安倍内閣の法案強行採決が続いている。教育基本法改正法案、防衛省昇格法案、少年法改正案、国民投票法案、年金時効特例法案、そして昨6月20日(07年)の改正イラク復興支援特別措置法と教育改革関連3法案等々・・・・・。
こうも次々と法案を強行採決し、成立を図る。だが、このことはやろうと思えば安倍晋三でなくてもできる数の力が可能とする法案成立の実績に過ぎない。法案が目指した思想・哲学の社会的成果に向けた創造性ある実践が伴わなければ、法律は単なる文言、ハコモノで終わる。それだけで終わるなら、赤字保養施設で終わることとなったグリンピアの全国各地への建設と何ら変わらない。
森内閣時代の2000年12月に纏めた「教育改革国民会議」は「17の提言」を行い、提言の具体化をその後の教育政策で試行錯誤を試みたはずだが (試みなかったとしたら、何のための提言か意味不明となる)、それがハコモノで終わったからこそ、安倍内閣は「教育再生会議」を発足させなければならなかったのだろう。安倍「教育再生会議」が森「教育改革国民会議」と同じハコモノの運命をたどらない保証はない。
何度でもしていることだが、参考までに「17の提言」を掲げておく。
人間性豊かな日本人を育成する
(1)教育の原点は家庭であることを自覚する
(2)学校は道徳を教えることをためらわない
(3)奉仕活動を全員が行うようにする
(4)問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない
(5)有害情報等から子どもを守る
一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する
(6)一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する
(7)記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する
(8)リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する
(9)大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する
(10)職業観、勤労観を育む教育を推進する
新しい時代に新しい学校づくりを
(11)教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる
(12)地域の信頼に応える学校づくりを進める
(13)学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる
(14)授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする
(15)新しいタイプの学校(“コミュニティ・スクール”等)の設置を促進する
教育振興基本計画と教育基本法
(16)教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を
(17)新しい時代にふさわしい教育基本法を
「教育改革国民会議」の「17の提言」と「教育再生会議」の提案が大分重なる部分があるが、「17の提言」が6年余の経過を見ながら、なぜ実践面で機能させることができなかったのか、学校教育にその思想・哲学を反映させることができなかったのか、その機能不全の原因を検証しないことには、安倍「教育再生会議」の提言もハコモノの繰返しで終わる可能性大であろう。
ハコモノで終わった「教育改革国民会議」の「17の提言」の例を示すまでもなく、提言すればそれでいい、法案なら、成立させればいいというものではないことは断るまでもない。だが、<自民党の片山参院幹事長は19日の記者会見で、「重要法案を通して安倍カラー、安倍改革をはっきりさせることが選挙戦に有利になる。社会保険庁解体や公務員制度の60年ぶりの改革は、首相のテーマ『戦後レジームからの脱却』だ」と述べた。>(07年6月20日12時5分/読売インターネット記事≪参院選日程変更、首相が公務員法案成立に固執≫)ということなら、法案の通過・成立に重点を置いているのは明らかである。法案の通過・成立が動物が威嚇の吼え声を上げて自分の縄張りを周囲に知らしめ、自己の存在をアピールするのと同じく、「安倍カラー、安倍改革」なる政治形式、あるいは政治外形(=ハコモノ)をアピールする、それを第一の優先順位とした強行採決となる。
法案や提言が内包する思想・哲学の国民の生活向上、社会の発展、国力の充実に向けた創造的な実践と反映の方法は議論が尽くされることによって、あるいは審議が尽くされることによって国民への説明に替えることができる。それがないということは国民への説明責任を果たしていないと言うことだけではなく、法案や提言の実践と反映の方法(社会的具体化)に関わる説明を疎かにすることがそのまま「実践と反映」(社会的具体化)を可能とする創造的な思想・哲学の育みを阻害する要因にもなっているのではないだろうか。説明が考える力を刺激し、考える力が実際を生み出す力となっていく。その過程を踏まないから、「17の提言」が内容の見た目は立派だが、提言のまま終わって、現場の教育に生かすことができなかった――。そこで安倍内閣が似たような取組みを再度開始することとなったということだろう。
日本の教育にとってその価値の良し悪しは別として、「17の提言」が学校教育に生かされていたなら、二番煎じとも言える安倍「教育再生会議」はその産声を上げる必要は生じなかったろう。
法案や提言は立派に構えることができるが、社会への具体化に於いて機能不全を起こす頭でっかちとも言えるこのような実践面での思想・哲学の欠如が欧米の制度を取り入れてそれを日本の社会に役立てようとしながら、欧米ほどには機能させることができないという不備・中途半端さをもたらしている原因ともなっているように思える。法案や提言によって制度を新たにしても、社会に十分に生かすことができずに大方がハコモノで終わる。
このような経緯は「アメリカ障害者法」を参考にした我が国の「障害者自立支援法」がその社会的具体化(=実践面での成果)である障害者状況に於いて、アメリカのそれよりも遥かに後進的位置にあることに象徴的に現われている。特に障害者の自立的社会参加では大きく後れを取っている。
法案や提言の社会的具体化に於ける思想・哲学の欠如がついて回るとしたら、法案は単に国会を通過させるため、提言は単に提言するためということが同じようについて回ることになる。
それを知ってか知らずしてか、安倍首相は次々と法案を強行採決を経て成立させ、法の山を築いている。法は単なる建物でしかない。建物の内側を如何に住みよい空間とするか。それを可能としたとき、法は生命を持つ。逆に住みよい空間とすることができなかったとき、法はただの死に体のハコモノと化す。当然、エネルギーを注ぐべきは最も困難な住みよい空間とするための努力に対してである。
安倍首相が夏の参院選挙の運営に重大な影響を与えることを無視してまで国会の会期を延長させて法案を通過させ、成立を図ろうとシャカリキにエネルギーを注いでいるのを見ていると、
本人は気づいていないだろうが、本能が短命内閣で終わるのを知っていて、その短い生命期間内に多くの仕事をさせようと指令を出し、その指令を受けて安倍晋三なる政治家が可能とするその結果の先を考えない、法案の通過と成立のみにこだわった自らに与えられたハコモノづくりの才能の発揮に脇目も振らずに邁進しているのではないのかと疑いたくなる。
もし安倍首相が法案が描いている思想・哲学、それを形に現した制度を社会に実践・反映させて機能させ、国民の生活の向上・充実に実際的に役立てることの方が法案作りよりもより困難であることを知っていたなら、強行採決の繰返しで次々と法案を通過、成立させることなどできないだろう。逆に通過・成立の先により困難な道が待ち構えていることを考慮に入れて、通過・成立により慎重になるはずである。
だが、より困難な社会的具体化の実際を待たずに法案作づくりの段階で「年金の問題は私の内閣で解決する」、公務員制度改革では、「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」と早々に宣言するところを見ると、法案の通過・成立で問題は解決すると単細胞にも安請け合いしている感がある。
実際にも安倍内閣が短命内閣で終わるとしたら、矢継ぎ早の強行採決によって法律の山を築いたことは自身が体力ない痩せ馬であることを自覚することができずスタミナも距離も計算に入れずに慌てふためいて闇雲に全力疾走で走り出す痩せ馬の先っ走りと同じように後先考えない、そのことのみ集中した成果ということになりかねない。