安倍晋三、下村博文が意図している道徳教育はクソの役にも立たない

2013-05-05 10:41:10 | 政治

 ――人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――

 一般的に道徳教育は肯定的な価値観に立った行動を、各テーマに添って、ああしましょう、こうしましょう、あるいは逆に否定的価値観に立った行動を、それはしてはいけませんといった具合に決まり事を前提として、それを教え、決まり事通りの行動を求める。悪く言うと、教えた通りの言いなり人間を求める。

 このような道徳教育が成功した例は戦前の国家権力が教育勅語や修身を通して天皇と大日本帝国に対する忠君愛国や社会や親に対する忠孝を国民に吹き込み、そのような道徳観で裏打ちした天皇と日本国家に対する国民の統一的行動を創り出したところに顕れている。

 このことの成果としてあった「陛下のために、お国のために」の国民統治装置なのは断るまでもない。

 そのような戦前の国民統治装置に郷愁を感じているのか、国家主義者安倍晋三にしろ、同じ穴のムジナである下村博文文科相にしろ、国家権力を使って人間形成の名の下、道徳の教科化に執心を燃やしている。

 4月1日(2013年)衆院予算委員会。

 平沼赳夫代表代行がたちあがれ日本を結党したときに入党したというだけで、その国家主義が分かる三木圭恵(けえ)女性議員が自らが望んでいることからの質問である、下村に国定教科書を視野に入れているか問い質し、下村が視野に入れているわけではなく、道徳教育の充実を図る懇談会で議論していく中で決定をしたいと答弁すると、三木は私見はどうだと重ねて質問した。

 下村「これは予算委員会ですので、私見はございません。

 文部科学大臣という立場でいえば、道徳において、子供たちが、より、そのことによって、その時間によって、子供たちの自尊意識と、そして、ルールや社会のマナー、規範意識を含めて学ぶ場として、知徳体の、特に徳の部分が醸成されるような空間、時間をぜひつくっていきたいと思います」――

 道徳教育によって子供たちの自尊意識、ルールや社会のマナー、規範意識を育むと素晴らしいことを言っている。

 果たして安倍晋三や下村博文のような国家主義者の考える道徳教育が国家権力が考える日本人像の植えつけではなく、個人の自律を促す道徳教育足り得るのだろうか。

 三木圭恵がさらに「人権教育と道徳教育のバランスが崩れているがゆえに、今のいじめ問題である」と質問を重ねた。

 下村「例えば、偉人というのは、歴史を超えて、あるいは国境を越えて、人が人として生きる道筋として参考になる、最初から成功している人生ではなくて、いろいろな苦難の中で、それを乗り越えて物事をなし遂げた、だからこそ偉人と言われるんでしょうし、これは特定の国家の価値観をそこに押しつけるということではなくて、例えばそういうエピソードをいろいろと入れることによって、子供たちに生きる勇気なり、自分も頑張ろうという気持ちなりを提供するという意味で、道徳の教科化という中で、いかに子供たちに、よりよい教材等をどう配付するかということについて、今後、(道徳教育の充実を図る)懇談会で議論していただきながら、学校現場でより有効な道徳の時間が活用できるようなバックアップをしてまいりたいと思います」――

 「人が人として生きる道筋として参考になる」からと、道徳教育の中に偉人伝を加えると、結構なことを言っている。

 安倍晋三も、既に一度ブログで取り上げたが、山内康一みんなの党議員が「道徳教育をやったら、イジメがなくなるのか」と、道徳教育に否定的な趣旨で行った質問に対して道徳教育との関連で偉人伝に触れている。 

 安倍晋三「私は子どもとのきに、まあ、様々なことを学んだわけでありますが、まあ、ウソをついていはいけないということについてですね、学校で、まあ、例えばジョージ・ワシントンの桜の木、の話も、乃木大将の話なんかも私の地元でよく話をする話しなんですが、そういうことが記憶として残って、そういうことをしてはならないな、と、いうことが果たして山内さん、いけないんですか」

 確かに安倍晋三は一国の首相である。だが、その認識能力――考える力は疑問符をつけざるを得ない場合が多い。

 偉人は常に肯定的存在として扱われる。一般的には、いわば時代の変化に応じてその業績が否定される特別な場合を除いて、肯定的存在としての扱いは永遠に続くと言ってもいい。

 そのような偉人の成功物語を書き記した偉人伝は成功した人間の話を前提としているゆえに肯定的存在として見る目を通すことになって、その一度や二度の失敗は成功の糧として、あるいは成功へのプロセスとして肯定的な側面から把えられて、否定的評価では見ないことになる。

 人間の失敗は果たして否定的側面を持たない万々歳の失敗ばかりだろうか。

 問題はこのことばかりではない。否定的な観点という対立軸を欠いた肯定的な観点からのみの認識の植えつけは果たして考える力の育みとなるのだろうか。

 偉人伝はまた失敗から成功へと決まりきった段階を踏むストリーとなっていて、固定的なプロットを踏んでいる。

 固定的なプロセスに慣らされることも、知らず知らずのうちに考える力を奪う危険性を抱えていないと言えるだろうか。 

 戦前の国策としての道徳教育は国民の考える力を奪い、忠君愛国や忠孝の名の下、天皇や国家権力といった国家的上位者、親を含めた社会的上位者に無考えに自動的に服従する権威主義を植えつけるのに成功した。

