1カ月以上も前の記事になるが、《「日本ぼめ」なぜ受けるのか、何が心に響くのか》(asahi.com/2015年6月15日21時37分)なる記事が冒頭、〈かっこいい日本、「クールジャパン」を海外に売り込もう。そんな動きの一方、日本のここがすごいという外国人のほめ言葉がよく伝えられる昨今。少し、熱くほめられすぎてないか?〉の出だしで、昨今の主としてテレビ番組の“日本ボメ”の現象を取り上げていた。
記事は2人の人物にこの現象を解説させている。一人はライター・編集者の武田砂鉄氏。聞き手は畑川剛毅記者と村上研志記者。
〈■肯定ばかり、だから安心
テレビ番組で、日本のラーメン屋の行列を「美しく冷静に行列に並ぶことができるのは日本人だけ。規律正しい国民だ」と外国人のキャスターにリポートさせていた。併せて流した映像は裕福ではなさそうなインド人がバケツを持って並ぶ姿。そこまでして「日本」をたたえますか。
僕も日本は好きです。しかし、何でもかんでも日本を褒めがちな風潮は気持ち悪い。外と比較し、外を下げて、自分たちを持ち上げる。「日本アゲ」ですね。欧州の先進国でも電車の発車時刻は遅れて当たり前なのに「定刻発車できる日本はすごい」とか。
1998年から3年半、「ここがヘンだよ日本人」という番組がありました。世界から見ると日本人はこんなにおかしく見えるよと、それを面白がり、笑いのめす度量があった。今なら「自虐的だ」と叱られるのでしょうか。「世界の日本人ジョーク集」が売れたのは約10年前。自分たちを笑う余裕がありました。
書店の店頭で目立つ、日本を褒める本は三本柱です。ただただ称賛する本、中国や韓国をけなす本、「昔の日本人と比べ今はだらしない」と叱る説教調の本。嫌中・嫌韓本はヘイトスピーチの社会問題化などで失速気味。その分を「褒め本」が埋めています。
三本柱の購読層は重なり、中心となるのはいずれも50代以上の男女。中韓への鬱憤(うっぷん)を日本アゲで埋める構図です。ひと昔前までは「日本の方が上」と余裕で感じていられた状況が、中韓の経済規模拡大で変わった。日本褒めは、プライドが崩れた中高年を優しく慰め、安心材料を提供しているともいえます。
安心の作り方も粗雑です。ある本は「日本を褒める」本文の多くが、ネットに投稿された外国人の日本を称賛する書き込み。一面的なところがウケる。物事には否定的な見方も肯定的な見方もあるはずなのに肯定以外は切り捨てる。それを繰り返し「日本はやっぱり素晴らしい」「まだ大丈夫だ」と安心する。
現状を精緻(せいち)に分析し、解決策をあれこれ探る難しい本よりも、風邪薬の効能書きの「熱が出たらこの薬」みたいに、「不安になったら日本アゲを読め」という図式が出来上がっているのでしょう。
もう一つ気になるのは、行列や定刻発車という個別事例がいきなり「日本という国」「日本人」という「大きめの主語」に昇華してしまうこと。理解に苦しみます。行列に整然と並ぶ姿が、なぜ「日本人はすごい」に直結するのか。
「せっかく褒められて気持ちよくなっているのに、気の利かない野郎だ」と思われようとも、その都度立ち止まってぐずぐずと考え続ける以外にないと思う。さもないと、いつしか「大きめの主語」に取り込まれ、翻弄(ほんろう)されてしまいます。〉――
「美しく冷静に行列に並ぶことができるのは日本人だけ。規律正しい国民だ」はその通りだろう。だが、この手の規律は全員が全員とは言わないが、その多くが自律的・主体的な規律ではなく、世間の慣習を権威として、その権威に機械的に従属する規律に過ぎない。
自律的・主体的な規律であったなら、煙草の吸殻の処理に於いても、空き缶や空きビンの処理に於いても、同じように自律的・主体的な規律が発揮されて、ポイ捨てといった状況は起きることはなないだろう。
最近は社会的なルールが厳しくなって、吸い殻のポイ捨ても空き缶や空きビンのポイ捨ては少なくなったが、このこと自体が自律的・主体的な規律とは反対のルールに従えという他律性の規律に従属した行動であることを示しているのだが、それでも雑草が生い茂っていて捨てたあと人目につきにくい川原や、車の窓から捨てても、植え込みの陰に隠れて同じく人目につきにくい道路の中央分離帯などには大量のゴミやビン・缶が今なお棄てられている。
