年金記録消失/安倍首相の言う「私にすべての責任がある」は見せかけ

2007-06-06 07:59:51 | Weblog

 政権交代がないことが政治家・官僚の緊張感を失わせている

 安倍首相が内閣支持率バカ落ちにたちまち浮き足立ったらしく、年金記録消失問題の責任は民主党の菅直人にあるとなり振り構わぬ責任転嫁戦術に出た。

 <安倍晋三首相は2日、大津市で講演し、公的年金の納付記録漏れ問題の責任は民主党の菅直人代表代行にあると強調した。「(記録漏れを起こした)システムをつくった時の厚相は、いま口を極めて自民党を攻撃している菅さんだ」と表明。そのうえで「与野党で争っているときではない。互いに非難し合うのは無意味で非生産的だ」と民主党の動きをけん制した。>(≪首相、年金問題で民主をけん制≫(日本経済新聞/2007年6月2日/一部引用)

 事実菅直人に責任があろうと、非難して解決するわけではなく、責任追及と年金記録消失問題の解決とは別枠で扱わなければならない事柄であろう。いわば講演での非難が年金記録消失問題解決に向けていくらかの意味があって生産的な前進要素となるわけではない。

 そこまで考えが回らずに菅直人を非難する「無意味で非生産的」なことをしておきながら、「与野党で争っているときではない。互いに非難し合うのは無意味で非生産的だ」はやっていることと言うことが正反対に違う言行不一致をさらけ出すもので、要するに自身をきれいに見せる口先だけのレトリックに過ぎないことを証明している。

 国民の自身に向けられた不人気を少しでも菅直人の方に振り向けて支持率低下を押しとどめたい願望にも促された責任転嫁なのだろう。

 「無意味で非生産的だ」は安倍晋三のお得意の決めゼリフとなっているが、そう言える資格は意味があり生産的な行いをしている人間のみに限定されるが、そのルールを巧妙に利用して、さも自分がそういった人間であるかのように見せかける誤魔化しなのは、これまた安倍晋三の属性としている数々の言行不一致が証明している。

 言行不一致の最大にして象徴的な例は自身が任命責任を以って採用した閣僚、例えば松岡利勝といった人間の規範意識を問わなかったのだから、規範意識を云々する資格はないはずだが、「すべての子供に高い学力と規範意識を身につける機会を保障するために公教育を再生する」といった教育政策を公約に掲げて「規範意識」を云々する「美しい国づくり」を目指す美しい政治家にふさわしい美しい二重基準に的確に現れている。

 企業ぐるみの犯罪とか企業ぐるみの不正といった言葉があるが、菅直人責任転嫁は安倍首相一人だけの美しい仕業ではなく、自民党ぐるみの責任転嫁となっていて、そのことが朝日新聞のインターネット記事に(asahi.com/07.06.05/02.≪首相、年金を争点化 「正面から取り上げないと勝てぬ」≫に出ている。

 <自民党は先週末、年金記録問題についてチラシを作成し、都道府県連などに発送。チラシでは「基礎年金番号設計・導入時の厚相は菅直人・民主党代表代行」と批判している。
 しかし、菅氏が厚相だったのは橋本内閣時代で、菅氏の後任の厚相は小泉前首相。責任転嫁ともとれる宣伝戦術に自民党内からも「かえって世論の反感を買う」との声が噴出。森元首相は4日の大阪市の講演で「自民党もみっともない」と批判。首相が演説などで菅氏批判を繰り広げたことについても「総理も一緒になってそんなことを言い出している」と不快感を示した。
 このため、自民党執行部内にはチラシを作り直すべきだとの意見も出始めている。>(一部引用)

 こういった自民党ぐるみの責任転嫁こそが「意味があり、生産的」な参院選の勝利に向けたなりふり構わぬ自民党らしい美しい選挙戦術なのだろう。

 TBSテレビで安倍首相の非難に対して菅直人が「基礎年金番号の導入を私の名前で決定したが、私が厚生大臣を辞めた後、小泉純一郎厚生大臣の下で、基礎年金番号の実際の付与が行われた」といったことを言っていた。
  
 安倍首相は国会で民主党山根隆治議員の「先日の党首討論で我が党の小沢代表質疑に対して安倍総理の答弁は責任逃れに終始しておりました。国民は最終責任者であるあなたに責任を求めているのであります――」との質問に、「政治のトップは私である以上、その責任はすべて私が背負っていると明確に申し上げております。政治の責任者として国民の皆様に大変申し訳ないとの思いでございます」(TBS≪みのもんた朝ズバッ≫07.6.4)と答えているが、「政治の責任者として国民の皆様に大変申し訳ないとの思い」、これも口先だけの反省だろう。これだけのことを言うのに、原稿を読み上げていることがその証拠の一つとすることができる。

