橋下徹日本維新の会共同代表は自身の慰安婦発言を取り上げてマスコミが「橋下徹は慰安婦制度を必要とした」といった文脈で記事にしたことに対して「大誤報だ」と批判、マスコミが誤報ではないと逆批判すると、今度は「認識の違いだ」と言い出したという。
《「誤報」の主張「認識の違い」 慰安婦発言めぐり橋下氏》(asahi.com/2013年5月29日0時3分)
5月28日(2013年)の記者会見。
橋下徹「(報道機関との)認識の違いだから仕方ない。
僕は誤報だと感じている、っていうのも僕の認識として認めてもらいたい」
「J-CAST」記事によると、具体的には次のように述べている。
橋下徹「ここはだから、そちらが(ネガディブ)キャンペーンじゃないと言っても、そうだという風に思っているし、徹底的に慰安婦問題について取り組まれてきた朝日新聞ですから、こだわりもあるでしょうし…。毎日新聞は、いまだに色んな見出しをつけながら事の本質を論じない報道になっている。これはまぁ、ある意味、報道の自由として僕は認めると言っている訳ですから、僕が誤報だと感じているというのも、僕の認識として認めてもらいたい」――
要するにマスコミが誤報ではないと主張していて、橋下徹が誤報だとしていることはお互いの認識であって、その認識に違いがあるが、誤報だとする橋下徹の認識は認識として認めて貰いたいと言っている。
「J-CAST」記事も取り上げているが、橋下徹は日本外国特派員協会での釈明記者会見で「私の認識と見解」と題した一文を読み上げて、その中でも「誤報」だと言っている。
橋下徹「(第二次世界大戦中、各国の軍が女性の人権を蹂躙する問題が存在した)歴史的文脈において、『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報されてしまいました」――
上記「asahi.com」記事はそもそもの発端となった5月13日の橋下徹の発言を紹介することで、朝日記事が「橋下氏『慰安婦、必要だった』」云々と見出しをつけて発信したことが誤報なのかどうか、暗に読者に判断を求めている。
橋下徹「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、そんな猛者集団というか、精神的にも高ぶっている集団は、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる」――
これを軍や政府によって「当時は慰安婦制度を必要としていた歴史的事実があった」と解釈したとしても、「慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる」と言っていることの理解は橋下徹を先頭に置いたすべての人間を主語とした言葉である。
尤も「誰だって」は強調語であって、実際にはすべての人間を指すわけではないし、勝手に加えられたとしたら、多くの人間が迷惑と思うだろうが、橋下徹は慰安婦制度の必要性を、それを当時のこととしても、現在の自身も認めていることになるはずだ。
上記「asahi.com」記事は橋下徹の5月13日の記者会見発言には含めていないが、5月上旬に沖縄のアメリカ軍普天間基地を視察、司令官に海兵隊兵士の綱紀粛正、いわば性犯罪防止に風俗業の活用を進言したことまで記者会見で紹介しているが、進言している以上、当時の政府や軍が慰安婦制度を必要としていたという過去の時点に於ける歴史的事実であることにとどまらず、自身も慰安婦制度を必要と現在も認識していることから発した風俗業活用の進言であるはずである。
橋下徹「海兵隊の性的なエネルギーを解消するために、司令官に対して、『もっと風俗業を活用してほしい』と言ったら、司令官は凍りついて、『禁止している』と言っていた。法律の範囲内の風俗業は認めないと、建て前論ばかりでやっていたらだめだ」(NHK NEWS WEB)
当時の軍や政府が慰安婦制度を必要とする歴史的事実があった。しかし自分自身は慰安婦制度を認めているわけではないとしたなら、風俗業活用の進言といった発想は出てこない。
いわば、マスコミが橋下徹を主語に置いて「慰安婦制度必要だった」と見出しをつけようが記事を書こうがも、誤報でも何でもないことになる。
橋下徹は「(報道機関との)認識の違いだから仕方ない。僕は誤報だと感じている、っていうのも僕の認識として認めてもらいたい」と言っているが、大体が「誤報」を認識の違いとは言わない。
橋下徹も「僕の認識として認めてもらいたい」と言っているように、一般的には認識の違いは相互の認識を認識として相互に認め合う関係にあるが、誤報は誤報として相互に認め合う関係にはない。
いわば誤報を認識の違いで片付けることはできない。
誤報と言うからには相手の認識は間違いだと断罪しなければならない。認識の違いだと言ってはならない。
誤報を認識の違いで片付けることができたなら、誤報によって名誉を傷つけられたとしても、裁判に訴えることはできなくなる。断るまでもなく、認識の違いで片付けることができるようになるからだ。
橋下徹が「誤報」だとしたことを「認識の違い」に持っていったことは、「誤報」で押し通すことに自信を失ったからなのは明らかである。いわば自分自身が慰安婦制度を必要としていたことを認めざるを得なくなったが、認めるのは橋下徹としての自尊心が許さず、支持率や人気にも影響するから、なおしぶとく認識の違いで「誤報」を押し通そうとしているといったところなのだろう。
だとしても、マスコミ報道を「誤報」だと一旦は決めつけたことを「認識の違い」にすり替えるのは牽強付会そのものである。
「認識の違い」とせずに「誤報」で押し通してマスコミと遣り合えば、さらにボロを出すに違いない。