ヤンキー先生が天下の自民党から参院選比例代表候補として出馬が決定。年金記録不祥事や偽装コロッケ、跡を絶たない殺人事件、元高検検事長や元公安調査庁長官を歴任した人間の朝鮮総連絡みの土地と建物の詐欺取引といった明るいニュース続きの中、ひときわ明るい、珍しく日本の将来に希望を抱かせるニュースではないか。
2007年6月25日の「デイリースポーツ」インターネット記事がヤンキー先生の出馬の抱負を伝えている。
≪ヤンキー先生”参院選出馬を表明≫
<「ヤンキー先生」として知られる義家弘介氏(36)は25日、自民党本部で参院選比例代表候補として出馬することを正式に表明した。
安倍晋三首相の出馬要請を受け、自民党公認での出馬。「教育再生を実現させるために全力を尽くしてほしい」と握手を求められ、「子供たちを守るためなら、人生をかける決断に何の躊躇(ちゅうちょ)もない。子どもたちや頑張る教師を応援するため、自分が肌で感じてきたことを生かしたい」と応じた。
選挙対策小委員会は候補擁立作業の終了を確認。23日に立候補取りやめを表明した大仁田厚参院議員(49)に関しては正式な連絡を待って公認を取り消す。 また出馬に伴い辞任した教育再生会議有識者委員の後任には、「オール1の落ちこぼれ、教師になる」の著書で知られる愛知県の私立豊川高教諭の宮本延春氏(38)が決まった。>
「子供たちを守るためなら、人生をかける決断に何の躊躇もない。子どもたちや頑張る教師を応援するため、自分が肌で感じてきたことを生かしたい」
何とも心強い、勇ましいことこの上ない希望に満ちた抱負だろうか。さすが異色の経歴の持主、ヤンキー先生と騒がれるだけのことはある。年も若いし、色黒のスポーツマンタイプ、イケメンときている。言うことがハキハキしていて、気持ちがいい。無党派層の若者の票をガッポリと惹きつけるのではないだろうか。安部晋三、してやったりといったところか。
あくまでも「子どもたちを守るため」の政治家転身であり、票寄せパンダのためでもなく(そう言えばどことなくパンダに顔が似ている)、議員で安泰の人生を送ろうなんていうケチな考えからの出馬ではさらさらないというわけである。
だが、古い自民党に無党派層の若者を惹きつけるとは逆説的で怪談話じみているが、ヤンキー先生こと義家弘介自身が古い自民党のかび臭い空気を吸って育ったような古い血を自らの血液としているらしい。
多分当選を経てたいした時間の経過を待たずにヤンキー先生は自民党との似通った相互の体質が溶け合うように馴染み合ってそれを自らの保護色とし、物理的な顔の違い以外の政治スタイルとかは区別はつかなくなって将来を嘱望される立派な自民党議員となるに違いない。
ヤンキー先生が自民党議員と変わらない、戦前型とも言える古い体質の考えの持主なのは07年5月10日『朝日』朝刊記事、≪「携帯持つ前に道徳教育を」 99年「教育の形を壊した年」 「ヤンキー先生」国会で持論強調≫が何よりも証明している。
<道徳教育は子供が携帯電話を持つ前に――。政府の教育再生会議のメンバーで「ヤンキー先生」として知られる義家弘介氏が9日、国会内で講演し、こう強調した。6月初めにまとまる同会議の第2次報告では、「子どもと携帯」も論点の一つになりそうだ。
義家氏は携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった1999年を「日本が連綿と守ってきた教育の形が崩壊した年」と指摘。大人が情報を分別して、有害なものを子どもから遮断できた時代から、子どもが直接、携帯から『出会い系』『自殺奨励』などの有害サイトに触れられる時代になった」と説明した。
そのうえで義家氏は「子どもが携帯を手にする前、0歳から10歳くらいまでに、道徳心を叩き込まなくてはならない。それ以後はどんな道徳の教えも意味をなさない」と断言。幼児~小学校低学年での道徳教育の重要性を強調するとともに、道徳の「教科化」も訴えた。>
