菅仮免が9月〈17日までに〉応じたとする時事通信のインタビュー記事がある。読売新聞のインタビューは9月5日。NHKのインタビューは9月11日。このうち、時事通信のインタビュー記事が一番詳しく載っている。
インタビュー記事ではないが、「前首相の証言をもとに構成した」とする「毎日jp」記事―― 《検証・大震災:菅前首相の証言 国難、手探りの日々 「日本がつぶれるかも」》(2011年9月7日)を昨日知ったが、これもかなり詳しく菅仮免の証言を集めている。リンクをつけておいたから、まだ触れていない人はアクセスしてみてください。
但し証言だからといって事実を言っているとは限らない。時事通信のインタビュー記事を読んで改めてそう思った。特に避難指示を自らは正当化しているが、ウソと誤魔化しで成り立たせているとしか思えなかった。
記事は全文参考引用した。他のインタビュー記事を取上げてエントリーした当ブログ記事と重なる箇所が出るが、主にベント作業の遅れと避難指示を俎上に乗せたいと思う。 《菅前首相インタビュー要旨》(時事ドットコム/2011/09/17-19:58)
菅直人前首相のインタビューの要旨は次の通り。
-東京電力福島第1原発事故では全電源が喪失した。
全電源喪失が何を意味するかは私なりに理解していた。原子炉の冷却機能が停止し、メルトダウンにつながる重大な危機と分かっていたので、大変な事故が発生したというのが最初の印象だ。
-ベントをめぐる東電と政府の連携の悪さが指摘された。
早い段階から東電の責任者に首相官邸の危機管理センターに来てもらい、海江田万里経済産業相(当時)、原子力安全・保安院、原子力安全委員会の責任者が状況把握に努める中、格納容器の圧力が上がっているからベントが必要だという意見では、関係者は全員一致していた。
だから東電の責任者に「それでいきましょう」というと「分かりました」とのことになったが、しばらくして「どうなりましたか」と聞くと「まだやれていません」という繰り返しだった。現地を含めた東電社内の意思決定の問題なのか、技術的な問題なのか、その原因はよく分からない。
いずれにせよ現地とコミュニケーションができないと物事は進まない。それが3月12日に(自らが)第1原発に行く最大の要因だった。そして吉田昌郎所長と会って直接状況を聞き、話をすることができた。ここでやっとコミュニケーションのパイプがつながったという思いだった。
-12日には1号機が水素爆発したが。
ちょうど野党と党首会談をやっている時だったが、東電からの報告がなかなか上がってこなかった。そもそも水素爆発という認識がなかったからではないか。当時は格納容器内に窒素を充填(じゅうてん)しているから水素爆発は起きないということで、実際そうした説明を聞いていた。後で分かるが、現実にはその時点でメルトダウンを起こして水素が格納容器の外に漏れており、それが爆発を起こすわけだが、東電、保安院、原子力安全委といった原発関係者には当時はそうした判断はなかったと思う。
-東電は「撤退したい」と言ってきたのか。
経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに「東電が現場から撤退したいという話があります」と伝えに来たので、「とんでもない話だ」と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う。
-3月17日に自衛隊ヘリコプターが上空から原子炉に放水したが。
日本の最大級の危機に対してしっかり対処していく意思を象徴的に示してくれた場面だった。その後は東京消防庁も頑張ってくれたし、警視庁もやってくれた。いろいろな機関が、危険を乗り越えて行動で示してくれた。そういう意味で重要な行動だったと思う。
-原発事故は「想定外」の事故と考えるか。
本来は想定すべきことを考えてこなかったことは否定できない。危険性への対策をするのではなく、危険という議論をいかに抑え込むかをやってきた。原子力の安全神話は、「生まれた」のではなく「つくられた」と思う。そういう意味では人災だと言わざるを得ない。
-避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応について。
複数の原子炉がシビア・アクシデントを起こした経験はどこの国にもない。夜中に、機械的にやっても逃げられるのか。一軒一軒の戸をたたいて、誰が起こすのか。逃げられるような段取りを含め、結果として段階的に広げた。間違っていたとは思わない。
-3月16日に「東日本がつぶれる」と発言したと伝えられた。
そんなことは言っていない。最悪のことから考え、シミュレーションはした。(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、当時の判断として適切だと思う。
-中部電力浜岡原発に停止要請した経緯は。
経産相が止めた方がいいと意見具申してくれた。マグニチュード(M)8程度の東海地震が87%の確率で30年以内に起きるという指摘があった。そうなったときに福島第1のようにならないように、という判断を経産相がして、私も同意見だった。地震の可能性が突出して高いということで他の原発とは別次元だった。その後、九州電力玄海原発再稼働の問題が起こる。
