「桜」(=国家主義)が顔を覗かせた安倍「美し国づくり」企画会議

2007-04-06 10:05:11 | Weblog

 07年4月は3日、首相官邸で有識者による「美しい国づくり」企画会議の初会合が世界各国が注目する中、華々しく開催されたという。<同会議は、「美しい国づくり」プロジェクトの推進を表明した安倍首相の施政方針演説を受けたもの>(毎日新聞 2007.4.3)だということで、いよいよ安倍晋三は「美しい国づくり」へと着手することになったと言うわけなのだろう。それを次の12名の著名な有識者の手を借りて行う。

 <石井幹子・照明デザイナー▽井上八千代・京舞井上流五世家元▽岡田裕介・東映社長▽荻野アンナ・慶大教授▽川勝平太・静岡文化芸術大学長▽庄山悦彦・日立製作所会長▽田中直毅・国際公共政策研究センター理事長▽松永真理・バンダイ取締役▽山内昌之・東大大学院教授>(07.04.02/21:26/asahi.com)

 「美しい国づくり」企画会議の初会合でどのような意見が出たか、各メディアの記事からご拝見といく。重複部分は割愛。

◎毎日新聞2007年4月3日/「美しい国づくり:首相官邸で企
 画会議の初会合開く」
 *「遠慮を中心とした『引きの文化』を大切にすべきだ」
  など、日本の魅力を再評価すべきだとの意見が相次いだ
  。
 
◎TBS 07.4.03日21:29/「美しい国づくり」企画会議が初
 会合
 *美しい国について「日本人らしい、生活の中での所作や
  慣習を引き継いでいかなければならない」
 *日本の美しさを、国民から意見や写真などの形で募集す
  る企画について意見交換した。

◎asahi.com 07.04.02/21:26「美しい国づくり」国民運動
 に 官邸が有識者会議設置
 *「美しい国づくり」について国民から意見を募り、「日
  本らしさ」を国内外に発信するという。
 *世耕弘成首相補佐官「国民に美しい国とは何かをしっか
  り考えてもらう運動で、押しつけではない」

◎日テレ24 07・4/4 1:35/「美しい国づくり」有識者会議
 が初会合
 *安倍首相「国民一人一人が美しさを考えてほしい」
 *世耕補佐官は「日本の美しさに気づいてもらう運動にし
  たい」

◎京都新聞/井上八千代さんら委員に 政府の「美しい国づ
 くり」企画会議
 *塩崎官房長官「地域や足元から日本ならではの美しさを
  見つめ直し、日本の未来に向けて新たな可能性を国民参
  加の形で議論していきたい」

◎北海道新聞04.04. 07/「日本の美しさ」に国民の意見を募
 集 「国づくり」会議、初会合
 *安倍晋三首相「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。
  国民運動的なものにつなげていきたい」
 *委員「来年で千年を迎える源氏物語には日本の美の原点
  がある」
 *委員「すしなどの食文化や物作りを重視する文化」
 *委員「地域間で概念を競い合うのはどうか」
 *「日本らしさを漢字一文字で募ったらどうか」

◎時事通信2007/04/03-20:08
 *安倍晋三「日本中の至るところに、日本の美しさは満ち
  あふれている。そうしたものを見詰め直していく必要が
  ある」

◎西日本新聞朝刊07.04.04/政権半年また新会議 「美しい
 国」像 いまだ見えず 官邸で初会合
 *安倍心臓「日本人が古来持っている美しさ、新しく生ま
  れつつある美しさを再認識して内外に発信する必要があ
  る」
 *初会合で出された「日本らしさ」は「教科書の歴史認識
  がフェア」「敬語の文化」など十人十色。
 *世耕補佐官「1億3000万通りの『美しさ』の中で共感を
  得られるものを会議で上げて世界に発信する」
 *委員「内向き、排他的な議論になってはいけない」と注
  文が付いた

