安倍晋三は侵略の定義に立ち入りながら、立ち入らないといくらでもウソをつく自己都合主義者

2013-05-10 09:29:22 | 政治

  昨日のブログで「NHK憲法に関する意識調査」をリンク付きで取り上げましたが、各種世論調査が載っているページをまだ気づいていない読者のために紹介しておきます。

 『社会や政治に対する世論調査』(NHK放送研究所)  

 4月23日(2013年)の参院予算委。

 安倍晋三「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」(MSN産経) 

 安倍晋三は侵略の定義が国際的に定まっていないことを理由に日本の戦争の侵略性を否定した。少なくとも「侵略という定義は国際的にも定まっていない」のだから、日本の戦争が侵略戦争だとはまだ国際的に定義づけられたわけではないとした。

 後者の意味で言ったとしても、日本の戦争の目下のところの侵略性の否定となる。

 また、「国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」と言っていることは中国や韓国、あるいはアメリカが日本の戦争を侵略戦争だと見ていることに対する国による見方の違いを言ったのであって、やはり日本の戦争は侵略戦争ではないと否定したことになる。

 侵略戦争と把えるか、把えないかも歴史認識である。どう認識するかで定義は決まっていく。その根拠は後で述べる。

 安倍晋三は侵略の定義は「国際的に定まっていない」と言いながら、自分自身の侵略の定義(日本の戦争は侵略ではないとする定義)に立ち、日本の戦争は侵略戦争ではないとする歴史認識を披露したのである。

 いわが「国際的に定まっていない」とウソをつく自己都合に走ったに過ぎない。

 安倍晋三の上記発言に中国や韓国が反発。アメリカのワシントン・ポスト紙が電子版社説で「歴史を直視していない」と批判。5月3日ワシントンで開催の歴代駐日アメリカ大使等出席のシンポジウムでシーファー元駐日大使が、「河野談話を見直せば、アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」と警告。

 朴槿恵韓国大統領が5月7日(日本時間8日未明)オバマ米大統領と会談、「北東アジア地域の平和のためには、日本が正しい歴史認識を持たなければならない」(時事ドットコム)と名前は出さないが、安倍晋三の歴史認識を批判。

 さらにこの後、朴槿恵韓国大統領は翌5月8日午前10時30分(日本時間 5月8日23時30分)上下両院合同会議で演説、「歴史に目をつぶる者は未来が見えない。歴史に対する正しい認識を持てないことは、今日の問題でもあるが、さらに大きな問題は、明日がないということだ」(時事ドットコム)と批判しているが、この上下両院合同会議演説に先立つ5月8日午前中の参議院予算員会で、韓国等の反発に関して安倍晋三は自分自身の侵略の定義に則って自らの歴史認識に自己都合なウソを更に重ねている。

 《首相「アジアに苦痛の認識 過去と同じ」》NHK NEWS WEB/2013年5月8日 14時8分)

 安倍晋三「侵略の定義は、学問的なフィールドでさまざまな議論があり、政治家としてそこに立ち入ることはしないということを申し上げた。絶対的な定義は、学問的には決まっていないということを申し上げた。

 かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ。その深刻な反省から、戦後の歩みを始め、自由と民主主義、基本的な人権をしっかりと守り、多くの国と共有する普遍的な価値を広げる努力もしてきた」

 後段の「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは」云々は自らの歴認識を曖昧化するレトリックに過ぎない。嘘八百だということである。このことは後で証明する。

 問題は前段の「侵略の定義は、学問的なフィールドでさまざまな議論があ」ると言っていること、「政治家としてそこに立ち入ることはしない」と言っていること、「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」と言っていることである。

 散々に立ち入っていながら、「立ち入ることはしない」とウソをつく。批判や反発を受けて形勢不利となると、自己都合にもウソで塗り固めたゴマ化しで逃げる。

 そもそもからして侵略の「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」と言っていること自体が真っ赤なウソである。実験や実証によって裏付けを可能とし、共通性を持たせることができる自然科学の物理や数学の定義ではない。例え文献という形で資料が残されていても、その文献自体が多分に人間の解釈、安倍晋三が4月23日の参院予算委で「どちらから見るか」と言っていた見方を介在させることで成り立たせている社会科学である歴史にそもそもからして「絶対的な定義」などは存在しない。

 だからこそ、一つの歴史的事件に題材した解釈の異なる歴史小説が存在することになる。「絶対的な定義」が存在したなら、異なる解釈を許さないことになって、同じ題材の解釈の異なる歴史小説自体も存在しないことになる。

 当然、「絶対的な定義」は学問によって決めることができない。学問ができることは自らが定義づけた学説、もしくは解釈をより多くの人によって受け入れられ、一般的な定義・一般的な解釈として定着するかどうかである。

