4月12日外相の岸田文雄がG7広島外相会合で広島市を訪れていたフランスのエロー外相と会談し、そのときのエロー外相の発言を「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。
核保有国のフランスの外相として各国の外相と共に被爆地・広島を初めて訪問し、原爆資料館などを視察したことについての発言だそうだ。
エロー仏外相「戦争がもたらす悲惨さを実際に知り、肌で触れて、世界の平和のためにどのような貢献ができるのか改めて考えるよい機会となった}
戦争は人間が引き起こす。国家指導者が戦争に持っていくことの正当性を煽動し、国民がほぼ一丸となってそれに共鳴・従属して、結果、相互に戦争を煽ることになり、全てを戦争で解決しようとして戦争へと突入していく。
少なくとも戦前の日本の戦争はそうであり、広島、次いで長崎に原爆投下を招くことになった。
当然、「戦争がもたらす悲惨さ」とは厳密には国家指導者と国民がもたらす戦争の悲惨さであることを実際の解釈としなければならない。
戦争の結果としての悲惨さを戦争がもたらしたとだけ認識していた場合、戦争を引き起こした人間の愚かさにいつまでも思い至らない危険性に見舞われることになる。ある種の国家権力とその煽動に同調・従属した国民の愚かしいばかりの相互作用がもたらした戦争の悲惨さと認識することによって、戦争の原因の所在をそこに目を向けることになり、戦争を引き起こさないためのより強い戒めとなる。
原爆の悲惨さばかりではなく、原爆投下を招くことになった当時の日本の指導者の強がりで成り立たせていた戦争継続の愚かさ、その強がりに呼応して戦争継続に同調し続けた日本国民の“なぜ”を検証してこそ、原爆や戦争に対する教訓とすることができるはずである。
戦争は人間が引き起こす。その結果としての「戦争がもたらす悲惨さ」は国家指導者と国民が招いた悲惨さに他ならない。
戦後の国家指導者の多くが戦前の日本の戦争を侵略戦争ではないと肯定しているのは戦争を引き起こすのは人間であり、戦争の結果としての悲惨さを戦争がもたらしたと認識するのみで、国家指導者と指導者に追随した国民の愚かしさがもたらした悲惨さだと認識するだけの力がないからだろう。