9月11日の夜だったか、9月12日に入ってからだったか忘れたが、菅仮免がNHKのインタビューを受けて、福島原発事故直後のベントの遅れと3月15日の東電が撤退を申し入れた入れないのゴタゴタがあった騒動、さらに脱原発姿勢に転じた理由、事故の性格を最後に総括している様子をNHKテレビが放送しているのを見て、この男は実際に一国のリーダーだったのかと改めて疑問が湧いた。
インタビュー自体は9月11日に受けている。
NHKのWeb記事を参照にする。《菅前首相 原発事故を語る》(NHK NEWS WEB/2011年9月12日 5時24分)
先ず、〈原発事故の初動対応で原子炉格納容器の内部圧力を下げる「ベント」と呼ばれる作業が遅れたことが、深刻な事態を招いたと指摘されていることについて〉――
菅仮免「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断しながら、実行が遅れた。その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない。
一つは技術的に放射線量が高いとか、暗いとか、いろいろな資材が足りないとかで作業ができなかったことは十分あり得る。もう一つは、当時東京電力の最高責任者の2人が事故が発生した11日の段階で本店におらず、そういうことが影響したのかもしれない」
福島第一原発現場職員が直接ベント作業に携わっていたのである。どこに不具合があったか、どこに障害があったか、直接知り得なかったということはあるまい。操作している機械の故障箇所、あるいは故障原因が分からなくても、機械自体の故障は分かるはずである。
一国の首相として、原子力災害対策本部長として、ベント遅れの原因を究明する能力がなかったことを暴露している。
既にブログで取上げているが、9月5日の読売新聞のインタビューではベントの遅れについて次のように発言している。
菅前仮免「(格納容器内の蒸気を放出する)ベントをするよう指示を出しても、実行されず、理由もはっきりしない。説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」
そのブログにはこう書いた。〈人心を掌握することができなかったに過ぎない。いわば東電を掌握できなかった。〉――
菅仮免の責任意識の中には一国のリーダーとして、さらに原子力災害対策本部本部長として職責を与っている以上、原因がはっきりしないということは許されないことだという認識がない。東電が隠しているか、誤魔化している、あるいは菅仮免側が明らかになると都合が悪い状況が起きることから理由・原因の類いを明らかにする気がないか、何れかだと疑わざるを得ない。
「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断」していた。だが、実施は遅れに遅れた。NHK記事が〈「ベント」と呼ばれる作業が遅れたことが、深刻な事態を招いたと指摘されている〉と書いているように遅れたことが事故拡大を招いた懸念は払拭できない。
何度も同じようなことをブログに書いてきて、繰返しになるが、当時の政府対応の経緯を時系列で再度振り返ってみる。
●3月11日午後22時――原子力安全・保安院、「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結
果」を官邸災害本部事務局に提出。
次のような経緯を踏むと予測している。
3月11日20時30分――原子炉隔離時冷却系(RCIC)中枢機能喪失。
21時50分――燃料上部から3メートルの水位。今後さらに下がっていく。
22時50分――炉心が露出する。
3月12日0時50分――炉心溶融の危険性。
5時20分――核燃料全溶融。最悪爆発の危険性。
原子力安全・保安院の「評価結果」は2号機のものだが、1号機がより危険な状態にあると判断して、1号機から対応することにしている。以下1号機を対象とした動き。
1.3月12日午前1時30分頃――海江田経産相、東電に対してベント指示。
(海江田氏、1時間おきに電話でベント開始を催促する。自身が国会答弁で明らかにしている。)
2.3月12日午前6時14分――菅仮免、官邸からヘリで視察に出発
3.3月12日午前6時50分――海江田経産相、東電に対してベント指示から法的拘束力のあるベント命
令に切り替える。
4.3月12日午前7時11分――菅仮免、福島第一原発に到着
5.3月12日午前8時04分――菅仮免、福島原発視察を切り上げ、三陸機上視察に出発
6.3月12日午前9時04分――1号機でベント準備着手
7.3月12日午前10時17分――1号機でベント開始
8.3月12日午前10時47分――菅仮免、首相官邸に戻る
何と3月12日午前1時30分頃のベント指示から7時間34分後に東電はベント準備に着手。その1時間13分後にやっとベント開始に漕ぎつけている。ベント指示からベント開始まで8時間47分も経過している。
東電がなかなか実施しないからと、ベント指示から法的拘束力のあるベント命令に切り替えるにしても、5時間20分もかかった。
ベントが手間取っていた時間帯に菅仮免の福島第一原発視察が挟まっている。ベント実施は放射能放出を伴うことから、菅仮免に被曝させられないと視察の間はベントを控えたのではないかとの疑惑が浮上している。
疑惑の根拠の一つが菅仮免が視察を放射能防護服を厳重に身に纏ってではなく、その当時四六時中着用していた薄青色の防災服のまま出かけていて、国会でも取上げられた。
