安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」3

2007-04-15 12:35:13 | Weblog

 ◆「わが国の憲法として守るべき価値に関して」

 「新憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という三原則など現憲法の良いところ、すなわち人類普遍の価値を発展させつつ、現憲法の制定時に占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識に基づいたものでなければならない。同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない。」

  ――「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」は常に正と負の2面を有している。正だけの「歴史、伝統、文化」は存在しない。それをさも正だけの「歴史、伝統、文化」とすると、無誤謬な民族、即ち日本民族優越意識に化ける。

 公正な価格を操作し、特定利益者だけが利益を分け合う談合も、カネで有利な取引を図るワイロも、日本の「歴史」として受け継ぎ、日本の「伝統」であり、「文化」であった。

 ワイロが「歴史」に「根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」なのは、次の八代将軍徳川吉宗が編纂を計画・推進した<公事方御定書>を見れば一目瞭然である。

 賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に
  取持いたし候もの 軽追放
   但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、
  賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ
  侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事

 かつて、談合は江戸時代以来の日本の美風だと開き直ったゼネコン幹部がいたが、談合とは、それを行う者たちがよりよく生活するため・よりよく食うための方法であろう。上は武士から下は百姓まで、すべての人間が談合の恩恵を受けて洩れることなくよりよく生活し、よりよく食えたというなら、談合は確かに美風であったろう。

 だが、江戸の現実社会は食えなくて田畑を捨て、村を捨てて、江戸に流れていく百姓が跡を絶たず、そのような人口増加が江戸の治安悪化を招いて、人返しの法をこしらえて強制的に村に返すといったことをどの時代でも行っていた。食えなくて、娘を女郎に売る百姓は全国的に存在していた。

 社会全体の恩恵となっていない慣習は決して時代の美風とは言えない。それどころか、一部の人間が談合等で利益を独占することからの貧富の格差である。開き直り、歴史を歪曲するのも、日本の美風・「文化」なのだろう。また、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」は常に正と負の2面を有していることからして、常に「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「日本人が元来有してきた」とは決して断言できない。

 戦前の侵略戦争行為を見れば、一目瞭然であるが、さらに遡って、同じく江戸時代の年貢徴収に関わる代官・その他役人の百姓に対するワイロの強要や、年貢米を掠め取って私腹し贅沢する役得行為と称する乞食行為に対応する、現在の官僚・役人・警察官の予算の掠め取り、裏金づくりして飲み食いする乞食行為は、日本の「歴史、伝統、文化」の力学でつながっている日本人の姿・国の姿であり、「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「元来有してきた」とは決して言えないことの有力証拠となるものであろう。

 現代日本の政治性を表現する金権政治という言葉があるが、江戸時代の政治もワイロによって動き、金権政治を政治の「文化」としていたことが知られているが、そのことも、日本人が「健全な常識に基づいた」「道徳心」を「元来有してきた」わけではないことの証明となる有力事例である。

 いわば、「日本人が元来有してきた道徳心」云々といった、人間の現実を知らない人間だけが言える自国民に対する綺麗事・美化は、事実に反しないならいいが、事実に反することによって日本人全体を、つまり日本民族自体を優秀であるとする日本民族絶対性への発露となる。

 このことも一歩誤ったなら、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化へのベクトルとして働きかねない衝動の抱えとしてあるものである。

 当然、そのような自己民族を優秀・絶対だとする民族意識のベクトル(=突出)は、憲法が兼ね備えた国際関係に向けた広域性・求めるべき普遍性を自ら抹消する矛盾行為となって現れる。

 永田町政治と言われる現在の日本の政治「文化」からして、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」だとは断言できても、「健全な常識に基づいた」「道徳心」に裏打ちされた国の姿(=「国柄」)だとは言えない。

 ◆「安全保障の分野に関して」

 「新憲法には、国際情勢の冷徹な分析に基づき、わが国の独立と安全をどのように確保するかという明確なビジョンがなければならない。同時に、新憲法は、わが国が、自由と民主主義という価値を同じくする諸国家と協働して、国際平和に積極的能動的に貢献する国家であることを内外に宣言するようなものでなければならない。
 さらに、このような国際平和への貢献を行う際には、他者の生命・尊厳を尊重し、公正な社会の形成に貢献するという『公共』の基本的考え方を国際関係にも広げ、憲法においてどこまで規定すべきかを議論する必要があると考える。」

  ――現憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と併せて、<自由と権利>のグローバル化を謳うものと解釈する。経済のグローバル化で、経済強国のみが経済的利益を恣にするのではなく、また民主国家のみが<自由と権利>を享受するのではなく、「全世界の国民」が経済的利益と共に<自由と権利>をより公平に享受できるよう、世界を構築していく義務の受諾と考える。

 対話外交による問題解決は理想ではあるが、国民の犠牲の上に権力の座に胡坐をかき、自己権力に固執する独裁者には、理想は通じないものとして、武力による解決も選択肢として用意しておかなければならない。経済のグローバル化で世界の国々と比較して、より突出して経済的利益を受けている日本が、<自由と権利>のグローバル化に関しては、危険や犠牲はお断りでは、もはや通用しない。

 いわば経済的利益だけ受ければいいというわけにはいかない。<自由と権利>の回復・獲得、民主主義の回復・獲得のために、人命の犠牲を伴う戦闘行為も分担すべきである。

 従って、
 「自衛のための戦力の保持を明記すること。」 

 「個別的・集団的自衛権の行使に関する規定を盛り込むべきである。」        

 ――とする自民党の憲法改正案には賛成する。

 但し、東南アジア各国にとって、日本の再軍国主義化への懸念材料の重要な一つを形成し、日本を信用できない象徴的行為に位置付けているA級戦犯の合祀の廃止と、追悼兵士を英霊としてではなく、国の侵略戦争政策加担者であると同時に侵略戦争政策の犠牲者であるとの新たな位置づけを行い(侵略戦争は国家権力と軍部と国民の共同制作だからである)、国の政策とその結果(=国の運命)は国民一人一人が自らの判断で決定し、選択することの反面教師とする。その線に沿った教育を徹底させることとする。