基本的に私が言った考え方は一つだけ。つまり、保安院だけで追加の安全措置を「こうしてください」、「はい結構です」と合格点を出すのはおかしい。今の法律がそうなっているからといって、保安院だけで判断したら国民は納得しない。それで、原子力安全委員会を関与させ、国際原子力機関(IAEA)の考え方を取り入れたストレステスト(耐性評価)の話になっていった。
-7月に「脱原発依存」を宣言した背景は。
3月11日以前は安全を確認し、それを踏まえ原子力を活用するという姿勢だった。しかし3月11日を経験し、本当に最悪の事態を想定したら、そのリスクをどれだけの安全性の考え方でカバーできるのか。車なら一度の事故で亡くなるといってもそう多くはないが、原発事故では最悪、国が広範囲に汚染され、国としての機能が動かなくなる。一番の安全性は原発依存から脱却することだ。それが私の結論で、7月に私なりの考え方を言うと同時に、政策的にも「エネルギー・環境会議」で原発依存の低減という方向性を出した。
-保安院を経産省から分離する閣議決定を8月に行った。原子力行政の見直しは進んだか。
かなりやったと思っている。保安院が(原発)推進官庁の経産省の中にあって(原発政策をめぐる)「やらせ」まであった。誰の目から見ても経産省の中に置いておくわけにはいかなかった。6月末に(細野)原発事故担当相を置いたのが大きかった。野田佳彦首相も細野担当相を留任させ、その方向を進めている。もう逆行することはないと確信している。
-野田首相は菅氏ほど「脱原発」を鮮明にしていない。
原子力への依存を低減させていくというのは、言い方の強弱は別として、私の内閣のときのエネルギー・環境会議の表現とほぼ同じで、踏襲されている。それよりも先のことは国民の選択だ。
-退陣直前の8月27日に福島県の佐藤雄平知事に「中間貯蔵施設」の県内設置を要請した。
(放射能の)除染を進めているが、一方でかなり長期間、帰ってもらうことが不可能な地域もある。それについては3月11日の時点で責任者だった私が、厳しいことも含め、申し訳ないがこういう状況だと伝えておくことが必要だと(判断した)。併せて、帰るときには除染が必要で、除染した土などは中間貯蔵という形で福島県内にためておく必要があるということも理解を求めたいと思った。
-核燃料サイクルはどうすべきか。
個人的考えを言えば、液体ナトリウムを(冷却剤として)使った高速増殖炉はほとんどの国が撤退していて、難しい技術だ。これが本当にできるかを含め、本格的な見直しの時期ではないか。最終処分の問題も、世界中で方向性が定まっていない。まさに今、考える必要がある。
-今後の活動は。
大きな事故を体験した責任者として、原発に依存しない社会の実現に向け、再生可能エネルギーの促進などに積極的に役割を果たしていくべきだと感じている。 |
先ずはベント作業の遅れについて。
記者「ベントをめぐる東電と政府の連携の悪さが指摘された」
菅仮免「早い段階から東電の責任者に首相官邸の危機管理センターに来てもらい、海江田万里経済産業相(当時)、原子力安全・保安院、原子力安全委員会の責任者が状況把握に努める中、格納容器の圧力が上がっているからベントが必要だという意見では、関係者は全員一致していた。
だから東電の責任者に『それでいきましょう』というと『分かりました』とのことになったが、しばらくして『どうなりましたか』と聞くと『まだやれていません』という繰り返しだった。現地を含めた東電社内の意思決定の問題なのか、技術的な問題なのか、その原因はよく分からない。
いずれにせよ現地とコミュニケーションができないと物事は進まない。それが3月12日に(自らが)第1原発に行く最大の要因だった。そして吉田昌郎所長と会って直接状況を聞き、話をすることができた。ここでやっとコミュニケーションのパイプがつながったという思いだった」云々。
「『どうなりましたか』と聞くと『まだやれていません』という繰り返しだった」――
上に立つ者が「どうなりましたか」と言うだけで、実施されないことの理由なり原因なりを子どもの使いみたいに聞かないことがあるだろか。
また東電の関係者も、「まだやれていません」と繰返すだけで、実施されないことの理由なり原因なりを説明しないということがあるのだろうか。
このことは菅仮免が言うように同じ遣り取りの繰返しを文字で描写すると理解できるだけではなく、滑稽極まる遣り取りだったことを炙り出すことができる。一回の遣り取りの間に一定の時間経過を見て欲しい。
菅仮免「どうなりましたか」
東電関係者「まだやれていません」
(暫くして)
菅仮免「どうなりましたか」
東電関係者「まだやれていません」
(暫くして)
菅仮免「どうなりましたか」
東電関係者「まだやれていません」
(暫くして)
菅仮免「どうなりましたか」
東電関係者「まだやれていません」・・・・
いくらでも続けていいが、この辺で。
ごくごく常識的に言って、理由や原因を尋ねる“なぜ”を菅仮免は入れて然るべきだが、入れていなかった。入れていたなら、「『どうなりましたか』と聞くと『まだやれていません』という繰り返しだった」とは言えなくなる。
また東電関係者の「まだやれていません」は東電本社を仲介させた間接的情報だとしても、福島第一原発の現場と情報交換が機能していことを示していなければならない。現場がもし実際にベント操作にかかっていたなら、手間取る原因がなんであるか、あるいは原因不明の理由かは把握しているはずだから、その情報は東電本社、あるいは官邸に伝達されていなければならなかったはずだ。
