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民主党の教育基本法

2006-05-16 06:25:15 | Weblog

(最終部分、少し書き直しました)
 民主党が自民党教育基本法改正案の対案を纏めた。「焦点の愛国心表記については『日本を愛する心を涵養(かんよう)する』という表現を盛り込み、『国』という表現は避けた」(毎日新聞)と言うことである。

 同じ毎日新聞の記事から以下の経緯をたどると、「愛する対象を『国』ではなく『日本』とした理由について、鳩山氏は記者会見で『「国」というと政治機構が予想される恐れが消えないが、(日本という)名前を書き入れることで、その恐れも消える』と説明した」

 また、「条文ではなく、理念をうたう前文に位置付けたことに加え、自然に養い育てる意味の『涵養』という表現を用い、教育現場での押しつけにつながらない『工夫』(鳩山由紀夫幹事長)を施したとしている。」

「小沢一郎代表は9日の記者会見で、愛国心について『愛国心や愛するということを字面に並べても、本当の意味で国を愛する気持ちが起こるものではない』と指摘。『国民の中に、郷土を愛し国を愛する気持ちが生まれるような社会を作るためにどうすればいいのかを考えるのが大事だ』と述べ、愛国心の明記に否定的な考えを示していた。対案策定にはこうした小沢氏の意向も反映している」

 「『日本を愛する心』の部分は、与党間協議の過程で自民党が公明党に譲歩して取り下げたとされる文案と同一。自民党保守派内の不満に火を付ける形で与党揺さぶりの材料ともしたい考えだ。」

 「愛国心表記をめぐっては、同党内でも日教組を支持母体とする参院議員を中心に『愛国思想の強制につながる』との慎重論が根強かった。しかし『涵養という表現は強制という言葉とは相いれない』との座長説明に『思想・信条の自由が確保されるなら愛国心そのものが悪いわけではない』(平岡秀夫衆院議員)などとして、慎重派も了承した」

 次に<前文要旨>を同じ毎日新聞から転載してみると、

 「我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に共生の精神を醸成することである。
 我々が目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義を愛し、美しいものを美しいと感ずる心をはぐくみ、創造性に富んだ、人格の向上発展を目指す人間の育成である。
 さらに、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯で取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成である。
日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い、子孫に想(おも)いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」
* * * * * * * *

 まず「愛国心表記」に関する経緯だけを見ると、鳩山幹事長の説明として、「国を愛する」とすると、「政治機構」が対象となる恐れが生じるが、「日本」だと、その「恐れが消える」だとか、「条文ではなく、理念をうたう前文に位置付けたこと」と「涵養」なる表現は「教育現場での押しつけにつながらない『工夫』だとか言っているが、そんなことは解釈次第、運用次第でどうにもなる。日本国憲法でさえ、解釈の運用で禁止しているはずの「陸海空軍その他の戦力は、これを保持」するに至っている。

 自治体の長や教育委員長、あるいは各学校の校長といった上に位置する人間が「『日本』とは『天皇も国家権力もすべて含めた日本という国全体』を指さずに何を指す」と言い始めたら、あるいは個々の人間による上からの指示ではなく、時代の風潮がそう受止める勢いを持ったとき、解釈次第、運用次第で、「工夫」はいともたやすくいくらでも別の「工夫」へと走る。

 問題はそういった〝言葉の使い方〟、悪く言うと、〝言葉いじり〟ではなく、また「政治機構」を対象としているか否かといったことでもなく、「日本を愛する」、あるいは「国を愛する」教育(=評価要求)が、少なくとも日本に於いては否応もなしに自尊意識(自民族の優越性)を恃み、そういった意識を背景として行われることへの危惧である。それは日本人が民族性として権威主義を行動様式、あるいは思考様式としていることから起る。

 上が優れ、下が劣るとする権威主義性によって、日本、もしくは日本人が優れているとしなければ、〝愛する〟教育の対象とはなり得ない。優れているとすることによって、対象となり得る。

 いわば日本の歴史・伝統は優れている、日本人・日本は優れているとすることによって、「愛国心」教育は成り立つ。

 「国を愛する」、あるいは「日本を愛する」教育(=評価要求)によってただでさえ日本人が先・後天的に精神的慣習として受継いでいる民族的優越意識をより確かに意識化したとき、従来的にも外国人の受入れへの拒絶反応や指導的地位からの排除(大相撲でモンゴル人が横綱であることを快からず思っている日本人が多くいるはずである)が見られるところへ持ってきて、外国と対立的な状況が生じた場合、民族的優越意識が噴き出して戦前の世界支配意志を包摂した〝八紘一宇〟思想とまでいかなくても、「日本」、あるいは「国」という〝国家〟の絶対性を一方的に訴える排他性を持った自国〝賛美〟、あるいは〝熱狂〟へと向かわしめる偏狭なナショナリズムにいとも簡単に反転する危険性を持つことへの恐れである。

 これは決して大袈裟な把え方ではない。昨年の中国の反日デモが中国人の自国を絶対規準とした排他性を持った自国〝賛美〟・〝熱狂〟の日本を攻撃対象として形を取ったもので、そのことに反撥した日本国内の感情的な反中国意識も本質的には「日本」や日本という「国」に対する同種の〝賛美〟・〝熱狂〟が実体化したものであったはずである。

 このような把え方が大袈裟だとして無視することが妥当であっても、国と国が世界を一つの舞台として相互に密接に関わり、交流する世紀を踏まえて「人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に共生の精神を醸成すること」を考えるなら、「日本」に拘らない精神の「涵養」が必要ではないだろうか。

 あるいは「他国や他文化を理解」することを求めるなら、自尊や自尊がつくり出す軽蔑からは「理解」は生み出せず、対等な位置づけによって可能となる精神行為であって、「日本」もしくは「国」を〝愛する〟教育が自尊意識(自民族の優越性)を恃む性質のものである以上、二項対立をきたすもので、対等な位置づけによる〝他者理解〟をこそ優先事項とすべきだろう。他者を知ることによって自己、もしくは自己の位置を知ることができる。

 対等な位置づけによる〝他者理解〟を世界に向かって広げるとするなら、人種・民族・国籍といった枠を取り外し、それらを超えて、一人一人を基準としなければならない。一人一人とは基本形である〝人間〟を基準とするということであろう。同じ人間であるという認識。相互に人間としてどうあるべきか。自己と他者との関わりに於いて、どう存在すべきか。もう超える時期に来ているのだはないだろうか。既に指摘した「日本」に拘らない精神の「涵養」である。

 「日本」とか「日本人」という意識に拘るから、「国を愛する」とか「愛国心」といった考えに行き着く。

 このことは国家の否定ではない。国家を最上位社会に置くことの忌避であって、世界を最上位社会に置くべきという考えに立つ。いわば国家を世界に次ぐ下位社会に置いて、国家なる存在を世界との関係で相対化する。

 我々は階層社会に生きている。最下層の家族社会から始まって、学校社会、あるいは会社社会、さらに市町村社会、その上の地域社会(県単位、地方単位)、そして日本国家を最上位に置いた日本社会に日本人として生活している。それぞれの社会はそれぞれに必要不可欠であって、どの社会も否定・抹消は不可能である。それぞれの経営は相互に関係し合い、影響し合う相互関係にあるのはいうまでもないから、それぞれの社会成員の利益を図るべく経営を成り立たせていかなければ、社会は混乱する。国家経営に関しては、経営者は政治家であり、官僚であるが、政治家は国民の選択にその存在がかかっており、官僚の働きは政治家の雇用姿勢にかかっている。国民は国家と言う経営体に於ける株主に当る。

 また日本という国の国家経営はアメリカや中国、その他の国家経営と関係し合い、影響しあう相互関係にある以上、国家経営は国家経営として常に状態のいい形で経営を心がけなければならない。

 但し、それぞれの国家はその国に限定した最上位社会であって、さらにその上に世界と言う上位社会を想定して、民族や国籍を超えたそれぞれに対等な場所と見定め、相互に関連性を持たせることで自国の利益と世界の利益との相互性を心がけなければならない。

 そのような世界観に向けて、〝教育基本法〟で、日本人を育成すると言うよりも、基本的な存在性としての人間を育成すると言う姿勢に先鞭をつけるべきではないだろうか。少なくともそういった視点に立つべき時代に来ていることを認識すべきだと思う

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ポスト小泉騒動に見る〝脱派閥論〟

2006-05-14 03:36:35 | Weblog

 世論の支持率は安倍氏が福田氏を引き離しているが、自民党最大派閥の森派は自派内から2人の有力ポスト小泉を抱えていることから、話し合いによる一本化なのか、二人共の立候補なのか、その行く末に注目が集まった。既にこのこと自体が派閥の制約を受けた、その範囲内からの議論・判断でしかない。

 当初森派会長森前首相は「福田さんと阿部さんが相争うというということはあってはならないことで、もし二人が争うということになったら、私は即座にクビだろうな。そうでしょ?清和会の会長をクビになると思いますよ、私は」と、自派内からの複数立候補に難色を示した。

 「私は即座にクビ」は、派が二つに割れて下位派閥へ脱落した場合に付帯する党内影響力の凋落がクビになったも同然だという形容なのだろうか。小泉首相自身にとって安倍は操作可能な薬籠中の後継候補であり、森前首相にとっては森派清和会会長という地位を今後とも保証する意中の後継者が福田氏だということだろう。安倍氏が総理・総裁になって、森派が分裂することなく存続したとしても、小泉首相の派内の力が優位的となり、会長職禅譲の流れが加速する恐れが出てくる。あるいは小泉首相が形式上離れていた森派に首相退任後戻らなくても、無所属のままでいる小泉チルドレンやその他の森派内の支持議員、他派閥の支持議員を募って安倍氏をバックアップしつつ自己の影響力を最大限に保持する小泉派を旗揚げすることも考えられる。そうなったとしたら、自民党最大派閥は森派から小泉派へと席を譲ることになりかねないが、だとすると、現在の〝派閥政治打破〟がその程度の変化に過ぎなかったということもあり得る。

