暗記教育下ではスローガンで終わる
安倍美しい首相の強烈なリーダーシップによって安部・教育再生会議は小・中学校での道徳の教科化を実現させそうな勢いを見せている。どうせ痩せ馬の先っ走りで終わるのは目に見えている。実際に教科化されたとしても、まずは効果は上がらないだろう。
共産党の石井郁子議員が17日(07年4月)の衆院本会議で<政府の教育再生会議で道徳教育の教科化が浮上していることに触れ、「国による特定の方向の押し付け」と批判。首相は「すべての子供に規範意識を身に付けさせることが重要で、思想、良心の自由に反することはない」と反論した。>(時事/平成19年4月18日教育ニュース)と我が道を行くさすがの態度である。
「道徳の時間」は1958年(昭和33)の学習指導要領で高校を除いて小・中学校で週1時間、教科外で行うこととされた。何をテーマとし、具体的にどのような方法で実施しているのか、<道徳の時間-Wikipedia>から引用してみる。
<1998年に改訂された小学校・中学校の学習指導要領は、道徳の時間を「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」、さらには「未来を拓く主体性のある日本人」という言葉に示される道徳教育を目標とし、この時間を小学校1・2年、3・4年、5・6年、中学校というように学年段階別に挙げている。それらの内容をもとに各学校では「道徳教育の全体計画」と「道徳の時間の年間指導計画」を作成し、道徳の副読本その他の読み物資料、テレビ放送などを教材としながら、道徳的諸価値の内面化を図る。>
「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」に「未来を拓く主体性のある日本人」――言っていることは安倍首相が普段言っていることとイイとこ勝負の感動ものである。「美しい国づくり」と同じく、この上なく立派なスローガンの一つに収めることはできる。
道徳の教科化が効果を上げないと推測する第一の理由は、学力不足の強迫観念に怯えて学校授業が従来以上にテスト教育化へ向かおうとしていることである。その尻を叩いていたのは小泉純一郎前首相であり、現在はその役目を受け継いでいきり立っている安倍晋三なのは断るまでもない。
そのような圧力を受けてテストの点数獲得、あるいはテストの点数の底上げが学校にとっても生徒にとってもこれまで以上に最大かつ優先的な利害へと向かいつつある。当然、学校及び生徒に於ける最大関心事であるテストの点数獲得授業を集中的により多く割かなければならない中で、例え教科化された「徳育」という名の道徳授業を行ったとしても、高校受験、あるいは大学受験に向けたテストの点数獲得という利害の前に道徳教育は埋没し、無視との戦いを強いられることになるだろうからである。いわば受験科目に関係のない世界史の必修無視が起こったと同じようにである。
「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」とか「未来を拓く主体性のある日本人」とかの教えは、高校受験・大学受験に利益をもたらしてくれるオマジナイにもならないだろうし、それよりも暗記に暗記を重ねたテストの成績で有名大学に入学・卒業し、有名企業に就職してそれなりの経済力を獲得することの方が誰にとっても利害優先事項であり、それを果たせば、安倍首相みたいに言行不一致の人間であっても見た目にはそれなりに「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」を持った人間らしく見え、安倍首相みたいにチャンスがあって著名人に列することがあれば、「未来を拓く主体性のある日本人」の一人に数えられる可能性も出てくるというものである。
だからこそ、成績の評価対象とすべきだとの主張があるのだろうが、例え評価対象としたとしても、事情は変わらないに違いない。他の受験科目との比較で、高い評価点を占めることはないだろうし、それを避けるとして、高い評価点を与えることになったとしても、それが受験目的であるなら、「思想、良心の自由」といった価値観とは一切関係のない次元の表面をなぞる暗記で凌ぐだけのことだろう。