 「絶対的な定義」が存在しないことは現在でも、ドイツその他でヒトラーを信奉し、善なる存在とするネオナチストが跋扈しているいることが証明している。ヒトラー信奉者はナチスドイツの戦争を侵略戦争と認めはすまい。

 侵略の定義は戦争を自分はどう解釈するかに決定権がかかっている。あるいは学者等の第三者のどの主張を取り入れるかである。第三者の主張を取り入れることも自身の解釈の内に入る。

 その定義が社会的に一般性を持ち得ることによって社会的な認知を受けることになる。あるいは国際的に一般性を持ち得ることによって国際的な認知を受ける。

 要するに安倍晋三は歴史に「絶対的な定義」など存在しないのに「絶対的な定義は、学問的には決まっていない」をゴマ化しの理由として日本の侵略戦争否定の自らの歴史認識を曖昧化するウソを働いたのである。

 歴史に「絶対的な定義」が存在しない以上、自分はどう解釈するかである。あるいはどう認識するかである。さらには学者等の第三者のどの主張を取り入れるかである。第三者の主張を取り入れることも自身の解釈、あるいは認識の内に入る。

 言葉を言い換えると、日本の戦争は侵略戦争だと解釈する歴史認識に立つか、侵略戦争ではない、自存自衛の戦争だった、あるいは植民地解放の正義の戦争だと解釈する歴史認識に立つかどうかである。

 安倍晋三は日本の歴史に対して機会あるごとに自らの解釈を施し、後者に立つ歴史認識を示している。

 例えば2006年7月初版の自身の著作『美しい国へ』で歴史認識に踏み込み、日本の侵略戦争を否定している。いわば侵略の定義に立ち入って、否定を自らの定義としている。

 既にブログに利用した一節だが、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』と題して次のように自らの歴史認識を述べて、その歴史認識を以って自らの侵略の定義としている。

 安倍晋三「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか。当時の私にとって、それは素朴な疑問だった。

 例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとの一言で片付けられることが多い。しかし、果たしてそうだろうか。

 確かに軍部の独走は事実であり、最も大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」――

 「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか」と言っていること自体が善悪二元論による解釈の否定、歴史認識の否定であって、その否定は戦前の日本の肯定論、戦前の日本の戦争の肯定論となる。

 全体として言わんとしていることは当時のマスコミ・国民が支持していたのだからという理由で間接的に日本の戦争を正当化し、正当化を通して侵略戦争であることを否定する歴史認識を披露、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』とする論理を自らの侵略の定義としたのである。

 「マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していた」と戦前の日本を肯定している以上、「かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えた」としている歴史認識は肯定の否定という矛盾を来すことになる。

 自らの歴史認識、侵略の定義を明らかにした場合の批判を避ける曖昧化のためのレトリックに過ぎないとした根拠はこの点にある。

 もしマスコミ・国民が支持していた軍部が誤ってアジアの国々と人々に多大な損害と苦痛を与えたとする文脈での歴史認識、侵略定義であるなら、「歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか」と言って、そこに肯定の意思を置くことはしないし、置くこと自体が既に矛盾そのものの表現となる。

 上記文脈であるなら、戦争とその加害は軍部とマスコミ・国民の共同責任となり、マスコミ・国民の責任に関わる言及もあって然るべきだが、言及はないし、軍部の責任も軍部の責任として言及すべきを、その最大の責任を時の指導者に転嫁し、軍部なりの責任を免罪している。

 だからこそ、安倍晋三は「A級戦犯を国内法的には犯罪者ではない」と免罪扱いができるのだろうし、免罪扱いを通して日本の戦争そのものを肯定することができていたはずだ。

 また安倍晋三が同じ『美しい国へ』で、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と言っていること、2012年9月2日日テレ放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で、「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」と言っていることは戦前の大日本帝国憲法上の天皇独裁体制、国体そのものの肯定であって、そのような国体下で演じることとなった日本の戦争をも肯定に含んでいるはずである。

 いわば安倍晋三はここでも自らの歴史認識を示し、一般的に侵略戦争だと言われている日本の戦争に対して,それを否定する自らの侵略の定義を下した。

 また安倍晋三が日本国憲法は占領軍がつくった憲法だから、日本人自身がつくり直さなければならないと言っている占領政策否定・日本国憲法否定は自らの歴史認識に立った考えであり、占領政策が日本の戦前の侵略戦争・軍国主義(ファシズム)のアンチテーゼとして存在し、その集大成が日本国憲法である関係から言うと、当然、侵略戦争・軍国主義(ファシズム)であったことの否定を意味することになる。

 いわば安倍晋三は占領政策と日本国憲法に対して自らの歴史認識を下し、政治家として自らがこうだとする侵略の定義に立ち入って日本の侵略戦争の否定を導き出した。

 このように「侵略という定義は国際的にも定まっていない」と言いながら、その言葉に反して日本の侵略戦争の否定という自らの侵略の定義を打ち立てるウソを平気でついている。

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