 安倍氏にしても、毛並みだけで持っている力量とその若さからしたら、〝ライオン〟の威を借りる狐よろしく森前首相を後ろ盾にするよりも小泉首相を後ろ盾にした方が自分の値打ちを打ち出せるだろうから、相互的に小泉首相の力も増す。

 森前首相の派内の二人の直接対決否定論に対して、小泉首相は「古い自民党は壊れている。本人が出たいと言うのを止める方法はない」と派閥調整は「古い」遣り方だとの価値評価を下した。

 別の機会にこうも言っている。「安倍氏と福田氏が共に総裁選に立候補することは構わないと思いますよ」

 「古い自民党」は既に否定価値とされているから、〝新しい自民党〟の立場に立つことは正しい、あるいは正義を意味し、「古い自民党」に立つことは不正義、あるいは悪者を意味する。「古い」とすることで、魔女狩りも可能となる。ついこの間までは「古い自民党」を代表する「悪者」は亀井静香や野中広務だったが、今や森前首相が「悪者」の代表格とされかねない状況となってしまった。
   
 幹事長の単細胞武部は小泉首相の勢いの尻馬に乗って、「派閥解消を唱える首相のもとで従来型の派閥はなくなった。党の形は変わった」と自らも新しい自民党の一人であるかのような正義の代表者面した態度だが、単細胞の武部に何が分かる。

 民主党新代表に小沢一郎が選出されたとき、小泉首相は記者に「小沢さんは変ったと思いますか」と問われて、「人はそんなに変るもんじゃないじゃないですか」と言い、武部単細胞は先頃の自民党候補が敗退した衆院千葉7区補選で小沢新代表が応援の前面に立つと、「小沢さんこそ古い自民党時代を代表する人です」と有権者の前でぶって、小泉首相共々人間がそんなに変るものではないことを主張している。人間が簡単に変るものでなければ、自民党の顔ぶれがそんなに変っているわけのものではないから、派閥も変るわけのものではないはずだが、自分たちの党の派閥体質は変ったと主張する。ご都合主義以外の何ものでもないように思える。

 森前首相は「古い自民党」の代表格とされて「悪者」扱いされるのは御免と思ったのか、「私はこれまで一本化したいと一度も言ったこともないし、一本化しようという気持もない」と派閥利害で動く「古い自民党」の一人でないことをマイクに向かって宣言した。

 確かに「一本化」という言葉は使っていないから言っていることは間違っていないが、「福田さんと阿部さんが相争うというということはあってはならない」という発言は一本化意志を前提とした主張であって、そういった誤魔化しの発言は政治家という人種は得意としているらしい。単に「従来型の派閥」論理で進むことが今後の自己利害と合致しなくなると予想される局面に立たされたことからの転進に過ぎないだろう。

 森前首相の転進を受けて安倍官房長官は、「森会長としてはなるべくグループとしては円満な形が望ましいんだろうというお気持は持ってらっしゃるんだろうけれども、しかし派閥で一致結束して同じ方向に進んでいくという時代でもないという認識も持っておられるんだろうと、そうも思います」

 安倍氏は次のようにも言っている。「カラスが白いと言えば、カラスは白いと言わなければならない、そういった派閥の時代ではない」

 自分では気の利いたことを言ったと思っているだろうが、「派閥で一致結束して同じ方向に進んでいく」、あるいは「カラスが白いと言えば、カラスは白いと言わなければならない」、「そういった派閥の時代」を自民党が歴史とし、伝統としてきたことをも暴露する発言でもあることに気づいていないらしい。裏を返すと、議員一人一人が大の大人でありながら派閥に依存して、自分の考えは持たず、派閥の考え・主張に従属するばかりで、自律していなかった長い歴史・長い伝統があったということである。安倍氏自身もそのような自民党の土壌の中で、その土質・肥糧をたっぷりと吸収して、そのお陰で実力者としての現在を得た。生まれ育った土質・肥糧を簡単にキレイさっぱり体外に排出できるのだろうか。

 「そういった派閥の時代」が終わりを告げたのは小泉首相が自民党の派閥は解体したと宣言しているつい先頃のことなのか、事実は「人間はそう簡単には変るものじゃない」と言っていることが正しくて、実際には何ら変らずに自律していない状態が従来どおりに続いているのだろうか、そこら辺を問題としなければならない。

 「派閥はなくなった」、「自民党は変った」と口では言うものの、少なくとも誰もがそれぞれの派閥を基準とした、そこから完全に抜け出せない意思表示に終始した発言が続いているのではないだろうか。

 森前首相の〝悪者〟扱い御免発言に関しての「森さんの今日の発言は総理の意図が伝わったと言うことですか?」との記者からの質問に対して、小泉首相は「それは分からないよねえ。話せばすぐ分かる間柄ですから、以心伝心で、何の心配も要りません」
「同床異夢と言うことはないですか?」
「たまにはあるでしょうけどね」
 
 この遣り取りも、総理・総裁の立場上派閥を離脱しているとは言うものの(森首相時代、森氏が森派を離脱している間、小泉首相が臨時に派閥代表を務めている)、同じ派閥の人間であることを想定した「話せばすぐ分かる間柄」であり、「以心伝心」であって、実質的には派閥と言う一つの世界を通した、その制約下の認識となっている。

 実際に進退も気持も森派を離脱していたなら、安倍氏のことも福田氏のことも他派閥の問題となる。

 法務副大臣の河野太郎が新たに総理・総裁選への立候補表明を行った。ただ推薦人を20人集まるメドが立っていないというが、それは予定表に織込み済みで、総理・総裁を目指す一人としての認知を求める将来に向けた早目の名乗りといったところだろう。20人集まる予定も立てることができないのに立候補を表明するのはおかしいと言った発言をテレビで見かけたが、顔見せしておけば、どんなチャンスが転がり込むかも分からない。村山富一にしても三木武夫にしても、派閥力学を狂いなく機能させることができる状況にあったなら、首相にはなれない境遇の人であったが、村山富一は当時の社会党が反自民党連立政権から離脱したことによって、自民党の政権奪回の頭数として必要とされたチャンスに恵まれ、三木は田中角栄の金脈失脚というチャンスに恵まれて、思いもかけずに首相職を手にしている。

 谷垣氏にしても立候補してすぐに当選できると思っていないはずで、安倍、福田どちらになっても、二人の後の3番手か、うまくいって2番手で次の次になれるかもといった計算で動いているに違いない。あるいはなれないかもしれないが、引き続いて閣内で重要ポストに就くための布石といったこともある。

 河野太郎が所属する派閥は総裁選で麻生外務相を推す方針で、同日(5月11日)開かれた派閥の例会では「出馬は認めがたい」と批判が相次いだとのことだが、推薦人を揃えることができずに出馬を断念した場合は麻生氏を支持するよう求められたという。

 このことは、「そういった派閥の時代ではない」、「従来型の派閥はなくなった。党の形は変わった」とする発言がある一方、「従来型の派閥」の論理・力学の振りかざしであり、最終的にはそれへの従属を要求する押し付けであろう。全体として見た場合、必ずしも「党の形は変わっ」ていないことを示す光景となっている。

 自民党が少なくとも小泉首相が登場するまで派閥政治を通してきた中で、すべてに亘って派閥の論理・力学を常に機能させ得てきたわけではない。ノーベル平和賞を受賞したあの佐藤元首相が退任後、後継に他派閥である福田派領袖の福田赳夫をポスト佐藤に想定しながら、自派閥の田中角栄の反旗を翻す形での立候補を抑えることができなかったばかりか、熾烈な選挙戦の末、反意中の田中角栄に敗れた事態は(このとき田中角栄はカネを-実弾と言われていた-ばら撒いて福田支持派議員を寝返らせたと噂されている)、派閥の論理・力学が機能しなかった特筆すべき例であろう。だからと言って派閥政治が瓦解したというわけではなく、全体的には田中派支配による派閥政治が逆に強化されて長期化した。

 先に例を挙げた三木武夫は小派閥の領袖であり、首相職が田中金脈による田中失脚を受けたいわゆる椎名裁定で転がりこむまで3度も首相選に立候補して敗れている。しかし田中金権汚職に対する国民の批判を鎮める道具立てとして小派閥の領袖に過ぎない三木武夫のクリーンなイメージが必要とされて白羽の矢が立てられた運命にしても、田中金脈の影響から派閥の論理・力学を前面に押し出しにくい状況を受けた時限的な反派閥的措置に過ぎなかった。その反動として現れたいわゆる〝三木おろし〟が派閥の論理・力学を前面に出した政治闘争であったことがそのことを証明している。

 〝三木おろし〟とは田中角栄のロッキード事件解明に力を注いだ三木武夫に対する福田派・田中派・大平派といった他派閥連合による倒閣騒動のことで、裁定で三木総裁を誕生させた椎名悦三郎でさえも、三木武夫の事件解明姿勢を「はしゃぎすぎ」と批判して、〝三木おろし〟に加担し、そういった事態も加わって派閥の健在を示した。三木武夫は〝三木おろし〟に耐えたが、総選挙で自民党初の過半数割れを受けて内閣生命2年で総辞職している。自民党は無所属議員の入党で過半数を維持し、それ以後しぶとく派閥政治を継続させていくこととなった。

