前原誠司の鉢呂発言「魔が刺した」のメチャクチャな論理思考とその判断能力

2011-09-13 09:40:59 | Weblog

 鉢呂前経産相が9月8日(2011年)福島原発事故被災地視察翌日の閣議後の記者会見での、「残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死の町という形だった」の発言とマスコミ記者との非公式懇談での「放射能をつけたぞ」のおふざけが批判を受け、9月2日野田内閣発足時の経産相就任から僅か9日目の9月11日にスピード辞任したが、その問題で民主党の前原誠司政調会長が見事なまでの贔屓の引き倒しの擁護を行っている。

 《首相の任命責任否定=前原氏》時事ドットコム/2011/09/11-21:25)

 北九州市内で記者団に語った発言だそうだ。

 前原誠司「鉢呂先生は人格・見識素晴らしい方だ。今回の発言は魔が差したとしか言えない。言葉自体は言語道断で被災者に誠に申し訳ないが、代議士としては立派な方だ。

 (野田佳彦首相の)任命責任には当たらない」

 「死の町」と「放射能をつけたぞ」の「言葉自体は言語道断」だが、「人格・見識素晴らしい方」で、「代議士としては立派な方」と最大限に持ち上げている。

 だが、前原誠司の発言自体を裏返すと、「人格・見識素晴らしい方」で、「代議士としては立派な方」が「死の町」だと表現したり、非公式の懇談の場では、「放射能をつけたぞ」とおふざけするのは何も問題はないということになる。

 「死の町」と言うとき、無人状態から来る蘇生不可能のイメージと、無人状態で蘇生不可能ゆえの放置のイメージを併せ持たせた言葉となる。放置していないということになれば、そこに人間の存在を認めることになり、「死の町」という形容は当たらないことにもなるし、蘇生も不可能ではなくなる。

 9月10日(2011年)当ブログ記事――《鉢呂経産相の福島原発事故被災地視察で受けた深刻度 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、「残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった」の発言のあとに、〈少なくも、「1日も早く住民の帰宅を果すことで死の町を生きた町に戻したい」と“前進”のプロセスの文脈で発言すべきだったろう。〉と書いたように蘇生のイメージを添えるべきだったはずだ。

 だが、「生きた町に蘇らせる」という蘇生のイメージを付け加えるだけのセンス、合理的判断能力を見せることができなかった。このことだけでも閣僚としての資格を失う。

 但し「死の町」の言葉に引き続いて、「私からも勿論だが、野田首相から、『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした」と、「再生」という言葉を使って蘇生のイメージを持たせているが、「死の町」の具体性に直接的な関連付けを行った、その蘇生として持ち出した「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」とすることは到底できない。

 いわば「死の町」を直接的・具体的に払拭し、その町自体の蘇生を強く訴える文脈とはなっていない「福島の再生」、「日本の元気な再生」の言葉に過ぎない。「再生」のイメージを脳裏に深く刻み込んでいたなら、例え「死の町」という言葉を用いたとしても、現在と将来の時制を厳格に区別して、明日につながる「死の町」ではないこと、明日の蘇生が誰にでも伝わる言葉を発信したろう。

 経産大臣としての役目上、その場にいて、発言しただけだったのではないのか。

 前原誠司が「人格・見識素晴らしい方だ」とか、「代議士としては立派な方」だといった理由で鉢呂前経産相の発言やおふざけを免罪できるのは、その発言、おふざけを「魔が差した」ことだとしているからだろう。

 殊更断るまでもなく、「魔が差した」という認識には免罪意識を伴っている。

 だが、一人や二人相手の「魔が差した」発言・おふざけなら、「魔が差した」を理由に免罪することができるとしても(許せない場合もあるが)、原発事故によって避難した福島の住民は、8月22日付「asahi.com」記事によると、県内も含めた全避難者数は6万4367人(8月22日現在)、9月9日付「毎日jp」によると、〈福島県の12市町村で自治体外での生活を強いられている住民が8月末時点で計10万1931人〉にのぼっていて、一人や二人相手の「魔が差した」発言・おふざけではない。

 また「死の町」のイメージからただでさえ風評被害を受けている福島県内・県外の各分野の生産者になお一層のダメージを与えない保証があるというのだろうか。「死の町?それ程にも酷いのか」と改めて思い知らされたとき、放射性物質の飛散がもたらした「死の町」である以上、次ぎの思いとして飛散の悪質さに結びつけない保証はできないし、結びつけた場合、福島県産ばかりか、近県産の食品やその他への忌避感をなお一層掻き立てないと誰が断言できるだろうか。

 だが、前原誠司は「魔が差した」では済まない各方面に与えるに違いない悪影響を認識することもせずに「今回の発言は魔が差したとしか言えない」と免罪している。
 
 この程度の論理思考と判断能力しか持ち合わせていない。

 野田首相の任命責任はないと言っているが、首相自身が大臣に任命し、内閣発足僅か8日目の9月10日夜に辞表を受理したのである。例え国会対策上の辞表受理であったとしても、受理したと言うことは鉢呂経産相の発言・振舞いを過ちだと判定したことになる。

 発言・おふざけは間違っていません。でも、辞表は受理したでは矛盾することになる。

 それがタテマエ上であっても、誤った発言・おふざけだと判定したことになるからこそ、自分も「福島県民の心を傷つけ、深くお詫びいたします」と鉢呂経産相に代って謝罪したはずだ。

 首相自身が謝罪という経緯を踏むことになった以上、そのような人物を閣僚に用いた任命責任は避けることはできないはずだ。

 もし首相が任命責任を逃れることができたとしたら、それは前原誠司のようなメチャクチャな論理思考・判断能力に助けられた、あるいは仲間意識からの贔屓の引き倒しが助けた任命責任回避としか言いようがない。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする