9月5日、菅前仮免が福島第一原発事故対応に関して読売新聞のインタビューを受けている。《原発事故は人災、説明も伝言ゲーム…菅前首相》(YOMIURI ONLINE/2011年9月6日08時41分)
菅前仮免「事故前から色んな意見があったのに、しっかりした備えをしなかったという意味で人災だ」
「事故前から色んな意見があった」――要するに869年発生の推定マグニチュード8以上の貞観地震の再来を警告していた地震研究者の言う大津波への備えを東電側が十分な情報ではないとして無視、そのことを以って「しっかりした備えをしなかった」と言っているのだろう。
東電が想定して備えていた津波高は約6メートル。実際に襲った津波は14メートル以上。地震研究者の警告に従って万が一の危機に備える危機管理を機能させ、早急に巨大津波に備えていたなら、原発事故は発生していなかったかもしれない。確かにその意味に於いては東電の人災だと言える。
だが、このことを以って第一番の人災だとは言えない。二重三重に備えるのが危機管理である。
第一原発の各原子炉のメルトダウンにしても水素爆発にしても原子炉圧力容器内の圧力上昇によって圧力容器が爆発することを防ぐ蒸気開放のベントを行わなければならなくなって放射性物質を外部に放出することになったことにしても、津波の被害を受けて全電源が喪失した上に喪失した場合の備えがなかったことによって起きた原子炉の自動冷却装置停止が原因である。
全電源喪失に対する備えがなかったことは東電の責任でもないし、東電の人災でもない。
1990年、原子力安全委員会が策定した「発電用原子炉施設に関する安全設計審査指針」は全電源喪失に対する備えを必要ないとしていた。「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又(また)は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」とした。しかも当時の寺坂信昭原子力安前・保安院長は昨年(2010年)5月の衆院経済産業委員会で、「(電源喪失は)あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と答弁、原子炉事故否定の「原発安全神話」を表明している。
だが、想定しなかった全電源喪失が発生、原子炉冷却装置が機能しなくなって、事故を誘発することになった。
確かに東電は地震研究者の警告を検討し、万が一の危険に備えた危機管理を発動させ、津波に対する備えを怠りなく実施しておくべきだったろう。だが、政府も全電源喪失に対する万が一の危機に万全に備えた第一番の危機管理を講じておくべきだった。
原子力安全委員会は内閣府に、原子力安全・保安院は経産相に所属する政府機関である。いわば政府によるこの第一番の危機管理が備わっていたなら、例え福島第一原発が津波被害によって全電源喪失の事態に陥ったとしても、原子炉冷却機能の喪失といった次ぎの事態は防ぎ得た可能性は否定できない。
だとしても、東電はやはり巨大津波対策は講じておくべきだったろう。二重三重の危機管理によって、事故を事前に予防する装置ともなるし、万が一事故が発生した場合でも、事故を最小限に食い止める解決手段ともなり得るはずである。
しかし政府も東電もそれぞれの危機管理の責任を果たしていなかった。決して東電だけの人災とは言えないはずで、政府の人災でもある福島原発事故であるはずである。
2010年6月8日に菅内閣が発足してから10日目の6月10日、2030年までのエネルギー政策の方向性を示す「エネルギー基本計画」を閣議決定している。この計画の中で原子力発電に関しては「2030年までに14基以上の発電所を新増設する」と謳っている。さらに菅内閣は日本の原発の海外売り込みも積極的に推し進める姿勢を示し、昨年10月には官民一体でベトナムの原発建設を受注している。
この原発推進計画も海外売り込みも安心・安全ですの考えに基づいていたはずだから、「原発安全神話」に加担した政策であったはずだ。
政府作成の全電源喪失危機管理を抜きにした「原発安全神話」に加担しておきながら、東電のみに責任をかぶせ、東電のみの人災として政府の責任をそこに置かないのは薄汚い自己責任回避と言わざるを得ない。
菅仮免は読売新聞のインタビューに対して、〈事故後、前線本部となるオフサイトセンターに人員が集まれなかったことなどを挙げ〉た上でのこととしてさらに次のように総括したという。
菅前仮免「想定していたシミュレーションがほとんど機能しなかった」
これも薄汚い自己責任回避に過ぎない。
9月1日(2011年)の当ブログ記事――《菅政権は22年度原子力総合防災訓練でスピーディを用いている その存在を知らなかったでは済まない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたことだが、自身を政府原子力災害対策本部会議本部長とした平成22年度原子力総合防災訓練を実施しているのである。
そこでの訓練項目には「緊急時迅速放射能影響予測システム(スピーディ)」を用いた放射性物質拡散等の環境放射能影響予測も入っていた。
当然、組織を指揮し、機能させなければならない立場にあった原子力災害対策本部長でもあったのだから、「想定していたシミュレーションがほとんど機能しなかった」ではなく、「機能させることができなかった」と言うべきだろう。そう言わないところに薄汚いまでの自己責任回避意識がある。
ベントについては次のように釈明している。
菅前仮免「(格納容器内の蒸気を放出する)ベントをするよう指示を出しても、実行されず、理由もはっきりしない。説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」――
一国の総理大臣であり、同時に原子力災害対策本部長に就いていた。その指示を東電に対して機能させることができなかった。何のことはない、人心を掌握することができなかったに過ぎない。いわば東電を掌握できなかった。
「誰の意見なのか分からなかった」と言っているが、事故を含めた原発の専門的な知識に詳しい東電幹部の何人かを政府に対する情報提供と政府からの情報伝達授受の窓口とし、その幹部たちを福島第一原発事故現場からの情報を集約させて政府に受け継ぐ中継役とする指揮命令系統の統一を確立することができさえすれば、「誰の意見なのか分か」ったはずである。
それができなかった。その責任を自らに課さずにすべて東電の責任とし、事故を東電のみの人災とする。
どう公平に見たとしても、インタビュー発言のすべてに薄汚い自己責任回避をまとわり就かせている。兼々責任を取らないトップだと言われていたが、責任を取らない指導者に誰が心開いて尽くすだろうか。
自己存在を自己責任回避で成り立たせている。一国のリーダーであることのこの逆説的リーダー像は如何ともし難い。
そう言えば、確か孤独な独裁者の尊称を賜っていたと思う。 |