従軍慰安婦問題/安部の「規律ある凛とした」謝罪

2007-04-22 07:35:06 | Weblog

 安倍首相が米メディアに従軍慰安婦問題で謝罪したという記事が新聞・テレビで報じられた。どんな風に謝罪したのか、調べてみた。

 「朝日」
 <首相は「当時の慰安婦の方々に人間として心から同情するし、そういう状態に置かれたことに対し、日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と語った。さらに「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本にも責任があり、例外ではない。慰安婦として彼女たちが非常に苦しい思いをしたことに対して責任を感じている」と述べた。>(07.4.21/夕刊≪慰安婦問題 首相「日本に責任」 訪米控え 米メディアと会見≫

 「Sankei Web」
 <「当時の慰安婦の方々に心から同情するし、日本の首相として大変申し訳ないと思っている。彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況につき、われわれは責任があると考えている」と、日本側の「責任」に言及して謝罪の意を示し、平成5年の河野談話を継承する考えを改めて表明した。
 一方で、首相は「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀だが、日本も例外ではない」とも述べ、戦時の人権侵害が日本だけの問題ではないことをにじませた。>(2007/04/21 13:34/≪首相、慰安婦問題の「責任」に言及 米紙インタビューで≫)

 「読売」
 <「慰安婦の方々に人間として心から同情する。日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と改めて謝罪した。
 さらに、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀で、日本にもその責任があり、例外ではない」と述べ、慰安婦問題を人権問題と位置づけ、日本の責任を明確に認めた。
 また、「我々は歴史に常に謙虚でなければならない。彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に我々は責任がある」と語ったうえ、1993年の河野洋平官房長官談話を継承する考えを重ねて表明した。>(07年4月21日13時55分≪首相「慰安婦問題は人権侵害」、責任認め改めて米誌で謝罪≫)――

 「朝日」は<首相としては米メディアを通じて「謝罪と責任」を明確にすることで、米国内の反発を沈静化させたいとの狙いがあるようだ。>とし、「読売」は<訪米を前に、米メディアの批判の鎮静化を図ったものだ。>として、訪米という自己都合が仕向けた態度表明であることを示唆している。

 一方「Sankei Web」にはそのようなニュアンスの言及は一切なく、代わりに<戦時の人権侵害が日本だけの問題ではないことをにじませた>と、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」とした安倍首相の言及に解説の重点を置く、「朝日」と「読売」にはない配慮を示している。

 だが、そのような配慮を超えて、安倍首相の「慰安婦の方々に人間として心から同情する」、「日本の首相として大変申し訳ないと思っている」、「日本にもその責任があり、例外ではない」とする反省のすべてを「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」が打ち消している。

いわば「Sankei Web」の<戦時の人権侵害が日本だけの問題ではない>が安倍首相の美しいホンネをものの見事に簡潔に表現していたのである。

 このことは「読売」が伝えている「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に我々は責任がある」としたことにも現れている。あくまでも責任主体を従軍慰安婦に置き、「存在しなければならなかった」のであり、〝存在させた〟とはなっていない。だからなのだろう、国側の「責任」の基準を従軍慰安婦を直接的に対象としているのではなく、「存在しなければならなかった状況」に置いている。

 中国や韓国、その他のアジアの国々と日本の間に横たわり。、問題となっている従軍慰安婦問題は日本の戦争がつくり出した女性の人権に関わる特殊な日本の問題であるにも関わらず、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だと人権一般の問題・世界の問題とする一般化によって、日本の問題であることを拡散させ、「20世紀」という時代の責任に転嫁して自らの責任を曖昧にしようとした、そこに安倍晋三の美しいホンネがあったというわけなのだろう。

 いわば「日本に責任がある」か「日本に責任はない」のいずれかであって、決して「日本にも責任があり」と分析する事柄では決してないにも関わらず、「責任なし」としたこれまでの自分の主張を自ら隠して、部分的関与を認める巧妙な態度に出た。

 と言っても、「日本にも責任があり」の一般化・部分的関与は「広義の意味での強制性」があったことに対する国の責任は認めるが、軍・官憲が関与した「狭義の意味での強制性」に対する国の責任は認めないとする姿勢と対応しあう論理で、「広義・狭義」の解釈を間接的に正当化した「日本にも責任があり」の一般化・部分的関与なのだろう。

 いわば何層にも自己正当化の巧妙な煙幕を張った〝謝罪〟だったのである。にも関わらず、訪米を控えて、そうせざるを得なかった。そこが「美しい」国の「凛とした」首相にしては苦しいところだったに違いない。

 また「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」は、侵略戦争は日本だけが行ったのではなく、欧米先進国も行ったとするのと同じ線上をいく論理であろう。事実そのとおりではあっても、日本の侵略は日本の侵略として個別に扱うべき問題である。

 いずれにしても安倍首相は「広義」と「狭義」を使い分けて、「狭義」に関しての国の責任は認めないとする姿勢を「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だったとすることで、どうにか守り通した。そうできたことは、苦しい部分があったとしても、自己嫌悪を感じることもなく、自らが掲げる「規律を知る凛とした国」を自ら裏切らない一線とすることができたということでもあろう。

 今朝(07.4.22)早い時間の「日テレ24」で、<安倍首相は、以前、慰安婦について「軍が直接関与した証拠はない」と発言したことについて、「今までの政府の調査を述べたものだ」などと釈明した。≫と解説していたが、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀」だったとするだけでは足りず、「政府の調査」がそうなっていた、自分の考えではないとする美しい変心のご都合主義まで臆面もなく成功させている。

 ただ残念なの訪米に合わせた機を見て敏なる態度が最近そうあるべく努力し、支持率回復に一役買っている安倍首相の強気に打って出る悲壮感滲ませた姿勢の一環とはどう贔屓目に見ても見えないことである。これも態度の使い分けの一つに過ぎないのだろうか。首相就任以来見せてきた「美しい」「凛とした」態度の使い分けである。

 訪米に吉と出るか凶と出るか、見ものではある。

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