改めて砂川事件最高裁判決は集団的自衛権行使合憲の根拠足り得ないし、判決は国民世論に従えと明記している

2015-07-20 09:35:50 | Weblog

 7月19日(2015年)NHK日曜討論が「安保法案 衆院通過 与野党間部に問う」を放送、各党幹部をインタビューした。自民党は副総裁の高村正彦が出演、いつもと同じように集団的自衛権行使の合憲根拠として1959年(昭和34)12月16日の砂川事件最高裁判決を挙げていた。

 高村のいくつかの発言を取り上げて、果たして根拠となり得るかどうか、改めて判決を検証してみることにした。

 高村正彦「(安保法制は)選挙でも公約した。閣議決定して、内容がかなりはっきりしている。その前の参議院議員(選挙)でも公約している。その前の衆議院議員(選挙)でも公約している。そしてはっきりしたものを公約して、それを議論が熟したから、採決する。憲政の常道に従ったと思っている」

 公約がすべて国民に受け入れられるとは限らない。ところが、公約だから正しいという短絡的思考に立っている。数の力を握っている側のこういった思い込みは結果的に数の力で公約を正しいと証明したい欲求に駆られ、そういった証明を当り前とすることになる。

島田キャスター「安全保障の中身がこれ程複雑で、幅の広い法案というものを見たことがない。自民党の国会議員でも分かっている人と分かっていない人の落差というものが非常に大きかった」

 高村正彦「今までの周辺事態確保法というものが皆んな分かっていたかというと、皆んな分かっていない。自衛隊法だって、皆んな分かっていたかというと、分かっていないかもしれない。

 安全保障というものは大変難しいんでね、そのときそのとき、その国の刹那的な世論だけに頼っていたら、自衛隊はできなかったし、日米安全保障条約だもできませんよ。

 あるいはPKO法もできていなかった。その都度大多数の憲法学者は憲法違反だと言ってきたのですから、日本の国民のために本当に必要だ、日本の国の安全のために本当に必要だと思うことは多少支持率を下げてもやってきた。これ、自民党の歴史なんです」

 数の力を持つ側が数の力で公約を正しいとする証明を当り前としているから、国民の世論を刹那的な性格のものと貶めることになる。国民主権であることを忘れ、国家主権に陥っていることに気づかない。

 左の図を見せられて、「納得できないという世論にどう説明するのか」問われる。

 高村正彦「憲法で、憲法の番人、違憲立法の審査権のある終審裁判所、最高裁、決めるわけですね。そこで只一つ、自衛権について出した判決があるわけです。

 その判決では国の平和と安全を維持し、国の存立を全うするための必要な自衛の措置は取り得ることは主権国家として当然であると、こういうことを言っているわけです。

 そしてさらに安保政策のような高度な政治的な問題は国会と内閣に委ねる、一見明白に違憲無効と言わない限り、それでいいんだとこういうことを言っているわけです。

 そしてだから、国の存立を全うする必要な自衛の措置は何かということをトコトン考えたときに、どうしても、例えば朝鮮半島有事のときに米艦を防御するように、どうしても必要な自衛の措置でありながら、国際的には集団的自衛権と言わざるを得ないものが出てくる。その限りでの限定容認しようということで(す)」――

 高村正彦が砂川事件最高裁判決に言っていることを実際の判決の中から拾ってみる。

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

 すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。

 そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである」

 確かに国家の存立を全うするための自衛の措置は国家固有の権利だと言っている。だが、日本国憲法9条2項の戦力不保持・交戦権否認の規定によって生じる「防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意した」ことに照らし合わせて「他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」と日米安全保障条約に基づいて米軍の日本国内への駐留を憲法違反ではないと判決づけたもので、国家固有の権利だからといって、日本が直接自衛権を行使することを認めた内容とはなっていない。

 いわば主権国家は固有の権利として自衛権を持ち、行使できるととする一般論を述べているだけのことで、日本にしても主権国家として固有の権利としての自衛権を持つが、その行使に関しては憲法9条を根拠として一般論から除外している。

