百田尚樹が6月25日の安倍シンパ若手議員約40人出席の「文化芸術懇話会」で講師役を務めて、軍隊を持たない小国を貶(けな)したといくつの記事が伝えていたが、その貶し言葉は持ちネタだったと次の記事が伝えている。
《百田尚樹氏、ナウルなどを「くそ貧乏長屋」 よく使う持ちネタだった》(The Huffington Post/2015年07月01日 10時54分)
記事では「くそ貧乏長屋」と「くそ」を平仮名表記しているが、私自身は「クソ貧乏長屋」と片仮名表記することにする。理由はこの語に関しては片仮名表記の方がより強めた響きを持つのではないかと自分では思っているからである。
記事は、〈2014年5月にも、自民党岐阜県連定期大会で講演し、同様の趣旨のことを述べて国会議員らから問題視されていた。〉と書いている。
それが今回の「文化芸術懇話会」でも飛び出した。このことが「持ちネタだ」としている理由なのだろう。
百田尚樹「自衛権、交戦権を持つことが戦争抑止力につながる。軍隊を家にたとえると、防犯用の『鍵』であり、しっかり『鍵』をつけよう。
世界には軍隊を持たない国が26カ国ある。南太平洋の小さな島。ナウルとかバヌアツとか。ツバルなんか、もう沈みそう。家で例えればクソ貧乏長屋。獲るものも何もない。泥棒も入らない。
アイスランドは年中、氷。資源もない。そんな国、誰が獲るか」(下線個所は解説文を会話体に直した。)
記事はこの発言に参加者から笑いが起きたと書いている。
この発言の表記は漢字の「獲る」を使ったが、記事自体は「とる」と平仮名表記となっている。だが、軍隊を持たない小国の名を挙げて「誰がとるか」と言ったのだから、「奪う」漢字の「獲る」を使った方がふさわしいと考えて漢字を使うことにした。
百田尚樹は軍隊があるかないかで国の立派さを決める基準としているようだ。
となると、軍隊を持たないナウルとかバヌアツよりも韓国や日本やアメリカに対して軍事的な威しをかけている北朝鮮の方が遥かに尊敬すべき立派な国ということになる。
百田尚樹は2014年5月の自民党岐阜県連定期大会講演での「クソ貧乏長屋」発言のあとで「ギャグやった」と釈明したという。2014年6月1日出演のフジテレビ系『ワイドナショー』では次のように発言。
百田尚樹「講演では、戦後いかに日本人ががんばって、日本を立て直したという話を1時間半ほどした。(ナウルなどの話は)そのなかの、ほんの数十秒。話の『枕』に使った程度。
新聞には書かれていないが、世界は200カ国ほどあるとの話をした。そのうち、軍隊を持っていないのは20数カ国。カリブ諸国や南太平洋の小さな国々で、ナウルは世田谷区の半分ぐらいの広さしか無い。家に例えたら“クソ貧乏長屋だ”と言った。あまり貧乏で入った泥棒も、お金でも置いていこうかと思うほどだと言ったら、みんなどっと笑った」
番組出演者「“クソ”や“貧乏”という表現は必要なかったのではないか」
百田尚樹「金持ちの長屋と勘違いしてはいけない。(百田氏の出身地の)大阪には、(言葉を)強調するために“クソ”とか“ど”とかつける癖がある。よりいっそうわかりやすくするため。
以前『たかじんのそこまで言って委員会』という番組に出演したときも、同様の発言をしたことがある。みんな完全なギャグだとわかっていたから、問題にならなかった」(下線個所は解説文を会話体に直す。)
それはそうだろう。「たかじんのそこまで言って委員会」の出演者の殆どは百田尚樹と同じ右翼思想の持ち主、お仲間である。ギャグであろうとなかろうと、お仲間の発言として受け入れたはずである。
番組出演者「配慮が足りなかったなとかと思わないのか?」
百田尚樹「でも、事実でしょ?(自分も)貧乏長屋で育った。貧乏を恥とは思っていない。まあ、品がなかったかも。“クソ”は撤回していいかな」
ここにはいくら小国といえども国家の体裁を成している個人の問題ではない存在を自分が貧乏で育ったという個人の問題である生い立ち、あるいはそのことを恥とは思っていない個人的感想を同列に扱う狡猾なすり替えがある。
百田尚樹は6月25日の「文化芸術懇話会」講演後も、2014年5月の自民党岐阜県連定期大会講演後に「ギャグやった」と釈明したのと同様に、「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」といった発言や、「もともと田んぼの中にあって周りに何もない普天間基地の周辺に選んで住んで、騒音がうるさいと言ったり、基地の地主たちは大金持で、基地が出て行くと偉いことになる」といった趣旨の発言を「冗談で軽口」、「飲み屋でしゃべっているようなもの」と釈明している。
批判を受けてから、ギャグ、冗談、軽口、飲み屋のお喋り等々と釈明するのは一般人ならまだしも、文化人として各所から講演依頼があったりテレビに出演したりして、その発言が様々に影響を与える関係を不特定多数の人間と結んでいる仮想の契約にあるにも関わらず、その契約を無視することは自身の言葉に責任を負っていないことになって、文化人として卑怯な振舞いとなる。
特に2014年5月講演発言を「ギャグやった」と釈明、「まあ、品がなかったかも。“クソ”は撤回していいかな」と言いながら、6月25日の「文化芸術懇話会」で再び「クソ貧乏長屋」を使って、自身の言葉に責任を持たない無責任さを曝け出している。
百田尚樹が「クソ貧乏長屋」と貶したナウル、バヌアツ、ツバル、アイスランドは国家規模の点で例え極小国家、もしくは小国であったとしても、国民・主権・領土の国家の3要素を持った国家そのものである。
当然、「クソ貧乏長屋」と貶すことは国家の3要素のうちの国民をも貶すことになる。
現実社会の粗末な長屋を「クソ貧乏長屋」と貶すことがそこの住人をも貶していることになるのと同じである。住人を例えどんなに貧しい暮らしをしていても、それぞれを一個の個人として見ていたなら、「クソ貧乏長屋」などといった蔑視の言葉は口が裂けても出てこないだろう。
例え百田尚樹にそのつもりがなくても、「クソ貧乏長屋」と貶すことでナウル、バヌアツ、ツバル、アイスランドなどの国家ばかりか、それぞれの国民をも貶していたのである。
国民を貶(けな)すということは劣る国民、劣る存在者として見ていることを意味する。
劣る能力の対象は頭脳や人間性であろう。頭脳や人間性を劣ると見ることによって、その劣等視の延長上に人間的要素としての、あるいは社会的要素としての文化・教養をも劣るものと価値づける。
例え人種や民族を基準に置かなくても、他国民を頭脳や人間性、文化・教養の点で自国民のそれらの能力よりも「クソ貧乏長屋」だと遥かに劣ると価値づけることは人種差別以外の何ものでもない。
「クソ貧乏長屋」なる蔑視の言葉は単なるギャグでも冗談でもなく、また単に小国を小バカにした(大バカにした?)言葉であることにとどまらず、人種差別発言そのものであり、百田尚樹は人種差別主義者の姿を図らずも露わにしたことになるはずである。