天下りは諸悪の根源であることを肝に銘ずべし
薬害肝炎裁判で大阪高裁が国や製薬会社の責任に期限を設ける線引きを行った東京地裁判決を受けて12月13日に示した和解案に対して原告側が全員一律救済を求めて拒否。
対して国は16日東京地裁判決を基準に期間内に投与された原告には「和解金」、期間外に投与された原告には一括して「訴訟追行費」を支払うとする基金案を原告側に提示。原告側は期間外の患者は今後提訴しても救済対象から外れるため、「被害者を線引きするもの」と拒否(≪薬害肝炎、原告は基金案拒否 「未提訴者も同じ救済を」≫07.12.17/asahi.comから)。
20日に至って桝添厚労相が政府の和解修正案を提示。和解金の大幅増額を提示しているものの東京地裁の線引きを踏まえた、それを基準とした和解金の支払いの修正案だったため、原告側は受入れ拒否。
桝添「全員救済につなげるために一生懸命知恵を絞った。国による事実上の全員救済」(07.12.20/読売新聞≪薬害肝炎和解案 原告「国に声届かず」 官房長官「最大限の回答」≫)
町村官房長官(20日午前の臨時閣議後の記者会見)「大阪高裁の和解骨子案に矛盾する内容での和解はできないとの前提に立ち、最大限、被害者の皆様をどう救済できるかということを考えて内容を組み立てた。直接、または間接に、事実上、全員救済をすることができる回答を作ったつもりだ。一日も早くこの問題が解決されることを心から願っている」(同読売記事)
これは三権分立の制度を踏まえるなら、行政府は司法の判断を拒否できないとする考えに添うものだろうが、政府の和解修正案次第では大阪高裁もそれに対応した和解案を示す用意を示しているのだから、町村官房長官の言っていることは言い逃れに過ぎない。
そして支持率が30%そこそこに急落してにっちもさっちもいかなくなったのか、福田首相は投与時期の線引きを行わない一律救済に応じる議員立法を今国会に提出し、成立を目指す方針を表明した。
国の責任については正午過ぎの首相官邸で次のように述べている。
福田「薬事行政、許認可行政ですからね、そういう意味に於ける、ええ、私は国の責任、道義的責任も含めて、いろいろあると思います。その辺は、あの、党の方でもって、ええ、その辺はどういう判断するか、これからの作業の大事な部分であると思います」(12月24日午後7時のNHKニュース)
国の責任がどういう表現・範囲となるかはまだ不明だが、原告側が望むに近い着地点に到達した。後手後手の着地である。国側が望んだ着地点に反して原告側が意図している方向の着地点に同じ落着くなら、先手を打つべきを、支持率急落・お先真っ暗という崖っぷちに立たされ背中をどやしつけられなければ方向転換ができなかった。
安倍晋三は演出も何もない口先だけのお粗末な総理大臣だったが、ワンフレーズの演出を編み出して自分を表に出すのが得意な小泉には福田は適わなかったと言うことか。
<政府・与党の救済策の基本方針
▽行政・司法の枠を超え、血液製剤の投与時期を問わず、症状に応じて一
律の金額を補償
▽投与を証明し、薬害被害者として認定するための第三者機関の設置を検
討
▽薬害の解決が遅れたことへの国の責任に言及し、被害者の苦痛へのおわ
びを表明
▽薬害の再発防止に最善の努力をし、医薬品の副作用に関する情報公開な
どを推進
(07.12.24/読売新聞インターネット記事≪薬害肝炎 一律救済へ 首相「議員立法で」…今国会で成立図る≫
桝添「基本的には合意であるとかね、それから政府声明であるとかね、法律であるとか、色んな形の、その、手法もあると思います。基本はもう二度と起こさないんだと。反省すべきは反省し、謝罪すべきは謝罪し、償うべきは償って、二度とこういうことは起こさせないんだと、そういう精神が貫かれて欲しいなという気がします」(上記NHKニュース)
よく言うよ。東京地裁判決と大阪高裁の和解案に添って国の責任は「そんなの関係ねえ、オッパッピー」の線引きをした和解修正案を示しておいて、その舌の根も乾かないうちの「反省すべきは反省し、謝罪すべきは謝罪し、償うべきは償って、二度とこういうことは起こさせないんだと、そういう精神が貫かれて欲しい」とは二枚舌の言い草ではないか。
和解案を出す前に言うべき言葉であったろう。
町村官房長官「全部法律に書かなければならないと、いうことはないだろうと思います。責任論を煮詰めていくことによってですね、肝心の救済という実態が遅れてしまっては、ある意味では、何の意味もないんではないだろうか。いわゆる責任というものを超越して、この立法作業をすることになるのではないだろうか。こうした薬害・被害というものをできるだけさせない、というためにですね、そうした決意なり、考え方、を貫かれたもの、そういう法案になることが適切だろうと、そう考えています」
この場に及んでも国の責任を限りなく棚上げしたい意思を覗かせている。責任は「決意なり、考え方」で済まそうというのである。高校野球開会式の「正々堂々と戦うことを誓います」の「宣誓」並みに押さえておこうという魂胆なのだろう。野球留学だ、特待生だ、優秀な選手はプロ球団から金を受け取っていたり、学費や寮費・食事代免除だと特別待遇のウラ取引の存在が既に「正々堂々」から懸け離れていて開会式の「正々堂々」が形式化しているように国の責任も形式化させかねない意図が見えみえである。
政府が国の責任の線引きに拘るのは薬には副作用が付きもので、すべてに政府の責任を認め補償していたのでは薬事行政に支障が来たすという理由を挙げていたが、地震に備えた対策は重要だが、いくら対策を施しても地震起きなくなるわけのものではない。起きた場合の備えも肝要となってくる。
薬の認可にしても同じだろう。薬の開発、及び開発された薬に対する国の許認可にしても、人間がやることである。薬を認可して投与に至る事前の対策も重要ではあるが、副作用のない薬は存在しないと言われている以上、自身と同じで薬害が起きない保証はどこにもない。
要は薬害が起きた場合の事後対策であろう。その薬が安全であるかどうかの投与状況に関わる行き渡った情報収集、投与の過程で薬害を発生させる恐れがあるなしの的確な判断を下す情報分析、いち早い察知と情報公開による被害拡大の阻止、人間の命の保全を基本態度として人の命の差し障りを如何に最小限にとどめ、どう救うかに重点を置く人間の安全保障第一の危機管理。
これまでの薬害対策が許認可省庁が天下り官僚を保護するために企業利益を優先させて被害者救済と国の責任が後手に回り被害を拡大させてきた経緯から判断するなら、製薬会社への官僚の天下りを一切禁止とする対策が被害を最小限にとどめるが絶対的条件ではないだろうか。