 当然従来どおりの総理大臣・国会議員の靖国参拝形式は変化することになる。

 多かれ少なかれ、どのような形のものであっても、解放されたときの北朝鮮に治安維持のために自衛隊を派遣させなければならなくなる。そのとき、人道支援だけで、武器は最小限の所持などと言ってはいられない。北朝鮮国民は国民性としては日本人と近親関係にあるから、外国軍の駐留に対して、イラク人みたいに部族権利や宗派権利をむき出しにせず、戦前の日本人のように去勢された如くに従順であろうが、例え金正日支持勢力がテロ攻撃に出たとしても、それに対抗しうる武器と反撃意志を準備した派遣でなければ、既に日本国土を超えて、ミサイルを撃ち込み、その時点で、日本の国家主権と国土保全の問題となっている関係からして、一国平和主義・自分勝手と取られることになる。

  「国の防衛及び非常事態における国民の協力義務を設けるべきである。」

  ――設けたとしても、戦前の<非常時>に役得の私腹行為に走ったのは、一般国民ではなく、そうすることのできた上位に位置する権力層である。そうした人間の私利私欲行為を律する文言も必要になる。

◆「基本的人権の分野に関して」

 「新しい時代に対応する新しい権利をしっかりと書き込むべきである。同時に、権利・自由と表裏一体をなす義務・責任や国の責務についても、共生社会の実現に向けての公と私の役割分担という観点から、新憲法にしっかりと位置づけるべきである。」

 ――「基本的人権」が生きた思想となったのは戦後であり、「公」は「基本的人権」が死んでいた時代の、あるいは存在していなかった時代の、それに対応する価値としてあったものであり、日本型集団主義・権威主義の力学を誘導して個人を統括させる機能を果たしたことを忘れてはならない。

 しかもこれまで見てきたように、「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち『国柄』)」を最も明瞭に表現しているとも言える日本の政治家・官僚の金権体質・乞食体質によって「公」なるものが信用できない胡散臭い価値と化している。日本型集団主義・権威主義の意識を極力薄め、世界的普遍性を持たせるためにも、「公と私」は、
<社会と個人>、あるいは<国と国民>と表現すべきである。

◆「統治機構について」

 「国家とは何であるか」 「憲法の意義を明らかにするべきである。すなわち、これまでは、ともすれば、憲法とは『国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である』ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、『国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール』としての側面を持つものであることをアピールしていくことが重要である。さらに、このような憲法の法的な側面ばかりではなく、憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮に入れながら、議論を続けていく必要があると考える。」

 ――憲法が国際関係法を兼ねた国家存在の基本法であるとする考えに立つと、国際的に共通し、普遍とし得る理念にとどめるべきである。「国民の行為規範」といった事細かな規定は憲法の役目ではない。<自由と権利>の理念を基本原則として、あくまでも自ら考えて、自らの責任で行動する自律性に任せるべきである。それが社会の法律に触れた場合、
先に触れたように、刑法・民法、その他の法律・条例で律するべきである。 

 「国民の行為規範」とし、「国民の精神(ものの考え方)」に影響を与えようと意志すること自体、個人を上に従わせる集団主義・権威主義の網に絡め取り、自律性・主体性を抹殺する働きをするものである。

 日本人がなかなかに抜け出せないでいる上下双方向の人間関係としてある、上の、下を従わせる・下の、上に従う集団主義・権威主義衝動を改めるためにも、自律性(自立性)の涵養をこそ優先させるべきである。

◆「天 皇」

 「政教分離」

 「政教分離規定(現憲法20条3項)を、わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべきである。」

 「天皇の祭祀等の行為を『公的行為』と位置づける明文の規定を置くべきである。」

 ――「わが国の歴史と伝統を踏まえたもの」であっても、思想・信教の自由の保障に抵触する。「『公的行為』と位置づける」べきではない。

 「わが国の歴史と伝統」、あるいはわが国の「文化」が常に一定の姿をしているわけではないのは既に述べた。今後とも、一定の姿を見せるとは限らない。正と負の両面を避けがたく抱え持ち、今後も抱え持つ。

 そのことに反して、「わが国の歴史と伝統を踏まえたもの」とする考えは、繰返しになるが、「わが国の歴史と伝統」を絶対善とする前提に立つ。日本型集団主義・権威主義の強権独裁化につながりかねない日本民族の絶対化に他ならない。

 憲法が国際関係法を兼ねる関係からも、「わが国の歴史と伝統」を絶対善とする日本民族の絶対化は前面に出すべきではない。矛盾を犯すことになる。

 現前文にあるように、日本が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」といった、国際的に指導的位置に立つ意志を持っていなければそれでもいいが、そのような意志を持つことと、絶対善の姿を見せるわけではない「わが国の歴史と伝統を踏まえ」ることとは、円滑な国際関係構築への矛盾した態度となって現れ、そのことへの阻害要因となる。

 必要なのは「わが国の歴史と伝統・文化」を超える民族意識からの脱却と、構築すべき<自由と権利>の世界を舞台とする新たな思想ではないだろうか。大体が民族・文化への固執・拘泥が武力衝突の原因となっている世界なのである。それを超える時が来ているのではないか。

 ◆「今後の議論の方向性」

 「連綿と続く長い歴史を有するわが国において、天皇はわが国の文化・伝統と密接不可分な存在となっているが、現憲法の規定は、そうした点を見過ごし、結果的にわが国の『国柄』を十分に規定していないのではないか、また、天皇の地位の本来的な根拠は、そのような『国柄』にあることを明文規定をもって確認すべきかどうか、天皇を元首として明記すべきかなど、様々な観点から、現憲法を見直す必要があると思われる。」