こういった経緯を取るのが常識的だとすると、菅仮免の説明は極めて常識に反した、ウソとしか思えない描写ということになる。
菅仮免は福島第一原発視察を「吉田昌郎所長と会って直接状況を聞き、話をすることができた。ここでやっとコミュニケーションのパイプがつながったという思いだった」と言っている。国会答弁等では、「現場の状況把握は極めて重要だと考えた。第一原発で指揮をとっている人の話を聞いたことは、その後の判断に役だった」と言っている。
「その後の判断に役だった」とは意思疎通を継続的に図ることができたことを言うと以前のブログに書いたが、「コミュニケーションのパイプがつながった」も同じ意味を取る。
菅仮免が福島第一原発を視察したのは3月12日午前7時11分から3月12日午前8時04分までで、同じ3月12日午後6時以降の1号機の海水注入問題でのゴタゴタは視察によって「その後の判断に役だった」とする、あるいは「コミュニケーションのパイプがつながった」とする継続的意思疎通を裏切る状況を示している。
原発現場は実際には注入を中断せずに本社にも隠れて続行していたことが後になって判明するのだが、ごたごたの原因が菅自身にないことを示すために国会答弁で次のように発言している。
菅仮免「注入のときも、それをやめる時点も含めて私共には直接には報告上がっておりませんでした」
すべては東電の独断であって、官邸の指示ではないと言っているが、そう言うこと自体が視察から10時間経ったか経たないうちの舌の目も乾かないうちに「その後の判断に役だった」、あるいは「コミュニケーションのパイプがつながった」をウソとする両者関係であったことを暴露するもので、視察に関わるインタビューの発言を著しく疑わせる。
次に避難指示の妥当性について。
記者の「避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応について」の質問に対して菅の「複数の原子炉がシビア・アクシデントを起こした経験はどこの国にもない。夜中に、機械的にやっても逃げられるのか。一軒一軒の戸をたたいて、誰が起こすのか。逃げられるような段取りを含め、結果として段階的に広げた。間違っていたとは思わない」は論理的な整合性をどこにも見ることができず、答になっていない。
避難対応は、それが例え半径3キロ、10キロ、20キロと段階的に拡大させていったものであったとしても、放射性物質の飛散中の濃度と飛散距離を計算して、それを基準に行われるのが常識でありながら、そのような基準によってではなく、「逃げられるような段取り」を基準として行ったことになるからだ。
「逃げられるような段取り」を基準としたということは逆に放射能物質の飛散中の濃度と飛散距離を無視したことになる。これ程の矛盾があるだろうか。
自身の避難指示を正当化するために「夜中に、機械的にやっても逃げられるのか。一軒一軒の戸をたたいて、誰が起こすのか」と言っているが、誰が「一軒一軒の戸をたたい」たりするものか。市の広報を最大限ボリュームを上げて何度でも伝えれば済むことである。後はパニックを引き起さないような配慮が必要となるのみである。
また記者との間の次の遣り取りが「逃げられるような段取り」を基準として避難指示を出したことをウソだと暴露してくれる。
記者「3月16日に『東日本がつぶれる』と発言したと伝えられた」
菅仮免「そんなことは言っていない。最悪のことから考え、シミュレーションはした。(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら、放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、当時の判断として適切だと思う」――
東電が撤退する・しないの話が持ち上がったのは3月15日の早朝である。「放射能が放出され、200キロも300キロも広がる」は3月15日以降の東電が撤退した場合の菅自身の想定であって、半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の指示を出した3月11日午後9時23分時点での想定ではないはずだ。
当然、3月11日時点では「初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない」という想定自体が出てこなかったはずだ。3月11日時点でそのような想定でいたとしたら、東電が撤退した場合、最悪の危険性として200キロ、300キロどころか、あるいは500キロ、5000万人どころか、1000キロ、2000キロ、8000万人、1億人といった数字を想定しなければならなくなる。
時間的ズレを無視して、東電撤退の場合の最悪の想定を持ってきて、それ程にもひどかった、正解はなかったとすることによって避難指示ばかりか自身のすべての対応を比較正当化する薄汚い誤魔化しを働いている。
避難区域は最初は半径3キロ指示で十分と思われたが、その後の事故の推移から10キロ、20キロと拡大せざるを得なかったとした場合のみ、ウソも誤魔化しもない放射能物質の飛散中の濃度と飛散距離を基準にして避難区域を指示したことになる。
正当性は正当化を図る言葉によってではなく、その時々の的確な行動によって証明されるはずだ。 |