事細かく提示された条件はなかなか集まりにくい状況にあったことの反映としてある破格の待遇であり、事細かく条件を提示しなければならなかった応募確保のための丁寧さでもあろう。

 あるいは実行するつもりもない約束だから、逆に事細かな提示と破格の待遇とすることができたという疑いも可能となる。今で言う架空話でウソみたいな高利回りを(実際にはウソなのだが)約束する投資話同様にである。慰安所に閉じ込めるまでが勝負で、逃げ出せないだけの監視を設けさえすれば、いくらでも破格の待遇が提示可能となる。
 
 軍の強制を受けた警察当局の強制があって、「天津特別市楽戸連合会」は従わざるを得ない止む得なさから、表面は「自発的応募」を装いつつ、女たちを威したりすかしたりの強制で応募させた。そういった強制の段階を受けた「自発的」だからこそ、「229人」のうち「12人が塀を乗り越えて逃げ出し」、さらにトラックで輸送中に「86人のうち半数の42人も逃亡した」強制への拒絶があったのであり、そのことから判断できることは、「借金などはすべて取消して、自由の身にする」といった破格の待遇の有効性である。最初に逃げた12人に86人を足して、さらに逃げた合計を54人と計算して割り出すと、直接募集という強制を働かせても、半分に満たない45%の有効性しかなかった。この有効性が日本軍に対する印象のすべてを物語っている。

 朝鮮人の間に日本人・日本軍に対する印象を広くつくり出すことに大きく貢献したに違いないと思われる新聞記事がある。≪朝鮮人 強制連行示す公文書 外務省外交史料館「目に余るものある」≫(『朝日』98.2.28)

 <アジア・太平洋戦争末期に、植民地だった朝鮮半島から日本へ動員された朝鮮人に対して、拉致同然の連行が繰返されていたことを示す旧内務省の公文書が、外務省外交史料館から発見された、「強制連行」についてはこれまで、被害者の証言が中心で、その実態が公式に裏付けられたのは初めてと見られる。 水野直樹・京都大学助教授が発見、整理した。28日、「朝鮮人強制連行真相調査団」を主催して千葉市で開かれるシンポジウムで発表される。
 問題の文書は、内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に報告した「復命書」。
 その中で、動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんたん)たる目に余るものがあるといっても過言ではない」と述べ、動員の方法に関しては、事前に知らせると逃亡してしまうため、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし家計収入がなくなる家が続出した、などの実情を訴えている。また、留守家族の様子について、突然の死因不明の死亡電報が来て「家庭に対して言う言葉を知らないほど気の毒な状態」と記している。
 水野助教授によると、植民地に関する42年以降の大半の内務省文書は、自治省の倉庫にあると言われながら、存在は明らかにされていないという。「植民地の実態を明らかにするためにも一連の内務省文書の公開を急ぐべきではないか」と指摘する。
 今回、水野教授らが集めた資料を東京都内の出版社が復刻出版しようとしている。だが、外交史料館は「外務省に著作権がある」と不許可にした。>――

 「外務省に著作権がある」と「復刻出版」を拒否したとは相変わらずの不誠実・不正直な歴史隠蔽の体質ぶりを示している。この隠蔽体質からして、従軍慰安婦問題でも、その「狭義の意味での強制性」を示す文書・資料の類がありながら、隠蔽もしくは処分済みの疑いも可能となる。

 「復命書」の報告は「1944年7月31日付」、いわば昭和19年で、中国・天津の軍の慰安婦募集と同じ年となっている。秦郁彦氏が提示した広告は「昭和18年」とその1年前である。朝鮮人の強制連行はHP「強制連行」を参考にすると、1939年(昭和14)9月から「自由募集」の形で開始されたということだが、朝鮮総督府の地域ごとへの割り当てがあったということだから、強制力の働いた「自由募集」である。当然、「自由募集」の名前に反する強制に初期状態から反発を生じせしめたはずである。

 そらがその5年後の1944年には「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」といった飛躍の道を辿った。日本側の情け容赦のないそのような目覚しい飛躍に比例して、当然朝鮮人の反発も高まっていっただろう。

