野田首相の「自説を曲げてでも泥をかぶらないといけない」は最悪・最低の権威主義

2011-09-06 08:57:45 | Weblog

 野田新首相が副大臣を任命、任命後の副大臣会議で「泥をかぶれ」と訓示したと言う。「ドジョウの持ち味」を身上としているだけあって、今後「泥」の単語がついた言葉が連発されるではないだろうか。「泥臭い」は既に言ったし、「総理大臣の顔に泥を塗るな」とか、「国民のために夜は泥のように眠るくらいに働いて働いて働き通せ」とか。最後は「泥沼に足を取られて内閣瓦解」とか・・・・。

 《「泥をかぶれ」 野田首相がドジョウのススメ》MSN産経/2011.9.5 23:41)

 野田首相「副大臣の役割は大臣を支えること。自説を曲げてでも泥をかぶらないといけないことがいっぱいある。

 (政治主導に関して)空回しの政治主導ではなく、役人をフル回転で仕事をしてもらうため方向性を付けることだ」

 記事は副大臣会議の後の政務官会議での発言も伝えている。
 
 野田首相(東日本大震災の復興復旧や経済対策を念頭に)「ケチな、了見の狭い野党対策ではなく、野党の声も虚心坦懐(たんかい)に聞き、オールジャパンで乗り越えることを心がけてもらいたい」

 そうそう奇麗事の思い通りで事が簡単に進むだろうか。思い通りに進めばねじれ国会の障害はどこにも存在しないことになる。

 まさしく「副大臣の役割は大臣を支えること」だろう。また、「泥をかぶらないといけないことがいっぱいある」ことも確かだ。「ドジョウの持ち味」を身上とするだけあって、泥臭い表現を用いている。

 【泥をかぶる】「他人の悪事や失策の責任を負う。損な役割を引き受ける」(『大辞林』三省堂)

 だが「自説」を曲げたなら、自身を大臣に言いなりの人間に貶め、大臣を欠点や失敗のない、常に正しい絶対的存在とすることになる。自ら両者間に権威主義の人間関係を築き、そのことを是認することになる。

 ここで言う権威主義とは常に間違いのない、常に正しい絶対的存在と位置づけた上位者が下位者を無条件に従わせ、下位者が上位者に無条件に従う行動様式を言う。

 戦前の軍隊では典型的な上下関係の行動様式で以てこの権威主義が横行した。上官の命令は常に絶対であった。間違った命令か正しい命令か批判することは許されず、絶対服従を旨とされた。

 下位に位置する軍人は上官は間違っている、自分の考えの方が正しいと思っても、いわば「自説を曲げて」じっと我慢の子、言いなりに従った。それが軍隊での規律とされた。

 戦後人間関係を平等とする民主主義の社会になって半世紀以上経過しても、上司と部下の関係、先輩と後輩の関係、部活の上級生と下級生の関係、家庭での夫婦の関係にも未だ遺物のように権威主義の関係、権威主義の行動様式が残っている。

 野田首相は自ら気づかないままに大臣と副大臣の関係をそのような権威主義の行動様式で規定したのである。

 上が下を言いなりにし、下が上に言いなりになる権威主義の行動様式を築いている人間関係からは前例に従った行動やマニアルどおりの進展を望むことはできるが、創造的な発想や新規の方法論は望み難い。

 地位の上下はあっても、そこに権威主義の上下関係が埋め込められていなくて、対等で自由な人間関係を築くことができていたなら、「自説を曲げてでも泥をかぶらないといけない」といった上を絶対として下を言いなりの存在に落とし込む閉塞的な状況は生じることなく、対等で自由な人間関係であることが逆に「自説」と「自説」をぶつけ合って、激しく徹底的に議論を尽くし経て、よりよい結論へと導く「自説」同士の発展・止揚を可能とするはずである。

 そのような議論と結論の場にこそ、創造的な着想や新規の方法論を望むことができる。「自説を曲げてでも泥をかぶらないといけない」といった、自説を闘わせることを前提とした関係ではなく、自説を曲げることを前提とした権威主義の「泥臭い」人間関係からは、そこに冒険も衝突も刺激的摩擦もないゆえに常識的な考え、常識的な行動しか望むことはできないだろう。

 菅仮免も自らの無能を棚に上げて、自身を絶対者とし、官僚に怒鳴り散らした。官僚は萎縮し、あるいは反発し、自由な意見を言わなくなった。官僚が必要とするとき以外は官邸に近づかなくなったと言われている。

 下位者を怒鳴り散らすとは下位者を言いなりの存在に閉じ込めることに他ならない。

 濃い薄いの違いはあっても、野田首相も菅仮免と同じく下位者に対して権威主義的行動様式、権威主義的人間関係を強いる血を流していることになる。

 官僚に関しては「空回しの政治主導ではなく、役人をフル回転で仕事をしてもらうため方向性を付けることだ」とは言っているが、そこに権威主義の力学が関与した場合、官僚からの自由な意見は望むべくもなくなる。

 上下の地位に関係なく、忌憚なく自由に幅広く意見を戦わす、主張を闘わす対等な関係にこそ、各方面の想像性(創造性)が生まれる。

 一国のリーダーでありながら、野田首相は自分では知らないままに上を絶対として下からの自由な意見を拒絶し、下を言いなりの存在に規定する古臭い権威主義の上下関係・人間関係に囚われていて、大臣の下位者である副大臣にそのような関係を強制した。

 この権威主義性は副大臣という大臣に対しての下位者にのみ働く囚われではなく、比較下位者全般に働く囚われであろう。

 最悪・最低の権威主義と言うだけではなく、自由な幅広い意見の闘わせのない上下関係がつくり上げることになる政治が果たして国民の期待に応えることができる国の大きな発展につながるのだろか。


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