性懲りもない連中の性懲りもないパレスチナ抗争

2007-06-13 09:27:44 | Weblog

 ブッシュも愚か者たちはこれ以上相手にできないとイラクから撤退すべき

 ハマスとファタハが持てるだけの武器を携え、再度リング上に上がり、激闘合いまみれる闘争を繰り広げようとしている。ハマスがファタハを倒すか、ファタハがハマスの息の根を止めるか、最大・最高の見応えを予感させ、実際の展開もそうなるに違いない、そうなって欲しい、そうなるべき戦いの火蓋が切って降ろされたのか。

 途中で停戦交渉だ、停戦成立だ、そして喉元通れば再び抗争を再開する、学習もなく同じことの繰返しとなるいつもの道を採るべきではなく、何人のパレスチナ人の命を失おうと最終決着とする抗争・衝突とすべきだろう。

 抗争再発の模様を2007年06月13日の『朝日』朝刊(≪ハマス首相宅にロケット弾攻撃≫)が次のように伝えている。

 <パレスチナ自治区ガザで12日、イスラム過激派ハマスが穏健派ファタハ系の自治政府治安部隊に本部の明け渡しを要求し、激しい戦闘を展開した。ハマスのハニヤ首相宅に携帯型ロケット弾、ファタハを率いるアッバス自治政府議長の官邸敷地には迫撃砲弾がそれぞれ撃ち込まれ、全面抗争の様相を見せている。
 ファタハは同日夜、ハマスとの連立政権を離脱する可能性を検討すると表明、パレスチナ情勢は重大な局面を迎えた。ガザでは9日に両派の抗争が再発し、病院でも銃撃戦が起きるなど4日間で20人以上が死亡した。
 ハニヤ首相宅への攻撃では中にいた首相や家族は無事だった。>

 『朝日』のインターネット記事は、これまで治安機関を牛耳ってきたファタハに対してハマスが独自の治安部隊をつくって対抗、ガザの治安権限をめぐる主導権争いが抗争の背景にあるといった解説を行っている。

 確かに1947年のパレスチナの分割とユダヤ人国家イスラエルの建国はパレスチナにとっては理不尽な仕打ちだったろうが、だからと言って、今となってはイスラエル国家を地球上から抹殺することができないことも絶対事実として立ちはだかっている。

 それを無視した対イスラエル抗争だけではなく、パレスチナ内部でも血で血を洗う党派抗争を繰り広げている。このことでパレスチナにとってもイスラエルにとっても生産的な何を産むことができたというのだろうか。特にパレスチナはイスラエルの圧倒的に優勢な軍事力の前に国土の荒廃と国家にとって最も大切・重要な人的資源の損耗をせっせと紡ぎ出す、そのことだけで終わる闘争の再生産を倦むことなく演じ続けている。利口なことではないか。

 パレスチナ人は内部闘争と勝ち目のない対イスラエル闘争を今後とも性懲りもなく展開していけばいい。パレスチナ人が精々できる唯一の学習プログラムの実践行為がそれしかないだろうから。もしかしたらそれがパレスチナ人に与えられた本能的な使命なのかもしれない。

 パレスチナ人の対イスラエル闘争と内部抗争の性懲りもない同じことの繰返しと学習能力の欠如はイラクの宗派闘争についても言える。イラクでのアメリカ兵の死者が3500人を超えたと言うことだが、イラク人の愚かさのために消耗するには貴重すぎることこの上ない3500人である。このような人命の消耗に価値を見い出せるイラク人の性懲りもない宗派闘争だろうか。

 ブッシュもそろそろ撤退の潮時を考えるべきだろう。フセインの独裁政治を倒し、イラク民主化のせっかくのチャンスを与えながら、それを生かすこともできずに人的資源の抹消と国土を破壊するだけの非生産的な宗派闘争に明け暮れるイラク人の愚かさに愛想が尽きたとして、そのことが十分に撤退の大義名文となるだろうから、お前らだけで好きなようにやってくれと、さよならの手を振るべきではないだろうか。

 そう言えば日本には、〝バカは死ななきゃ直らない〟と言う諺がある。だが、「実際にはバカは死んでも直らないものだ」と言った人がいる。「どこまでいってもバカはバカだ」と。

 と言うことは、バカを直すのは生きている間がチャンスということなる。死んだらどこまでいってもバカを続けることになってしまう。だが、現実はバカを直すのはなかなか容易ではない。

 パレスチナ人もイラク人も後者の「バカは死んでも直らない」、「どこまでいってもバカはバカだ」の部類に入るのだろう。バカは死んでも直らない人間は日本の政治家の中にも結構いるだろうが。

 日本のソニーがイギリスのマンチェスター大聖堂をゲームソフトの戦闘場面に使用したのは大聖堂を侮辱したものだと抗議を受けたということだが、パレスチナの内部抗争とイラクの宗派闘争を面白おかしく派手に取り扱い、特にイラクではイギリスの大聖堂ならぬ豪華モスクに乗用車に仕掛けた自爆テロを敢行させ、大爆発させて祈りを捧げていた信者を残らず殺戮する、ロケット弾攻撃をしてモスクさり破壊して、中にいた人間をすべて瓦礫の下に生き埋めとし、窒息死させてしまう、相手集団を何人殺したと数を競わせるゲームソフトを作った方が世界中から引く手あまたの人気が出るのではないだろうか。

