安倍晋三と同類の右翼国家主義者稲田朋美の東京裁判検証願望、順番は日本の戦争の検証・総括が先

2015-08-10 07:42:58 | 政治


 安倍晋三と同類の右翼国家主義者稲田朋美が7月30日の記者会見で、〈「東京裁判で認定された事実関係を日本人自身が検証、反省し、将来に生かすことが出来ていない」と述べ〉、党内に検証のための組織を設置する考えを示したと8月9日付「YOMIURI ONLINE」記事が伝えていた。

 7月30日の記者会見を伝えるのになぜ8月9日になったのかは分からない。

 自民党のサイトにアクセスして探したが、載っていなかった。稲田朋美が検証の組織設置を検討していることに与党内から懸念の声が出ていると記事が伝えているから、懸念に配慮した措置なのかもしれない。

 記事は画像で、「稲田朋美が想定する検証ポイント」を挙げている。

 ●GHQの占領期間の政策や憲法制定過程
 ●東京裁判で「戦争犯罪」とされた事実の証拠や立証の方法
 ●東京裁判で戦勝国側が「事後法」を適用したという指摘について
 ●東京裁判で「20万人以上」と認定された南京事件の犠牲者数について

 稲田朋美が東京裁判の判決は争わない姿勢を明確にしていて、検証対象は裁判で「戦争犯罪」と認定された事実に関する立証の妥当性などに限る考えだと記事は解説している。

 つまり検証結果がどう出ようと判決に異議申立ては行わず、そのままにしておいて、GHQ側が戦争犯罪と認定した立証の妥当性等の検証に限定するということになるが、検証の結果、立証の妥当性を否定、もしくは不当と判断した場合、判決自体に跳ね返って、判決そのものが否定、もしくは不当と認識させることができる。

 判決を争わなくても、最終的には判決の妥当性に疑義を生じさせることになる。狙いはそこにあるのだろう。稲田朋美のこれまでの言動や安倍晋三の言動からして、最終の狙いは東京裁判の否定や占領政策の否定にあるはずだ。

 否定は何らかの肯定に対する反作用としての構造を取る。ここでの右翼国家主義者稲田朋美の場合は、安倍晋三も同じだが、当然、占領期間終了までの戦後否定は戦前肯定の反作用の構造を取っているはずである。

 戦前を否定すべき時代対象としていたなら、戦後の日本は占領時代を民主主義を襷(たすき)に助走を開始した時代に当たるはずだから、占領期間終了までの戦後の時代を少なくとも次善、あるいはそれ以上の評価づけを行わなければならいはずだが、逆に否定的ニュアンスからの検証の対象としているからだ。

 稲田朋美は今年6月18日の記者会見でも戦後日本の占領政策や今の憲法が作られた過程などについて、党内で独自に検証を行う考えを示していた。

 このことは6月19日の当ブログ記事――《安倍晋三の歴史認識に素っ裸で添い寝する右翼稲田朋美の占領政策と日本国憲法党内独自検証の意向 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げた。

 今回再びブログ記事とするのは、何回でも取り上げなければならないと思っているからだ。

 6月18日の記者会見での発言と似た引き続いての7月30日の記者会見の発言は稲田朋美が検証の党内組織の設置になお拘っていることを示すものであり、同時に稲田の検証願望の強さを物語っているはずだ。

 つまり戦前肯定・占領期間終了までの戦後否定に拘っている。言い換えると、このような歴史認識の確立に拘っている。

 この拘りは安倍晋三の拘りを受けた精神性なのは、上記ブログに取り上げたが、安倍晋三が2012年4月28日の自民党主催の「主権回復の日」に寄せたビデオメッセージが有力な証拠となる。

 安倍晋三「皆さんこんにちは。安倍晋三です。主権回復の日とは何か。これは50年前の今日、7年に亘る長い占領期間を終えて、日本が主権を回復した日です。

 しかし同時の日本はこの日を独立の日として国民と共にお祝いすることはしませんでした。本来であれば、この日を以って日本は独立を回復した日でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした。

 それをやっていなかったことは今日、おーきな禍根を残しています。戦後体制の脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間に作られた、占領軍によって作られた憲法やあるいは教育基本法、様々な仕組みをもう一度見直しをして、その上に培われてきた精神を見直して、そして真の独立を、真の独立の精神を(右手を拳を握りしめて、胸のところで一振りする)取り戻すことであります」――

 安倍晋三のビデオメッセージは明らかに占領期間終了までの戦後否定の思想を渦巻かせている。戦前の政治や国民統治を含めた日本国家の存在性を肯定の対象とした、その反作用としての戦後の否定と見なければならない。

 6月18日の記者会見では稲田朋美は検証の必要性の理由を、「(東京裁判の)結果を否定するつもりは全くないが、判決理由の中に書かれた歴史認識はあまりにも杜撰(ずさん)なもので検証は必要だ」と述べた。

 そこで上記ブログ記事に次のように書いた。

 〈だとしたら、東京裁判の歴史認識の杜撰さを証明するためには、東京裁判は戦前の日本の戦争が導き出した一つの結果でもあるのだから、日本の戦争に関わる歴史を正しく検証・総括し、検証・総括したその歴史認識と東京裁判の歴史認識を比較対照、これこれこのとおり杜撰だと指摘しなければならない。

 だが、日本の戦争の歴史は今までも一度も検証・総括しないまま、尚且つ比較対照上必要不可欠で、順番から言ったら先に行わなければならないにも関わらず、検証・総括する意思も見せずに東京裁判の歴史認識だけを検証しようとしている。

 ある特異な凶悪犯罪者のその犯罪に至る心理を知るためにどういった親子関係・人間関係のもと、どういった家庭環境・地域環境に育ったのかの検証もせずに、犯罪を行った一時期の行動を把えて、その人間性を検証し、答を出すようなものである。〉――

 ここに書いたように順番から言って日本の戦争の検証・総括が先でなければならないはずだが、そのことに触れることなく占領期間終了までの戦後の検証を先にしている。

 この発想の構造自体にも、戦前肯定・戦後否定思想の反映を読み取らないわけにはいかない。

 当然、戦前肯定に裏打ちされた戦後否定の検証という姿・構造を取るはずだ。

 このようなご都合主義の歴史認識は許されるはずはない。

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