 4月10日(2013年)の衆議院予算委員会で山内康一みんなの党議員の「道徳教育を教科化したら、イジメがなくなるという根拠はどこにあるのか」という質問に下村博文は次のように答弁している。

 下村博文「このたび教育再生実行会議の第一次提言の中でイジメ対策として道徳の教科化というのが提言されました。しかしそれは、国家の特定の価値感を国民に押し付けるということではさらさらないわけでございまして、これは国境を超えて、また歴史を超えて、人が人として生きていくためにですね、学んでおくべきルールとかマナーとか規範意識、あるわけでございまして、こういうものをきちんと学んでいないために知らないうちに、例えば人を傷つける、イジメる。

 加害者にも被害者にも傍観者にもならないという意味では、人が人としてある意味では生きていく。そういう常識的なものをきちっと教えていく必要があるのではないか、ということから、この、おー、道徳の教科化が提言されたことでございます。

 この道徳教育を通して規範意識や自己肯定感、それから社会性、思い遣りの心など、豊かな人間性を育む、ということはイジメ問題を根本的に解決する上で、大きな意義を持つものと考えます」――

 「人が人として生きていくために」「学んでおくべきルールとかマナーとか規範意識」の育み、あるいは「人を傷つけるイジメ」の自己抑制、「社会性、思い遣りの心」と「豊かな人間性」の育みには極めて考える力を要する。

 しかも「自己肯定感」は道徳教育が与える感性と言うよりも、自身が持つ可能性を生かすことができるかどうかで決まっていく感性であるはずだ。

 また「社会性、思い遣りの心」にしても、人と人との関係の中で考え、学んでいくことによって真に身につく感性であるはずだ。

 イジメはこれら逆の感性としてあるものであって、歪んだ可能性の発揮としてある。イジメによって「自己肯定感」、あるいは自己達成感を得る。

 当然、考える力の欠如がもたらす自己能力ということになる。悪く言うと、教えた通りの言いなり人間しか育てないことになる。

 そもそもからして道徳教育の肯定的か否定的か、いずれか一方の価値感を持たせた決まり事を前提として、それを教え、決まり事通りの行動を求める画一性自体が既に考える力を排除している。

 考える力を根としなければ、道徳教育という栄養分を与えようと、どのような教育を栄養分としようが、言われたことを単に受け止めるだけの無考えの自動的な従属人間を育てるだけで、「社会性、思い遣りの心」、「豊かな人間性」、「規範意識」といった頑丈な幹にまで成長することはない。

 だが、安倍にしても下村にしても、「考える力」の育みの必要性に触れずに道徳教育の必要性、道徳の教科化を話している。

 無考えの自動的な従属人間であることの方が国家にとっては都合のいい国民統治となるからなのか、考える力の必要性を欠いていることが道徳教育への偉人伝教育をプラスすることに併行して、あるいは道徳教育の教科化に併行して考える力の必要性に触れていない理由となっているはずだ。

 人間は常に肯定的な存在としての姿のみを見せるわけではない。また逆に否定的な存在としての姿のみを見せるわけではない。肯定的な存在と否定的な存在が非間欠的に交互に現れたり、あるいはどちらかが一方的に現れながら、他方がときたま顔を覗かせたり、あるいはときには同時に現れたりもする。

 考えることができる人間であっても、自己利害に災いされて否定的存在としての姿を見せてしまうことがある。借金に追われて考える力が狭まり、道徳感を失ってつい他人のカネに手をつけてしまうといった例は枚挙に暇はないはずだ。

 人間が例え考える力を持っていたとしても、ましてや考える力を備えていなかったなら尚更なのは予想できることだが、常に肯定的な存在としての姿のみを見せるわけではなく、往々にして否定的な存在としての姿を見せてしまう生きものと言うことなら、肯定・否定いずれかの価値感を持たせた行動を持たせたなりに画一的に求める、結果的に考える力を介在させない道徳教育よりも、肯定・否定いずれの姿も取り得る人間の現実の姿を学習する機会を与えて、人間という存在を考えさせる教育をこそ行うべきではないだろうか。
 
 例えば大津中2男子が陰湿なイジメを受けて2011年10月11日朝自殺した事件を教材として取り上げ、学校の教育委員会に、あるいは教育委員会の市に報告すべきことを報告しなかったり、過小報告したり、公表すべき情報を隠蔽したり、あるいは校長や学校教師のイジメと疑うべきを、その疑いから目を逸らしたりした責任回避の姿を新聞記事等から逐一調査して、そこから人間の否定的存在としての姿を学ぶことをしたなら、否応もなしに人間という存在を考えることになり、否定を学んで逆に肯定を考える教育が可能となるはずだ。

 少なくともああしましょう、こうしましょう、あれこれはしてはいけませんといった画一的な決まり事から離れた、児童・生徒にそれぞれに独自な学びの機会を与えることになると断言できる。

コメント (2)
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