安倍晋三が12月26日と27日にハワイに行き、オバマ大統領と共に真珠湾を訪問、「犠牲者の慰霊」と「日米の和解」を演出すると言う。
この演出を日本国内ばかりか、米国内からも評価の声が上がっている。きっと日米関係の新たな転換点を期す安倍晋三の歴史的な外交成果――レガシーとして記録されるに違いない。
だが、日本の対米戦争の始まりが真珠湾攻撃であり、その終わりの鐘を撞いたのが広島・長崎原爆投下の紛れもない歴史的事実であることを忘れてはならない。
その歴史を噛み締めずに「犠牲者の慰霊」と「日米の和解」のみをクローズアップさせたのでは、慰霊にしても和解にしても、反省という痛みを伴わせることのない自己目的化させることになる。
これから書くことは既に世間一般に知られた事実であり、当ブログでも何度も取り上げてきたことと同じ内容となるが、歴史の事実から離れて慰霊と和解のみに視点を向ける自己目的化を避ける観点から、開戦と終戦に於ける日本側の動向を再び書いてみることにした。
昭和15年(1940年)9月30日付で内閣総理大臣直轄の研究所として設立された総力戦研究所の所長から昭和16年(1941年)7月12日に研究生に対して日米戦争を想定した、研究生を閣僚とした演習用の青国(日本)模擬内閣実施の第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画が発表された。
東条英機が1941年(昭和16年)10月18日に首相就任する3カ月前で、当時は陸軍大臣の地位にあった。
〈模擬内閣閣僚となった研究生たちは1941年7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外 交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各 種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。
その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は 耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。
これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。
この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』にお いて当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
研究会の最後に東条陸相は、 参列者の意見として以下のように述べたという。
東条英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習 でありまして、実際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。
日露戦争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三國干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかつた。
戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の 空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、 の机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」〉(「Wikipedia―総力戦研究所」)
日露戦争(1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日)から総力戦研究所の日米開戦シュミレーションの1941年7月・8月まで40年近く経過している。武器・兵器の技術的発達、その発達に応じた戦術・戦略の時代的変化を計算に入れずに40年前の日露戦争を持ち出すこと自体時代遅れとなっている。
このような時代遅れの軍人が陸軍大臣を務め、首相となってアメリカに戦争を仕掛けた。
しかも日露戦争当時よりも日本は国力を増しているが、それ以上にアメリカは国力をつけ、総合的な国力でアメリカは日本の20倍と言われていた。
そのような国力や国力に対応した軍事力、戦術等の彼我の力の差を計算に入れた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法)を武器とするのではなく、それらを無視しているばかりか、戦術的にも戦略的にも過去の戦争に位置づけなければならない約40年前の日露戦争時の「意外裡」(=計算外の要素)を持ち出して、それを武器にアメリカを仮想敵国とし、首相になってアメリカに対して1941年12月8日未明の真珠湾攻撃を以てして戦争を仕掛けたのだから、当時の日本の軍人や政治家の愚かしさは計り知れない。
さらに東条英樹は陸軍大臣当時の1941年1月8日に大日本帝国陸軍に示達した戦陣訓「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」によって戦うことを死と結びつけて、日本兵そのものを無駄な死へと追い詰めていったのである。
この余裕の無さは日本軍の非力の裏返しであるはずだが、その構造にさえ気づかなかった。
東条英機は陸軍大将まで上り詰めている。陸軍大将の脳ミソがこのような愚かしさを成分としていたのだから、日本の軍人全体の程度、日本軍自体の程度は知れていることになる。
東条英機と並んでその代表格として杉山元を挙げなければならない。
杉山元は陸軍士官学校卒業、陸軍大学校卒業と東条英機と同様の学歴を経て、陸軍大臣、陸軍参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し、そして元帥になっている優れた大日本帝国軍人であって、このような最高の経歴を得たのは大日本帝国軍隊史上、他に2人しか存在しないという傑出さを誇っている。
1941年12月8日未明の真珠湾攻撃を3カ月遡る1941年(昭和16年)9月5日の天皇と杉山元当時大日本帝国陸軍参謀総長との皇居での遣り取りである。
昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」