この講演を聴いて戦前並みの道徳教育を押し付けたくてうずうずしている頭の古い自民党議員で涙を流さなかった者がいただろうか。中には早トチリして、安倍後継はこれで決まった、時機を見て衆議院に鞍替えすべきだと内心小躍りした者もいたかもしれない。
道徳教育であろうと他のどんな教育であろうと、暗記教育型の「叩き込む」形式であっては自律(自立)を阻む道に進むだけだろう。「叩き込」もうとする上からの力が従属を強いる力となって働き、そのことに応じた表面的な従属でやり過ごせるから、現在と同様にそういった傾向の人間の大量生産に向かうことはあっても、自ら学ぶ形式、自ら身につけていく形式には向かうことはあるまい。
それを従属人間をつくるだけの外から「叩き込」む道徳教育を目指している。それも「0歳から10歳くらいまで」の間で、「それ以後はどんな道徳の教えも意味をなさない」となると分別能力がまだ固まっていない年齢だから、勢い今まで以上にこうしなさい、ああしなさい、あるいはこうしてはいけない、ああしてはいけないといったスローガンの強制の度合いを強めることとなり、強制に対する同じ度合いの従属を誘導する懸念のみが生じ、現状に於いてただでさえ不足している自ら考え、自ら納得して判断するプロセスを頭から排除することとなって、その機会をゼロに近づけることになるに違いない。
ヤンキー先生は道徳教育の押し付けという点で古い自民党と似ているというだけではない。客観的合理性も何もない自らつくり上げた虚構をさも事実であるかのように振り回して、それを素晴らしい独自の主張であるかのように何ら恥じらいもなく、正々堂々と平気で言えるところが安倍首相を筆頭とした古い自民党の面々と一卵双生児並みに親近的で区別がつかない。
<義家氏は携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった1999年を「日本が連綿と守ってきた教育の形が崩壊した年」と指摘。>
「日本が連綿と守ってきた教育の形」がどんなもので、それが「携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった」ことによってどういうふうに「崩壊」したと言うのだろうか。
1999年が日本の伝統的な教育が「崩壊した年」とするなら、それ以前は道徳教育は有効だったことを意味する。その割には政治家・官僚・企業人の犯罪・コジキ行為が続出するのはなぜなのだろう。そこまで答えてくれないことには、合理的は主張陳述とはならない。ならないのにさも立派な主張陳述だとしているところが、また古い自民党政治家とそっくりなのだが、生きた世代、育った世代が異なるのに、この古い体質の点で同等・同質というのは世の中のどのようないたずらのなせる技なのだろうか。
また日本が世界に誇るハード・ソフト含めた携帯電話技術が日本の教育を壊したことになって、その逆説性はどう説明したらいいのだろうか。
それとも新聞記事に書いてないだけのことで、講演では具体的に説明したのだろうか。いや、「日本が連綿と守ってきた教育の形」とは日本人が行動様式・思考様式としている権威主義に則った暗記教育であり、その崩壊は喜ぶべき現象でこそあれ、憂える点は何一つない。現在でも基本のところでは権威主義的暗記教育は厳然として守られているにも関わらず、その事実を無視して「1999年」と区切って「崩壊した」としている。
また「1999年」を遡ること10年以上、1980年代以降の校内暴力、学校崩壊、あるいは学級崩壊が叫ばれた教育荒廃状況はどのような「崩壊」に入るのだろうか。
確かに「携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった」ことによってインターネットからいわゆる有害情報が手に入れやすくなったし、出会い系サイトを利用した未成年者の男女交際が手軽に行われるようになったが、自然な出会いではない、顔も名前も知らない赤の他人が手軽に出会い、手軽に男女関係を愉しむといった援助交際の類は1980年代から存在し、当初は雑誌の広告といった情報を介して行われていたのであって、「携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった」こととは関係のない「1999年」以前の社会現象である。