◎TBSニュース03日21:29/「美しい国づくり」企画会議が初
 会合
 *安倍首相「日本の美しさ、日本人の美しさとは何かを問
  い直していただいて・・・」
 *この会議は、安倍総理が打ち出した、日本の良さを再認
  識して内外に発信するという「美しい国づくり」プロジ
  ェクトの推進に向け、具体的な企画を検討するために設
  けられた
 *委員、美しい国について「日本人らしい、生活の中での
  所作や慣習を引き継いでいかなければならない」
* * * * * * * *
 大いに結構毛だらけ、猫灰だらけ、と葛飾は柴又の寅さんなら言うだろう。全体的・統一的な思想・哲学を基本としているわけではない。極めて個別的・項目的な羅列となっている。「遠慮を中心とした『引きの文化』」、「国民から意見や写真などの形で募集」した「日本の美しさ」、「地域や足元から」「見つめなおした」「日本ならではの美しさ」、「源氏物語」から探した「日本の美の原点」、「すしなどの食文化や物作りを重視する文化」、「日本らしさを漢字一文字で募」る、「日本中の至るところに」「満ちあふれている」「日本の美しさ」(安倍)、「日本人が古来持っている美しさ、新しく生まれつつある美しさ」(同安倍)、「フェア」だという「教科書の歴史認識」や文化だと言う「敬語」等々――そういったものを掻き集めて、「美しい国づくり」ができると心底思っているのだろうか。心底思っているとしたら、よほどの単細胞に出来上がっているとしか思えない。

 ガラクタを掻き集めるように集めて「美しい国づくり」ができるなら、何も今さら安倍晋三のお出ましを願って音頭取りして貰わなくても、誰かがとっくに「美しい国、日本」をつくり上げていただろう。特に「神の国」首相だった森喜朗なら、その「神の国」思想と美食で下っ腹がでっぷりと突き出た贅肉相応のふくよかさを兼ね備えた「美しい国、日本」をつくり上げていたに違いない。

 安倍晋三は言う。「日本人が古来持っている美しさ、新しく生まれつつある美しさを再認識して内外に発信する必要がある」。そのために12人もの人間に招集をかけた。

 だがである。安倍晋三は昨06年9月の自民党総裁選への立候補に当たって政権構想「美しい国、日本」を発表している。それによると、子供たちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」を国民と一緒に創りあげていくことを目標として掲げ、<目指すべき国のあり方として>次のようにイメージしている。

(1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
(2)「自由」と「規律」を知る、凛(りん)とした国 
(3)未来に向かって成長するエネルギーを持ち続ける国 
(4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国――だとしている。

 「目指すべき国のあり方」としてこれこれと列記した。それら項目は安倍晋三が理想とする国(=「美しい国、日本」)としてこうあるべきだとデザインした姿を言うはずである。「美しい国、日本」を実現させる具体的イメージ策なくして、あるべき姿は思い描くことは不可能なのだから、具体的イメージ策あっての政権構想「美しい国、日本」だったはずである。

 いわば安倍晋三の頭の中に具体的なイメージ策あっての「美しい国、日本」に向けた「美しい国づくり」という経緯を取らなければならないはずで、関係閣僚にそれを示して、その実現を具体化できる案を与党と計らって纏めるよう指示すれが事は済む。

 ところが「美しい国づくり」に着手するに12人もの有識者の手を借りなければならないと言うことは、安倍晋三は具体的イメージなくして理想の国の姿を思い描いたのだろうか。思い描いただけではなく、政権構想としてぶち上げた。だとしたら、何とも器用な男だ。

 どうしたら「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」とすることができるか、そのような「国づくり」に向けた具体的イメージ策を頭の中に持たずに「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」を「美しい国、日本」の骨格の一つとしたということになる。改革の具体的イメージ策もなく改革を叫ぶような器用さである。具体的な思想も哲学もなく、観念的な把え方しかできないのは自分で自分が単細胞な人間だとは気づかない人間が陥る短絡反応であろう。国の指導者であるから、余計に始末に悪い短絡反応となる。

 それ以前の問題として、民族性としての「日本の美しさ、日本人の美しさ」があると思っている単細胞はもはや如何ともし難いほどに救い難い。我々は日本人として行動するわけではない。我々が一見日本人として行動しているように見えるのは、たまたま国籍を日本とする両親の間に生まれ、自分も日本国籍を有した人間であり、集団の中で生活する関係から、その集団性(=日本人性、あるいは日本人の民族性)の影響を受けた言動(思考と行動)を取ると言うに過ぎない。

 人間は個人として行動する。いや、個人として行動しなければならない。如何なる個人も、民族という集団単位の上に位置するからだ。集団の中で行動しながら、個人として行動しなければならない。

 民族という集団は日本民族のみ、ただ一つ存在するわけではない。人間が自らが所属する民族性に支配されて個人としての行動を取れなかった場合、他の民族に所属する人間と個人対個人の公平・公正な関係構築は不可能となる。同じ日本人同士の関係に於いても、個人対個人の関係でなければ、公平・公正な関係は築くことはできない。特にグローバル化の世界では、民族性を超えることが必須条件となるはずである。

