自分で工夫させる力(=自分で判断する力・自分で考える力)を子どもたちから奪っていないか
10月に小学校のグランドを会場に地区の祭があった。私は自治会の副会長として開会式で自治会の大きな旗持ちの役目を担っていた。前日設置した野外舞台前に整列した各旗の背後にそれぞれの自治会の祭の参加者が一列縦隊で並ぶ。要するに開会式を見栄えよくする体裁・儀式である。
地区の祭と言えば、素朴なものと相場は決まっているが、自然発生的な祭ではなく、つくった祭であることと元々体裁・儀式好きの民族性を抱えているものだから、開会式だけが頭でっかちに仰々しい演出となっている。一種のハコモノであろう。
もう一つの体裁・儀式が市会議員・県会議員、さらに衆議院議員までが祝辞の言葉を述べに駆けつけたことである。政治家を呼ばなければならない程に大袈裟なものなのだろうか。挨拶自体が祭を通して住民同士がコミュニケーションを深め合い、地区の発展につなげて欲しいといった似たり寄ったりと決まっている。中には他の祭にも呼ばれたが、こんなに集まっている会場はなかった、皆さんの熱心さを見て取ることができるといったおべんちゃらを言う議員もいた。
有意義に過ごす自分なりの時間を自分でつくる能力がなくて、他人がお膳立てしてくれた時間を過ごすことでしか一日一日を埋めることができない人間だって相当に混じっているだろうから、いわば主体的・自律的に生活していない人間まで混じっていることを考えると、参加者の数だけを見た表面的な評価は客観性の欠如の賜物だろう。
祭の内容は地区の若い男女で構成した太鼓塾の太鼓演奏、若い母親と園児の踊り、女性交通指導員の交通安全に関わる話と身体の俊敏性を目覚めさる目的のちょっとした手足を動かす運動、カラオケ、そして地区出身の非有名女性演歌歌手の演歌。声に張りがあり声量豊かないい声をしているのだが、いい曲に恵まれなかったのか、売れるだけの雰囲気を持っていなかったのか、とにかく名前を聞いたこともない歌手だった。確か10年近く毎年この祭に招かれていて30代半ばを過ぎているということだったが、その縁で結婚式で歌う仕事が舞い込んできたと嬉しそうに話していたが、売れなくても好きで活動しているといった様子だった。
あとは婦人会だとか街づくり委員会だとかの自治会所属の各団体が焼きそばや焼き鳥、農産物とかの売店を広げている。
行事そのものの内容がこの程度で地域の発展とつながっているわけのものでもなく、市会議員・県会議員・衆議院議員たちの開会式祝辞演出が如何に仰々しく頭でっかちであるか物語って余りあるが、この手の体裁・儀式は地区体育祭にしても老人の日の地区祝賀会にしても付き物となっている。
開会式終了後に自治会所属団体「青少年育成委員会」主催の小学生の子どもたちによる菜の花の苗を植える行事が加えられていた。苗を植える場所は小学校から200メートル程離れた場所に流れている川の土手。地区消防団のラッパ吹奏隊のラッパ吹奏を先頭に各自治会の旗が続き、しんがりに苗を植える子どもたちが続くと決められていた。
ところが行事進行係がマイクで決められていた通りに「旗を先頭にして」と指示すべきところを、それを抜かして「子どもたちは苗植えに移動してください」と指示したものだから、川へ向かう位置に最も近い最後列に並んでいた子どもたちが先頭に立って歩き出したために、旗持ちが逆にしんがりとなって行進することになった。「でも、そんなこと関係ねえ、関係ねえ、オッパッピー」で流れに任せる。
連絡不行き届きだったからなのか、決められていた通りに旗持ちが先頭に来なかったためか、校門脇で待機していた消防団ラッパ吹奏隊は脇を子どもたちがぞろぞろ歩くに任せて先頭に立つべく動こうとしない。途中旗と歩くのが遅い子どもたちと入り混じり、雑然とした人の流れと化す。旗が川までの道を半ばまで進んだところでラッパ隊が先頭に立つまでその場に待機するよう後ろから順繰りに連絡が入った。
順繰りだから、先頭の子どもまで届くに時間がかかる。土手まで一本道となった場所から先方を見通すと、既に土手の坂を上っている子どもたちの姿が見える。しかもなかなかラッパ隊が来ない。そうこうするうちに背後の人込みが動き出した。ラッパ隊が来ないのにどうしたのだろうと思っていると、「そのまま川へ向かうようにだってさ」と二度目の連絡がやはり後ろから銃繰りに入った。また規則もなく雑然とぞろぞろと歩く。とても行進とは言えなかったが、これも「そんなの関係ねえ、オッパッピー」である。