 今回立候補表明した河野太郎の父親の河野洋平は自民党宮沢政権が日本新党以下の8党派の連立政権に向けた選挙戦で敗れて、その責任を受けて辞任した後の野党自民党の誰も火中の栗を拾うことを嫌った状況下で総裁に選出されたが、この状況も派閥の論理・力学が機能不全と陥ったケースとして生じた埒外の出来事だったであろう。自民党が社会党及びさきがけとの連立を得て政権党に復帰したとき、頭数を必要としたエサとして社会党委員長の村山富一に首相のお鉢が回ったたために、自らは自民党の総裁でありながら総理になれなかった唯一の議員として名を残すこととなったが、その後村山富一の後継は田中派の流れを汲む自民党最大派閥・小渕派のバックアップを得て、河野洋平に代わって既に自民党総裁の地位を得ていた橋本龍太郎が首相の座を射止めている。

 自民党が連立政権の相手に長年の宿敵だった社会党を選んだとき、その何でもありの姿勢に国民の多くが驚いたし、村山富一を首班指名候補としたときはなおさらに驚いた。

 村山富一が首相の座を射止めることができたことも、自民党側が政権奪回の至上命題を最優先させたことからの派閥の論理・力学では片付かない例外状況を飲み込まなければならなかったからだろう。

 こうしてみてくると、今回の「従来型の派閥」解消論にしても、「古い自民党」解体論にしても、単に諸種の事情が合わさって派閥論理・派閥力学が機能しにくい状況に遭遇したと言うだけのことで、一時的な現象で終わる可能性なきにしもあらずとすることもできる。

 同じ派閥内に現職首相と派閥の現会長である前首相がそれぞれ異なる意中候補を抱えることになった。派閥会長である前首相は割れて比較下位の派閥に規模が落ちることをも恐れて、一本化を目指す。現首相は自己の影響力を残したい気持も手伝って、下手に一本化されて自分が意中とする人物を後継候補から外されたら、すべての思惑が吹っ飛んでしまうと恐れた一本化反対とそのための自己正当化の口実が「古い自民党」否定ということもある。

 いわば自民党最大派閥が候補者を2人も抱えることとなった贅沢な悩みから出た、コップの中の嵐ならぬ森派内に限った〝嵐〟と言ったところではないだろうか

 もしも森派から2人とも立候補して割れた票を上回る党員票も含めた数の支持が仮定される他派閥候補者が存在したなら、森派としたら「古い自民党」もクソもなく、「カラスが白いと言えば、カラスは白いと言わなければならない、そういった派閥の時代ではない」などはキレイゴトと片付けて、一本化に進むだろうし、それが失敗したなら、安倍支持・福田支持議員とも自らが勝利するために候補者を抱えていない小派閥を対象にポストで釣る、党員の投票行動にも影響していく多数派工作に出るだろう。

 そういった利害行為は一切せずに、すべては公明正大なそれぞれの投票意思に任せようと澄まし顔に静観するだろうか。そんなことはあるまい。郵政民営化法案を再上程するために自党の反対議員を冷淡にも公認から外すといったことをしたくらいである。

 森派という一つの派閥の中での支持利害の対立が森派に限って従来の派閥力学を上回って無効としただけのことで、そのことから生じる他派閥への力学的影響はあっても、自民党に於ける派閥の存在性、あるいはその意義そのものには何ら影響しないのではないだろうか。いわば支持利害が派閥利害を上回った森派だけの問題で終わるのではないだろうかということである。

 閣僚ポストの配分にしても、支持率が高いと言うことだけではなく、小泉首相が自民党最大派閥に所属しているからこそ可能となった派閥均衡無視ではなかったろうか。弱小派閥に乗っかった不安定な首相の座だったなら、派閥均衡でそのバランスの危うさをどうにか保つ努力をしなければならなかったはずである。  

 所詮、殆どの議員が派閥に立脚し、派閥に守られ、派閥と馴れ合って行動し、派閥から利益を得てきたのである。どっぷりと馴染んだその他律性・従属性からあっさりと抜け出れる程に自分独自の考えを持ち、自分独自に行動できる議員がそうたくさんいるとは思えない。

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日本のインド接近から窺う日本民族優越意識

2006-05-12 08:34:50 | Weblog

 朝日新聞のアジアネットワーク欄にインド人女性記者(なかなかの美人)東京特派員が、『インド 日本に期待する三つの役割』という記事(06.4.22.朝刊)を寄せている。

 インドの国会議員がこのほど日本を訪れ、日本の政財界と広く意見を交わしたが、インドが日本に期待する役割は、急増する電力需要に応えるエネルギー技術、インフラ建設、高齢化する日本の労働市場へのインドの若者の受入れだそうだ:

 但し「日本がインドを単なる経済拠点としてのみ見て、対等なパートナー関係を築く視点に欠け」ていることと、「日本がインドに急接近を図っている裏に、関係が悪化している中国に対する対抗軸としてインドをとらえている」ことが日本の利益だけを考えた関係志向から出ていることで、そういった思惑は外れるだろうと議員たちが見ていてることを紹介している。

 インドが〝対中カード〟足りえない理由として、「かつては戦火を交えた間柄だが、対中貿易は日本との貿易の4倍にも膨れている」ことを指摘している。いわば、インドにとっては日本との関係はこれから大切だが、インドは既に中国と大切な関係に入っている。日本と関係を深めることで中国との関係を損なうわけにはいかない。あるいは、インドの中国との関係を日本との関係と交換するわけにはいかない=対中カードとなるような政策に組みするわけにはいかないということなのだろう。

 日本のインドに対する民間投資に関しても、「政府の『ODA頼り』という従来の手法を変える必要がある」と議員たちは指摘して、「欧米などからの投資が増加し強力な産業基盤が生まれているインド市場では、自らリスクをとって競争するのでなくては生きていけないと議員たちはアドバイス」していると伝えている。

 「アドバイス」の裏を返すなら、日本の民間企業が日本政府のODAや円借款事業で官の後ろについいく形で国外事業を展開し、利益を上げる官頼りの権益構造によって企業規模を拡大してきたことを示すものだろう。だが、この官頼りの構造は国内に於いても同じで、国内の官民一体体制を国外にも持ち出したに過ぎない。とにかく護送船団方式といわれた官による民保護の産業政策、あるいは官との談合で相互保身を図ってきた伝統的体質なのである。

 さらに言えば、この伝統は国営企業を安いカネで民間に払い下げることで日本の産業を育成してきた明治以降の殖産興業政策を出発点としていて、現在に至っても日本人の身体に染み付いている官依存体質を内容としているのは言うまでもない。
 
 問題は、「対等なパートナー関係を築く視点に欠け」ているという指摘と共に、「相互の理解と尊敬に基づく関係を築こうとするとき、日本の伝統とも言える閉鎖的な外国人受入れ態勢や指導的位置からの排除が障害になる」という指摘である。

 「対等なパートナー」意識の欠如も「閉鎖的な外国人受け入れ」体質も、「指導的位置からの排除」姿勢(日系企業の現地社員の低い登用率、あるいは国内日本企業の外国人登用率の低さ)も、〝差別意識〟が下地とならなければ反映不可能な構図であろう。

 これらの場合の〝差別〟とは言うまでもなく「自己を優越的位置に置き、他者をそれより低く見る」ことによって成り立たせることができる。極端に走った場合は劣る者と見る。

「自己を優越的位置に置く」意識の根拠はいうまでもなく日本民族優越意識以外に想定不可能である。他に何を根拠とすることができるだろうか。まさか日本国憲法の前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって」とか、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と言った文言を根拠として日本民族優越意識をバラ撒いているわけではあるまい。

 日本民族優越意識が実体のない自惚れ・思い上がりの類いでしかないのは、その優越性を言うからには〝比較優位〟を条件としてはならず、〝絶対優位〟を以てして初めて成り立つ意識であるにも関わらず、対外的には白人種にコンプレックスを持つことによって、その絶対性・優越性に自ら綻びをつくって相対的位置に貶め、国内的には男尊女卑思想で同じ日本人でありながら女性を一段低く置く品分けを行うことで、やはり自己(日本人男性)を比較対照的に優秀であるとする絶対性への裏切りが明確に証明している。

 日本人を優秀であるとするなら、相手が白人種であろうとなかろうと、日本民族は優秀であるとし、それは男・女に関係なく同等に優秀であるとしなければ整合性を持ち得ない。

 実際行動で証明することができないからこそ、その矛盾を覆い隠して絶対性を象徴的・精神的に証明する装置として、〝世界に例のない男系〟だとか〝万世一系〟とかを根拠とした、それらが形式でしかないにも関わらず、天皇という存在を頭上に押し戴いて、日本民族優越性の代名詞とし、さらに「国に殉じる」という国家への犠牲・貢献に至高性と絶対性を持たせて、それを日本が優越国家であることの証明とすべく、現実に「殉じる」ことによって国家への犠牲・貢献を表現した者を祀る靖国神社を必要とし、至高性と絶対性に共鳴する一人であると同時にその精神を自ら体現する優越民族の一人としてそこに参拝する。

 いわば靖国神社は日本民族優越意識を表現する絶対空間となっている。

 そういった日本人が意識下に抱えている優越心がインドとの関係でも障害となる形で否応もなしに現れているということではないか。

 記事の最後は、「アジアが統合と共同の市場、通貨を目指して模索している今日、インドとの関係構築は日本にとって大きな挑戦課題になっている」と結んでいる。

 そう、インドとの関係構築が単なる経済関係で終わったり、中国との関係を〝比較下位〟に貶めたりする「挑戦課題」となってはならないという指摘であろう。

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血迷ったか、それとも正常?小泉首相

2006-05-11 07:14:38 | Weblog

 経済同友会が現在の日中間の政治機能不全を国益に反する憂慮すべきこととして、その原因となっている小泉首相の靖国参拝の再考を求めた。対して小泉首相は「商売と政治は別です」と反撥したそうだ。

