国家主義的視野狭窄からの少年法改正

2007-04-21 08:29:06 | Weblog

 子供は親の背中だけ見て育つわけではない

 04年4月19日朝日朝刊≪少年法改正、今国会成立へ 与党修正案を衆院法務委可決≫

 主な内容は――
①刑事責任を問えない14歳未満の少年について任意の事情聴
 取しかできなかった警察に押収・捜索など強制調査権限を
 与える。
②おおむね12歳以上の少年を、家裁の判断で少年院に送致で
 きる。
③法改正は長崎県佐世保市で04年に起きた小6女児の同級生
 殺害事件などがきっかけ。
④政府が提出した法案の眼目は、「将来罪を犯す恐れのある
 虞犯(ぐはん)少年」を調査対象にすることと少年院送致
 の下限年齢(14歳)の撤廃
⑤上記2点について、今国会では野党だけでなく、与党から
 も「定義があいまいで乱用の危険性がある」「福祉の観点
 がおろそか」などの慎重論が出ていたが、18日(07年4月) 
 の衆院法務委員会で与党の強行採決により、可決、今国会
 で成立する見通し。

 「虞犯少年」とは、「その性格・行動・環境などに照らして、将来犯罪於かす恐れのある20歳未満の男女」(『大辞林』三省堂)となっている。

 「おおむね12歳以上」とはケースに応じて自由裁量が許されるということだろう。10歳以下を送致して、寛容性なき美しい国家主義国家としてギネスブックに記録されるのも「美しい国づくり」には役に立つかもしれない。

 上記与党の法案が国家主義的視野狭窄からの内容だと言うのは、少年犯罪の凶悪化・低年齢化のみに目を向けて、教育全体・社会全体に目を向けるだけの思想を持てず、国家管理による厳罰化の方向にのみ目を向けた思想を背景として成り立たせているからである。

 要するに子供たちのありようだけを見て、大人のありようを見ることができない半端な客観的認識性が仕向けた管理一辺倒・国家管理意志が法の形を取ったに過ぎない。

 そのことは安倍首相のコメントを見れば分かる。<18日夜、「残念ながら、最近、少年による犯罪が凶悪化している。被害者の方々のお気持ちも踏まえれば、やむを得ない」と首相官邸で記者団に語った。>(2007年4月18日22時31分 読売新聞)

 「少年犯罪の凶悪化」のみに目を向けて、そこからたいして足を踏み出せない視野狭窄の発言となっている。せいぜい「被害者の方々のお気持ち」までである。〝なぜ〟という視点が一切ない。なぜ、少年犯罪は凶悪化しているのか、低年齢化しているのかという視点である。
 
 この〝なぜ〟は教育に関わっている。となれば、教育関連の法律を整備してから、それとの関連を持たせた少年法にかかるべきで、原因追究と解決方法の模索なし、教育要素は「少年院送致」という名の後付けの対症療法のみの厳罰化に過ぎず、順序も込めるべき思想内容もズレたものとなっている。

 もっとも安倍式教育関連3法案を成立させたとしても、少年法改正案に必要とされる教育思想を込めることもできないのだから、相変わらず国家主義者ならではの国家管理を主体としたハコモノ(=形式)で終わるのは目に見えている。言葉を駆使することで〝形式〟は立派に装うことができても、込めるべき中身の思想・哲学が空疎なものだから、形式(あるいは規則)に応じたり、形式(あるいは規則)に応じさせることはできるだろうが、形式(規則)を超えて、主体的にあるべき姿を獲ち取っていくだけの自覚性の糧とさせるところまではいかないだろう。管理・規則だけで、糧となる思想・哲学が最初から存在しないからだ。

 アメリカ教育使節団の提言で纏められた1947(昭和22)年3月31日公布の戦後教育基本法の精神に添って画一的・中集権的戦後教育の反面教師としての内容を込め、主体的な自律性の獲得を求めて同じ年に定められた学習指導要領を、その精神を裏切って、1958年に文部省告示とすることで国の基準として法的拘束力を持たせる改正を行っている。その結果、全国一律性による画一化への回帰、中央集権化への回帰、いわば戦前日本への回帰の姿を取り、その姿のもとで様々な学習指導要領改訂や政策を通して教育を改革してきながら、それらが教育の荒廃にのみ役に立ったのも、戦後一貫して自民党教育政策が生徒の中身まで届かない画一・中央集権の色彩を持ったハコモノ(=形式)で終わっていたからだろう。

 子供は親の背中を見て育つ。誰でもがそう言う。

 しかし親の背中だけ見て育つわけではないことにまで思い及ばない。家族の間では親だが、社会にあっては、親は一般の大人としての地位を占める。大人の姿を取る。親であると同時に社会一般の大人としての背中を持つ。画然と分けることはできない。否応もなしに社会と家庭は密接につながっている。社会が情報化へ進む程に家庭は社会との境界を失っていく。