 以上のことは以下の文言によって補強されている。

 「(サンフランシスコ)平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章(51条)がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」――

 言っていることは、日本国憲法9条に基づいて「わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み」、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認」していることと、国連憲章が51条によって加盟国すべてに承認している「個別的および集団的自衛の固有の権利」を「わが国内およびその附近にその軍隊を配備する」アメリカ合衆国に肩代わりして貰うことは、先の文言を引き継いで、憲法違反ではないとする趣旨となって、個別的・集団的自衛権の行使を合憲とする趣旨の文言はどこにも存在しない。

 大体が日本国憲法9条に基づいた「わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状」とは、現憲法下では自衛権行使は許されていない状況にあると言っていることに他ならない。

 つまり個別的であろうと集団的であろうと、日本国憲法9条は自衛権の行使を認めていない、行使は憲法違反だと言っていることになる。

 自衛権のアメリカ合衆国肩代わり論は次の文言にも現れている。

 「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうも のであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留する としても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」――

 日本国憲法第9条第2項が「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であって、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」として、外国軍隊の戦力は日本国憲法第9条第2項に言う戦力に当たらず、それゆえに外国軍隊の日本駐留、あるいはその戦力は憲法違反ではないとしている。

 要するに自衛権のアメリカ合衆国肩代わり論となる。

 と言うことは、裏を返すと、日本国政府が「その主体となってこれに指揮権、管理権を行使」する自衛隊戦力は憲法違反となる。

 憲法違反を避けるためには自衛隊の「指揮権、管理権」をアメリカ政府に委ね、日本国駐留のアメリカ軍の指揮下に置く以外にないことになる。

 「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と言っていることの意味は、自衛のための戦力の保持をも禁じたものと解釈した場合、アメリカ軍の指揮下でも、軍隊として行動できなくなるからであろう。

 皮肉な言い方をすると、同条2項を自衛のための戦力の保持を禁じたものとした場合、自衛隊はいくらアメリカ軍の指揮下であっても自衛の戦力としては行動できないが、自衛以外の戦力――侵略の戦力としては行動できるということになる。

 高村正彦は狡猾にも「安保政策のような高度な政治的な問題は国会と内閣に委ねる、一見明白に違憲無効と言わない限り、それでいいんだとこういうことを言っているわけです」と言って、国会と内閣の問題であって、国民の世論を排除しているが、国民の世論を刹那的な性格のものと貶めることができる政治家にふさわしい狡猾な薄汚いすり替えに過ぎない。

 高村正彦が合憲だと言っているのとは反対に砂川最高裁判決は個別的であれ、集団的であれ、自衛権の行使を違憲としているばかりか、国会と内閣に委ねる問題だと言っていることとは反対に国民の世論を重視せよと判決づけている。

 「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて 重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。

 それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」――

 砂川事件最高裁判決は日米安全保障条約に基づいたアメリカ軍の日本国駐留は違憲ではない、合憲であるとする一方、日米安全保障条約そのものについての合憲か違憲かの判断は内閣と国会の判断に従うべきだとしているが、これは前提条件であって、「終局的には」という言葉を使って、最終的にはという意味で、「主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」と、最終判断を国民世論に置いている。

 これは日本国憲法が規定している国民主権という立場からの判断であろう。

 と言うことは、日米安全保障条約そのものの合憲・意見判断のみならず、集団的自衛権の行使を認める・認めないも、砂川事件最高裁判決が合憲とする根拠を与えていない以上、憲法問題に絡む関係から砂川事件最高裁判決に倣って最終的には「主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべき」としなければならないはずだ。

 いわば憲法問題に絡む「高度の政治性を有する」集団的自衛権行使等の問題は国民世論に従えと最高裁は判決を下している。

 だが、安倍晋三を筆頭として高村正彦等、安倍政権閣僚と与党議員は砂川事件最高裁判決に反して判決を集団的自衛権の行使合憲の根拠に置き、なお且つ国民世論を無視している。

 二重の最高裁判決違反ではないか。

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