いわば一番の問題はここにある。道徳教育にしても、日本の教育が暗記教育となっている関係から、暗記で解決できる点が成功しない何よりの最大の理由となるだろう。
日本の教育は教えたことを言葉どおりに暗記してテストの設問に暗記したことをなぞり当てはめる暗記教育が主体となっている。道徳教育にしても単に暗記するだけのことで、道徳を発揮する場面に迫られた場合は、自己利害に反しない範囲で記憶した道徳行為をその場面になぞり当てはめる形式止まりとする公算が大きい。
このことの証明として、朝日新聞の07年4月16日朝刊の≪ひと「ベビー・ビジネス」を書いたハーバード大教授デボラ・スーパーさん≫を示すことができる。
<代理母のあっせんや卵子売買など、米国では年に30億ドルもの金が赤ちゃんをめぐって動いているという。
「これは紛れもなく、一つの『市場』です」。その実態に迫った「ベビー・ビジネス」(ランダムハウス講談社)を昨年出版した。
国際商取引が専門。新規ビジネスと規制の関係を追ううちに、この世界に足を踏み入れた。「我が子」を得られる保証はないのに大金が動く、この市場のありように驚いた。
遺伝病の兄や姉に骨髄を提供するためにつくられた弟や妹。年齢が上がるにつれ引き取り手がなくなる国際養子・・・・。取材で会った子供たちを思い執筆しながら何度も泣いた。自分自身、2人の息子は「昔ながらの方法」で産んだが、娘は4年前、6歳のときにロシアから迎えている。ひとごとではなかった。
米国へは多くの日本人が渡り、代理出産や卵子提供を利用している。「禁じる法律がない以上、理解できる。ただ、国民的議論がそろそろ必要だと思う」。タレントの向井亜紀さんの代理出産をめぐる裁判には、「子供が生まれる前に解決されるべきだった」。
3月下旬に来日し、次のテーマの再生医療について日本の研究者や官僚を取材した。「誰に聞いても物の見方が同じ。この一貫性が経済成長の原動力だったのね」日本経済についても、新たな解釈を得たようだ。>――
「誰に聞いても物の見方が同じ」
これこそ暗記教育なくして果たせない最大の成果だろう。同じ教えを与えられ、与えられたそのままになぞって自らの知識とし、その同じ知識をそれぞれが自分の考えとする。その結果の「物の見方が同じ」。そこにあるのは幾重もの暗記形式の知識の授受なのは言うまでもない。
いわば「物の見方が同じ」の「見方」は与えられた「見方」であって、自らが考え、自分で創り上げた「見方」であったなら、みな同じであろうはずはなく、自己性(=自分自身)を持たない「見方」と言い換えることができる。
ハーバード大教授デボラ・スーパー女史は「誰に聞いても物の見方が同じ」という「一貫性が経済成長の原動力だったのね」と言っているが、「一貫性」には主体性・自律性の要素を含む。「貫く」は自らの強い意志を条件とするからである。「物の見方が同じ」は自己性を排除した相互従属を条件とする。「一貫性」とは似て非なるものであって、「同調性」、あるいは「従属性」と言うべきではなかったかと思うが、日本語訳が不適当だったのだろうか。
道徳教科に於いてもこの暗記主義(=暗記形式の知識の授受)を踏襲することとなって、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念」といった価値観は単に自己性(自分自身)とは無縁の従属性として形式的に受け継がれることになりかねない。ハーバード大教授デボラ・スーパー女史の言葉を借りて説明するなら、規範意識に関しても「物の見方が同じ」という結果に終わるだろうと言うことである。その人間の精神に真に根付いた規範意識ではなく、それが右へ倣えで同じと言うことなら、単にスローガンを背負ったに過ぎない。実際の姿は正反対なのだから、安倍首相の「美しい、規律を知る凛とした――」と同じスローガンの仲間入りで決着を見るだけである。
