民主党の蓮舫が8月10日参議院予算員会で新国立競技場建設見直しや見直しに至る建設費の高騰とその過程での関係部署の情報の共有等について質問した。対して安倍晋三は答弁の中で一国の首相を務める政治家に相応しくない見識の低さを見せつける発言を行ったが、蓮舫はそれを突いて、本当に日本の首相なのかとその資質を国民に疑わせる折角のチャンスを逃した。
蓮舫「総理の新国立競技場建設の見直しを率直に評価します。白紙撤回の理由は何ですか」
安倍晋三「白紙撤回は建設費が嵩んできた中に於いて、国民的な批判もあり、アスリートの皆さんからも競技場の建設に膨大な予算を使うよりもアスリートの育成や強化費も含めて、あるいはスポーツ環境をより改善していくことのために国家資金を使う必要があるのではないかとという意見があったわけでございます。
オリンピックというのは国民の祭典であり、主人公は国民一人一人であり、アスリートの皆さんが主人公である中に於いて多くのみなさんから祝福される大会にならなければならない。このような考えから白紙撤回した」
蓮舫「国民の声に背中を押されたと理解してよろしいですか」
安倍晋三「これは国民の皆様の大会として、その大会の大きな競技場となる競技場に対しておかしいという声が上がっている以上はやめるべきだと考えたところでございます」
蓮舫「安保法案の説明が不十分と考える国民が8割。反対が6割。今回の成立反対が7割。安保法案の国民の批判が新国立競技場と同じく高く、更に歴代法制局長官、憲法学者、元政府関係者、自民党前国会議員が批判という批判の声を上げています。
この声には応えて見直ししますか?」
安倍晋三「政策一つ一つについて世論調査の結果に添って判断するんであれば、国会議員も政府も要らないと言うことになってしまうわけでございまして(自民党議員だろう、委員席から笑い声が聞こえる)、ご覧の(?)形式の中に於いて判断をしなければならないこともあります。
オリンピックの競技場につきましてはそもそも当初の案よりも建設費が膨らんで射るという中に於いて、国民の皆さんのご批判が私は尤もなご批判だったんだろうと、こう思うわけであります。
繰返しになりますが、オリンピックというのは国民皆んなの祭典であり、その中で多くの方々から祝福されなければならない。そう考えたわけであります。
同時にこれは国民の命を守る法制につきましては我々は憲法の枠の中に於いて必要な自衛の措置とは何かと言うことについて考え抜いていく責任があり国会議員も政府にもあるわけであり、私たちはその責任を国際情勢を見据えながら果たしていく、判断をしていく。
私はそれは当然なことだろうと思います。
残念ながら、国民の皆さんにまだ理解が届いていないのは事実でございますが、今後、参議院、この委員会等を通じて努力していきたいと思っています」
蓮舫「総理の聞く国民の声、聞かない声、私は全く分かりません。
白紙撤回の決断は評価しますが・・・・・・・」
建設見直しとなった最大の問題は何かといった質問に移っていく。
蓮舫自身は安倍晋三の答弁に対して「総理の聞く国民の声、聞かない声、私は全く分かりません」と応じたことを皮肉を込めた気の利いたセリフと思っているかもしれないが、安保法案に反対・批判の国民の声に応えて見直すかという追及を巧妙にかわされて、かわされっ放しで終える格好のつかなさから何か言わないと追及の収まりがつかないことから発した捨てセリフと思わせない捨てゼリフの類いに過ぎない。
何のパンチにもならない。蓮舫としたら、この程度の反応が精一杯といったところなのだろう。
安倍晋三の「政策一つ一つについて世論調査の結果に添って判断するんであれば、国会議員も政府も要らない」とする発言は世論調査に現れる国民の声と政策決定を別個と位置づけて、国民の声を政策決定の下に置くか、無視する対象としているといった趣旨になる。