 「財界の人から商売のことを考えて行ってくれるなという声もたくさんありましたけどね、それと政治は別ですと、はっきりと私はお断りしてますからね」(06.4.10.『朝日』朝刊)

 『朝日』の4月11日の社説は「目先のそろばん感情からの提言と言わんばかりの態度は失礼だろう」と認(したた)めているが、財界人にしても、それぞれが所属する企業立場から言えば、〝商売〟を業としているかもしれないが、個々の〝商売〟が社会的全体を成すことで、〝経済〟の姿を取る。国民の生活にも関わってくる大事な姿でもあるし、当然一国の政治とも深く関わる。いわば、〝商売〟だけで終わらない。

 今回の日本の景気回復も、中国との個々の〝商売〟が国全体に様々に波及して中国特需という名の全体的な経済相互性を形作ったことが大きな要因の一つとなっているのではないか。

 そこら辺のオッチャンの立場にあるわけではなく、特に総理大臣という立場にある者は〝商売〟と短絡的に把えることも、短絡的に侮ることもゆめゆめ許されないのではないだろうか。

 経済同友会としたら、〝商売〟で終わらない日本の全体問題(政治・経済・その他・その他)として提言したと思うのだが、二国間の関係を全体の問題にまで持っていかずに〝商売〟の段階に押しとどめて考える感覚は見事という他ない。

 政権末期に至って血迷ったと取るか、それとも、日本の政治に戦術はあっても戦略なしと言う国外の一般的な評価からしたら、ごく普通の正常な感覚とすべきか。いくら総理大臣にまで上り詰めたとしても、日本人政治家であることに変りはないのだから、その制約を受けたごく普通の正常な感覚と見なすべきなのかもしれない。その方が日本の政治家の程度の低さに腹を立てなくて済む。

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小泉子育て支援/「生活塾」閑古鳥から見えてくること

2006-05-10 05:13:32 | Weblog

 「地域住民参加型の新たな子育て支援制度として、小泉純一郎首相の肝いりで今秋スタート予定だった『生活塾』が計画倒れになりそうだ」という毎日新聞(『生活塾「開講」ピンチ 試行は閑古鳥、さいたまでは2人』06年5月4日)の記事をインターネットで見かけた。「仕事で保護者の帰宅が遅い小学生を地域住民が有償で預かる仕組みだが、厚生労働省が3~4月に首都圏4カ所でモデル試行したところ」、「利用者は同省が想定した各40人に達せず、さいたま市ではわずか2人」で、「具体化のめどは立っていない」ということらしい。

 同記事は同種の事業を厚労省が94年から「ファミリー・サポート・センター」という名前で行っていて、「既に約400自治体15万人が登録している。同省は重複を心配し『屋上屋の制度では利用者が混乱し、自治体の負担も増える』と難色を示していた」ことも伝えている。それでも「小泉純一郎首相の肝いりで今秋スタート予定」が組込まれて、「モデル試行」まで進めたということは、ファミリー・サポート・センターが「子育て支援制度」として十分な機能を発揮していないことからの見切り発車といった経緯があったからでなくてはならない。少なくとも〝不足部分〟が無視できないことからの新しい制度の発足予定だったはずである。

 だとしたら「約400自治体15万人が登録」は折角そこまで進めたのにと取るか、何のために進めたと取るかだが、「生活塾」が先行き怪しいとなったら、「ファミリー」側はほっとしているだろう。但し、「ファミリー」だけでは事足りずに「生活塾」と銘打って新たな制度を目論まなければならなかった〝不足部分〟はなくなるわけのものではあるまい。お役所仕事上仕方なく続けていくということなのだろうか。

 提案者の内閣府特命顧問・島田晴雄慶応大教授は次のように説明している。「『今のファミリーサポートは自宅で子供を預かるだけだが、生活塾は一緒に食事をしたり、スポーツや地域活動にも参加し、しつけにも取り組む』と足りない部分を補完する狙いを強調。預かり手として定年退職後の団塊世代を見込んで『地域での子育てを復活させたい』と意気込んでいた」(同記事)。

 ではなぜ「ファミリーサポートセンター」に「生活塾」の趣旨をプラスさせる既設制度の活用・充実による発展型の協力体制で社会の需要に応えていく形が取れないのだろうか。内容が伴わない単なる数字の積み重ねだったとしても、とにかく「約400自治体15万人が登録」しているのである。

 日本のお役所仕事の〝伝統・文化〟として、天下り先確保のためにも似たような制度をいくらでもつくろうということなのだろうか。

 「ファミリーサポートセンター」にしろ「生活塾」にしろ、具体的にどのような制度なのか、その大体を知るために厚労省等のHPを覗いてみた。
ファミリーサポートセンターとは「平成6年(1994年)に労働省(現厚生労働省)が『仕事と育児両立支援特別援助事業』として始めたもので、設置基準は原則として人口5万人以上の市町村」で、「運営費には補助金が交付され」、「仕事と家庭の両立を応援していくために、育児や介護を少しでも地域で支えていこうという考えのもとに作り出されたシステム」だという。「子どもを一時預かってもらいたいとか、病気などの困ったときに手助けをお願いしたい『依頼会員=お願い会員』と子育てや介護を手伝ってあげようという『援助会員=任せて会員』の応援ネットワーク」だそうだ。 

 具体的な運用方法は、「育児の手助けをして欲しい人(依頼会員)と育児の協力をしてくれる人(援助会員)がそれぞれ事務局(センター)に登録しておき、必要な場合に要望のあった会員同士を紹介」となっている。

 ここで一つ断っておきたいのは、最近〝地域で支える〟といった言葉が多用されるが、その殆どが官、もしくは行政の斡旋による活動であって、地域住民の中から自然発生した、あるいは自分たちが声を上げてつくり上げたヒモつきでも何でもない無垢の地域活動ではないと言うことである。かくして日本全国一律的な活動が展開することになる。つまり地域が地域でなくなる。

 「ファミリーサポート」の対応内容は、「センターで行う援助は、あくまでも急な子供への対応や人手不足を補うための援助で、軽易かつ短期的・補助的なものに限られていて、集団保育や乳幼児の長期保育等は行わない」と保育所や託児所とは異なることを断った上で、縄張りは侵しませんということなのかもしれないが、

 ・急な残業の場合に子どもを預かる。
 ・保育施設までの送迎を行う。
 ・保育施設の開始前や終了後又は学校の放課後、子どもを
  預かる。
 ・保護者の病気や急用等の場合に子どもを預かる。
 ・冠婚葬祭や他の子どもの学校行事の際、子どもを預かる
  。
 ・買い物等外出の際、子どもを預かる。
 
 以上を見ると、要するにベビーシッターの行政化である。民間で行えば済むことをわざわざ行政化する必要があるのかと思って、「ベビーシッター」事業がどれほど普及しているかインターネット検索を試みると、「サポート・センター」とは別に(だろうと思う)既に「社団法人全国ベビーシッター協会」なるものが存在することを知った。設立は「サポート・センター」の設立1994年に3年先んじる1991年。厚生労働省の指導援助によりベビーシッターの知識と技術の向上のための「研修」を実施するとともに、働くお母さん方に対しては「ベビーシッター育児支援事業」として割引券を発行し、在宅保育事業を実施、平成12年度からは「ベビーシッター資格認定制度」を発足させているという。

 これらの内容から窺えることは「協会」が厚生労働省の天下り先となっているのではないかということと、「在宅保育」の実際の業務は会員となっている全国109社にのぼる民間のベビーシッター事業会社が行っていて、「研修」名目、「試験」名目、あるいはパンフレット発行等の名目で民間会社から利益を得ることが主事業となっているのではないかということである。体のいい官による民の支配であり、「研修」・「試験」・パンフレット発行等に名を借りた体のいい上納制度団体に見えて仕方がない。

 両者の全体を通してみると、例え目的は正しくても、一方で民を支配し、支配と言って悪いなら、民を操作し、一方で各自治体を補助金を駆使して影響下に置く構図が窺えてならない。

「生活塾」の概要を改めて列挙してみると、
 ・主に自宅で、複数の預かりも含めて行う。
 ・預かりだけではなく、おやつや食事の提供、挨拶等のし
  つけを身につけさせる等の援助も併せて行う。
 ・預かりは有償とし、その報酬の支払いは当事者間で行う
  。
 ・市区町村は、預ける者と預かる者の間のマッチングを行
  う。
 ・ファミリー・サポート・センターやシルバー人材センタ
  ーなどの既存の仕組みを活用して行うことができる。
 
 対応内容が重複する項目もあるにも関わらず、「ファミリー・サポート・センター」とは活用関係のみで、あくまでも別組織の体裁となっている。これを無駄と言わなかったなら、何を以って無駄と言っていいのだろうか。

 業務自体は出張型のベビーシッター対応ではなく、自宅待機型となっているが、小泉首相お得意の「官から民」ではなく、「民から官」へ移行させる管理形態となっている。利用者が少なかったということだが、問題はどこにあったのだろうか、探ってみた。

  まず〝預り手〟(ファミリー・サポート・センターが言うところの「援助会員=任せて会員」)をどういう方法でどれくらい確保できるか、その具体的方法と確保可能数を一定の実態的な調査で割り出したのではなく、「人生経験豊かな退職者や子育てを終えたベテラン主婦などの中には、自由になる時間を利用して、仕事と子育ての両立に苦労している家庭を助けたい、子育てをサポートしたいと、人助けに積極的に関わることを希望する者が多く存在すると考えられる」と希望的観測で割り出していることである。

