
麻生太郎が安倍晋三が進めている安保法制に対して抗議の電話が殆ど掛かってこないから、マスコミが世論は反対だと言っていることは間違いだといった趣旨のことを7月16日の派閥会合の挨拶で述べたそうだ。
麻生太郎「いま安全保障関連法案が上がりつつある。誠に喜ばしいことだと思っています。ちょっと聞くけど、『とんでもねえじゃねえか』って言って事務所で抗議の電話をもらった人。どれくらい来た? そんなもんか、数十件ね。
普通大体ね、メチャメチャ来るはずなんだ、これ、新聞の言う通りだったら。だって80%反対してるんだもん。もっと来なくちゃおかしい。俺のところだってめちゃめちゃ来るはず。いつもだったら。今度も秘書を並べて待った。でも、殆どかかってこない。
これは間違いなく、日本がより安全なものになるための抑止力を確保するために、自信を持ってみんなこれだけやったんで。ぜひ、きちっとした法案を作り上げて日本の安全が確保されるように、みなさん方の自信と誇りを持ってやっていただけることをお願いしたい」(asahi.com)
まるで世論が80%反対しているから抗議の電話があるだろうと待っていたかのようだ。だが、来ないから、肩透かしを食った?
そんなニュアンスの発言となっている。
国民はその時々でより効果的な抗議の方法を知っていて、その方法を使い分けるはずだ。80%反対の世論など鼻も引っ掛けずになりふり構わずに法案の成立に向けて一直線に突き進んでいる安倍政権閣僚や自民党議員が電話の抗議に耳を貸すだろうか。
「国民にも色々と意見があるのは承知しております。意見の一つとして承っておきます」と、どうってことのない意見の一つに貶められるのがオチだろう。
麻生太郎本人がかつて若者との対話集会で「カネがねえなら、結婚しない方がいい」とか、「稼ぎが全然なくて尊敬の対象になるかというと、なかなか難しいんじゃないか」とか、若者の尊厳を神経を逆撫でするかのように痛めつける発言をしたことがあるが、それに類する問題発言をしたというなら、麻生太郎という政治家個人の人格・資質の問題となって、麻生太郎に抗議の電話をかけるしかないが、現在は財務相であって、安保法制には関係ない部署の人間だから、麻生太郎の事務所に電話して役に立つこともない抗議を誰がするのだろうか。
上記発言当時麻生太郎が閣僚なら、本人にはもとより首相に任命責任を問う抗議の電話もかかってくるかもしれないが、情けないことに首相当時の発言だから、抗議の電話をするとしたら、本人以外にないことになる。
尤もいくら抗議の電話がかかってきても、秘書やその他事務所の人間が受話器を取るだろうから、麻生太郎には痛くも痒くもないだろうが、マスコミが抗議電話が何通あった、抗議メールが何件あったと報道するだけで、批判の対象となっている麻生太郎の言動とその適切性等に関わる情報を社会により広く周知させる力となって、結果として何らかの罰の形を取らせることもできる。
事実学生との対話集会から1週間後の2009年8月30日投開票の総選挙で麻生自民は惨敗し、衆議院第1党の座から転落、民主党に政権の座を譲ることとなった。発言が何らかの罰の形を取らなかったと言うことはできまい。
麻生太郎は国民が抗議の目的に応じてどういった抗議の方法がより効果的と考えているのか、あるいは抗議を向ける対象を誰にするのがより効果的と考えているのかさえ頭に思い巡らす力はないようだ。世論調査にノーの意志表示を示すこと、国会周辺で反対デモを展開することが抗議のより効果的な方法であり、デモで安倍晋三を描いたプラカードを掲げて反対の文字を大書しなくても、抗議の目的自体が抗議を向ける対象を示すことになって、それが安倍晋三だということになる。
いずれにしても抗議の電話が少ないことを以って、肩透かしを食ったものの、その分、新聞の世論調査が示す国民の意思に疑問を抱くマスコミ不信を露わにして、さも国民が賛成しているかのような態度を示した。
麻生太郎のマスコミ不信はこれだけではない。
同じく派閥の会合だが、今度は7月30日の発言だそうだが、7月26日の大分市講演で礒崎陽輔が安倍政権が進めている安全保障関連法案が求められるべき法的安定性を「関係ない」という言葉で否定したことをマスコミ不信の立場から擁護している。
麻生太郎「こういう段階で大分の礒崎(陽輔首相補佐官)が話題に出ていますけれども、一生懸命のつもりで言われているのだと思いますけれども、結果としてマスコミの人たちの手によって(発言が)作りかえられていく。
継ぎ接ぎされてみたり、色んなことがあるわけですから。(自民党の勉強会でメディアへの威圧的発言をした)井上(貴博)先生もそうだ。つながれて別の文章になっちゃうんだもん。俺なんかしょっちゅうやられてきたからよく分かりますよ。だから今日も言いたいこと一杯あるんだけど、秘書から『絶対にこれ以外は言わないでください』と言われて、イヤイヤながら立っていますけれども」(asahi.com)
マスコミは(報道機関)は立法、行政、司法の3権力に続いて第4の権力と言われているが、もし麻生太郎が言っていることが事実なら、第4の権力どころか、立法、行政、司法の3権力を差し置いて、第1の権力に位置していることになる。
いわば立法、行政、司法の3権力はマスコミを第1の権力として、それにひれ伏していることになる。
その割には安倍晋三は2014年12月の総選挙総選挙前にテレビ番組に出演して、番組紹介の街の声は政権の声を反映していない、偏っているとか、側近を使ってテレビ局に報道の公平性・中立性を要請する口実を用いて、マスコミの取り扱いで自政権の有利を図る動きを見せたりしていたのだから、マスコミを第1の権力として崇めているどころか、自分たち権力にとって使い勝手を良くしようとする思惑からのみ扱おうとしているとしか見えない。
問題は麻生太郎が言っているようにマスコミが発言の意図を歪めて別の意味内容に情報操作しているのか、あるいは言おうとしていることが実際は何を意味することになるのか気づかないままに発言して、発言したあとも気づかずにいるために、批判されると、自分の意図と違うと逆にマスコミを批判することから起こるマスコミ不信なのかということである。
マスコミが実際に政治家その他の発言をその意図を歪めて別の意味内容に情報操作して報道することは絶対ないと言い切れないが、よくある常習性を持った報道姿勢だということなら、事実を伝えることを使命としているマスコミ自体がその使命を裏切ることになって世の批判に耐えることができるだろか。
国民の多くはそれを見抜く力を持っているのだから、耐えることはできまい。
と言うことなら、7月30日の発言は言おうとしていることが実際は何を意味することになるのか気づかないままに発言して、発言したあとも気づかずにいるために、批判されると、自分の意図と違うと逆にマスコミを批判するマスコミ不信と見ないわけにはいかない。
7月16日の発言も含めて、自分たちに不都合な事実は極力見ないようにして、それを都合の良い事実に作り変えようとしていることから起きている麻生太郎のマスコミ不信と言ったところなのだろう。