 「政治のトップ」が責任のすべてを背負うとするなら、菅直人が厚相だったときの「政治のトップ」だった橋本龍太郎元首相のより大きな責任を言うべきだが、それを言わずに菅直人一人を非難するのは、やはり言っていることとやることの違いを示すもので、安倍首相が性格として抱えている言行不一致の現れとしか言いようがない。

 また、年金記録消失だけではなく、歴史・伝統・文化と化した社保庁のムダ遣い、杜撰で無責任な職務態度・非生産性、私益行為等々は歴代首相のそれぞれが自らの任務として果たすべき最終的な管理・監督の責任を負ってこなかった結果でもあるから、「政治のトップは私である以上、その責任はすべて私が背負っている」はそこまで思い致すべき言葉でなければならない。

 そうなっていないのは民主党やその支持母体の一つである労組を非難はしても(「(社会保険庁職員の多くが所属する)自治労が民主党の支持母体であり、焦点をずらして社保庁が解散させられるのを避けるためだ」森元首相首相)(≪年金問題で民主をけん制≫日本経済新聞 2007年6月2日)、「最終責任者である」歴代首相を輩出してきた自民党政治全体が負うべき責任でもあるとする意識がどこにも見えないことが証明している。勿論森元首相も「最終責任者」の一人なのは言うまでもないが、その意識は上記言葉にはぜんぜん見えない。「政治のトップは私である以上」云々も美しい口先だけの言葉だということである。

 また言行不一致は自分が発する言葉に責任を持たない人間がよくする特技・ウルトラCであろう。自分の言葉に責任を持とうと心がける人間にはとても真似はできない安倍流言行不一致である。

 安倍首相が自分の言葉に責任を持たずに言行不一致を平気で犯す人間だから、安倍首相や首相と同じ穴のムジナたちの言う〝責任〟は、間違いや不正を行って露見した場合のその始末をつける〝責任〟のみとなっていて、立場や地位に与えられ、果たすことを期待されている任務・使命を自らに課せられた義務として全うする〝責任〟とはなり得ず、そこから起きている数々の腐敗・支障・失態の類であろう。

 松岡全農水相にしても、政治家として後者に於ける倫理的に潔白でなければならない〝責任〟を果たしていなかった。

 社保庁も同じで、自分たちに与えられている任務・使命を全うすべき〝責任〟を一つ一つ果たしてこなかったことの積み重ね、あるいはツケが今日の「年金記録消失」であり、その他の不正・不祥事の類であろう。いわば先に置くべきは役目上の義務を全うする〝責任〟なのだが、先に置いていないから、顔を覗かせなくてもいい後始末をつける〝責任〟だけが顔を覗かせることになる。

 つまり仕事上の与えられ、期待されている任務・使命を果たす〝責任〟をないがしろにした結果、その始末をつける〝責任〟が生じるのであって、任務を果たす〝責任〟を全うしていたなら、まずは生じない後始末をつける〝責任〟なのである。それをきちんと押さえて役目を果たそうと意志していないから、後始末をつける〝責任〟だけがのさばることになるし、そもそもから役目上の責任を果たそうとする強い意識がないから、後始末をつける責任さえも満足に果たそうとせず、責任転嫁や無責任行為がのさばることになる。そういったことを安倍首相も演じているに過ぎない。

 例え責任を取ることとなっても、立ち上がって雁首を揃えて頭を一斉に下げるといった形式的な謝罪や取り繕いの責任の取り方の主流に追随するだけとなる。

 責任として課せられた任務・使命を形式でやり過ごし、生じた混乱の責任を形式的な謝罪や取り繕いでやり過ごす。一次的な責任の形式に対応する二次的な責任の形式として顔を向き合わせることになる。

 安倍は富士山と同じ。遠目には美しく見えたとしても、その登山道はポイ捨てのゴミの山で醜く汚れている。選挙の顔としては外見(そとめ)にはもっともらしく見えるが、あるいは美しく見せようともっともらしげな言葉をあれこれと駆使しているが、口先だけの責任や言行不一致といった人目につかない欠陥を隠しようもなくさらけ出すこととなっている。

 前にも言ったことだが、政権交代がないことが政治家・官僚の緊張感を失わせしめ、自らに与えられ、期待されている任務・使命をそれぞれの責任行為とする厳しい態度を取らせないでいる。

 選挙や支持率のためにのみ目の色を変える政治家にしている。天下りや私益のためにのみ血眼となる官僚にしている。 

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