 ――「元首」とは、辞書に、国家を代表する機関。君主国では君主。共和国では大統領とある。

 日本国憲法は元首を規定していない。

 天皇は「元首」とするにふさわしい存在なのだろうか。

天皇は歴史的・伝統的に、利用される存在であった。歴史的に葛城氏・物部氏・曽我氏・藤原氏と、常に影の宰相が天皇を動かしていた。武家時代になってからは、平氏・源氏・足利・織田・豊臣・徳川と、自ら政治権力者の地位につき、天皇家の権威・権力を形式化した。明治になってからは、<大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス>、あるいは<天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス>と天皇を絶対化したが、実態は薩長政府が明治天皇の影の宰相を演じ、大正・昭和と続いて、軍部がその役目を引き継いで昭和天皇に対して演じた。天皇の利用される存在は日本の「伝統」・「文化」としてあったものなのである。

 現在も、対外的に、<天皇のお言葉>という形で天皇を利用している。敗戦の決定にしても、昭和天皇自身が決定したとすると、開戦決定も天皇自身の意志となり、戦争責任問題に影響してくる。

 本土決戦のこぶしを振り上げた手前、自分から下げるわけに行かなくなった陸軍が自らメンツを保つためにも、天皇の決定とすることが、国民を納得させるためにも必要だったから、そうと演出したのではないのか。

 天皇が決定したのだから、仕方なく従った。陸軍としては、勝算を持って本土決戦で逆転を賭けていたのだが、といったふうに。

 ところが、日本側は国体護持(=天皇制維持)に向けた敗戦の受入れを早い時期からアメリカやソ連に対して画策していたのである。いわば、制空権を完全に失い、アメリカ軍の思いのままに爆撃され、広島・長崎と原爆を落とされ、次は東京かもしれないという、後がないまでに追い詰められた状況がポツダム宣言の受諾以外の選択肢のないことを既に決定していたのであり、聖断は単に後追いの形式でしかない。

 戦争を天皇の詔勅で開始したこととの整合性を保つためにも、聖断を必要としたのだろう。軍部、その他の指示で戦争の幕をあけ、降ろしたに過ぎない。

 利用される存在でありながら、天皇の見せ掛けの権威性が力を持つのは、利用している存在の権威が力を持つことと、そういった力に対しても日本人が上に従う集団主義・権威主義を働かせるからなのは言うまでもない。

 だからこそ、葛城氏以下の豪族も、平氏以下の武士も、薩長連合も、軍部も、天皇の権威を借りて、国民を支配できたのである。

 昭和天皇が死んだとき、古い言葉で言えば、歌舞音曲は勿論、結婚式・旅行等のプライベートな行事に至るまで、国民は自粛した。主体的な考えに従った自粛なら分かるが、その多くは何かの影を相互作用させて社会の大勢としていき、将棋倒しのように次々と従っていった下位権威者の上に従う権威主義が自動的に働いた自粛であった。

 何かの影とは、右翼に代表される妨害や世間の批判といった自らが作り出した幻影だったことは確かである。

 例え見せかけのものであったとしても、既に動かすことのできない大きな権威としてあるものを元首としてさらに決定的に権威づける。そのことは、国民の上に従う行動様式・思考様式をさらに受身なものとする、自律性とは反対方向の力学への誘導を果たすものであろう。

 そのことは天皇主義者、と言うよりも、天皇を最高権威と仰ぐ集団・権威主義者にとっては都合のいい国民の存在様式であろうが、国民が上に従う集団主義・権威主義の血を薄める方向にではなく、濃くする方向で国際社会に対するとき、それが権威を借りて他者を従わせようとするベクトルに変化させて、他民族排除とまではいかなくても、自民族中心の力学として作用しない保証はない。

 ただでさえ単一民族意識に支配されている自民族中心的な日本民族であり、国民を従わせるには天皇は、歴史が証明しているようにどうとでも利用できる理想的な権威なのである。国民自身も、天皇を絶対権威としたとき、戦前の前科からして、他民族に優越した日本民族絶対性の根拠としないとも限らない。 参考までに、「自民族中心主義」なる言葉の意味を記しておく。

 <自民族中心主義(=エスノセントリズム)>(大辞林・三省堂)<自己の属する集団のもつ価値観を中心にして、異なった人々の集団の行動や価値観を低く評価しようとする見方や態度。中華思想。自文化中心主義>

 これまでの天皇支配の公式からして、天皇を元首とした場合、天皇を絶対化して、その影響力を利用して自己の影響力とする、あるいは自己の発言力を高める政治家が現れても、公式に即した出来事で、驚くに当らない。

 先にも触れたように、民族意識を持たせた日本という国に拘ることではなく、民族意志超越の思想であろう。

 国民主権なのだから、国民を元首としたら、民族意識の超越にも役立つし、創造的発想とならないだろうか。国の姿・政治の姿への国民の意識も高まる。外国と交渉する首相以下の大臣・政治家にしても、元首である国民の代表であると言う意識を常に持ち、政治家・官僚・役人の乞食行為は少しは収まるのではないだろうか。

 国会議員が国民の代表でありながら、その多くが代表である資格を裏切っているのである。国民に道徳性を求めながら、自らは表には出せない汚れたカネで政治を動かしている。そのような国の支配層が、天皇を元首にしようと意志するのは、そもそもからして矛盾している。

◆「憲法改正発議」

 「憲法改正の発議の要件である『各議院の総議員の3分の2以上の賛成』を『各議院の総議員の過半数』とし、あるいは、各議院について総議員の3分の2以上の賛成が得られた場合には、国民投票を要しないものとする等の緩和策を講ずる(そのような憲法改正を行う)べきではないか。」