菅仮免はベント遅れを「その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない」と言っているが、海江田経産相が1時間おきに催促するとき、なぜ遅れているのかその理由を尋ねもせず、東電も遅れている理由を何ら説明しなかったのだろうか。
常識的には考えられないことである。ソバ屋だって、出前の遅れを催促すれば、何らかの理由を言うだろう。
菅仮免は3月11日午後9時23分、第一原発半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の指示を出している。目的は勿論、放射能被曝回避である。翌3月12日5時44分に避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大させている。第一原発から10キロまで放射能物質飛散の危険性の告知でもある。
にも関わらず、自身は30分後の午前6時14分に官邸を自衛隊ヘリで飛び立ち、7時11分に原発に到着、放射能防護服ではなく防災服で視察を行った。放射能物資の飛散など関係ないかのような光景である。
菅仮免は自身は「原子力に強い」とその知識を誇った。内閣参与に原子力専門家を複数抱え、原子力安全委員会、原子力安全・保安院といった原子力関係の政府機関からアドバイスを受ける立場にある。「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断していながら」と言っているようにベント実施の緊急性は承知していた。
自身も認めていたその緊急性に反してなぜ遅れているのか、遅れている時点でその理由を問い質し、明らかにする立場にありながら、NHKのインタビューでは「その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない」と言い、読売のインタビューでは「説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」と自身の立場を蔑ろにしたことを言っている。
まさに一国のリーダーだったのだろうかと疑いたくなる、立場上の責任意識が全然伝わってこない発言としか言いようがない。
NHKのインタビュー記事は次に東電の依然藪の中となっている“撤退”騒動に触れている。
菅仮免(清水東電社長を官邸に呼び出して)「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、言葉を濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」
撤退という選択肢はないことは9月11日(2011年)当ブログ記事――《菅仮免の3月15日東電本社乗り込みはリーダーとして最低の指導性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、菅仮免の上の発言は撤退する、しないいずれに決めるにしても、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」ところで終わっていて、結論を出すまでの手続きを踏んでいない。
このこともリーダーとしての資質を疑わせる態度となっている。何れか結論を出さなければならない議論の場で、「強く申し上げた」だけで終わらせることはできないはずだ。立場上、何れかの結論を得るところまで行き着かなければならない責任を有していた。
勿論、相手がその場では決めかねて、考える時間が欲しい、あるいは他と相談したいといった理由で結論が先延ばしされるケースも往々にしてあるだろうが、だとしたら、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げたところ、相手は考える時間が欲しいと言うことだった」と結論に至らなかった理由を述べ、結論を得るという自らの責任を果たすことができなかった正当な理由を説明しなければならなかったはずだ。
だが、相手の主張が優って結論は撤退ということになったとも、あるいはこれこれの理由で結論は先延ばしされたとも言わず、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」で終わらせている合理的判断能力とその責任意識は一国のリーダーの能力としてはお粗末過ぎる。
清水社長との話し合いの約1時間後に東電本社に乗り込んで、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴ったのは「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせていたことの証拠としかならない。
撤退についての話し合いの場で清水社長が「撤退の意志に変わりはありません」と自身の結論のみで話し合いが打ち切られた、あるいは「時間が欲しい」と先延ばしされたということなら、インタビューその他でそのことへの言及があって然るべきである。そのような言及もなしに東電に乗り込んだのから、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせていた以外の理由は考えられない。
相手をその場で説得させるだけの指導力もない、合理的判断能力も持ち合わせていない。一国のリーダーだったのだろうかと疑わせる最たる事例であろう。