 本四連絡橋とか「かんぽの宿」、その他の保養施設といった赤字経営の官のハコモノの数々も、利用者数を割り出すのにこのような希望的観測で行ったのだろうかと疑いたくなる。「ファミリー・サポート」にしても、調べてみると、〝預け手〟と〝預り手〟の比率は4:1とか6:1とかで、圧倒的に〝預け手〟過剰の〝預り手〟不足の状況を呈している。「ファミリー・サポート」で既にそういった状況下にありながら、「生活塾」でも「希望する者が多く存在すると考えられる」なのだから、その計画性は見事と言うしかない。

 「ファミリー・サポート」の〝預り手〟不足を「社団法人全国ベビーシッター協会」の会員会社が補っているとしたら、まさしく官の斡旋による民への利益提供となる。当然そのキックバックは飲食接待とか接待ゴルフとかの形で行われるのではないだろうか。とにかく日本人は義理堅い、あるいは恩義深い人種だから。

 〝預り手〟の「人生経験豊かな退職者や子育てを終えたベテラン主婦」の来し方とこれからの全体――人生というものを考えてみた。「退職者」は仕事、あるいは会社に縛られ、「ベテラン主婦」は育児・子育て、あるいは家事に縛られて、自分の時間を自由に持ち、自分の思いのままに利用する機会が少ない過去を送ってきたのではないだろうか。少なくとも時間を自分のものとして自由自在に使うことができた人間はごく少数に限られるだろう。

 そのような「退職者」・「ベテラン主婦」が自分を縛っていたものからやっと解放された現在を送っている。何か社会に役立つことをしようと志したとしても、そのことによって過去と同様の時間に縛られる状況を望むだろうか。「生活塾」が要求するサービスは時間的に定時性を持ち、常態化を求める種類のものである。決められた時間に預り、「挨拶等のしつけを身につけさせる」はともかくとして、場合に応じて決まった時間に「おやつや食事の提供」を行わなければならず、〝預け手〟の途中買い物に寄ったり、急な残業とかで必ずしも決まりきっているわけではない迎えに来る時間に合わせた生活を日常化しなければならない。

 相手の都合に合わせた時間に日常的に縛られることの覚悟(あるいは犠牲)が必要になる。そのような覚悟や犠牲をクリアできる「退職者」・「ベテラン主婦」がどれくらいいるだろうか。そのことの事情が既に「ファミリー・サポート」での〝預け手〟と〝預り手〟の比率は4:1とか6:1とかの状況となって現れているということだろう。〝預り手〟が自分の時間の確保に融通を利かせることができる短時間の制約で済む「ファミリー・サポート」であっても、そういった具合なのである。

 参考までに新宿区の「ファミリーサポート」の年代別提供会員を挙げてみると、20歳未満=0、20~29歳=3、30~39歳=25、40~49歳=36、50~59歳=45、60歳以上=41となっていて、他の自治体も似たような傾向にあるから、「生活塾」が想定している「団塊世代」・「ベテラン主婦」は〝預り手〟として期待ができる年代と言えるが、期待だけでは問題が解決しないのは「ファミリーサポート」の〝預け手〟過剰の〝預り手〟不足の状況自体が物語っている。

 「退職後」、「子育て卒業後」も自分の時間を犠牲にして、それを譲り渡して相手の時間とし、縛られても何も感じないで、それを自分の人生・余生とすることができるとしたら、そのような人生感覚こそ、却って空恐ろしいことではないだろうか。長い人生を無駄なく生きて、他人ではない自分と言うものを築き上げ、何かしら独自なものを持つに至った人間だったなら、残された少ない時間をなおさらに自分の自由にしたいと思うのではないだろうか。自分がより十全に自分であることができる最後のチャンスなのだから。

 児童誘拐・殺人事件の多発化で児童の下校時に地域全体の警戒に当るために駆り出された、あるいは自分たちから組織した(と言っても市や警察、連合自治会といった上からの要請が実態だろう)パトロール隊の老人会や自治会の老人にしても、これまでの人生経験から必然的に生み出された自己独自の何かを自分のものとした時間に埋め込むのではなく、埋めるものを持たずに、それに代る時間埋めの集団活動だとしたら、社会に役立っていたとしても、個人的に子供を預かった場合、「挨拶等のしつけを身につけさせる」といったエチケット程度のことでも機械的な言葉の伝えで終わるだけのことで、そこから一体何が伝わるというのだろうか。

 つまり単に預かるだけでは済まないということまで考えなければならない。年齢の低い子供なら機械的に言うことを聞くだろうが、それはするようにと指示されたことを単になぞるだけの表面的な起承転結で終わりかねない。

 経験とは何々をしたと機械的な積み重ねを言うのではなく、そこから人間全般に関わる何らかの言葉を獲得し得てこそ、経験としての価値を持ち、人に伝わるだけの内容を持つ。機会的な積み重ねで終わった経験の伝えは単なる履歴の知らしめでしかなく、逆説的ではあるが、そういった経験ほど自慢話と化す。教師の言葉が生徒に伝わらないのは言葉に広がりを持たせることができないからではないだろうか。

 尤もそういった状況は今に始まったものではなく、昔からあった状況であろう。権威主義の強い時代は先生の話が面白くなくても、教師(=大人)が怖いからじっと我慢して席に座っていただけの話である。怖くない女性教師がいたとしても、告げ口を仲立ちとした怖い男の教師が後ろに控えているから、迂闊には騒ぐことはできない。

 今現在、身体が達者に動いて地域パトロールとかで社会に役立っていたとしても、そういった活動性が見えにくくしているが、その下に人生経験が単なる履歴で終わったために独自の自分・独自の言葉を獲得できなかった姿を隠している者が数多くいたとしても不思議ではない。退職者だからと言って、あるいはベテラン主婦だからと言って、能書きが謳っているようにすべてが「人生経験豊か」であるとは限らない。そこまで求めるのではなく、仕事として求める方が無難ではないだろうか。小遣い稼ぎをしませんかと。

 自分を持たない人間ほど時間の制約に抵抗なく入っていけるだろからと言ったとしたら、不遜な物言いとなるが、事実としてある状況であろう。

 提案者の島田氏は「地域での子育てを復活させたい」と言っているが、かつての日本の地域にそういった習慣があったと思うのは過去を美化するだけの幻想に過ぎないのではないか。キレイゴトで彩ることのできる人生を送った者は少数ながらいるだろうが、キレイゴトで彩ることのできる時代や社会など存在するはずはないし、そうである以上、存在した試しはないだろうからだ。

 農村の中学卒の子供たちが金の卵と持てはやされて集団就職列車で都会に就職していった日本がまだ貧しかった頃までは農村や田畑を多く抱えた地域の小・中学校の教室は農繁期になると欠席生徒が続出して、櫛の歯が抜けたようにガランとなったという。農作業が機械化される前の人手頼りに中学生は働き手として、小学生はさらに幼い弟や妹の子守りとして駆り出されたからだ。いや、農繁期でなくても、子供達はさらに幼い兄弟の子守りを日常的に強制されていた。少なくともそこでは「地域で子育て」といった光景を見ることはできまい。

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人権に国境なし/脱北者、米国受け入れ

2006-05-08 06:28:02 | Weblog

 「脱北住民6人を米政府が初の受け入れ」と昨夜の(06.5.7)のテレビが報道していた。上院議員の話として、女性4人を含む脱北者が東南アジア経由でアメリカに到着したとAP通信が伝えたとのこと。

 アメリカは2004年10月に北朝鮮人権法を成立させて北朝鮮に対して「基本的人権の尊重と保護を求める」一方、「北朝鮮からアメリカへの亡命者に門戸を開く」、「北朝鮮人の人権状況改善に向けて脱北者の保護や支援活動にあたる団体・個人に対して、年間最大2400万ドルを05年から4年間、計約1億ドルの資金援助を行う」等謳ったものの、保安上の理由とかでこれまで1人も脱北者を受入れてこなかったという。

 この法律が成立当時は北朝鮮は当然なことだが、「対北朝鮮敵対宣言である」と激しく反撥している。 

 この約2年間「北朝鮮人権法」自体が宣言的な性格に収まっていた関係から、その実質性に於いても、また象徴的な意味でも、「対北朝鮮敵対宣言」としての力を持ち得ていなかったのではないか。単に北朝鮮が、あるいはキム・ジョンイルが「対北朝鮮敵対宣言」だと吠えただけで終わったということだろう。

 例えいずれの国の人権を扱ったことであっても、それを「敵対宣言」だと反撥する資格はいずれの国家権力者にもない。〝人権に国境は存在しない〟からである。

 人間の生命は基本的人権を得て、初めて十全に生き得る。逆説するなら、基本的人権の保障を受けていない人間の生命は人間として十全に生き得ていないと言える。

 基本的人権を認めない独裁国家で十全に生き得る条件を満たすには独裁権力に取り入るか、あるいは何らかの関係で関わり、そこから物質的・経済的にだけではなく、精神的にも心理的にも何らかの利益を得ることでしか可能とし得ないだろう。独裁権力者と独裁権力に関係する人間たちで形作る独裁権力層だけが基本的人権と物質的利益を享受する。このことは人間の平等の原則に反することで、決して許せることではない。

 人間の平等の原則から言って、基本的人権の保障に立場の壁があってはならないのは言うまでもない。基本的人権が等しく認められて、等しく平等の原則に立つことができ、等しく十全に生きる権利を得ることができる。このことは如何なる国家も、いかなる国家権力も公式としなければならない絶対命題であろう。絶対命題としない為政者は為政者の資格を失う。

 すべての国家・すべての国家権力が公式とすることを絶対命題だとすることは、基本的人権に人種の壁もなければ、国境も存在しないを絶対命題とすることでもある。人間の生命に人種の壁もなければ、国境も存在しないのだから、当然の到達点である。また、人間の生命は基本的人権と共に存在しなければ人間の生命足りえないことからも、当然の帰結としなければならない。だからこそ、人間の権利としてあるのだろう。