 ――これは「国民の信託」を受けた国民の「代表者」たる「議員」が選挙で示した国民の意思に違わない姿勢を常に反映させていることを前提としている。その前提を容認するには、国民投票にかけて、乖離がないことを確認するか、国民が十分に納得し得る<説明責任>を果たす義務付けを議員に求める、2つのうち、どちらか一方の条件が必要になってくる。

 <説明責任>も果たさず、国民の意思との乖離も検証しないとなったなら、一方的で、「国民の信託」を受けた国民の「代表者」としての責任放棄となる。

 再度言う。何度言ってjも言い足りないが、多くの国民も好き勝手なことをしているが、政治家・官僚・役人も好き勝手なことをしている。上が下を従わせる資格もないし、下も上に従うには、上は好き勝手をする手本とはなるが、それ以外は手本とはならない。但し、上も下も集団主義・権威主義の行動様式に呪縛されているから、従わせ・従うという力学
だけは有効に働く。

 そういった力学を持たせた規定を排除して、自律性(自立性)をこそ求める方向・内容に進まないことには、憲法の理念は形式的秩序――いわば空念仏で終わる。

 従わせ・従う人間関係から抜け出して、戦後60年経っても到達できないでいる自律性(自立性)を短時間で獲得するのは困難であろうが、日本が国際的に指導的立場に立とうとする欲求を持つ以上は、獲得しなければならない人間関係要素である。
* * * * * * * *
 最後に、「国民投票法案」を安倍ハコモノ政治とした理由について。

 答は簡単、改正教育基本法や教育改革関連3法案にしても同じことが言えるが、安倍晋三なる政治家が国家主義者だからである。国家主義なる言葉の意味を改めて辞書(『大辞林』三省堂)で見てみると、「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」とある。

 「自民党の憲法改正『論点整理案』」の内容自体も国民を従わせようとする意志を持っているが、このような国家主義的態度は安倍晋三の言動の端々に見ることができる。国家主義とは国民の外側に位置する国家なる構造体を優先して、その内側で生活者として存在する国民を十全に生かさしめる「権利・自由」を次に置く、いわば国家なるハコモノを優先するハコモノ思想を基盤としている。

 かつて日本が戦後の貧しさから抜け出して経済を回復していくと、学校は校舎を木造から鉄筋コンクリートに造り替えることから始め、次の校長が体育館、さらに次の校長がプール、さらに次の校長が図書館等々とハコモノをつくっていき、それを自らの教育成果・勲章とした。

 そしてその成果が教育荒廃であった。立派なハコモノを造っていったが、中身の国家に対して国民に位置する、学校に対する生徒のありようを下に置いた美しい成果だろう。

 このことはまた地方自治体が立派な庁舎を造りながら、慢性的な赤字財政を持病として肝心の住民サービスを悪化させていることに対応すハコモノ優先でもある。

 安倍晋三は戦後生まれ初の首相として、アメリカが関与したものではない教育基本法、憲法を日本人が自らの手で改正したものだと、それを自らの勲章とし、現代史にも記されることになるだろうが、如何せん国家優先の国家主義者のやることである。国民無視のハコモノ優先で終わることは目に見えている。

 このことは国民が緊急に必要としている「離婚後300日規定」の見直しの先送りや企業の立場を優先させて「パート法案」の内容を後退させ、何よりも「国民投票法案」の衆院通過を優先させた国民軽視にも現れている。

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安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」2

2007-04-15 12:29:52 | Weblog

 * * * * * * * *
送信者: "mag2 TEST ID 0000032752" <mag2from@tegami.com>
宛先: <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : 「市民ひとりひとり」<どうしようもない戯言シリーズ・その37>
日時 : 2005年2月26日 21:49

「市民ひとりひとり」<どうしようもない戯言シリーズ・その37>
  ――「市民ひとりひとり」――
<教育を語る 社会を、政治を語る そんな世の中になろう>
       2005年/2月/26日号(不定期刊行)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  「 自民党の憲法改正『論点整理案』を読む」

 結論から先に言うと、自民党の改憲意志には、国民に対して、上(国)に従わせようとする支配欲求が色濃く反映している。その頂点に、元首とした天皇を置きたいと願っている。

 この上に従わせようとする意志は、日本人が行動様式としている、上は下を従わせ・下は上に従う集団主義・権威主義から派生した、上に位置している人間集団の下に対する支配への疼きなのは言うまでもない。

 このような疼きは集団主義・権威主義をDNAとしている影響を受けて、殆どの日本人が上に立つと、本能的な行動原理となって現れる。

 平等を行動原理とするアメリカ人主体のGHQがつくった日本国憲法を、国の機関に関わる日本人政治家が改正しようとするのだから、下を従わせる構造に変えたい衝動を抱えるのは自然の流れとも言える。すべては国民がそのような構造を疑問もなく受入れて、上に従う関係を当然とするかどうかにかかっている。

 日本国憲法の前文に次のような宣言が盛り込まれている。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

  ――多分これは小泉首相がイラクへ自衛隊を派遣する理由に用いた文章であろう。ここから出発する。

 上の宣言は、国民に<自由と権利>を保障し、と同時に世界に向けて、それを求めていく姿勢を謳ったものである。これは絶対原理としなければならない全世界の人間の存在形式であろう。

 言葉を変えて言うなら、<自由と権利>の自国内にととまらず、グローバル化への宣言と見なすことができる。

 そのことは、<憲法>とは、国内法としてある国家存在の基本法であると同時に、日本が世界の一員として世界に向けてあるべき姿を規定する国際関係法をも兼ねていることを示している。

 <自由と権利>の理念は、戦前の日本の軍国主義に対する反省を出発点としているはずで、少なくとも日本という国に於いては、<自由と権利>とは、アンチ軍国主義を以って、イコールとしなければならない。

