東京都民は石原慎太郎の「人柄」に惚れたのだろう。
統一地方選前半戦の投票日(07年4月8日)、夜8時からのNHKの「統一地方選挙開票速報」で、石原慎太郎vs浅野史郎の首都決戦たる都知事選挙に関して、アナウンサーが有権者が何を基準に投票したか調査した「NHKの出口調査」を伝えていた。
それによると、「人柄」を重視したが「32%」とかで最も高い確率を示し、その他をはるかに引き離していた。9日月曜日の「朝日」朝刊≪石原都知事3選 低姿勢逆風かわす・・≫でも、<朝日新聞の出口調査では、投票基準に「候補者の資質・魅力」を選んだ人が「公約や政策」を上回った。「資質・魅力」と答えた人の6割以上が石原氏に投票した。>と伝えている。
「資質」とは「生まれつきの性質や才能」(「大辞林」)を言うが、「公約や政策」を除いて見た「資質」だから、「公約や政策」の具体化に関わる「才能」部分を取り除いた「性質」主体の「資質」(=「人柄」)と見ることができる。さらに言えば、その人の「魅力」と「人柄」は相互に反映し合って表現される。
石原慎太郎の最大の「人柄」は権威主義によって色づけされているものであろう。行過ぎた権威主義が自己を何様と位置づける傲慢な態度(=自己絶対化)を生む。他人の言葉を借りて閉経した女性がきんさん、ぎんさんの年まで生きるのは「地球にとって非常に悪しき弊害」だと、誰に権利があるものではない他人の命を無益・無駄だとする、そのような他者に対する排除・差別は自己を何様と絶対化する権威主義によって可能となる態度そのものであろう。
自己を何様と思っているから、中国人を「三国人」と蔑むことができるのであり、犯罪手口と「民族的DNA」を結びつけて民族そのものの劣りであるかように見せかける断定も、自己とその自己が所属する日本民族を何様と位置づけて絶対化しているからこそできる劣等視であろう。
自己を権威主義的に何様としているから、周囲に図らずにその資格もない身内を独断で都の仕事に関係させたりすることもできる。また自分を何様と位置づけているからこそ、海外視察で1泊260万もする高級ホテルに宿泊して、唯我独尊、ご満悦気分に浸ることができる。
そういった「人柄」に惹かれて「32%」の都民が石原慎太郎に投票した。2,811,486票×32%≒899,675人の都民が人種差別、あるいは民族差別、男女差別といった各種差別の形を取って現れている石原慎太郎の権威主義的「人柄」にYESを示したということでもあろう。2,811,486票のうち、899,675票はたったと見えるかもしれないが、全体の数字に占める最大の選択目標値であることに変わりはない。
石原慎太郎の政策実現に発揮される指導力・リーダーシップ、いわば〝実行力〟を見込んで投票した都民にしても、そういった〝実行力〟が過去の華々しい経歴を勲章とした石原自身の権威主義的強権手法に助けられている部分があることから判断すると、石原慎太郎の権威主義的「人柄」に投票した899,675人の都民以外にも、間接的な形で石原慎太郎が体現している権威主義に投票した都民が相当数いることになる。
国家主義者安倍晋三が首相として登場した国家主義時代に迎合した権威主義志向なのだろうか。
当選後の記者会見で石原慎太郎は盛んに「各方面から様々なバッシングを受けた」と言っていたが、「バッシングを受ける」には自己を被害者に置くニュアンスがあり、そのことに反して「バッシングを加える」側の態度を理不尽とするニュアンスがある。
閉経女性への発言も「三国人」発言も、「民族的DNA」論も、身内重用の縁故主義にしても、海外豪華視察にしても、それらを不当とする発言はすべて理不尽な「バッシング」であって、正当な批判ではないとする意図を持った「各方面から様々なバッシングを受けた」であろう。
つまり当選早々に石原慎太郎は本来の権威主義者に戻って、不遜にも自己を何様と絶対化したのである。俺がやってきたことに対する批判はすべて理不尽なバッシングだったと。
いずれにしても、気づくと気づかざるとに関わらず、2,811,486人の都民が石原慎太郎の権威主義にYESの投票を行ったのである。石原慎太郎は当選後の記者会見で次のようにも発現している。
「都民の常識がこういう結果をもたらした」
「都民の意識の高さの結果だ」
何とまあ美しい、且つ素晴らしい都民の「常識」・「意識の高さ」か。石原慎太郎の権威主義と都民の「常識」・「意識」はある種の快感を通して通じ合ったと言うわけである。