後ろ盾を小泉・安倍から山崎派に変えた石原伸晃

2007-12-18 05:57:34 | Weblog

 ≪石原伸氏、山崎派入り 政界再編見据える≫(07.12.12.『朝日』朝刊)

 <自民党の石原伸晃・前成政調会長は11日、山崎拓元副総裁のパーティーで山崎派に入会する意向を明らかにした。石原氏は記者団に「若いころは若手だけでやればよかったが、私も時間も過ぎた。しっかりしたグループの人たちと一緒に仕事をしていきたい」と強調。無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任した石原氏としても、政界の流動化を見据えて、派閥に所属するメリットを考えたものと見られる。
 石原氏の加入により、同派は衆院36人、参院3人の計39人になる。同派は9月の総裁選で対応が分かれ、会長の山崎氏の求心力低下が懸念されていた。
 次世代のホープと言われる石原氏を派内に抱えることで、派閥の求心力を高める狙いもある。>
 
 「若いころは若手だけでやればよかった」は、そうすれば若手だけのグループを作ることができて、そのグループの主導的位置に立てたのだろうがという思いを表明したものであろう。そこには集団頼みの意識がある。若手と数を頼んで行動しておけばよかったという後悔が。

 この意識は、これまでは如何なるグループ・派閥とは無縁の無派閥だったことと、「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任した」経歴が見せる独立独歩と一見矛盾するようだが、見方によっては矛盾を解くことができる。

 「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任」は小泉・安倍の後ろ盾があったからで、両者にとって石原伸晃の必要性は親が芥川賞作家でもある現東京都知事の石原慎太郎であり、叔父がかつての人気俳優だった石原裕次郎だということの毛並みを備えていて名の通りがいいことと一般的な国会議員の年齢と比較した若さにあったのだろう。

 小泉・安倍が自らの内閣の新鮮さと派閥依存人事でないこと、適材適所の人材抜擢だといったことの象徴として石原伸晃が持っているそれらをウリにしたと言うことである。内閣支持率底上げの素材として起用した意味合いもあったに違いない。

 もし石原伸晃が出自とは無関係にそれなりに見るべき政治的才能と人格を備えた人間なら、「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任」していた間に老若関わらずに人を惹きつけていたろう。行政改革・規制改革担当大臣・国土交通大臣・観光立国担当大臣、党政務調査会長、党幹事長代理等を歴任し、自由民主党東京都連合会会長に就いていてTOKYO自民党政経塾を主宰までしている(Wikipediaから引用)。その政治的才能が優れていたなら、やはり毛並みを裏切らないな、そんじょそこらの議員と違うなと敬服され、自然と人は集まる。当然「若いころは若手だけでやればよかった」という後悔は生まれない。

 そうでなかったから、小泉・安倍の後ろ盾を失うと、ポツンと取り残されてしまった。

 「これまで1人で政治活動を行ってきたが、国家や安全保障に関することは仲間とともに声を大きくしていかないと実現しない。山崎氏のもとで汗をかきたい」≪石原伸晃氏が山崎派入り≫(日刊スポーツ/07年12月11日20時38分)

 「衆参のねじれた政治体制の中で、私も意見を発する足場が欲しい」≪政界:自民・石原伸晃氏、山崎派へ≫(毎日新聞 2007年12月12日 東京朝刊)

 いずれの発言も自主独立の方向ではなく、自己を仲間の中に置こうとする集団に同調する方向へ向かわせる内容となっている。当然のこととして、不特定多数の他者が自己に集まるのとは逆の集団力学に自分を絡め取らせることだから,石原個人の主導性を窺うことは決してできない。

 1990年の衆議員初当選から今日までの17年間に「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任し」てきた実績が主導性の獲得に何ら役に立たなかったことの証明でしかない。

 と言うことは、それぞれに歴任してきた職務は官僚や各諮問会議等が決定した政策をなぞっていただけの見せ掛けの主導性だったと言うほかない。結果として行政改革も道路改革も誰がやっても同じという結末で終わっている。

 これまでは毛並みと若さで持ってきた。若くもなくなりつつあり、いつかは何らかの能力で裏打ちしなければメッキが剥がれることになる毛並みが「要職歴任」というチャンスを与えられながら、裏打ちできなかったからこそメッキも剥がれて、派閥頼みの活躍に活路を開こうということなのだろう。

 つまり誰かの後ろ盾がないまま無派閥でいると埋没してしまいそうな危機感からの後ろ盾を派閥に変更する動きとしての派閥入り、集団頼みなのだろうが、そのことは同時に無派閥を維持するに必要事項となる政治的主導性不在と毛並みと若さの有効性の喪失を物語る。

 派閥は偉大なり。「でも、そんなの関係ねえ、オッパッピー」と言える議員がどれだけいるだろうか。

 小泉内閣時代以降、自民党の派閥は溶解した、派閥政治は終わった、「自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた」といった主張が流布したが、そういった流布に対して、以前ブログでこんなことを書いた。

「政治家一人一人が自らの考えに従って行動し、例え同じ考えの他の政治家と連携して協同することはあっても、その人間の支配を受けない、あくまでも自己を自律的な立場に置く。いわば自己自身の支配者は自己とすることによって、常に自律的でいられる。そういった姿が本来の姿であって、政治家一人一人がそういう姿形を取ったとき初めて派閥の解体と言えるのではないだろうか。

 だが、決してそういう姿は取らない。日本人自らが自らの行動様式としている集団主義・権威主義から免れることはできないだろうから。」

 ここで言う「集団主義・権威主義」とは自己自身の能力を頼み、自己自身を権威として自分ならではの主導性を獲得する姿を取るのではなく、派閥(=数)を頼み、派閥(=数)を権威として派閥(=数)の主導性に従う姿を取ることを言う。

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