しかし発言の構造自体は世論調査に現れた国民の声を最初に持ってきて、その声に従って政策を決めるという政策決定を仮定した場合、「国会議員も政府も要らない」と結論づける構造となっているが、こういった構造で政策決定することは現実的にはあり得ないのだから、安倍晋三が言っていること自体が矛盾しているし、こういうことを言う首相としての資質を問わなければならない。
なぜなら、国民の声が先にあるのではなく、国会議員や政府が先にあって、次に政策があって、最後に政策の良し悪しを判断して世論調査に現れることになる国民の声が続くのであり、政策の良し悪しの判断(=国民の声)が最終的には次の選挙で国政をどの立候補者に議員として負託するか、どの政党に政権を委託するかを決定して、国会議員や政府が改めて続くことになる循環する形で一国の政治が成り立ち、社会が成り立っていくことになるからであり、例え「政策一つ一つについて世論調査の結果に添って判断」したとしても、「国会議員も政府も要らない」無用の存在だとすることはあり得ないし、していいはずはないからだ。
もし「国会議員も政府も要らない」」ということなら、次に持って来るべき「政策」はどこから現れることになるのだろうか。選挙の遊説で各政党の政策を直接聞くか、あるいは新聞・テレビのマスメディアを通じて知るか、あるいは国会議員や閣僚が国会で政策について交わす議論を直接聞くか、あるいは同じく新聞・テレビのマスメディアを通じて知るかしなければ、どのような政策であるか、あるいは政策の良し悪しの判断はできないことになり、世論調査で示す国民の声も生まれないことになる。
安倍晋三の“国会議員と政府”不要論は逆に世論調査に現れる国民の声を愚弄する下らないトンチンカンな発言であり、当然、一国の首相として如何に恥ずべき発言か断罪しなければならない。
国民も加わって大きな動力となっている国家運営――いわば政府だけが動かしているわけではない国家運営という大きな循環で言えば、国民の声が常に正しいとは言えないし、利害を一致させているとは言えないが、全体としては一国の政治は国民の声・世論に従っているのである。
国民世論が選挙の趨勢に大きく影響していくことを考えれば、簡単に理解できることである。
安倍晋三は日本国憲法が国民主権としていることを忘れているらしい。
国民にしても主権者が国民自身であることを深く認識して政治に対峙しなければならない。一つ一つの政策に関しては現実には世論調査に従って決定しない場合もあるし、そのような場合が多いかもしれないが、大きな循環の中では国民世論が国政を動かしているのであり、動かさなければならないことを自覚しなければならない。
自覚していたなら、安倍晋三の「世論調査の結果に添って判断するんであれば、国会議員も政府も要らない」などといったトンチンカンな発言は愚かしいことと決して認めることはできないだろう。
安倍晋三が「国民の命を守る法制につきましては我々は憲法の枠の中に於いて必要な自衛の措置とは何かと言うことについて考え抜いていく責任があり、国会議員も政府にもあるわけであり、私たちはその責任を国際情勢を見据えながら果たしていく、判断をしていく」と言っているが、安倍晋三が安保法制の成立に国民の声を聞こうが聞くまいが、いわば世論に従おうが従うまいが、現在の国民の多くの声は安倍晋三が言っている「責任」を国会議員や政府の「責任」とは認めていないということである。
「残念ながら、国民の皆さんにまだ理解が届いていないのは事実でございますが」と言っているが、説明不足であり、憲法違反であり、反対だと判断する理解は十分に届いているということであるはずだ。
逆に届いていない「理解」とは、同調してもいいという理解であろう。
だから国民の多くは反対し、批判している。
蓮舫が安倍晋三の“国会議員と政府”不要論を如何に的外れで、国民の声を愚弄する発言だと咄嗟に反応できていたなら、その発言を突いて安倍晋三の首相としての資質を国民に疑わせる折角のチャンスだったが、無反応なまま逃してしまったようだ。