文部科学大臣の馳浩54歳専修大学文学部国文学科卒業が全国学力調査についてどこぞの教員から教育委員会の姿勢を批判する指摘があったと記者会見で述べていることを4月20日付「asahi.com」が伝えている。
全文を記載してみる。
馳浩「全国学力調査について、私のもとに『成績を上げるため、教育委員会の内々の指示で、2、3月から過去問題をやっている。おかしい。こんなことをするために教員になったのではない』と連絡を頂いた。成績を上げるために過去問題の練習を、授業時間にやっていたならば本末転倒だ。全国各地であるとしたら、大問題で本質を揺るがす。
調査は、今年10年目。第1次安倍政権からの教育再生の柱だ。点数を競争するためではない。噂には聞いていたが、直接現場から憤りの声を頂いたことはなかった。全国調査はしないが、心ある教員や教委のみなさんは、実際に何が行われているのか、文科省に報告を頂きたい。
私は今日、憤りを抑えながら話をしている。何のために調査をやっているのか、胸に手を当てて改めて考えて欲しい。一握りの教委、校長、担任の振るまいかもしれないが、やってはいけないことだ、と申し上げたい」――
馳浩は「全国学力調査は点数を競争するためではない」と言っているが、それがテストである以上、常に点数獲得競争を宿命とすることを愚かしくも弁えていないようだ。
その宿命を如何に抑えるか、教育委員会や学校のみならず、文科省にしても手立てを講じる役目を担っている。
そのことさえも気づいていない。
文科省は都道府県別の成績と正答率を発表、その上全国平均と公立平均を出して、二重の線引をしている。この線引きがいやが上にも優劣の指標として作用し、劣は優を目指し、優はなお上の優を目指す点数獲得競争を誘引する構造とさせている。
いわば点数獲得競争の宿命を抑えるどころか、優劣の競争を煽っている。
文科省が全国学力調査の成績を各自治体ごとの学校の教育成果の目安としている以上、自治体間の成績の優劣は各自治体の教育委員会の教育政策の優劣と見做され、学校の生徒に対する教育能力の優劣として判断される。
文科省が何と弁解しようとも、全国学力調査を通して教育委員会・学校、そして生徒の優劣を順次計り、各段階の優劣の価値づけを行っているのである。
以前ブログに取り上げたことだが、その典型的な例を挙げてみる。
2007年から第1次安倍内閣が始めた全国学力調査で大阪府は2007年、2008年と全国平均を下回った。2008年2月6日に大阪府知事に就任した橋下徹は8月成績発表後の8月29日の記者会見で次のように発言している。
橋下徹「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』と散々言っておきながら、このザマは何なんだ。 現場の教職員と教育委員会には、今までのやり方を抜本的に改めてもらわないと困る」
要するに全国学力調査の成績を上げる教育方法を求めた。そして大阪府知事として大阪府は「PISA型学力で日本一をめざす」と宣言。
どのような学力であろうと、尻を叩いてテストの点数で成績の優劣を線引する教育は元々の暗記教育をより強化する方向にのみ向かう。橋下徹は点数獲得競争を煽ったに過ぎない。
煽られる側の教育委員会や学校は全国学力調査の成績を上げる目的のためだけに、馳浩に連絡した教員が指摘しているように「2、3月から過去問題」を取り上げ、“傾向と対策”の要領で質問に対する回答の方法を暗記させた上で、その応用問題をどういった形で質問されても答えることができるように頭に暗記できるまで反復練習させる全国学力調査に特化した暗記教育に走ることになる。
いわば文科省が全国学力調査を目論見、実施した時点で点数獲得競争を御膳立てしたことになる。
文科省は都道府県単位での成績公表のみだが、学校ごとの成績公表は市区町村教育委員会の裁量とされている。例え社会一般に公表しなくても、各学校に対しては公表しているはずだ。
教育委員会は他の学校と比較した優劣を知らしめて、それを以て各学校ごとが目指すべき学力の指標とするよう仕向ける役目を否応もなしに負っているからだ。劣る成績の学校を劣る成績のまま放置しておくことはできまい。
優の成績の学校を最低でも優の成績のまま維持するか、それ以上の優を目指すべき導くには各学校に対しては公表しないわけにはいかない。
要するに教育委員会自体が文科省の全国学力調査実施とその成績の優劣の線引きを受けて学校対して点数獲得競争を仕掛ける役目を担っていることなり、文科省共々、相互に点数獲得競争を煽る関係を築いていると言うことができる。
学校は文科省や教育委員会が仕掛ける点数獲得競争に巻き込まれてだが、その競争に厭々ながらにではなく、教師能力に関わる問題として自ら積極的に参戦、生徒を過去問題等の取り組みを通して点数獲得競争に巻き込んでいく。
学校ごとの成績公表は市区町村教育委員会の裁量の範囲内だが、その任にない川勝静岡県知事が2014年4月実施の全国学力調査小学校国語Aの結果が全国平均を上回った262校の校長名と35市町別の公立小学校の科目別平均正答率に限って公表した。
いわば県知事までが成績に関わる優劣の線引きに加担、橋下徹と同様に点数獲得競争に首を突っ込んだのである。
生徒の可能性(=潜在的な発展性)はテストが自ずと強いる点数獲得競争のみによって決められるわけではない。お笑い芸人やスポーツ、学校のテストの成績の線引きに関係しないその他の特技で成功し、その道で社会的良識とそれなりの人格を獲得していく人間がこのことの何よりの証明となる。
だが、学校社会ではテストの成績に生徒の可能性(=潜在的な発展性)を置く順位付けが蔓延(はびこ)っている。
それが学歴主義という形を取り、学歴の優劣が人間の価値基準の線引きに使われている。
文科省も教育委員会も学校も、ときには県知事までもが点数獲得競争に関しては同じ戦犯であり、結果的に学歴主義を煽動する相互関係を築いていることになる。
にも関わらず、文科省の長たる馳浩は愚かにもそのことに気づかずに文科省実施の全国学力調査は点数獲得競争ではないと文科省の責任を棚に置いて教育委員会や学校だけを批判している。
点数獲得競争となっている可能性について、実際にはなっているのだが、「全国調査はしない」と言っている。文科省こそが先頭に立って調査し、その弊害が生じているなら、中止するなり、方法を変えるなりの是正策を講じる責任を負っているはずだが、その責任さえ放棄している。
事実そうなっていたときの安倍政権の教育政策の失敗とされることの弊害の方が大きいからだろう。
臭いものに蓋をするようでは文科相の資格はない。