誰が考え出したのか、菜の花の苗を植える目的だけのために消防団ラッパ隊が先頭に立ってラッパを高らかに鳴らして行進する後ろを旗持ちが続き、次に子どもたちがぞろぞろと歩く姿は戦前の軍国主義の時代の世相には似つかわしかっただろうが、今の時代仰々しく滑稽なものに映っただろうから、却って結果はよかったのかもしれない。消防団にしてもバカらしくて旗持ちが来ないことを理由に動こうとしなかったのかもしれない。そうでなかったら、ラッパ隊が先頭に立つまでその場に待機するよう連絡を入れたときにいやでも消防団は動かざるを得なかったはずだが、来なかったところを見ると、先頭はもう土手についているのではないのかとか理由をつけて動こうとしなかったのだろう。
私自身は菜の花の苗を川の土手に植えに行く目的だけのために消防団のラッパ隊を先頭に行進するという話を聞いたときにその仰々しさ、大袈裟さな振舞いに滑稽なものを感じていたにも関わらず、その仰々しさ・滑稽さを実地に体験してみたくてその行進に大いに期待していた。途中で江戸時代の火事場の纏い持ちのように自治会の旗を高く掲げて左右に大きく振り、布地を風に大きく靡かせるシーンを演じたら面白かろうとさえ思っていた。
残念ながら消防隊が動かなかったものだから、戦前でなければ味わえないような貴重な体験となるはずの折角の機会を逸することになってしまった。
ラッパ隊はどのような曲を吹奏する予定でいたのだろうか。「聖者の行進」だったのだろうか。「軍艦マーチ」ということはないだろうが、「聖者の行進」でも滑稽なのに「軍艦マーチ」だったったなら戦前に限りなく近づくことはできたとしても、仰々しさ・滑稽さは最高潮に達していたに違いない。
前置きが長くなったが、問題は「青少年育成委員会」主催の菜の花の苗植えである。「青少年育成委員会」主催となれば、「青少年育成」がテーマ・目的の苗植えでなければならない。
土手は6月の第一日曜日に自治会で草刈したあと雑草は生え放題にぼうぼうとしていたのを、これも自治会所属団体の街づくり委員会が苗を植える範囲だけ1週間前に草刈機で雑草を刈り取り、苗を植えることができる大きさの小さな穴を前以って掘ってすぐに植えることができるように準備してあった。
しかも子どもの参加者には祭会場のみで使える300円の商品券が貰える仕組みになっていた。子どもたちがすることは苗をビニールのポットから取り出して前以て掘ってあった穴に置き、土をかぶせて両手で軽く押さえ、如雨露で川の水を汲んで苗の周りにかけて300円の商品券を受け取ることだけであった。
50人以上100人近くは参加していただろうか。とにかく土手の周囲は小学生でごった返していた。後日の水遣りは青少年育成委員会のおじさんが何日か置きに通ってきて行っているらしかった。上終われば子どもたちはノータッチである。
前々からの傾向であったが、OECDの「学習到達度調査」でも日本の子どもは読解力・理解力・判断力等の基軸となる「考える力」が劣っているという結果が出ている。そのために日本政府は「考える力」を養う教育政策推進の参考材料とすべく、今年の4月に小学6年生と中学3年生を対象とした「基礎学力」と「理解力」を別個に測る初めての形式の算数(数学)と国語のテストを全国一斉に行った。
現在の日本の教育政策は「考える力」の育成を最重要のテーマに位置づけたわけである。
「考える力」がどの程度ついているかはテストである程度測ることができるかもしれない。しかし「考える力」をつけるには学校の授業での教えのみでつくわけではない。幼い頃からの日々の活動の中で身につけていく考える習慣が素地となることで、それを引き継いだ発展が考える力を開花させていくものだろう。素地のないところには何も育たない。
考える習慣は様々な活動の中での様々な工夫によって培われる。工夫=考えることだからである。工夫する機会を持つことで、思考回路が「考える」に入る。
そして直接的な工夫は自分で行うこと、独力から生まれる。未知の活動はそれを行うのに他者の工夫が必要だが、活動を発展させるそれ以降の工夫は自分が担ってこそ、考える力は身についていく。他者の工夫にばかり頼っていたのでは考える力は身につかない。
だが、大人が草刈して掘った穴に菜の花の苗をビニールポットから移し変える、言われた通りに土をかけて手で押さえ、水をかけるだけでどこに工夫の機会を見い出したらいいのだろうか。大人がお膳立てしたことをお膳立てしたとおりになぞれば完結する「青少年育成」事業なのである。工夫があるとすればゲットした300円の商品券を焼きそばを買うか焼き鳥を買うか、駄菓子を買うか決めることぐらいだろう。
最初から何を買うと決めていたなら、工夫はどこにもないことになる。