菅仮免は3月12日福島第一原発視察について何度か同じ内容の国会答弁している。
菅仮免「現場の状況把握は極めて重要だと考えた。第一原発で指揮をとっている人の話を聞いたことは、その後の判断に役だった」
事故継続中で現場でそのときのみ情報を得た(話を聞いた)だけでは収まらない、刻々と状況が変化していく未知の進展を抱えている中で、「その後の判断に役だった」とは意思疎通(=情報の疎通)を継続的に図ることができたことを言う。継続的な意思疎通(=情報の疎通)でなければ、「その後の判断」に役立たないことになる。
だが、撤退問題だけではなく、報告の遅れや報告の欠落等の問題が政府と東電の間だけではなく、政府と原子力安全・保安院との間でも生じ、意思疎通(=情報の疎通)を十分に図ることができていたとは言えない。当然、その場その場の判断に微妙に影響を与えたはずだ。
にも関わらず、視察が「その後の判断に役だった」と言っている。強弁としか言えないこの合理的判断能力の欠落が撤退騒動にも発揮されることとなって、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせることができた半端な責任遂行となって現れたに違いない。
次に脱原発姿勢に転じた理由について発言している。
事故直後に政府は最悪の事態を想定したシミュレーションを行ったという。
菅仮免「最悪のシミュレーションまで行けば、首都圏を含めて何千万という単位で人が住めなくなる状況が出てくる。日本という国が、少なくとも今のような形では成り立たなくなる。そういう大きな危険性を避けるためにはどうしたらいいかと考えた末の私の結論が、原発依存そのものから脱却していくことだった」
この発言も初期的対応と大きく矛盾している。
事故直後に最悪の事態を想定した。原子力安全・保安院も核燃料全溶融と最悪のケースとして格納容器の爆発の危険性を予測していた。冷却装置が停止し、格納容器の内部の圧力が設計上の使用圧力を大きく超えたことから格納容器の破裂を防ぐために緊急に内部のガスを外部に放出するベント作業を必要とした。
最悪の事態を想定しつつ先ずは取り掛かるべきことはベントを早急に成功させ、格納容器の爆発の危険性を取り除き、シュミレーションした最悪の事態の回避を図ることだったはずだ。
だが、そのベントが遅れに遅れ、遅れた理由が今以て分からないなどと言っている。
矛盾はこればかりではない。事故直後のシュミレーションで「最悪のシミュレーションまで行けば、首都圏を含めて何千万という単位で人が住めなくなる状況が出てくる。日本という国が、少なくとも今のような形では成り立たなくなる」と想定しておきながら、最初の避難指示が3月11日午後9時23分の第一原発半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の小規模になぜとどまったのだろうか。
また原子力安全・保安院が3月12日5時20分の時点で「核燃料全溶融。最悪爆発の危険性」と予測した「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」を首相官邸に持参したのは3月11日午後10時で避難指示を出したのがこの27分前だから、間に合わなかったとすることができたとしても、避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大させたのは翌3月12日5時44分であって、原子力安全・保安院が「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」を首相官邸に持参した3月11日午後10時から遅れること7時間44分後である。
2号機の最悪予測としての爆発が3月12日5時20分。この時間からも24分遅れて避難範囲を半径10キロ圏内に拡大させている。
取り敢えずは近隣住民の生命の保全だったはずだが、避難指示がシュミレーションや予測から見て、決して緊急な対応となっていない矛盾がどうしても浮かんでくる。
菅仮免はインタビューの最後に事故の性格を総括している。
菅仮免「原発に対する事前の備えが全く十分でなかったことが、いろいろな対応の遅れや問題が生じた最大の原因だと思う。直接の原因は地震と津波だが、備えが不十分という意味では、私を含めて政治の責任、人災だったと思う」――
この発言は上記ブログ記事に書いたが、読売のインタビューでは次のようになっている。
菅前仮免「事故前から色んな意見があったのに、しっかりした備えをしなかったという意味で人災だ」
上記ブログ記事の繰返しとなるが、要するに原子力安全委員会が全電源喪失という事態を想定していなかったこと、複数の研究者が貞観地震並みの巨大地震と巨大津波襲来の可能性を警告していながら、その警告に対する備えをしてこなかったことを言うはずだが、備え以後の問題として、事故発生後、ベントの遅れ一つとっても、果たして政府として事故に的確に対応できたのかどうか、そういったことに向ける視線も反省もなく、備えの不十分・不徹底のみに人災の罪を着せている。
尤も震災対応は常々「内閣としてやらなければならないことをやってきた」と自負、復旧・復興の遅れ、瓦礫処理の遅れ、被災者救済の遅れに目を向けずにいられる責任意識の持主だから、備えのみに責任をかぶせる人災説も無理はないかもしれない。
だとしても、実際に一国のリーダーだったのだろうかという疑問は逆になお一層募ることになる。 |