 戦前の日本の軍国主義とは、日本人が歴史的・伝統的に行動様式としている日本型集団主義・権威主義の上に築いた、軍部による軍事的強権独裁化を構造としていたものであろう。

 と言うことは、憲法の前文を例え変えるにしても、国内的にも国際的にも、<自由と権利>の保障と、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化の排除(=アンチ軍国主義)、この二つをベクトルとすることを絶対条件としなければならない。

 以上のことを踏まえて、議論を進めていく。

 以下、自民党憲法改正プロジェクトチーム「論点整理(案)」から検討していく。

※ ◆、以下と、「」内文章は、すべてプロジェクトチーム作成によるものである。
   ――、以下は、私自身の解釈。

 ◆「前文に盛り込むべき内容」

 「現行憲法の基本原則である『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』は、今後ともこれを堅持していくべきである。
 ただし、『基本的人権の尊重』については行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要がある。」

  ――何が「行き過ぎた利己主義的風潮」なのかは、個人や、同じ個人でも立場・階層によって、また社会や時代によって、それぞれに判断が異なってくるから、改正に困難な手続きを必要とするゆえに改正サイクルが長い憲法で規定すべきではないことと、憲法に規定した場合、政党といった特定な立場に立つ特定の人間集団が持つ特定な価値観で、それぞれに異なる価値観を固定・支配する畏れが生じる危険がある。

 人間は所詮利己主義の生きものであるから、「行き過ぎ」・「行き過ぎ」ないの判断は、憲法以外の、時代や社会を臨機応変に反映させた民法や刑法、その他の法律・条例で、規定した事柄に触れた場合はそれぞれの規定に従って処理する従来の方法に従うこととする。ゆえに、「基本的人権の尊重」だけで十分とする。

 大体が、「行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要」という文言は、国民に対する評価であって、自分たち国の機関に関わる人間集団を省き、さも道徳正しい人間であるが如きに振舞っている。

 しかし実際には、多くの国民も好き勝手なことをしているが、政治家・官僚・役人も好き勝手なことをしている。国の姿・社会の総体は日本人が協同してつくり上げた風景であって、その点、上とか下とか関係なく、風景制作には共犯関係にある。

 その認識も踏まえて、「行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要」は、国家運営の指導的立場にある人間にも向けなければならない文言であろう。

 尤も指導的立場にある人間ほど、自己を無誤謬視して、釈迦に説法となっている。釈迦に説法は、特に政治家・官僚・役人の文化としてあるものである。

 ◆「新憲法が目指すべき国家像について」

 「新憲法が目指すべき国家像とは、国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』である。新憲法では、基本的に国というものはどういうものであるかをしっかり書き、国と国民の関係をはっきりさせるべきである。そうすることによって、国民の中に自然と『愛国心』が芽生えてくるものと考える。」

  ――憲法が国家最高の法規範だと言っても、所詮約束事を纏めた言葉の集合体でしかない。「国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』」を実現させ得るか否かは、偏に国民の意思と、その意思を如何に受け継ぎ、如何に表現するかの政治家・官僚の意志にかかっている。

 但し、政治家・官僚の品格もしくは政治の品格のあるなしは国民の品格のあるなしの反映であり、「国際社会」に映る「品格」は政治家・官僚の品格もしくは政治の品格がより大きく影響する。

 そのことを踏まえていないと、義務の形を取った国民への要求、もしくは規制に偏ることとなる。憲法の理念の実現如何は、「国民の厳粛な信託」を受けた国民の「代表者」たる政治家と、政治家を補佐する官僚の姿勢こそが問われる。

 もし憲法に謳うのだったら、「国民誰もが自ら誇りとし、国際社会から尊敬される『品格ある国家』」の実現には、如何なる「代表者」を選択するか、国民の意思と「国民の厳粛な信託」を受けた国民の「代表者」の意思にかかっているとすべきである。

 いわば、政治家・官僚の、自らの責任を自覚させる文言も付け加えなければならない。現実の国の姿に対応して、憲法の条文が空文化したり、綺麗事化したりする。憲法を生かすも殺すも、国民の意思の内容と、政治家・官僚がそれをどう生かし、憲法の理念に添った国づくりができるかどうかにかかっている。政治家・官僚がより重い責任を有していることを銘記すべきである。

 「諸国民との協和」も、「自由のもたらす恵沢」の「確保」も、「戦争の惨禍」の回避も、「国民主権」の確保も、「福利」の「享受」も、「恒久の平和」も、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」も、「平和を愛する諸国民の公正と信義」も、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することも、「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることも、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」の「確認」も、すべて国民の意思と、それを受けた「国政」の「代表者」たる政治家とそれを補佐する官僚の意志(意思)にかかっている。

◆「国旗及び国歌」

 「諸外国の憲法の規定例を参考にして、国旗及び国歌に関する規定を憲法に置くべきだとする意見があった。」

 ――前記の、「新憲法が目指すべき国家像について」の説明文にある、「国民の中に自然と『愛国心』が芽生えてくるものと考える。」とする文章と併せて説明する。

  ――国旗掲揚・国歌斉唱に関して、アメリカでは国旗が公私の区別なく、多くの場所にどこでも掲揚されていて、誰もが敬意を表し、国歌斉唱にも熱心だと、それを理由に日本人に同じことを求める考えがある。

 日本人は下を従わせ・上に従う集団主義・権威主義を行動様式としている。アメリカ人にも権威主義的な人間はいるが、一般的な国民性としては、集団主義・権威主義は日本人ほど強くDNAに組み込まれてはいない。思想・行動とも、独立した一個の個人として把えた自己を基準とすることができる自律性を国民性としている。自分で判断し、自分で行動する。

