大西英男の国民の選択や判断に任せるプロセス欠如、民主主義否定の自己絶対の思想に立ったマスコミ懲罰論

2015-07-01 08:40:49 | 政治

 6月25日の自民党所属安倍シンパ若手国会議員約40人出席の「文化芸術懇話会」で、「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなることが一番。経団連に働き掛けてほしい」などと百田尚樹にお願い発言した大西英男が昨日の6月30日、このお願い発言について国会内で記者団に改めて説明したことを「時事ドットコム」記事が伝えている。

 〈常にマスコミの皆さんは(発言を)つまみ食いする。都合のいいところだけ編集し、全く本人の意図と違うような報道が極めて多い。私は政治家や党が財界に圧力をかけて、マスコミを懲らしめろなんてことは一言も言ってない。

 例えば朝日新聞の従軍慰安婦の捏造(ねつぞう)記事。安全保障法制について全く事実無根の、戦争に導く、あるいは徴兵制(に移行するかのような報道)。全く関係ないじゃないか、日本が戦争に巻き込まれないための抑止力を高めようとしているのに。そう(批判的に)報道している一部マスコミがある。こういうことを懲らしめなければいけないんじゃないか。マスコミのやりたい放題じゃないか。何かいいお知恵はありませんか、と百田(尚樹)先生にお尋ねした、勉強会の中で。

 自由主義世界、資本主義社会で、広告料をなくすなんてことができるのか。広告を出す企業は、自らの信念と良識に基づいて選択をしなさいというのが私の気持ちだ。日本の国を過つような、誤った報道をするようなマスコミに対して、広告なんかは自粛すべきじゃないかなと個人的には思う。

 だけど、政治家として、政治権力を使うとか、政党の力でそういうことをやるというのは民主主義の根底を揺るがすことだ。言論の自由や表現の自由というのは民主主義の根幹だ。

 (先の勉強会での「マスコミを懲らしめる」との発言を)野党が党利党略に使っている。われわれが主張しても野党の堅い石頭には通じないだろう。問題があったとは思わない。〉――

 この発言には自己絶対の思想が脈打っている。大西英男自身が自己絶対の思想を脈々とした血としているからなのは断るまでもない

 自己を絶対としているから、安全保障法制に関わる批判的な報道は全て「全く事実無根」であって、だから、懲らしめる権利も資格もないにも関わらず、「懲らしめなければいけない」という発想が生じる。

 自己を絶対としているから、国民自身に向けて言葉で訴えて、どちらの政策が正しいかを選択させる、あるいは国民自身に判断させるという民主主義のルールに則るという発想を持つことができない。

 懲罰は与える主体が常に誰が見ても公平中立な正しさを備えていなければならないが、すべての国民の利害が一致する政策は存在せず、立場に応じて利害が異なる性格を持つ以上、このことを無視して政治家が自分たちの政策は国民全体にとって常に正しいと自己絶対化して、批判するマスコミを懲らしめようと意図すること自体、民主主義に対する越権行為に他ならない。

 大西英男の自己絶対の思想は「日本が戦争に巻き込まれないための抑止力を高めようとしている」という言葉に凝縮されている。

 安倍政権が憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新3要件としている最初の要件、〈わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること〉と規定している、〈わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険〉を伴った〈わが国に対する武力攻撃〉の発生とは戦争そのもの、あるいは戦争の前段階を言うはずである。

 北朝鮮がミサイルを1発日本に撃ち込んだとしても、日本の存立が脅かされるわけでも、〈国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険〉とは言えない。

 だが、このまま見過ごせば日本の存立が脅かされるとの危機感に立って北朝鮮の1発のミサイルに「日本が戦争に巻き込まれないため」だと称して高めた抑止力を有効活用して敵基地攻撃等を以てして応戦した場合、それが正真正銘の戦争に発展しない保証はどこにもない。

 つまり北朝鮮の1発の日本への撃ち込みは戦争の前段階だったとすることになる。 

 戦争に発展した場合、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新3要件としている最初の要件通りの現象を目の当たりにすることになるという皮肉な事態が発生することもあり得る。

 中東やアフリカを活動拠点としている過激な集団テロは主として地元である中東やアフリカを発生場所としていた。誰もが欧米を発生場所とするとは考えてもいなかったろう。だが、中東過激派集団アルカイダによって2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生、3千人余の犠牲者を出した。

 現在では過激なテロは世界のどこで発生してもおかしくないとされている。

 欧米の価値観ではテロは戦争の概念に含んでいなかったはずだが、過激派テロ集団にとってテロは欧米の価値観に対するまさに戦争そのものに位置づけているはずであるし、大掛かりな過激派テロ集団「イスラム国」に対する欧米や中東諸国が有志連合を組んだ攻撃は戦争以外の何ものでもない。

 こういった様々な現象は想定した事態が想定したとおりに収まっている保証はないということの教訓となる。

 だが、大西英男だけではなく、安倍晋三を筆頭として多くが想定した事態が想定したとおりに収まると思い込む予定調和に安住し、自分たちの予定調和だけを正しいと価値づけ、批判を許さない自己絶対に陥っている。

 自民党政策を批判するマスコミに「広告を出す企業」はそれを出すか出さないかは「自らの信念と良識に基づいて選択をしなさい」と選択を強制する意志を働かせ、「日本の国を過つような、誤った報道をするようなマスコミに対して、広告なんかは自粛すべきじゃないか」と懲罰意志を露わする。

 このような意志こそがマスコミに対する広告を手段とした言論・表現の規制そのもに当たるばかりか、これらの意志が政党政策ばかりかマスコミの報道を含めて国民の選択や判断に任せるというプロセスを省き、民主主義を否定する自己絶対の思想で成り立たせている以上、「政治家として、政治権力を使うとか、政党の力でそういうことをやるというのは民主主義の根底を揺るがすことだ。言論の自由や表現の自由というのは民主主義の根幹だ」は自己絶対と両立するはずもなく、単に民主主義のタテマエを述べたに過ぎない口先だけの言葉と堕す。

 大西英男は自らが血としている自己絶対の思想が言論の自由・表現の自由の侵害に当たることになることなどサラサラとも気づかず、自身の発言に「問題があったとは思わない」というお目出度い確信のもと、批判的なマスコミに今後共懲罰を発したい衝動を抱え続けることになるに違いない。

 こういった政治家が直接的に国家権力を握った場合の危険性を安倍晋三を参考にして深く考えるべきだろう。

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