道徳教育の教科化が暗記教育に阻害されて実質的な道徳性の涵養に役立たなくても、別の成功要素は考えられる。道徳教育が安倍首相が体現している国家主義的権威主義を主導として行われた場合の従属圧力が暗記教育の知識授受の形式に則って国家主義に染まった道徳観で統一された「同じ」「物の見方」に生徒たちをこぞって向かわせる成功である。
それを補強する道具立てとして、生徒を揃って同じ規律で動かす奉仕活動の教科化の狙いがあるのだろう。
戦前の日本国民の軍国主義への従属は、上の命ずるままになぞる暗記形式の知識授受を許している自分の考えを持たない自己性の排除(自分自身を持たないこと)の精神構造が可能とした国民規模の同調性としてあったものだろう。
その再実現が暗記教育形式を利用して、戦前主義の安倍国家主義によって実行されようとしている。
「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と言っているように、戦前の軍国日本を「成り立」たたせた〝命の投げうち〟を〝国家顕彰〟の賛美対象とすることで戦前の戦争をも肯定しているのである。
そのような主義・主張の線に添った国家主義的な「物の見方が同じ」道徳価値を暗記形式の知識授受を利用して生徒のうちから国民に植えつけようとしている。
安倍首相のこのような意図的な国家主義志向を避け、道徳観をスローガンとならない形で生徒に涵養しようとするなら、人間の現実の姿を教える教育が最適ではないだろうか。
具体的に説明するなら、「ウソをついてはいけません」とか、「人間は正直でなければなりません」とかストレートに暗記できてスローガン化しやすい、元々スローガンでしかない教えを用いるのではなく、「人間は自分に都合が悪い状況に立たされると、ついウソをついて自分を正当化してしまう生きものだが、君たちはそんな経験をしたことがないか」と訊ねて生徒それぞれに経験を語らせる。いいか悪いかといった評価を下すのではなく、人間の弱さや狡さを追究する議論を生徒同士で行わせ、人間という生きものについての姿(=人間の存在性)を自覚させて、自己意識化させる教育とする。ウソを用いた自己正当化行為に関わる自己意識化は自分が同じような立場に立たされて同じ過ちを犯してしまったとき、その自己意識は目覚め、自分への戒めとなって働く。
勿論目覚めさせない人間もいる。それは特に松岡といった政治家を見れは簡単に理解できることだが、議論を通して美しいだけの生きものではない人間の存在性を学ぶことは多くの生徒の規範意識に役に立つはずである。松岡とは違って、当たり前の感覚、当たり前の感受性を持った人間なら、人間の持つ美しいだけではない負の面に陥らないように気をつけようと自ら心がけるようになるだろうからである。
美しいだけの生きものではなく、つい美しくない生き方をしてしまう人間に、日本にはこういった美しい自然があるとか、美しい文化・伝統がある、早寝早起き、あるいは老人を敬うという素晴らしい習慣が日本にはあるとか、負の面を排除して美しいだけを教えるのでは、逆に安倍首相みたいな客観的認識性を欠いた人間に育ててしまうことになるだろう。
他人が持っているカネや異性に対する嫉妬、自分と考え方・行動の違う人間に対してどうしようもなく持ってしまう憎悪や憎悪を超えた殺意、あるいは困難な事態に陥ったとき、
その解決に親に頼ったり、カネの力に頼ったりしてしまう他力本願等の人間の持つ負の面も、反面教師とすべき格好の教材となるに違いない。
また、現実社会に生きる世間の大人の負の面の教育も社会性教育には欠かせないだろう。子供は大人社会の空気を吸って育っていく。当然、教師の女子高生のスカートの中の盗撮や未成年少女に対する買春なども道徳教育の教材としなければならない。だが、何よりも不正行為・犯罪行為を犯して恥じることのない破廉恥な松岡農水相のような国家議員を一番の教材としなければならない。
国民の負託を受けて選良の地位にありながらの美しくない存在性はどこから来ているのかの学習は自己を自覚させる何よりの人間教育・人間の存在性の教育となるだろうから。