 いや、反発は反発の上に反発を重ねて、既に重層化していたのである。1919年(大正8)3月1日の朝鮮人の3・1運動に対する日本軍による死者7500人、負傷者4万5000人、検束者4万6000人の犠牲者を出すに至った過酷な弾圧、1940年(昭和15)の8月までの改名期限に<改名しない者には公的機関に採用しない、食糧の配給対象から除外するなどの圧力をかけた>(『日本史広辞典』)創氏改名の強制。

こういった日本の有無を言わせない弾圧も、朝鮮人の反発の層を成す無視できない契機となっていっただろうことは容易に想像できる。日本人と結びついて経済的利益を貪ることができる朝鮮人を除いて、日本人は歓迎されざる存在だったことは疑いもない。

 いわば絶対多数の朝鮮人にとっては、最小限に見積っても、避けることができるなら、避けていたい日本人であったに違いない。当然、避けたい気持を中和させ、差引きゼロとする破格の待遇を用意する必要が生じる。

 但し破格が避けたい気持を上回って、有効化するかが問題となる。

 となれば、業者が「広告」を出した募集の形だから強制はなかったとする主張は、破格の待遇が有効であった場合にのみその正当性が認められ、無効であった場合、正当性はかなり疑わしいものとなるだけではなく、無効が強制へ向かわない保証はない。

 有効でなかった証明の一つとして、国は違っていても、天津の半強制的な慰安婦募集が破格の待遇を用意しながら45%の有効性しかなかった例を挙げることができるし、無効が強制へと向かった証明として、朝鮮人労働者の強制連行が「自由募集」の形から「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例」へと移行した例を挙げなければならない。

 またよ過ぎる待遇は、それが往々にして、これだけ出しているのだから文句はないだろうといった支配力を生じせしめ、敵意と憎悪増幅の悪循環を生まなかった保証はない。

 日本軍がポツダム宣言の受け入れ時に重要書類を焼却するよう全軍に命じたとする主張に対して、秦の「この世の中に一つしかない文書って、滅多にないんですよ。特に上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていくわけです。そのうちのどれか、残ってるんです。ですから戦後ですね、戦後防衛庁戦史室(?)で、その数10万点の旧軍の資料ありますね。それはみな集めてきたんですよ。その焼け残ったやつを。それから命令出した場合、記憶によって覚えている人もいるわけです。」に対する反論。

 確かに「上から下へ流す文書っていうのは宛先が数百通も流れていく」ケースもあるだろうが、各受取り先は1通か2通であろう。同じ書類を「数百通」も受け取ったとしても、ありがたくも何ともない。1通や2通なら、処分は簡単である。直接的に戦闘行為に関係のない、いかがわしい反道徳的な「文書」なら、極秘文書ゆえ、内容を確認次第処分するよう追伸で指示して、その場で証拠隠滅を図ることもするだろう。

 その場合は秦が言うように「記憶によって覚えている人もいる」だろうが、重要書類・極秘文書を先に目を通すのは上官と決まっている。上官となれば、地位に応じた期待を担う。反道徳的命令を自らが仲介して実行したとなれば、期待を裏切ることとなって、自らの人間性に絡んでくる。当然そのことは名誉の問題へと発展する。中身はいくら薄汚くても、名誉という体裁だけは維持しなければならない。そういった自己利害上、あるいは自己保身上、自分から進んで告白したいと思う人間はそうはいまい。

 さらに言えば、下の者は上の者に従う権威性を日本人は行動様式としているだけではなく、上が命令したことに忠実に従っただけだを口実に、自らの責任を回避する無責任性を多くが日本人性としている。今でも会社のためにしたことで、俺には責任はないといったふうに。そういった罪悪感を持てない人間は取調べといった強制力が働かない限り、自ら申し出るだろうか。

 また、軍中央の命令ではなく、出先部隊が勝手にした強制的な従軍慰安婦募集であったなら、「文書」などは上官が余程の文書マニアでなければ、最初から存在しないだろう。インドネシアのオランダ人抑留所で起きたオランダ人女性の強制的従軍慰安婦狩りは「2カ月後、事件は軍の中央の知るところとなり、慰安所は直ちに閉鎖された」(NHKスペシャル・「ソニアの日記」)ということだから、インドネシア日本軍という出先部隊が勝手にした強制行為であろう。

 07年4月号発行の『文藝春秋』・「『小倉庫次侍従日記』昭和天皇戦時下の肉声」(解説・半藤一利)の<昭和15年9月26日(木)>日付の記述中に、<后四・四○軍令部次長、后五・○○参謀総長、河内(ハノイ)に於いて中央よりの命令に違反し、出先陸軍に於いて重大事件ありたる模様なり>とある。