 自国民の生命を軽視する者は他国民の生命をも軽視する。逆説も真なり。他国民の生命を軽視する者は自国民の生命をも軽視する。キム・ジョンイルが日本人を拉致できたのも、自国民の飢餓・餓死を放置できるのも、上記関係からの生命の軽視によるものだろう。人間生命の尊重は、そこに国境の壁を設けたとき、尊重はニセモノに堕す。

 国境を存在させてはならない以上、人間の生命と基本的人権に関して内政干渉なる問題は存在しない。人間は基本的人権を保障されて、初めて肉体的にも精神的にも十全に機能する以上、その保障が為政者の第一番の務めとなる。それを果たせない政治権力者は存在する価値さえない。

 民主国家のすべての政治家、すべてのマスメディアは、「人権に国境は存在しない」というメッセージを独裁国家に向けて機会あるごとに発信し続けるべきではないだろうか。絶対命題としなければならない圧力メッセージとして。   

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ネット右翼

2006-05-07 07:03:30 | Weblog

 〝ネット右翼〟なる言葉を新聞で初めて知った。

 「数年前からネット上で使われ出した言葉だ。自分と相容れない考えに投稿や書き込みを繰返す人々を指す。右翼的な考えに基づく意見が殆どなので、そう呼ばれるようになった」(『萎縮の構図6・炎上 他人のブログをはけ口に』06.5.5『朝日』朝刊)

 「他人のブログに攻撃コメントをしつこく投稿する行為をいさめる意見を載せた」ところ、批判のコメントが殺到したと言う。「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」。回答せずに無視すると、「『このまま逃げたらあなたの信頼性はゼロになりますよ』。反論すると、再反論が殺到した」。「議論の場から一時も離れることを許さない」。

 「炎上」とは批判コメントが殺到して制御不能に陥る状態を言うとの解説があった。執拗な嵩にかかった批判コメントの殺到に攻撃を受けた者が自分の意見が通じないもどかしさから反論が面倒臭くなったり煩わしくなったりして自分の意見・主張を控えたり、抑えてしまう。それでもブログを閉じることでしか攻撃を止めることができないところまで追いつめられて、最終的には閉じることとなる思想・言論の自己意志からではない縮小状況を「萎縮の構図」と把えている。

 思想・言論の自由が保障されているに関わらず、自分と「相容れない考え」という理由で批判の攻撃を受けて自分の意見・主張を「萎縮」させていき、ついには自己の意見・主張を沈黙状態に置かざるを得ない。民主主義国家なのに、何とも窮屈な話である。

 相手にしてもインターネット上から退場させて沈黙させることが自己の考え・主張の最終的な正しさの証明とすることができるのだろう。このことは自分と「相容れない考え」の存在を許さず、排除する形の思想・言論の自由の抑圧行為に当らないだろうか。

 「違う意見を認めよ」ということがもっともらしげによく言われる。「少数意見を認めよう」という声もよく聞く。自己の主義・主張に真っ向から反したなら、例え少数意見だろうと、意見〝自体〟を認めないことは許されるのではないだろうか。少数意見だから、弱者の立場にあるとしているだろうが、少数意見が多数意見とならない保証はないし、意見〝自体〟の否定がその者の生存権まで侵すことになる否定は何人でも許されていないからだ。

 生存権を侵さない範囲内でそれが少数意見だろうとなかろうと自分と「相容れない考え」を「相容れない」ゆえに決して認めることができない価値態度は自己の信念に関わってくる権利として誰もが許されているはずだということである。自分と「相容れない考え」が自己が信念としている意見・主張と異なっている場合は、それを批判する自由も、弾劾する自由も誰もが権利として許されてもいるはずである。

 「相容れない考え」に簡単に同意することの方が節度・信念のなさが問われることとなり、信用できない。

 但し〝誰もが〟ということは、ことさら断るまでもなく〝相互性〟として与えられている権利だということである。いわば自分と「相容れない考え」を主張する権利は相手方にも与えられている。どこがどう「勘違いしている」のか、どこがどう「非」なのか、合理的な説明を伴わせてという条件付きで、「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」と批判する資格は誰もが有するが、そのような条件を無視・排除して、そこに自己と「相容れない考え」を「相容れない」という価値観のみで感情的に封殺する意志を見せた場合、他人の思想・言論の自由を抑圧・否定することとなって、権利侵害に当る。合理的な説明を伴わせることで批判・非難に節度を持たせることが可能となる。

 現実の右翼に置き換えて言うと、害戦車を動員してスピーカーを使って大音量に怒鳴ったり、詰ったりするのは、合理的な説明を伴わせているとは決して言えず、威嚇を力として相手を圧倒・屈服させようとする心理的暴力意志を露にしたもので、許されることではないことは言うまでもない。

 もしも合理的な説明を伴わせずに逆に「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」と言われたら、素直に納得するのだろうか。納得すまい。相手を納得させるためには、合理的説明を絶対条件としなければならない。条件としないとき、自分が納得できないことを他人に要求する矛盾を侵すことになる。

 いわば自己と「相容れない考え」を認めない権利は誰もが有するが、「相容れない考え」を主張する権利も誰もが有している。自己主張の展開(思想・言論の自由)が許されるとするなら、相手の自己主張の展開(思想・言論の自由)も許す相互関係になければならない。自己主張(思想・言論の自由)ばかり認めて、他人の自己主張(思想・言論の自由)を認めないのは、憲法が保障する〝すべての国民は〟という相互性を破るもので、一方的権利の要求となる。それに自分が「相容れな」くても、「相容れ」るとする人間の存在は否定できないだろうから、それを無視したなら、自己価値の強要・押し付けとなり、独裁行為そのものとなる。

 当然相互に「相容れない考え」が並存することになるが、それらの「考え」が社会的秩序を成り立たせる必要条件としてあるもので、どちらかの「考え」を選択し、決定しなければならない場合は、人類のチエが生み出した〝多数決の原則〟に任せるしかない。それが民主主義というもので、〝多数〟を示した「相容れない考え」に従うしかない。

 現実世界には自分と「相容れない考え」の法律・規則の類、あるいは社会的な習慣に従わなければならないことはザラに転がっている。

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小泉アフリカ訪問と靖国参拝の関係

2006-05-06 05:48:08 | Weblog

 小泉首相がエチオピア、ガーナ、スウェーデンの3カ国を4月29日(06年)に出発、訪問して5月5日に帰国した。「安保理入りの支持を取付けた」とのことで、一定の成果を上げた模様とテレビは伝えていた。

 事実なのか、国内向けの成果といったこともある。理由は二つ。何も成果がありませんでしたと帰国するわけにいかないが一つ、もう一つは昨年の安保入り断念の経緯から考えると、「支持」がリップサービスであり得る可能性が否定できないからだ。

 小泉首相のエチオピア、ガーナのアフリカ2カ国訪問は「成果」をそこに持っていったことが示しているとおりに安保理入り支持取付けが主たる目的なのは言うまでもない。そのために途上国援助(ODA)の増額や野口英世賞の創設とかの提案で、体よく「支持」を釣ろうとした。釣ることができて、料理して確実に口に入れるところへまで持っていけたと言えるかどうかである。
誰もが周知しているように昨年国連常任理事国入りを目指した日本は、ドイツ、インド、ブラジルの4カ国で共同提案を目指した「枠組み決議案」(G4案)の採択に向けて国連加盟国の3分の2(128カ国)以上の賛成を得るべく、アフリカ連合(AU、53カ国)が提出を目指したAU案との一本化を図りながら、一本化交渉に失敗している。今回の小泉訪問は再度の失敗を前以て防ぐための布石なのは言うまでもない。

 但しアフリカにも多大な経済援助をしていた日本だが、アフリカ連合(AU)に一本化を拒否された原因が、中国が「AU各国に『中国と敵対する国』の常任理事国入りへの反対を求めてい」て(『アフリカ戦略、中国に後手・ODA「倍増」打ち出したけど』(06.5.2.朝日新聞朝刊)、その外交攻勢が成功したからだとの見方を伝えている。

 5月3日(06年)朝日朝刊の「小泉時代 『強い男』)演じた外交」は、日本の常任理事入りに対して「中国は各国大使館に現地政府関係者を招き、日本が戦争行為で残虐な行為をしたことを告発する映画を上映して日本への不支持を呼びかけたとの報告が外務省に入った」と中国の具体的な反日キャンペーンも伝えている。

 これらの経緯はアフリカ各国に対してそれまでの日本の経済援助の累積と友好関係の歴史の長さが中国のそれらと差引きして上回るはずだが、中国の外交術の前にその差引きをもってしても太刀打ちできなかったことを証明している。対アフリカ援助では鈴木宗雄クンもよくガンバッた。

 ということは今回の経済援助提案にしても必ず実を結ぶ保証はどこにもないことを示している。「安保理入りの支持を取付けた」を不確かとする理由がここにある。
 
 小泉首相のアフリカ訪問と入れ替わりに中国の胡錦涛主席もナイジェリア・モロッコ・ケニアを訪問し、帰国していると同じ記事が伝えている。時間的に一歩先んじた形だが、だからと言ってそういった時間的要素が外交的先行をも意味するわけではないのは言うまでもない。

 尤も日本の安保理常任入りに関わる昨年の対アフリカ連合(AU)対策に関しては日本外交は中国外交に一歩どころか、二歩も三歩も先んじられたのは事実で、それが中国が求めた「『中国と敵対する国』の常任理事国入りへの反対」をアフリカ連合(AU)が受入れた結果だとなると、その有効賞味期間が問題となる。「中国と敵対」のそもそもの原因が小泉首相(=日本の総理大臣)の靖国参拝なのは言うまでもない。小泉首相が今年9月の任期切れ前の8月に靖国参拝を強行すれば有効賞味期間は逆に延長するし、ポスト小泉が靖国参拝の継続をも謳って総理大臣の立場で参拝したなら、延長はさらに続く。

