高市早苗が靖国参拝後に安倍晋三と同様の国民を国家への奉仕者と見る国家主義を露わにした対記者発言

2016-04-23 10:24:08 | Weblog


 安倍晋三は4月21日から23日までの靖国神社春季例大祭に総理大臣としての参拝を取りやめ、直接の参拝に代えて真榊奉納で済ませた。戦前の大日本帝国に理想の国家像を描き、その理想の国家が起こした戦争を民族自決の聖戦と歴史認識する安倍晋三にとって靖国参拝はその歴史認識を確認する儀式、その国家像を目の前に髣髴とさせる儀式となっているから、直接参拝しないことに止み難い痛惜の念を禁じ得ないでいるに違いない。

 唯一の心の救いはベッドを共にする男女の肉体的・精神的近接さで安倍晋三と国家主義的な歴史認識を相共にする高市早苗が靖国参拝を行ったことであろう。高市早苗は参拝することを安倍晋三に報告し、安倍晋三は自らと同じくする歴史認識の確認を託したであろうことは想像に難くない。

 志位和夫共産党委員長が4月22日夜、訪問先の那覇市で記者の質問に答えて高市早苗の4月22日靖国参拝を批判している。

 志位委員長「靖国神社は過去の日本の戦争は正しい戦争だったと国民に宣伝することを存在意義にしている。(国策の誤りを認めた村山富市首相談話を継承するとしている安倍政権の方針に)反する」(時事ドットコム)    

 後段の村山談話継承はあくまでも安倍内閣としてであって、安倍晋三自身やその一派高市早苗などは個人的にはさらさら継承していない二重規準の仕掛けを構造とした歴史認識で巧みにゴマカシているに過ぎない。

 高市早苗は参拝後、記者たちの質問に答えている。

 高市早苗「国策に殉じられた方々のみ霊の安寧とともに、ご遺族の方々のご健康をお祈りした。それとともに、今回はなんとか日本国を災害の苦悩からお救いくださいということをお願いした」(NHK NEWS WEB) 

 今回の熊本地震からの救済の対象を日本国民や被災者ではなく、「日本国」に置いている。

 何かの間違いではないのかと一瞬疑ったが、「時事ドットコム」記事ほぼも同じ表現となっている。  

 高市早苗「国策に殉じられた方々のみ霊の安寧とともに、ご遺族の方々の健康をお祈りした。日本国を災害の苦難からお救いくださいとお願いした」

 前者の記事は、〈私費で玉串料を納め、「総務大臣・高市早苗」と記帳したことを明らかにし〉たとなっているが、後者は、〈私人としての参拝で、玉串料は私費で納めたことも明らかにした。〉となっている。

 いわば私人の装いをしつつ、公人たる総務大臣名で記帳した点にも二重基準の巧みな利用を見て取ることができる。参拝を通して戦前日本国家を理想の国家像視する儀式表現である以上、己の立場が一私人であるよりも戦後日本国家政府の閣僚であることの方が本人としては儀式に対するより強い使命感を感じ取ることができるだろうから、総務大臣の資格は譲ることができない最低線であるはずだ。

 安倍晋三が奉納した真榊に「内閣総理大臣 安倍晋三」と記した点も、単に「安倍晋三」と個人名を記すよりも、奉納に託した使命感をより強く印象づけることができるからだろう。

 高市早苗は一見すると、戦死兵士の「み霊の安寧」を祈っているように見えるが、「国策に殉じられた」(=戦前国家の国策に命を投げ出して尽くした)としている以上、この表現自体が戦前国家を肯定する意思表示であるが、戦死兵士と戦前国家との関係を戦死兵士を戦前国家に対する奉仕者として位置づけ、このことは戦前国家を兵士ばかりか、広い意味に取って国民の奉仕対象としていることでもあるが、国家と国民がこのような奉仕関係にある戦死した兵士に対する「み霊の安寧」と言うことになる。

 いわば高市早苗が頭に描いている理想の国家像に於ける国家と国民の理想の関係は国民は国家への奉仕者でなければならない。

 高市早苗が安倍晋三共々国家を優先し国民を後回しにする国家主義者たる所以がここにある。

 戦前の大日本帝国自体が国民を天皇と国家への奉仕者と位置づけていて、そのような戦前国家を戦後の民主主義の現在でも理想の国家像としているのだから、当然の立ち位置と見なければならない。

 高市早苗の国家を優先し、国民を後回しにする国家主義は熊本地震からの救済の対象を日本国民や被災者ではなく、「日本国」に置いた、「今回はなんとか日本国を災害の苦悩からお救いくださいということをお願いした」という言葉に象徴的に現れている。

 熊本地震が日本の経済に与える打撃を恐れて、「日本国を災害の苦悩からお救いくださいということをお願いした」

 明らかに国民を後回しにし、国家の在り様を優先させた国家主義そのものの表現となっている。

 高市早苗は会社が成り立ってこそ従業員の生活が成り立つとする論理と同様に「日本国」を救うことは日本国民を救うことだと言うに違いない。地震による日本の経済への打撃は国民の生活への打撃となると言うに違いない。

 しかしこの論理は国家を先に置き、国民を国家の次に置く国家主義の構造を取っていることに変わりはない。国民の生活や基本的人権を成り立たせることによって国家を成り立たせる国民を先に置く国民主義を一切排除している。

 国民主義に於いては奉仕者は国家であって、奉仕の対象は国民であるとする関係を取らなければならない。

 高市早苗は靖国参拝によって国民を国家への奉仕者と見る、国民主義とは逆の関係の国家主義を露わにした。

 何も今に始まったことではない。安倍晋三同様に戦前の日本国家が表現していた国家優先の国家主義に全身染まっている。靖国神社にしても戦前の国家主義と結びついた宗教空間となっている。参拝が高市早苗や安倍晋三の国家主義を最も強く表現する機会であることは極く自然な成り行きであろう。

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