 極端な例を挙げると、自らが所属する民族の自己中心主義に支配されて個人としての姿を取り得ない人間は他の民族の個人と公平・公正な関係と築けるだろうか。戦前の日本人は日本民族優越意識に侵されていたゆえに、中国や朝鮮、その他のアジアの国々、それらの国民と個人対個人の対等な関係を持てず、常に自らを上の優越的位置に置いた関係しか築くことができなかった。「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有スル」とする行動を取り、その美しい果実が業者だけではなく、天皇の大日本帝国軍隊も関わった強制従軍慰慰安婦行為や強制連行労働、あるいは南京虐殺であろう。

 個人として行動するとは、自律的存在として行動することを言うはずである。さらに自律とは、自らの行動を他者の意志・判断に支配されることも依存させることもなく、責任意識を付き纏わせた自らの意志と判断に従って、自らが自らを律する主体性を持って行動する態度を言わなければならない。

 逆に個人としての自律を獲得できない行動を取ったとき、人間は会社や国家、あるいは最上位の民族といった集団性に支配された行動を取ることになる。
 
 例えば、日本人は責任を取らない、無責任体質だと、それが日本人の一般性(=日本人性)とされているが、それは集団を優先させてその中に個人を埋没させることで個人を非自律的存在としていることからの責任の個人から集団への拡散が起因した民族性・日本人性に支配された無責任性であろう。

 とすると、「日本の美しさ、日本人の美しさ」を優れた価値として、それを「再認識」させようとする安倍「美しい国づくり」企画会議は、「再認識」なる意識作用が認識した価値を〝受容〟する、あるいはさせる最終プロセスによって完成することから、「日本の美しさ、日本人の美しさ」を以って日本人性・民族性とし、そのような日本人性・民族性の価値体系に国民を統一しようとする動きであり、そのことはそのまま個人を安部自身が創り出した日本人性・日本民族性に支配しようとする国家主義の衝動からの「美しい国づくり」と言うことにならないだろうか。

 その証明として安倍晋三首相の「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。国民運動的なものにつなげていきたい」を挙げることができる。

 「満開の桜」は日本の風景を美しく彩る一つのアイテムではあろうが、〝日本〟という国そのものの美しさを表す存在物でも象徴でもないし、日本人という国民の美しさの現れとし存在するわけでもない。多分、安倍晋三は桜の美しさをその美しいままに日本人及び日本民族の精神に投影したい欲求を抱えているのだろう。日本人及び日本民族が桜の美しさと等しい美しい精神を獲得したとき、「美しい国、日本」は完成すると。

 だが、桜の美しさを人間の絶対的、あるいは永遠の精神的価値とすることが可能などと考えることは人間が利害の生き物であるという基本認識を忘れることによって可能となる誇大妄想に過ぎない。しかも不可能な価値観で日本人・民族の統一を図ろうとする。当然自由な個人性は否定され、戦前の日本人の精神を天皇主義・軍国主義で統一し、総動員したように何らかの国家主義的イデオロギーを必要とする。安倍主義と名づけることとなる国家主義的イデオロギーが。

 安倍晋三は間接的にだが、「桜」に関わる発言を過去にも行っている。

 <「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、何といって、散っていったのだろうか。(略)死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」(『美しい国へ』)
 「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)>(ONLY NEWS 「【総裁選】「語録」から見る安倍新総裁  靖国、歴史、改憲、核」)

 日本という国を守り、日本を美しい国とするためにはかつての特攻隊員のように「国のために死ぬ」国民、「命を投げうってでも守ろうとする」国民の必要性を訴えているいる。特攻隊員に譬えたのだから、それは戦前の「天皇のため・お国のために命を捧げる」行為への要求であり、それを以て愛国心とするということでなければならない。こういったことが安倍晋三の意識の中にある国民のありようなのであり、「美しい」国家なのである。

 特攻隊員は死を以って「天皇のため・お国のために命を捧げる」自らの行為を桜の散り際のよさと関連づけて、そのように潔くあろうと心の支えとした。

 「山桜は、かつて(戦前)は、愛国心の象徴とされた花で」、神風特攻隊の最初の4部隊が、本居宣長の和歌である「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」から取って、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられと、『ヤマザクラ(山桜)』というHPに出ている。