 但し中国が「『中国と敵対する国』の常任理事国入りへの反対を求めた」としても、アフリカ連合(AU)の態度一つで有効賞味期間の呪縛を簡単に打ち破ることはできるが、そういう態度を取るに至らせるほどに外交的に創造的な手を今回の訪問で打てたのだろうか。

 「野口英世賞」の創設が成果を見るのは先の長い話で、その他が経済援助額の増額だけでは中国も対抗可能で、増額合戦の展開へと進んだなら、アフリカ連合(AU)としたら望むところだろうし、うまい話を両方とも失いたくないから、アフリカ連合(AU)の53カ国のうち日本案が採択されない範囲で何カ国かが賛成に回るといった手を打つ可能性がないとも言い切れない。

 この問題はアフリカに限ったことではなく、「国連分担金の多さは米国に次ぐ2位(05年で全体の19.5%)、その他災害支援、イラク・アフガン支援をはじめ実質的な国際貢献は高い。しかしそれは日本の常任理事国入り支持にならない。しかもG4案の共同提案国29カ国中、日本のODA最大の供与地域であるアジアからは、なんとブータン、アフガン、モルジブの3カ国のみでASEAN諸国、南アジア諸国からもことごとくそっぽを向かれてしまった。これは明らかに深刻な外交的失敗である。」(「重大局面に立つ日本外交」天児 慧早稲田大学教授)という状況も小泉首相の靖国参拝が影響したアジア版であろう。

 その辺の事情は05年11月3日の朝日新聞朝刊の『近隣外交を問う』の記事中の「ジャカルタ・ポスト編集局長エンディ・バユニ氏」の言葉がものの見事に物語っている。

 「実際、日中韓の緊張が続く中で、中国は日本の安保理常任入りに反対するよう、インドネシア政府に様々な働きかけをしてきた。
再び2人の友人のどちらかを選ぶような状況に追いやられたくないのが、インドネシアの本音だ。だが、仮に同じような状況が来れば、国益を最優先に考える。その結果は東京を喜ばすことはできない。中国を選ばざるを得ないからだ」

何とも暗示的な発言である。日本が最大の援助国であるカンボジアのフン・セン首相にしても、日本の常任理事国入りについて支持を表明しながら、共同提案国になることには「いろいろな働き掛けがあり、状況を見つつ判断したい」と態度表明を避けて、結果的に共同提案国とはならなかった。「いろいろな働き掛け」とは言うまでもなく中国を指すことは間違いない。

 アジアに於いても「日本のODA最大の供与地域」という経済援助カードが中国の影響力の前に切り札とはならなかった。今回の小泉アフリカ訪問でのODA増額提案にしても、切り札となる保証はどこにもない。

 胡錦涛主席は訪問先の「ナイジェリアでは鉄道や石油精製施設など40億ドルにのぼる公共投資を手みやげに油田開発の優先権を獲得。モロッコとケニアでは両国を地域の『製造業の拠点国』とする方針を示し、中国企業の工場進出を約束」(同『アフリカ戦略、中国に後手・ODA「倍増」打ち出したけど』/06.5.2.朝日新聞朝刊)する見事な手土産外交の展開となっている。

 「活発な中国外交は、ダルフール内戦の渦中にあるスーダンや、米国が『圧制の拠点』と呼ぶジンバブエなどへの軍事援助といった『権力への援助』にも及んでいる。日本が地下水開発など『お金をかけなくても喜ばれる支援』(首相)を重視するのと対照的だ。
 経済低迷が続くアフリカ諸国は中国を成長の先導役と見る。ナイロビ大学のオルー講師(政治学)は『体制に注文をつけず、政権トップに力を貸す中国は影響力を強める一方だろう』と語る」(同記事)。

 中国は自らの一党独裁体制をも利用し、相手国の政治体制が独裁的だろうが問題とせず、自国の影響力を拡大させている。尤も相手国の政治体制を問題としないのは日本にしても民主主義国家でありながら、かつてのインドネシア・スハル独裁体制への最大援助国であった前科を抱え、現在も権国家ミャンマーの最大の援助国の地位を確保し、イスラム原理主義独裁国家のイランの石油開発にアメリカの反対にも関わらず食指を伸ばしているから、このことでは中国を非難できない。

 03年10月に初の有人宇宙船神舟の打ち上げに成功して大国の姿を露にした中国に対して「オーストラリアが援助規模を減らし、ベルギーは対中援助停止の方針を伝え」、「英国は無償援助から世銀の融資の利子補給へ振り替え」る(「大国化の陰 弱者の顔 対中ODA『卒業論』の行方・下』/04.12.23朝刊)大国扱いに転じたが、「105の国と機関に援助してい(03年)」て、「国内総生産(ODA)はカナダやイタリアを超え」、「貿易額は初めて1兆ドルを超え、日本を抜いて米独に次ぐ3位とな」(同記事)った上に、「02年から4年連続の9%超という高い成長率」を遂げて05年度のGDP(国内総生産)がフランスを抜いて世界第5位につける地位を獲得したものの、10億人を超える人口のために「1人あたりの平均収入は1千ドルを超えたばかり。国連の基準では『中低収入国』に属し、3千万人近い貧困人口を抱える。市場経済化の波に取り残された内陸部の進行が課題として残る」状況に中国筋は「『ODA卒業には、まだ遠い』と訴え」て(同「大国化の陰 弱者の顔 対中ODA『卒業論』の行方・下』/04.12.23朝刊)ODA継続を望んでいるというから、何ともしたたかな中国政治・中国外交である。外に流す余裕がありながら、内に流れてくるカネは流れてくるなりに最大限に利用し、外に流すべきは最大限に外にも流して、国益追求へ猛進する。その貪欲さは見事でさえある。

 そのような中国に対して、小泉首相が任期中の靖国参拝を強行した場合、あるいは任期中は見送り、ポスト小泉も参拝を控えたとしても、小泉首相が首相の座から離れて自由の身になったと単なる一議員、あるいは一私人として来年以降の8月15日も正々堂々と参拝したなら、中国の感情を逆撫ですることは間違いなく、それを帳消してアジア・アフリカに対して中国の影響力を上回る日本の影響力を行使可能な政治・外交を展開できる成算を日本が見い出すことの方をこそ、靖国参拝よりも先決問題とすべきではないだろうか。
 
 いや、靖国参拝が中国や韓国に限られた外交問題ではなくなっている以上、昨年の8月に安保理拡大決議案採決を断念せざるを得なかった時点で外交的に何らかの成算ある対抗策を裏打ちしてから10月の秋季例大祭に合わせた靖国神社参拝を行うべきではなかっただろうか。
小泉首相にそんなセンスを求めること自体、土台無理な話か。

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家庭ゴミの不法投棄と愛国心

2006-05-04 04:43:36 | Weblog

 テレビで放送(06.4.2)していたことだが、高速道路のサービスエリアに置いてあるトラッシュ・ボックスと言うのか、ゴミを捨てる箱に明らかに家庭から出たと思われるゴミが詰め込んであるといったことがあって、それがゴールデンウイークといった車の通行量が飛躍的に増大する期間になると、一挙に増えて、サービスエリアでは処理に手間がかかり、捨てていく人間のエチケットのなさを嘆いていた。

 ところが家庭ゴミを捨てて行くのはサービスエリアだけではなく、国道沿いのコンビニのトラッシュボックスでも起ることで、連休中に交通量が増えるとゴミも増えるとコンビニの店員がテレビカメラの前で証言していた。家庭ゴミは持ち込まないようにといった貼紙をするコンビもあるという。

 行楽の途中で家庭ゴミを捨てるとなると、前以て準備して車のトランクなりに積まなければならない。そのようにまめったいことまでして、サービスエリアや国道沿いのコンビニに捨てて行く。日本人の勤勉さがポイ捨てにも変わらずに発揮されているのかと思うと
却って感心させられるが、このような公徳心のなさが世界的に高い技術を持っていると言われる日本人のもう一つの顔となっている。

 富士山を世界遺産登録にと名乗りを上げたいが、登山客が年々捨てていくゴミの山の凄さに汚された富士はその資格を得ることができないらしい。富士山が日本のシンボルと誰もが言うが、実態は日本人の公徳心のなさのシンボルとなっているのではないだろうか。2009年の世界遺産登録に向けて行政やNPOがボランティアを募ってゴミ処理したり、人間の手で荒らされた場所にブナの木を植林して環境保全に努めていると言うことだが、そうしなければならない姿自体がどこか狂っていて悲しい。

 保守派の単細胞な政治家に言わせれば、だから学校で子供の頃から「国と郷土を愛する」心を養う必要があるのだと言うだろうが、教えたって何の役にも立ちはしない。平気でゴミを不法投棄する人間にしても、愛国心はいくらでも表現できるからだ。いわば公の場では愛国心ある人間を演じつつ、ごく個人的な場で社会常識に反する人間を演じることの両立は自由自在なまでに可能である。

 例えばグループで登山する。世話役が「自分で出したゴミは自分で持ち帰ってください」と集合したときと下山の折りに伝える。言われたから、ほぼ全員が従うだろう。言われなければ、勝手に捨てていく。しかし解散場所で解散して世話役の目が届かない個人に戻ったとき、車を使ったりの帰路の途中でサービスエリアやコンビニのトラッシュボックスにこっそり捨てていくのはまだましな方で、信号で止まった車の中から中央分離帯の植え込みや、あるいは人目のない雑木林にでも通りかかれば、そういった場所に投げ捨てたりする始末に終えない者もいる。信号機のある交差点の手前の中央分離帯や道路際の雑木林などは不法投棄の絶好の場所で、例えるなら都会の富士山といったところとなっている。