 日本人のように大勢を占めた権威の命令に従って集団で行動する習性にはない。政治に関して言えば、日本のように殆ど常に一つの政党に権威を与えて、政権党に座らせるようなことはしない。それはかつては自民党が上・社会党は下、現在で言えば、実勢は違った姿を見せているが、それでも無意識的な固定観念として、与党(自民党)は上、野党(民主党)は下という、何事も上下で権威づける権威主義的価値判断から出ている一党独裁状態であろう。

  それは読売ジャイアンツが常勝状態から大きく外れていながらも、地方の球団を超え、時代を超えて全国的な人気を獲得・集中させ、一番だと言う権威(=地方球団、もしくは他球団を下に置く権威)を伝統とさせている状況と同じである。

 監督としては見るべき成績は残していないのに、読売ジャイアンツのスター選手であり、監督であったと言うだけで、長嶋茂雄が今もって神様の如くにもてはやされる理由も、ジャイアンツが一番と言う権威主義に助けられての光景であろう。

 アメリカでは、民主党・共和党のどちらか一方の政党を権威とせず、必要に応じて適宜政権を交代させるバランス感覚を自らの感覚としている。このバランス感覚とは、単に政権党の選択のみを意味するわけではなく、政策の一方的偏りをゆり戻す働きをも含む平衡感覚であろう。勿論、時代の空気を受けて、そのゆり戻しが悪い方向に振れる場合もあるが、国民の選択であることに変わりはない。

 日本人がただでさえ集団主義・権威主義を行動原理としているところへもってきて、国旗・国歌を憲法で規定するのは、国旗・国歌を権威付けて、それに従わせる強制力として働く危険を抱えかねない。

 権威付けとは、言うまでもなく、その権威に従わせて、初めて成果を得る。国旗・国歌を権威付けて、国民に従わせてどこが悪いという意見があるだろうが、それを義務としたとき、<自由と権利>の理念に真っ向から反することとなる。従うのも自由・従わないのも自由を条件としなければ、精神の自由を犠牲とした個人の束縛へと向かう。

 戦前、国旗・国歌は国家によって絶対的権威とされ、国民に従うことを絶対的義務とし、個人の行動・思想を縛った前科を抱えているのである。再犯への怖れは単なる杞憂なのだろうか。

 杞憂ではなく、既に絶対化の足音が忍び寄っている証拠を示さなければならない。福岡県久留米市教育委員会が、小中学校の卒業式と入学式で、国旗掲揚の有無と国歌斉唱の声量を大・中・小の3段階に分類して調査した事実、東京都が国歌斉唱時に起立しない生徒を出した担任の教師を懲戒処分した事実は、国旗・国歌の絶対化以外の何ものでもないだろう。

 「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちを暗に強迫した校長もいたという報道もある。

 これらのことは国旗・国歌を道具に国家が意志することを国民に強制する、上に位置する人間の下を従わせ、下の人間に上に従わせようとする集団主義・権威主義のストレートな発揚であろう。 そうなった場合の国旗・国歌に対する要求態度、「愛国心」表明に対する要求態度からは、憲法の「前文」に言う、「専制と隷従、圧迫と偏狭」の国家対国民の関係しか生まれない。憲法が謳う、「個人の尊重」、「思想及び良心の自由」といった<自由と権利>の保障は排除されかねない。

 また、 「愛国心」涵養の方法としての国旗掲揚・国歌斉唱は、形式で済ますことのできるものであるから、意味を成さない。「愛国心」を口喧しく説く人間が、必ずしも愛国心溢れる人間とは限らないし、国旗に敬意を表し、国歌斉唱を熱心に行う人間が、愛国心ある人間だとは限らない。私利私欲・私腹行為を隠すために、愛国心を隠れ蓑にする人間もいる。

 戦前、食うや食わずの国民をよそ目に物資の横流しで食糧に事欠かなかった日本人の多くは、社会的上層に位置している人間だったから、愛国心を口やかましく言い立て、一般国民に愛国心をうるさく求めたに違いないが、愛国心を隠れ蓑に公の態度と違う愛国心に反した行いをしていた。

 従わせていた側の人間が、従わせようとしていた行為と陰では違うことをしていたのである。このような裏切りから導き出される答は、当然、国旗・国歌に対する態度で、人間は判断できないという事実であろう。そうである以上、愛国心涵養の道具とはならないばかりか、愛国心を計るバロメーターともならない。

 人間は利害の生きものであり、自己に卑近な利害で動く。断っておくが、利害で動くことは決して悪いことではない。悪いかどうかはケースによる。

 人間は一般的には「愛国心」で行動しない。「愛国心」からの行為に見えたとしても、利害行為であることが多い。「愛国心」で行動するのは、そのときの優先的利害に位置するからというケースが多い。

 失われた90年代に「愛国心」がより喧しく語られるようになったのは、政治家自身の国家運営の無能、その先にある自らがつくり出したお粗末な国の姿という成果を「愛国心」の問題にすり替え、国民に責任転嫁して、さも自分自身は無関係を装う自己正当化のための利害行為であろう。

 戦前の戦争にしても、当たり前に部隊を展開し、例え犠牲が多かったとしても、実力に応じた戦闘を行って、勝利を収めることができると計算して、実際にもそのようにできたなら、「愛国心」だ何だと、あるいはやたらと標語をつくり立てて喚き立てなくても済んだだろう。戦略と戦術のまるっきりの無能、その先にあった無残な結末を覆い隠すために、選択肢がそれしかなかった「愛国心」を必要としたのである。

  ここで<戦略>の意味を記しておく。

 <長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法>(大辞林・三省堂)

 日本人の<戦略>の欠如は、戦後50年経っても、阪神大震災で遺憾なく発揮された。

 この<戦略>性の欠如は上が下を従わせ・下が上に従う集団主義・権威主義が持つ、上を基準とする準拠性の、命令・指示をなぞることのできる事柄には計算が働いて力を発揮するが、想定外なためなぞることができない事柄には咄嗟の計算が働かない弊害からきているものだろう。