 半藤氏は<注>で次のように解説している。<軍令部次長、参謀総長の上奏は、この日に行われた北部仏印進駐に関するものである。国策となった南進政策の実行で、はじめはフランスとの交渉妥結を見てからの平和進駐の予定であった。そこへ参謀本部作戦課が割り込んでくる。時間のムダであるというのである。結果、強引に陸軍部隊を越境させ、フランス軍との交戦という失態を招いた。平和交渉のため苦心していた現地の責任者は窮地に立ち、東京に打たれた電報「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となっている。日本の武力進駐に対抗して、アメリカは屑鉄の全面禁輸という強硬政策を断行した。>

 統帥権は天皇にあり、その統帥を無視する程に<出先陸軍>は傲慢・放縦であった。その傲慢・放縦が陸軍内部でも、各出先部隊で演じられていなかった保証はない。インドネシアのオランダ人女性狩りは、その傲慢・放縦の典型例であろう。

 <秦郁彦「さらに言えば、さっきこれ目撃証言についての話が出なかったんですけど、韓国の女性、元慰安婦たちですね、出てきた一人たちの中で、身の上話がずっとあるわけです。誰一人証人がいないんです」
 小池アナ「自分で言ってるだけ?」
 秦「言ってるだけでね。普通はですね、そういうひどい目に遭ったとか近所の人だとか、友達だとか、家族だとか、連れてきて証言させますよね。そうしないともう法廷では取り上げてくれない。一人も出ていないです」>

 『日本史広辞典』(山川出版社)で【従軍慰安婦】の項目を見てみると、<昭和初期の戦地で日本軍将兵の性的慰安をさせられた女性。軍慰安所は1932年(昭和7)上海事変時に存在していたが、南京大虐殺直後の37年末から軍の政策として本格化した。占領地女性への強姦防止、性病罹患による戦力低下防止を目的とし、若く性病の心配のない植民地下の朝鮮人女性が大量に連行され、占領地では現地女性も駆り出された。91年(平成3)に元慰安婦の証言や補償請求裁判が行われ、92年に軍の全面関与を示す公文書が発見されて日本政府は公式に謝罪したが、補償は解決済みとしたため、国際的な議論をよんでいる。>

 1937年から本格的に<若く性病の心配のない植民地下の朝鮮人女性が大量に連行され>た。そして54年後の1991年に<元慰安婦の証言や補償請求裁判が行われ>た。15歳で従軍慰安婦にされたとしても、69歳となっている。敗戦の年の1945年の15歳だったとしても、1991年は46年後で、61歳である。

 本人がそういった年齢にあるというだけではなく、平均年齢が現在程には高くない時代だったのだから、「近所の人だとか、友達だとか、家族だとか」がどれ程生き残っているというのだろうか。例え生き残っていたとしても、年老いた者がどれ程に4~50年前のことを記憶しているだろうか。平和な時代の平和な土地で起きたことではなく、植民地下の日本兵が好き勝手をやっていた混乱状況での出来事であるし、狩り出すについても、目的を正直には伝えなかっただろう。「お前ら、素っ裸になって天皇の大日本帝国軍人を相手に日本兵の士気を高めるんだ。有難く思っておとなしくついてこい」と追い回しはしなかったはずだ。

 大体が売春を職業としていた女性でも、恥ずべき職業としてひた隠に隠さなければならなかった時代だったのだから、ましてやそういったことに無関係な一般女性であったなら、後で知ることとなった役柄は誰にも知られたくなかっただろうし、隠すだけが精一杯で、あとになって裁判で訴えることになるかもしれないといった心の準備は当時の一般生活者の意識にあったとは考えにくく、それらを総合的に考慮すると、秦郁彦の「証人」云々は、権利意識がまだ薄かった二昔も三昔も前に強姦被害にあった若い女性に裁判を起こしてやるから証人を出せと求めるのと等しい無理難題ではないだろうか。現在でも泣き寝入りする強姦被害者が存在するくらいである。

 いずれにしても秦郁彦の主張に誠実さを些かも感じなかったが、「広義」でも「狭義」でも従軍慰安婦強制性肯定派に属することからの色眼鏡がなさしめた印象なのだろうか。

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