 それ程までにも特攻隊員と桜、あるいは「大和心」(=大和魂)と桜は精神的に密接に結びついていた。結びつけることで、双方を優越的な価値に置いた。当然、安倍晋三は特攻隊員の生き様を国民のあるべき姿として持ち出すことで、その象徴たる「桜」を間接的に持ち出していたと言える。

 安倍晋三の愛国心とはそういう愛国心だということである。

 本居宣長が言う「大和心」(=大和魂)など日本人が押しなべて一律的に持っているわけではない。持てるわけでもない。一人の人間が「大和心」を発揮したとしても、一生を通して発揮できる精神性でもない。人間は自己利害に応じて態度を変えるからだ。

 日本の軍隊は戦前の予科練(海軍飛行予科練習生)の同期生をも桜に譬えている。「同期の桜」としてつくられた「作詞西條 八十・作曲大村 能章」の軍歌の1番の歌詞を見てみる。

「貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
見事散りましょ国のため」

 かくかようにも桜は愛国心とも密接に結びついている。戦前国家主義者の安倍晋三の国家主義的心情と桜の花が結びついていないはずはない。安倍晋三の「満開の桜も一つの日本の美しさの象徴。国民運動的なものにつなげていきたい」に於ける「桜」にも、特攻隊員の桜と散る心情(=戦前の愛国心)が染めこまれていると見て間違いはない。

 『日本史広辞典』(山川出版社)から「さくら【桜】」の項目を見てみる。

 「バラ科サクラ属サクラ亜属の落葉樹。日本を代表する花。奈良時代から植栽されているが、詩歌での扱いは梅が圧倒しており、中世に逆転する。名所としては奈良時代以来吉野が有名。桜が日本原産であるとする考え方は、江戸時代になって現れ、さらに日本にしかないという解釈にいたる。この見方は、明治以降のナショナリズムと結びつき、教育の現場を通して軍国主義を支える観念となっていった。」

 「桜が日本原産であるとする考え方は、江戸時代になって現れ、さらに日本にしかないという解釈にいたる」とする桜の美しさを日本だけのものとし、その美しさを日本人・日本の国に当てはめて美しいと譬えることで日本人・日本の国を優越的位置に置く独善的な思い込みは、「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」の和歌を通して「大和心」(=大和魂を備えた日本人)を桜の美しさに譬えてその優越性を謳った本居宣長一人だけのものではなく、日本や日本人に限った「日本の美しさ、日本人の美しさ」を掻き集めてそれぞれを優越的な位置に置き、それを多くの日本人が共有することで「美しい国づくり」が可能とすることができるとする独善的思い込みに通じるものがある。

 いや、「日本にしかないという解釈」が出発点となった「日本の美しさ、日本人の美しさ」が固定的にあるとする「美しい国、日本」なる「美しい国づくり」という思い込みなのかもしれない。

 「日本の美しさ、日本人の美しさ」はこれもそうだ、あれもそうだ、こんなものもある、あんなものもあると言い立てていって、日本の社会に「日本の美しさ、日本人の美しさ」のオンパレードで溢れ返らせたなら、日本に住む外国人、特に自国の文化を保とうとするイスラム系の人間や韓国・北朝鮮系、あるいはその他は俺たちには住めないのではないかと肩身を狭くするのではないだろうか。

 戦前に於いて「天皇のため・お国のため」を統一的な国民的価値観にしたように、「美しい国づくり」企画会議が炙り出したり、新たに創り出したりした「日本の美しさ、日本人の美しさ」を多くの日本人が統一的国民的価値観とし、同質性を露にしたとき、「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国」だとした伊吹文部科学相発言を側面から補強することにもなるに違いない。そこから当然のこととして、同じ伊吹発言である「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」とする、例えそれが事実だとしても、その事実に透けて見える優越意識と重なり合いを見せることになる。

 最後に夏目漱石の「三四郎」の中の、三四郎が旧制高校を卒業して東京帝大に入学するために初めて上京する汽車の中での広田先生と出会って言葉を交わすシーンを引用してみる。

 広田先生「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより以外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったもんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない」

 富士山を桜に置き換えるとよく分かる。「三四郎」は1908(明治41)年発表だという。安倍首相の頭に取り憑いている発想と当時の日本人の発想と殆ど変わっていない。いや、それ以前の江戸時代の人間とも変わりはないのでないか。

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