 学校運営の直接的な責任者である校長・教頭が、上からの命令・指示をなぞれば片付く国旗・国歌問題では力を発揮するが、なぞるだけでは片付かない生徒の生活態度や創造性の育みに力を発揮し得ていないことも、上記の例に入る傾向であろう。

 また、戦前の「愛国心」が殆どの国民になぞらせることに成功したものの、日本という国家意志の一方的利害といった国家レベルの利害行為でしかなく、アメリカ・イギリスのように<独裁との戦い>、あるいは<自由のための戦い>といった世界的普遍性を持ち得なかった。

 国際関係法も兼ねている憲法が<自由と権利>の保障と、日本型集団主義・権威主義の強権独裁化の排除(=アンチ軍国主義)の二つをベクトルとすることを絶対条件とするなら、「愛国心」といった一国の利害にとどまるのではなく、それを超えて人類共通の人間存在のルールとして位置し、世界に普遍性を持ち得る<自由と権利>の理念をこそ追求すべきである。

 各国様々な人権法によって描いた、その共通項を成す理念・思想が国民及び人間相互の、国家と国民相互の、さらに国家間相互の行動原理として働き、必然的に自律・他律の規制を受けた人間の存在形式を形成していくこととなるはずである。

◆「21世紀にふさわしい憲法のあり方に関して」

 「新憲法は、21世紀の新しい日本にふさわしいものであるとともに、科学技術の進歩、少子高齢化の進展等新たに直面することとなった課題に対応するものでなければならない。同時に、人間の本質である社会性が個人の尊厳を支える『器』であることを踏まえ、家族や共同体が、『公共』の基本をなすものとして、新憲法において重要な位置を占めなければならない。

――「『公共』の基本をなすもの」は、「家族や共同体」ではなく、あくまでも個人である。両者は相互関係にあるが、行動主体は常に個人でければならず、「家族」でもなければ、「共同体」でもない。人間は基本的には「家」や「共同体」で行動するわけではない。個人として行動する。行動しなければならない。

 個人を主体として把えるべき人格性、もしくは権利性を「家」に統括して把え、さらに「共同体」に統括して把える人格性及び権利性の統括は、個人の否定(個の否定)以外の何ものでもなく、さらに進めば国家での統括を最終局面とする、あるいは最終結果とする国家主義・全体主義への傾斜を暗流とした改正意思であろう。

 個人の公約数的な姿が「家族」を姿づけ、「共同体」を姿づける。にも関わらず、「家族や共同体」を行動主体とし、そこに個人を埋没させる。

 個人を「家族」に、「家族」を「共同体」にと、順次、下を上に従わせる集団主義・権威主義の権威的衝動から発した社会の序列化・階層化と言える。国民統制の役目を担わせた戦前の部落会・町内会を末端組織とする大政翼賛会組織に通じる、集団主義・権威主義からの国民支配意志が否応もなしに見えてくる。

 個人ではなく、「家」・「共同体」・「国旗」・「国歌」と、いずれも集団主義性・権威主義性を包摂したキーワードを揃えて、それを国民の集団主義・権威主義の血に注入して、その部分の血をより濃くし、その先に国家なる着地点に誘導しようとする。憲法改正の意図・テーマが全体主義、とまでいかなくても、少なくとも国家主体を主眼としていることが否応もなしに透けて見える。

 これは<自由と権利の保障>に明らかに抵触する。是非を自ら判断し、自ら行動する個人の自律性(自立性)をこそ求めるべきである。
 (安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」3に続く)

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安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」1

2007-04-15 12:13:58 | Weblog

 最初に断っておくが、私は憲法9条の改正に賛成の立場である。元々は自衛隊の存在そのものに反対であったし、平和憲法擁護派でもあった。だが人間の現実の姿・社会の姿を知るにつれ、考え方が180度変わった。

 まず、沖縄の米軍が日本人基地従業員の解雇を行ったとき、関係組合だけではなく、当時あった総評・社会党も解雇反対の声を上げたことだった。当時の総評も社会党も基地反対・自衛隊反対・米軍撤退を主張し、平和憲法擁護を叫んでいた。基地そのものに反対していながら、従業員解雇に反対は矛盾行為でしかない。

 基地反対を叫ぶなら、逆に社会党は所属する国会議員からそれ以下の各県市町村議員、総評は幹部からすべての所属組合員が自らの身を可能な範囲でそれぞれに削って、その資金を手当てに日本人従業員全員に解雇を勧め、その生活保障に基地の待遇相応の新たな職を斡旋して基地が成り立たなくさせる手段に出るべきだったろう。

 一方で基地反対を叫びながら、その一方で基地従業員の身分保障を求める。もし米軍がすべて日本から撤退することになって日本人従業員は全員解雇ということになったとき、基地労働者の身分を守るために撤退反対を叫ぶのだろうか。

 このこと「asahi.com」の2004年05月13日の記事、≪職と反基地 ジレンマ もうひとつの沖縄1≫が証明している。

 <1969年から76年ごろまで、米軍による基地従業員の大量解雇が続いた。これに反発した全駐留軍労働組合(全駐労)沖縄地区本部は「クビを切るなら、基地を返せ」をスローガンに闘争を展開し、沖縄の反基地運動の先頭を走ってきた。だが、県内の雇用状況が改善されないなか、97年から「基地撤去」を掲げなくなっている。
 中嶋さんは言う。「基地賛成なんて思っている者は一人としていない。ただ、就職のためには『基地反対』と大声もあげません」>――

 「クビを切るなら、基地を返せ」は最たる矛盾であろう。基地を返したら、すべての日本人従業員が職を失うことになる。沖縄に今以て求職希望者を吸収できる産業が基地以外にこれといってないことは失業率が全国一高いことが証明している悲しい現実であるが、2004年05月13日の「asahi.com」記事≪沖縄、基地求人に殺到 失業率、全国一≫が如実に伝えている。