要するに規律正しい行動も規律正しくない行動も、自身が決めたあるべき規律――自律的・主体的な規律に基づいた行動ではなく、多くは世間の目を基準として行動しているということである。
また、規律がそれぞれの自己を基準とした自律的・主体的なものとなっていないから、“日本ボメ”という他人の仕掛け――他律性の仕掛けにそれぞれは良し悪しがあるのだとする相対的思考能力を欠如させて簡単に乗せられることになる。
もう1人はタレントのパックンことパトリック・ハーラン氏。
〈■親切で安全、実際いい国
来日して22年になります。数年前まで「日本てダメだよね。そう思わない?」と短所を挙げて同意を求められることが多かった。指摘してほしいというお願いも多かった。
「日本語が難しいから国際化ができない」「日本人は創造性がなく物まねばかり」「ネクラでしょう?」。マイナス思考に陥ってしまった日本人が、マイナス面を裏打ちしてくれる情報を欲しがっているのかな、こんなにいい国に住んでいるのに、なぜコンプレックスを持つんだろうと、すごく不思議でした。
僕は日本人の明るくよく笑う国民性が好きです。意外かもしれないけど、ネクラでもない。大体は優しく親切で丁寧だし、自分からは動かないけど「困ってる」と助けを求める人は必ず助ける。日本人のよさ、だと思いますね。
日本がいい国、誇るべき国なのは間違いないですよ。アメリカでは、もう20年前には「働き過ぎ」以外、かっこいい国だと思われていたんじゃないかなあ。物事がきちんと処理される国だし、お尻が洗える便座をつくってしまうとか、発想力が豊か。何より安全です。
それに、僕は結構かっこいいイタリア製の自転車に乗っていますが、鍵をかけなくても一度も盗まれたことがない。アメリカの友人に話してもなかなか理解してくれません。落とした財布は戻ってくる。羽田空港のコンコースで席をとるために置いたスマホも盗まれないんだから。そんな国、確かにほかにないよ!〉――
「自分からは動かないけど『困ってる』と助けを求める人は必ず助ける。日本人のよさ、だと思いますね」と言っているが、「自分からは動かないけど」という行動性自体に自律的・主体的な規律に基づいた行動ではない、日本人の他律性を窺うことができる。
しかしこれはあくまでも傾向であって、時と場合に応じて自律的・主体的に行動する場合もあれば、上や周囲からの指示や命令に基づかなければ行動できない他律性に縛られる場合もあるだろうし、あるいは前者・後者いずれかの傾向に傾いた行動ということもあるだろう。
要するに同じ日本人でも人それぞれなのであって、日本人であること――日本人性によって決まるわけではない。
テレビでは頻繁に「落とした財布は戻ってくる」を神話として取り上げているが、《平成26年中 遺失物取扱状況》(警視庁HP)によると、2014年の現金の遺失届約79億6千9百万円に対して拾得届は約33億4千万円となっていて、半分以下しか届けられていない。残りの43億円すべてが失くしたときの状態のまま人目につかない状態で放置されているとは考えにくいから、多くは誰かが拾って、ラッキーとばかりに懐した――ネコババしたと考えなければならない。
遺失届したものの、拾得届がなく、自身のカネを失った者は日本人だけだろうか。そのような日本人の声ばかりか、もしそこに外国人が混じっていたなら、テレビはその声までも拾っていないことになる。
一般的に複数で拾った場合、人は正直になりやすいし、正直であろうとする。お互いが他の人間の目を意識して、狡くなれないからだ。逆に誰もが積極的に正直な行動を取ろうとする。誰もが自分を正直な人間に見せようとするからだ。
だが、一人で他の人間の目のないところで拾った場合、自身の性格に忠実な行動を取ることになる。正直な人間は自身の正直な性格に忠実に届け出るだろうし、狡い人間は自身の狡い性格に忠実にネコババするに違いない。
尤も正直な人間であっても、ときには魔が差して、自身の正直な性格を裏切ることがある。罪の意識を感じながら、拾ったカネに頼ってしまうこともあるだろう。
同じ日本人であっても様々である。日本人として行動様式が似通っていても、似通った行動様式の中での性格の現れ方は様々であって、単純ではない。にも関わらず、武田砂鉄氏が言っているように「物事には否定的な見方も肯定的な見方もあるはずなのに肯定以外は切り捨てる」といった一方的な見方・考え方に陥って、日本人を肯定一方の評価で把えると、それを民族としての全体性だと考えるようになり、日本人は優れていると民族のレベルで優秀とする民族優越意識に囚われることになる。