 子供は小学校にも入れば、家庭と小学校、それに登下校のエリアだけを自分の世界としていいるわけではなく、自分や友達の家からテレビ、漫画、インターネットその他とつながった様々な社会を間接的にだが、自分の世界とする。

 そこでは親とは違うたくさんの大人がおり、それぞれの背中を見せている。例えば学校の教師は情報が未発達な時代では、ほぼ自分が通う学校にのみ存在する大人であったが、現在の情報時代に於いては自分の学校にのみ存在しているわけではなく、新聞やテレビ、漫画・雑誌を通して窺うことのできる様々な社会にも存在していることを知っていて、彼らの背中からも無意識的、あるいは自覚的に様々なことを学んでいく。

 自分の父親についても言えることだが、学校の教師しか知らない時代は、ほぼその背中しか知らなかったから、その背中がすべての位置を占めていたために学校の教師が口にすることの多くを無考えに素直に受け入れることができた。だが一般社会に存在する様々な教師の背中まで見てしまうことになって、それとの比較で学校の教師の背中を否応もなしに見るようになっている。背中を見るとは、背中を判断するということでもあろう。

 教師の背中を判断し、親の背中を判断する。大人の背中を判断する。そして新聞やテレビといった社会の情報が率先垂範して伝える学校教師だけではなく、政治家や官僚まで含めた社会一般の大人たちの背中は殆どが既に如何わしさと胡散臭さに彩られたものとなっている。

 社会という場で如何わしいばかりに胡散臭い背中を見せている大人たちが家という場で親でございますといった顔をして親らしく見せた背中を子供に見せたとしても、そのように親を装った背中を子供は社会の親や大人の持つ背中との比較から、形どおりには受け取らない。親子の対話の欠如は、親の背中を知ってしまったことへの拒絶反応ではないだろうか。あるいはもっと直線的に、親の背中への拒絶反応としてある会話拒否ではないのか。

 安倍以下の国家主義者たちが、「教育は親の責任」だとか、「家庭の教育は大切だ」とか言って国家の思うままに上からの規則で管理しようと衝動するのではなく、子供が見るに耐える、あるいは学ぶに耐える背中を親が持つべきであるし、そうするには社会にあるときの背中と家にいるときの背中に首尾一貫性を持たせなければならない。社会で見せている如何わしい背中を家で取り繕って親でございますと装っても、社会の情報がその化けの皮剥がしを手伝ってしまう。

 例えば、女子高生のスカートの中を盗撮しようとして学校の教師が逮捕される事件がマスコミによって大きく報道されれば、中学校や高校の生徒ともなれば、自分たちの学校の先生を逮捕された教師と重ねて見ることになるだろう。女子生徒に何気なく向けた目であっても、いやらしい目で見たということになりかねない。

 中学生や高校生でなくても、小学生のうちから、はっきりとした答を見い出すまでには至らなくても、親の背中・大人の背中を何気なく感じ取る感覚、嗅覚を備えているだろう。まだ子供のうちだから気がつかないだろうと、家でも子供の前で胡散臭さを曝け出しようものなら、子供は何となく感じ取った胡散臭さの影を引きずって年齢を重ね、何年もたたないうちに社会の情報の助けを借りてそのことにはっきりとした回答を与えることになるだろう。子供が年齢を重ねると共に情報の世界が広がり、嗅覚が鋭くなっていくのに対して、親も胡散臭さを重ねて俗物化していくから、いくら美しく装うとしても見破られやすくなるということもあるに違いない。

 この社会は初期的には大人がつくり出している。子供がつくり出すはずはない。大人の産物として社会はある。そして子供の姿も大人の姿がつくり出している。背中ということで言えば、子供の背中は大人の背中の産物として存在する。

 勿論、大人の背中から子供の背中への一方的な反応で終わるわけではなく、大人の背中の影響を受けてつくられた子供の背中のありようの影響を大人の背中も受けるようになり、相互反応の形を取る。

 今回の与党の少年法改正案も、大人の背中がつくり出した子供の背中であるにも関わらず、子供の背中のみに反応して、いわば大人の背中は無視してつくったものだろう。それゆえにハコモノ(形式)の宿命を授かることになっている。

 子供の背中が社会のルールに反する背中であった場合、大人たちが協力してつくり出した背中であることに気づかずに、自らの背中を修正せずに子供の背中だけを修正しようとすると、当然物理性を持った強制力として子供の背中に働きかけることになる。

 子供は親の背中を見て育つという子の感性と、そう仕向ける親の感性とがお互いに反応し合ってそれぞれの背中を形作る相互力学に反する一方的力学のみをつくり出すからだ。いわば、親の背中、社会の大人の背中を見ずに育つことは不可能なのに、その背中とは異なる育ちようをしろと不可能を強制するようなものである。

 大人がこの社会をつくっている以上、子供の教育は親の責任ではなく、大人の責任としなければならない。親の責任とするのは、政治家や官僚の責任逃れの発想に過ぎない。国の過ち、あるいは国の教育政策の過ちはなしとしたいからだろう。

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