そのような援助交際の一形態として、性の低年齢化を受けた現象なのだろう、女子高生の援助交際(いわゆる援交)が世間を賑わしたのは1990年代後半ということだが、その方法は渋谷などの繁華街に屯している女子高生に女子高生コンプレックスというか、女子高生フェチと言うか、中年のオジサンが声をかけて商談に入り、相手が納得する金額で一度限りの交際か、相手の希望で1ヶ月いくらの契約で何回か交際するスタイルを主としたもので、最初のキッカケはすべてではないとしても、その多くは携帯を手段としていなかったはずだ。多分、それぞれが何を求めているか、双方の視線を情報源とした、一方は手軽な小遣い稼ぎの男女交際だったのだろう。
未成年の若々しい肉体を与えるだけで手軽にたくさん稼いだ小遣いでブランド品を買い、身につけて自らの勲章とする。
また携帯が普及する以前から有害な情報はヌード雑誌や性的描写が露骨なマンガや少女マンガを介して未成年者は手に入れようと思ったら手軽に手に入れることができていたのであり、「携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった1999年」以前の時代にしても決して「大人が情報を分別して、有害なものを子どもから遮断できた時代」であったわけではない。事実誤認もはなはだしいし、耐震強度不足の高層ビルを建てるようなもので、それが「自分が肌で感じてきたこと」からつくり出したものであっても、事実誤認の上に有効な対策(政策)は生まれようがない。
かつては「ポルノ雑誌やポルノビデオ、テレビの低俗番組から子どもたちを守ろう」という母親たちの悪書追放運動なるものが存在した。過激過ぎるヌード雑誌などの自販機販売を禁止することができたが、それが未成年者たちの性を遊びとする風潮にどれ程に役に立ったのだろうか。大人たちの〝情報の分別〟が有効でなかったことの結果が今の若者たちの性風俗であろう。
「携帯が普及し、ネットへの接続サービスが始まった」ことはより手頃化した、それゆえに主流化した一つの手段に過ぎない。「携帯」や「ネット」がなければないなりに、〝遊びの性〟は工夫され、絶えることなく続いていただろう。
そしてそれは戦前だけではなく、戦後も一部の地域で〝夜這い〟という形で存在していた。決して戦後のアメリカ文化の移入以降始まった時代風景ではない。それが社会の性情報の氾濫を受けて次第に低年齢化していったということだろう。
そもそもからしてヤンキー先生は客観的合理性を欠いた事実誤認の上に自らの主張を成り立たせる過ちを犯して得意然と講演をぶったに過ぎない。このように人間の姿や社会の姿を読み解く目が鈍感な点も、安倍首相やその他自民党の頭の古い面々と近親相姦をなすもので、当選以降、急速に自民党議員化していく要因となるだろう。
事実誤認の上に有効な対策(政策)は生まれようがないと言ったが、こういった欠陥(=客観的合理性の欠如)が日本の教育を荒廃させている主たる原因ではないだろうか。
「子どもが携帯を手にする前、0歳から10歳くらいまでに、道徳心を叩き込まなくてはならない。それ以後はどんな道徳の教えも意味をなさない」
道徳とか規範とかは社会に生きながら、子どもなら家庭や学校社会に生きながら自ら学び取っていくもので、「0歳から10歳くらいまで」に教えなければならないとは限らない。それまで過つことはなかったにも関わらず、大人になって人の道を過ち、人の道を踏み外すのは、元公安調査庁長官・緒方某を引き合いに出すまでもなく、大人として生きながら学び取ることができなかったからで、道徳教育や規範教育が年齢に関係なしに引き続くことを示している。
客観的認識能力のお粗末な点では何とも頼もしいヤンキー先生ではあるが、だからこそ自民党から出馬するだけのことはあると言うべきなのだろう。