杉山元「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」
昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づく と申したが、4カ年の長きに亘ってもまだ片づかんではないか」
杉山元「支那は奥地が広いものですから」
昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3カ月と申すのか」
大日本帝国陸軍参謀総長の杉山元は何も答えることができずにただ頭を垂れたままであったという。(『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』 (『文藝春秋』/2007年4月特別号)
陸軍参謀長という地位にありながら、昭和天皇から「如何なる確信があって南洋方面だけで3カ月くらいで片づけることができるのか」との趣旨で質問を受けながら、日本軍の武器・兵器と兵力、さらに軍事的技術に加えて長期的・全体的なこれこれの展望に基づいて戦えば、3カ月で片付くはずですと陸軍としての戦略を説明して天皇の納得を得るべきを、得ることができなかった。
あるいはこれこれこういった緻密・具体的な戦略を用いて戦いに臨む計画を立てていますから3カ月という日数を計算しましたと答えることができなかった。
「3カ月くらいで片付ける」という戦略を立てていたなら、昭和天皇から「如何なる確信があって3カ月と申すのか」と問われて答えられないはずはない。
要するに見当で「3カ月」と言ったに過ぎない。
日中戦争の国力を消耗されられるだけの膠着状態も、日中双方の戦略・戦術を科学的・合理的に分析するのではなく、「奥地が広い」という抽象的な空間の広がりを原因に挙げている。
分析したら、陸軍の無能を曝すことになる。後者に原因を置けば、陸軍に責任が及ばないからだろう。
この程度の非科学的な軍人が大日本帝国陸軍の世界で陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなり、大日本帝国陸軍を率いた。
以下の地位の軍人の程度を推して知るべしである。
広島・長崎への原爆投下が決定的に戦争終結の鐘を撞いた。
確かに原爆投下は恐ろしいまでの悲惨な被害を招く。悪魔の兵器と呼ばれる由縁となっている。だが、悪魔の兵器と称す以前の問題として投下を決定する、あるいは投下を招く国家権力者の狂気を問題としなければならない。
金正恩がいい例である。国民を満足に食わせる政治よりも核兵器開発とその運搬手段となるミサイルの開発を優先させ、実験に余念がない。もし金正恩が自国防衛と称してアメリカ、あるいは日本に核搭載のミサイルを打ち込んだとしたら、それは金正恩という国家権力者が持つ狂気が仕向けることになる核攻撃であるはずである。
1945年7月26日、ドイツ降伏後のベルリン郊外のポツダムにアメリカ、イギリス、中国の3カ国首脳が集まり、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
翌々日の1945年7月28日、当時の首相鈴木貫太郎は陸軍の恫喝に遭い、「黙殺」の声明を発する。
既に日本は戦争継続能力を決定的に失っていたにも関わらず、本土決戦で米軍にその保証がないのに一矢を報い、終戦交渉を有利に進めようと、国民の犠牲を顧みずに最後のメンツに縋っていた。
これを狂気を言わずに何と表現すべきだろうか。
1945年8月6日、広島原爆投下 死者14万人
1945年8月8日、ソ連対日宣戦布告
1945年8月9日、長崎原爆投下 死者7万人
後遺症に苦しみ、原爆症で命を失う被災者が跡を断たなかった。
1945年8月9日未明、ソ連対日開戦
死者 30万人以上
シベリア抑留者 57万人以上
1945年8月14日、ポツダム宣言無条件受諾
1945年8月15日、昭和天皇による終戦の玉音放送
鈴木貫太郎が1945年7月28日にポツダム宣言を「黙殺」してから10日足らず以降、辛うじて持ちこたえていた大日本帝国と大日本帝国軍隊は決定的な瓦解に向かう衝撃に立て続けに見舞われることになった。
このような予想もしていなかったであろう最悪の事態を招いたのは日本の軍隊が、特に陸軍が戦争を仕掛けた手前、そのメンツに拘って退(ひ)くときに退くことができずに戦争継続に走った狂気としか言いようのない愚かしさに支配されていたからであろう。
戦後に録音された敗戦時外務省政務局長であった安東義良発言が残っている。
「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったてね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。
終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。
言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」
この発言には国民が受けた犠牲、国土が受けた破壊と荒廃に対する視線、更には日本の軍隊が外国民と外国国土に対して行った残酷な仕打ちに対する視線を存在させていない。存在させていないからこそ、できる発言であり、存在させていたなら、戦争によって引き起こされた数々の事実の恐ろしさ、特に最終盤になって立て続けに起き、敗戦に向かって雪崩を打つことになった事実とその恐ろしさに圧倒されて、「降伏」を「終戦」と言い換えるゴマカシに自ら得意になって笑うことなどできなかったろう。
戦争がもたらすことになった犠牲や破壊の恐ろしさに対する視線を欠き、言葉のゴマカシを得意になって笑うことのできる資質を招いている人間的要素は正気とは正反対の狂気以外に考えることができるだろうか。
狂気は常識的な頭の中にも存在させることができる。
安東義良は戦後衆議院議員を務めたり、拓殖大学教授や駐ブラジル大使を歴任している。
戦争の犠牲となった日本人ばかりか、外国人を慰霊するにしても、戦争当事国間の和解を図るにしても、日本の対米戦争の始まりが真珠湾攻撃であり、その終わりの鐘を撞いたのが広島・長崎への原爆投下であり、その両方の歴史的事実を招いたのが日本の愚かしい政治家や軍人であることを忘れた慰霊や和解であったら、単なる形式的で終わることになるだろう。