 <失業率が全国一高い沖縄県で、米軍基地で働く従業員の04年度募集に申し込みが殺到している。基地従業員の雇用をあっせんしている独立行政法人・駐留軍等労働者労務管理機構那覇支部によると、10日までの応募件数は3478件。今月21日に締め切られ、秋には追加募集がある。ここ数年、競争率は25~30倍になっており、今年も例年並みになりそうだという。
 沖縄県内の基地従業員は3月末現在、8813人。出納事務や電気装置修理工、警備員、コックなど約1300の職種に従事している。就職先としては沖縄電力や地元銀行などをしのぎ、県職員2万2000人に次ぐ大きな職場である。
 03年度は675人の採用に対し、1万5582人の申し込みがあった。
 1972年の本土復帰前後には、基地従業員の大量解雇があって社会問題化した。しかし、今では定年まで働く人も少なくなく、「安定した職場」とみなされ、給与や休みなどが「国家公務員並み」という待遇が人気を支えている。
 同機構が書類選考し、米軍側が面接する。面接を受けられる人は10人に1人程度だ。採用は米軍側の要求に応じて随時実施されるため、人数は確定していない。
 沖縄の03年度の完全失業率は7.6%(全国平均5.1%)。特に15~24歳の若年層は18.6%(同10.0%)と高い水準になっている。>――

 今以て失業率全国一であることから、現在もさして状況は変わっていないだろう。

 日本の軍隊・自衛隊にしても、その経営は平和団体の反対の声に関係なしに年月の経過と共に地元経済と深く結びついていき、地元経済にとって雇用問題だけではなく、物資納入や自衛隊員が地元にカネを落とす経済効果等によって必要不可欠の存在と化している。

 自衛隊反対の平和団体や政党はそれに何らブレーキをかけることができなかった。

 そうなると、基地以外に産業のない地方にとって、基地の撤退は死活問題となる。炭鉱が閉鎖されたのちの夕張の状況に擬(なぞら)えることができる。1950年代(昭和30年代)に炭鉱不況に襲われたとき、各種パートといった仕事で吸収できる程には日本の経済は成長していなかったために、手っ取り早く収入を得る道が売春と限定されていた炭鉱労働者の妻たちの存在は基地以外に産業がない、あるいは炭鉱以外に産業がないといった地方の限定状況と重なる。

 経済的な(=カネのための)自己利害優先が生存条件(=生活成立の条件)となっているために、経済(=カネ)が人間存在の主導権者に位置することとなっている。多くの日本人が戦争に反対していながら、日本は朝鮮戦争(1950.6/S25~1953.7/S28)への間接的な参戦によって、その特需の経済的な恩恵を受け、敗戦による経済的な壊滅状態から抜け出ることができ、さらにベトナム戦争(1961/S36~1975/S50)への間接的参戦による特需を受けて、日本は高度成長に向けた飛躍を果たすことができた。

 戦争に反対していた日本人もいない日本人も、米軍基地撤退を叫んでいた日本人も叫んでいなかった日本人も、反対も賛成もせずに傍観者であった日本人も、戦争の果実が重要な位置を示していた経済成長の恩恵を受けて、一億総中流とまで言われるようになった生活を成り立たせていた。そして日本は世界第2位の経済大国にまで上り詰めた。

 だが、そのような日本の経済発展の基盤を成した戦争の果実は米軍兵士、あるいは韓国・朝鮮人・中国人の血や恐怖、死、そして国土の荒廃といった犠牲を栄養源とした果実で、それに対して日本、あるいは日本人は何ら犠牲を払わなかった美しいだけの果実であるという逆説性に満ちた果実であった。

 このことは公平・公正なことなのだろうか。経済のグローバライゼイション(globalization=世界的規模化)を言うなら、あるいは人権擁護を言うなら、自国の利益・自国の人権だけを考えることは決して公平・公正とは言えない。如何なる果実も、他者の犠牲の上に成り立たせた逆説性を持たせてはならない。自らがそれ相応の犠牲を払うことで、手に入れる資格を持ち得るはずである。

 当然在日米軍も自衛隊も日本の経済的利益を生む存在にとどめておくことは許されない。「自民党・新憲法草案」の「前文」に言っている「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い他国とともにその実現のため、協力しあ合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。」に賛成であるし、「第2章安全保障」【9条の二の3】が言うところの「自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動をほか、国際社会の平和と安全確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」にも賛成であるし、集団的自衛権の行使にも賛成している。

 またすべての戦争が悪で、すべての戦争に反対と言うことなら、如何なる戦争も起こさせない・起きない絶対的基準を用意しなければならない。それを不可能としながら、反対を叫ぶのことも矛盾行為であろう。

 但し条件付の憲法改正であることを断らなければならない。自民党政権下での憲法改正は反対であることと、非核3原則の堅持、軍事力は最小限にとどめること。

 非核三原則の堅持は説明するまでもないだろう。最小限の軍事力を条件とする理由は、最小限を補って外交政治を自国防衛の最大要素とするためである。経済大国を誇るなら、外交大国たる地位・創造性を獲得すべきである。しかし現実は反対の状況にある。

 外交大国を武器に軍事力行使はギリギリの最後手段としなければならない。

 自民党政権下での憲法改正は反対であるとするのは、項目化された「自民党・新憲法草案」を読んだだけでは見えないが、2005年に発表した「自民党の憲法改正『論点整理案』」が自民党の主だった議員の様々な意見の集約の形を取っているゆえに読み取り可能とさせている彼らの改正意志を反対の理由としている。

 いまは止めてしまったが、以前発行していたメーリングリストから引用してみる。(安倍ハコモノ政治からの「国民投票法案」2に続く)

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