このことは武田砂鉄氏が「行列や定刻発車という個別事例がいきなり『日本という国』『日本人』という『大きめの主語』に昇華してしまう」と言っていることに当たる。
これらのことを単なる杞憂で片付けることはできない。なぜなら、過去の歴史に於いて何度か日本人の多くが日本民族優越意識に冒されてきているからだ。
最近の日本人の自信は国家主義者で、日本国家を前面に押し出している安倍晋三のお陰なのだろう。
戦争中の日本兵は被占領地の兵士や住民から傲慢で残虐と見られていた。日本国民もアジアの国民を下に見、特に朝鮮人や中国人に対する日本人を遥か上に置いた差別はひどいものがあった。日本民族優越意識に冒されていたからこそできた差別であり、傲慢で残虐な態度であったはずだ。
だが、惨めな敗戦によって日本人は卑屈なまでに自信を失った。日本民族優越意識がウソであったかのように消え失せた。
日本人に再び自信を回復させたのは日本経済の回復によってだった。
かつて日本が急激に高度経済成長の階段を駆け上がっていった時代、朝鮮戦争特需がそのキッカケと弾みをつけた歴史の皮肉な偶然を考えずに自分たちの能力が成し遂げつつある歴史の偉業とばかりに考えて自信過剰となり、日本民族優越意識の頭を再びもたげさた。
そのような姿がアジアの貧しい国々の国民に対して傲慢な日本人を映し出すことになった。一度ブログに書いたことだが、2005年8月5日「朝日新聞」朝刊、《岐路のアジア(8)途上国援助 円借款離れ 中国台頭》はタイのナロンチャイ元商務相の発言を伝えている。
「以前の日本は東南アジアのボスみたいな態度だったが、最近は腰が低くなり、対等に近い関係になった。タイの発展の成果だ」
タイが国力をつけ、その国力そのものから日本も利益を受ける側に立つことになって、下手に上に立つ者の態度は取ることができなくなったということだろう。
このような位置関係の変化はタイだけに限らないはずだ。アジアの国々が経験していった日本の態度の変化であろう。
日本人は少しでも自信を回復すると、自信をもたらす出来事の成り立ちの原因を日本人の優秀さに置く。例えばどの国にも景気の波はあり、波に応じてどの国も景気回復はあるにも関わらず、日本が景気を回復すると、それを日本人の優秀さが原因だとする。
日銀の異次元の金融緩和によって円安と株高が実現したとしても、アメリカと中国が不況であったなら、日本の景気回復の目は見ることはなかったろう。特にこれまでの中国の好景気が影響した日本の景気回復であり、反映と相互性に制約されていることを常に頭に置いた相対的思考を常としていなければならない。
また日本の景気回復は一般国民を置き忘れた景気回復であり、決して完全な形のものではないことも忘れてはならない。
もし日本民族は優秀であるが真正な事実であるなら、一般国民を置き忘れた景気回復などあるはずもない。政治家の政策に矛盾があるからこその置き忘れであろう。
だが、根っからの権威主義的行動様式から、日本民族を最上の権威とすることを欲する意識から逃れることができないため、自信回復が個人として行動するのではなく、優秀な日本人として行動する全体性を招くことになって、その結果、何事も民族の違いで正誤・上下等々を評価するようになり、自ずと他民族に対して上から目線となって、それが日本民族優越意識となって現れて、他の国の国民をして傲慢な人間に映ることになる。
かくこのような日本民族優越意識を免れるためには優秀であるかどうかは民族に関係しない個人の能力に応じるという相対的に物事を把える思考、また優秀であっても、個人の中にあるいくつもの能力の内、限られた能力であって、全ての能力が優秀という万能の人間は存在しないとする相対的思考に立たなければならない。
如何なる国の民族優越意識も、その国の全ての人間の全ての能力を他の民族よりも優秀とし、万能の人間と見做すことによって成り立たせている。その結果、他民族を差別し、蔑視することになる。
ヘイトスピーチも、それを行う自分たちを優秀な日本人であるとし、優秀な日本民族という立場から行っているからこそできる憎悪表現であるはずだ。