 場所に応じて自己を演じ分けることができる以上、愛国心は相対的価値しか持ち得ない。胡散臭い政治家でも愛国心を口にすることができるのはそのためである。愛国心がその程度の情操なら、教えても意味はない。

 繰返し言っていることだが、〝自己を愛する〟(自己愛、あるいは利己心)が人間の本質であって、〝国を愛する〟(愛国心)は二義的・三義的な位置にある。〝自己を愛する〟ことと〝国を愛する〟ことの利害が一致した場合は、〝国を愛する〟を一義的な位置に据えるが、しかし〝自己を愛する〟に従わせた〝国を愛する〟であって、両者間に少しでもズレが生じた場合は〝自己を愛する〟が頭をもたげて、それを優先させる。

 従って、〝国を愛する〟を自己を愛する〟を上回る有効な価値とするためには、戦前の日本がしたように心理的な洗脳の方法を用いて信じ込ませて従わせるか、あるいは大日本帝国軍隊が洗脳と同時に用いることもあった物理的強制力によって従わせるか、いずれかの方法があるが、従う者の主体性を奪って強制で従わせ・強制に対して従う社会化(「個人が所属する集団の成員として必要な規範・価値意識・行動様式を身につけること」『大辞林』三省堂)と、そのような社会化を内容として成り立たせた社会にどれ程の価値があるのだろうか。それぞれの行動様式は所詮、グループで登山した場合の世話役の効果とたいして変わらない結末を演ずるぐらいのことしか望めないだろう。

 表向きは天皇の忠実で勇猛果敢、規律正しい帝国軍人であっても、集団で飲みに出かけてだらしなく酔い、嫌がる酌婦にしつこく抱きついたりした一般化していた裏向きの姿を
抱えてもいた。厳しい訓練や規律一辺倒の抑圧から解放されて、その反動が常軌を逸する醜態となって現れたものだろうが、戦前の愛国心はその程度の社会化しか生み得なかった。

 そういった醜悪な姿は戦後もかなりの間サラリーマンが同僚たちと繁華街に飲みにいき、酔うほどに大企業の社員ほど自分たちは何様だといった態度で喚いたり、お互いに肩を組み合って歩道一杯に我が物顔にのし歩いて他人の迷惑を顧みない昼間とは違う顔を見せるといったことで続いた。

 言われたからするのではない、あるいは従わせてさせるのではない、社会のルールに一人一人が主体性をもって関わっていくことで〝自己を愛する〟自己愛・利己心をもその制約下に置く姿勢を持ち得なかったなら、公徳心の問題はいつまで経っても解決しないだろう。〝主体性〟とは、「自己の意志・判断によって、自ら責任を持って行動する態度のあること」と辞書(『大辞林』三省堂)に書いてある。そう、すべては自分が決める行動にかかっている。

 それでも社会のルールを越える者は跡を絶たないだろう。社会の一員としての主体性をいつまでの持ち得ない人間がいるからだ。

 だとしても、愛国心にしても元々相対的価値しか持ち得ない上に一人一人が社会のルールを守る市民としての行動を取れていなければ、口先だけの約束事であり続ける。口先で愛国心を示すことができるからこそ、陰で薄汚い乞食行為をやらかしている人間ほど、愛国心を言い立てることになる。「責任」ある態度で「自己の意志・判断」に従って社会に関わっていくことがすべての基本とならなければならない。そのことは学校の生徒がテストの点を上げることよりも大事なことである。〝愛国心〟以前に問題としなければならないことがたくさんある。

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小泉的ワンフレーズと総合学習の関係

2006-05-03 05:42:59 | Weblog

 各種世論調査によると、在任5年間の小泉評価が経済格差問題と中・韓との外交関係以外は軒並み高い評価を受けている。郵政民営化関連法の成立や派閥政治の打破が主たる評価点らしい。

 国民の高い支持率とそれを受けた断固とした挑戦的な改革姿勢が相乗効果をもたらし合って改革政策に成功色を与え、それが高い評価点につながったという側面があることも否定できまい。

 小泉首相の姿勢に挑戦的な印象を植えつけた最大要素は言うまでもなくワンフレーズポリティックスと言われる政策説明の短い効果的な言葉の使用だろう。「郵政民営化なくして構造改革なし」、「官から民へ」、「古い自民党はぶっ壊す」、「公務員を減らすのがどこが悪いんです」、「格差はいつの時代も、どの社会にもある」。

 しかし、格差を否定すべく発した歯切れのいい言葉だけは不評を買った。格差に関しては難しく考えなくても誰にでも理解できるからだろう。

 ワンフレーズは短い言葉の中に刺激的・挑戦的な語呂のよさを持たせることでよりよく効果を発揮する。当り前のことだが、そこにストーリーを持ってきたのでは二律背反を起こし、ワンフレーズの機能自体を失う。

 これも当然のこととして、政策説明にストーリーを用いないことと、小泉構造改革によって将来の日本の姿をどういう形に持っていくのかの未来図が見えないと批判される説明不足と照応し合うことになる。もしも未来図を懇切丁寧に国民の前に描こうとうとしたら、ワンフレーズでは用を足さないだろうからである。

しかし首相という一国の政策指揮者が取るべき一般的な姿は機会あるごとに自らの政策によって国をどういう方向に導くか、その全体像を言葉を尽くして語る姿でなければならないはずだが、個々の政策ごとの改革をワンフレーズで印象づけるのみで、それらが全体的にどうつながってどういう形を取るのか説明する義務を果たしていない。

 ワンフレーズは聞く者をして思考作用の関与をさほど必要としない。印象だけが勝負となる。瞬間的な刺激の強弱・良否が印象の付与に深く関わる。その点大衆週刊誌の見出しや記事案内のキャプションに見える刺激的な片言隻語に相通じるものがある。如何に読者を釣るか、短い言葉で読みたい気持にさせる印象の与え具合が勝負どころとなるから、勢い刺激的な単語や言い回しを用いるようになる。

 あるいは1時間かそこらのテレビ番組でヒナ檀に10人20人と並んだお笑い芸人を主とするヒナ檀タレントが人数と時間の関係から自分を目立たせるチャンスが限られているため、それが巡ってきた機会を逃さずに短い言葉で如何に自分の発言を印象づけるかどうかが自分の腕の見せ所となる状況と似ている。発言者が次々と変るから、聞く者に思考作用を煩わせる時間を与えるようでは折角のチャンスを無駄にすることになる。いわば出演タレントたちは効果的なワンフレーズを常に心がけていなければならない。と言うことは言葉の使い方に関しては彼らは小泉首相の立場にあり、小泉首相は彼らの立場にあるとも言える。

 思考作用を求めない傾向はテレビニュースのドラマ仕立てを伴ったワイドショー化(このことは司会者にお笑いタレントが進出していることが証明している)へのテレビ局全体を含めた状況となって現れている。難しい内容では視聴率が稼げないことの反映として生じた、思考作用の関与を苦手とする視聴者へのニーズに応える供給であって、そのような思考関与の希薄化への道は元々コミュニケーションの一方通行が言われるテレビのなお一層の一方通行化を示す現象であろう。そこからテレビの情報に動かされるという現象が生じる。

 視聴者をして考えさせて頭を疲れさすことなくニュースを面白おかしく刺激的に報道する。視聴者にしても、考える煩わしさを関与させずにニュースを面白おかしく受止める。小泉首相のワンフレーズは今の時代のテレビの報道手法と相互に通底し合う話法であり、そのことが小泉首相はテレビを、テレビは小泉首相を利用する相互依存現象を生じせしめていて、そのような思考作用を排除する形で成り立たせている相互利用が視聴者のニーズにも応えて、結果として三者が共に相互的な利益享受関係を結ぶこととなっている。

 一方『総合学習』とは、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」(「1998年度改訂小学校・中学校学習指導要領」)能力の育みを目標とした教育である。裏を返すなら、子供たちがそのような能力に欠けていると見ていたからこそ、『総合学習』を必要としたと言うことだろう。しかし実際には子供たちだけではなく、大人がそういった能力に欠けていることを受けた子供たちの能力事情であって、日本人全体の問題である。大人自体が〝自ら考え、主体的に判断する〟能力が欠けているからこそ、テレビの思考作用を必要としないドラマ仕立てのニュース・その他の情報に簡単に動かされたり、小泉首相の政策を説明尽くしているとは到底思えないワンフレーズに簡単に飛びつく現象が起きるのであろう。

 ワンフレーズの命は状況に応じて意図的、あるいは無意図的に演出した短い刺激的な言葉でもって聞く者をして思考作用の関与を必要とさせずに如何に瞬間的に印象づけるかにかかっているから、衆人に受けるためには『総合学習』が目標とする能力(特に主体的判断能力)を持たない人間の方が却って効果が期待できて、都合がいい。『総合学習』的能力はワンフレーズ効果の障害となる。

 文部科学省が満を持して新たな学習指導要綱の目玉として『総合学習』を編み出し、スタートさせたものの、ゆとり教育に引く続く学力の低下を招き、基礎学力の充実の名のもと、従来の暗記学力強化へと方向転換したが、小泉首相は在任5年間、思考作用の介在を必要としないワンフレーズを振り撒き、それに力を与えることを通してテレビ共々間接的に「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」能力の必要性を無力化させて、『総合学習』の敗退にある意味手を貸したのである。

 例え本人が意図的に策した社会現象ではなくても、ワンフレーズに都合よく反応する有権者の短絡思考を結果として求めたことで、『総合学習』が言う思考プロセスを排除し続けた功績も、有権者は大いに評価しなければならないのではないだろうか。

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