大人がお膳立てするのではなく、子どもたち自身に草刈ガマを持たせて、こう狩るんだよと教えて草を刈らす。最初は下手で刈っていく間にこうすればうまく刈れる、ああすればうまく刈れると工夫していく。狩り終わったなら、移植ベラを一つずつ持たせて穴の掘り方を教え、自分たちで掘らせる。いくつか掘っていくうちに上手に掘れるようになっていったなら、どう掘ったらいいか自然と考え工夫しているからだ。
大人たちが何から何までお膳立てすることで、子どもたちから工夫する機会、考える機会を奪っている。現在の日本の教育政策に逆行することを「青少年育成」の名のもと大人たちは行っているわけである。
役員は2年の任期となっている。再来年度育成委員を引き受けて、やり方を変えるように提案するつもりでいるが、多分答は決まっている。そのような方法に変えたら誰も参加する者はいないだろうと。「だったら、中止すべきだ。300円の商品券で釣って苗植えを機械的にこなすだけで終わる形式的育成なら、やめた方がいい」
「そこまで言ったらおしまいだ。何もしないよりも、何かして経験の機会を与えるだけでも意味はあるはずだ」
殆どの団体の上層部は長年顔ぶれが変わらないそうだ。団体の地位を占め、活動することで地域の発展に貢献しているとして、それを有意義な人生の過ごし方と考えている節がある。いわば団体の運営が設立趣旨にお構いなく自分たちの活動のための存在と化している。その結果、何かすること自体に価値を置く。「青少年育成」とは名ばかりでも、その名前を借りて「青少年育成」らしき行事を行いすれば、自分たちの活動となると言うわけである。
参加者が少なければ自分たちの活動の評価が下がる。ゼロになって中止となったら、評価が下がるだけで終わらず、自分たちの活動の機会そのものの喪失につながりかねない。だから300円の商品券を与えてでも参加者を底上げして、何人が参加したと参加人数を勲章とする。自分たちの活動が主となっているから、子どもたちから工夫する機会、考える機会を奪っているだけではなく、倒錯した「青少年育成」となっていることに気づきもしない。
このような子供の考える力を奪う活動は一地域のみの問題ではないだろう。例えば大人の性犯罪から守るために子供たちに持たせる防犯ブザーでもこのことが言える。
05年11月22日に広島市で下校中の小1女児が殺害された事件の9日後に栃木県今市市で小1女児が殺され、未解決となっているが、今市市の小学校は広島での事件を受けてその2年前から持たせていた防犯ブザーの所持状況を調べたところ、電池切れがあったり自宅に置きっ放しになっていたり不所持者が多数見つかったために、市教委からの指示を受けて所持するよう徹底させた矢先の事件だと言う。
また広島市の事件当時も広島市内の小学生の中で所持させていた防犯ブザーを所持していなかった児童もいたという。
上からの指示で持つと言うことは上からの指示がなければ持たないことを意味する。だから上からの指示で持たせた物を常に持たせ続けさせるためには、所持・不所持の検査を定期的に行って上からの指示を有効な状態に置かなければならない。
今市市の場合、所持・不所持の検査を定期的に行わないことによって上の指示を無効化状態に置いたから不所持者を多数出すことになったのだろう。
これは上に従った行動であって、自分の判断で行った行動ではないからだ。上からの指示がなければ持たない、あるいは持たなくなる行為にどれ程に意味があるのだろうか。
だとしたら、すべて自分の考え・自分の判断に従わせるべきではないだろうか。それぞれの考え・判断にこそ価値を置く。低学年生の場合は親の協力を得て一人一人に必要かどうか自分で考え・判断させて所持・不所持を決めたなら、それがいずれの判断であっても、それぞれの判断に責任が生じて責任行為となって付き纏うことになる。所持するのもよし、所持しないのもよし。一端所持すると決めて所持しなくなるのも自己決定とする。すべて自分の考え・判断次第だとする。
ところが市教委とか校長、あるいは教師といった上の者が一律に持たせることによって子どもたちの自分で考え・判断する機会を奪い、自分で考え・判断する力の育みを損なうこととなっている。
定期的な検査を行わなければ有効化しない行為にそれ程の意味はあるまい。例え上からの指示によって子どもの命を救うことになったとしても、自分の考え・判断に従って責任を持って行動する主体性の確立という意味でどれ程に役に立っているだろうか。上からの指示に従わせる代償に主体性という生命を奪っていることにならないだろうか。考え・判断するということも生命の営みに関係する。それを損なうのである。
大人が何かもでもお膳立てして子どもに従わせるのではなく、子どもたちの考え・判断に任せてこそ、考えるたり工夫したりすることを通して生命を輝かすことになる。