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さくらパパの民主党からの立候補と石原伸晃の反応

2007-06-12 17:18:18 | Weblog

 女子プロゴルファー横峯さくらの父親の横峯良郎がは11日(07.6)、参院選比例代表に民主党から立候補するという記者会見をテレビでやっていた。隣に民主党代表の小沢一郎がいつもの苦虫をつぶしたようなのと無表情との中間の地味すぎるクソ真面目な表情で控えていた。

 読売のインターネット記事(2007年6月11日≪さくらパパ、参院選に出馬表明…「教育問題に取り組む」≫)でパパの立候補の動機と経歴を見てみると、

 <女子プロゴルファー・横峯さくら選手の父親、横峯良郎氏(47)は11日昼、民主党の小沢代表とともに鹿児島市内で記者会見し、夏の参院比例選に民主党から出馬すると表明した。
 横峯氏は「小学生に(ゴルフを)教えているが、学校の教育、親の教育を変えていかなければいけない。教育問題に取り組みたい」と語った。横峯氏は鹿児島県鹿屋市で居酒屋を経営する傍ら、娘のさくら選手らにゴルフを教え、自らもテレビのバラエティー番組などに出演している。>

 お笑いタレントと一緒に<バラエティー番組などに出演して>視聴者を笑わせるエピソードの披露を担い、その役目をそれなりにこなしてもいるのだから、記者会見がもう少しパッとしていいはずだが、どうも隣の小沢氏の地味色が勝ち過ぎて、そうはならなかったようだ。

 ここは平成の水戸黄門こと、前国体委員長、現民主党名誉顧問である渡部恒三氏も同席させて、渡部氏のユーモアを利用し、賑やかな席とすべきではなかったかと思うのだが、どうだろうか。

 渡部恒三が今年も参拝したかどうかは知らないが、靖国参拝議員の一人であることは気に入らないことだが、2007年5月28日の東京新聞インタネット記事、≪“黄門様”威光衰えず 民主・渡部氏、全国遊説≫が渡部氏の人気の程を次のように伝えている。

 <「平成の水戸黄門」の異名を持つ民主党の渡部恒三最高顧問が、党所属議員や夏の参院選候補予定者の応援に、全国を飛び回っている。ユニークな個性で党内随一の知名度を誇る存在であり、参院選に向けた貴重な「戦力」として、存在感がじわじわと高まっている。(清水俊介)
 渡部氏の人気が沸騰したのは昨年三月。偽メール問題で民主党が窮地に立たされた際、国対委員長に担ぎ出され、持ち前の明るいキャラクターと演説のうまさで一躍、党の「顔」になった。
 党内の人気はその後も続き、75歳の誕生日を迎えた今でも、ほぼ毎週末、所属議員の後援会集会や参院選候補予定者の決起集会に招かれている。
 ある中堅議員は「ビッグネームだし、話が面白くて支援者も喜んでくれる」と、渡部氏を後援会集会に招いた理由を説明。
 渡部氏も、日程の都合がつく限り、応援の要請に応じており、今年に入って既に北海道から九州まで17都道府県を「漫遊」、29回の応援演説をこなした。
 「未来につながる若い政治家を育てていくことが私の最後の仕事。私自身は野心も何もない」
 渡部氏は最近ある集会でこう強調した。
 一方、渡部氏には、小沢一郎代表を党内で公然と批判できる数少ない議員という、もう一つの「顔」もある。
 渡部氏は22日の党常任幹事会で、小沢氏が欠席したことについて「できるだけ党首は出られるようにお願いしたい」と苦言を呈し、記者団には「参院選で一致結束するため、けじめはきちんとつけておかないと」と、その意図を説明した。
 渡部氏には、年長者として、小沢氏に厳しく接するのが自分の役目との意識があるようだが、小沢氏は党の会合や衆院本会議を欠席することが多く、渡部氏の発言は、小沢氏に対する不満を象徴する発言として受けとめられた。
 25日に開催されるはずだった小沢、渡部両氏の合同誕生会が「日程の都合」を理由に延期されたことも、二人の不仲説に拍車をかけている。
 参院選の結果次第では、小沢氏の進退論が浮上する可能性もあり、渡部氏の「ご意見番」としての言動が、引き続き注目されることになる。>

 この人気振りをテレビへも露出させて利用しない手はないと思うのだが、ただでさえ大衆化・劇場化している政治の大衆化・劇場化に手を貸す邪道に組することになるのだろうか。

 党首の見栄えも、現実問題として選挙の投票行動に強い影響を与えている。政策で玄人を納得させる力はあっても、それを下回ってマスコミの報道や党首の見栄えに簡単に左右される絶対多数者である素人を納得させる力が不足していたなら、政権担当の道が開けないのも現実問題として横たわっている事実である。

 小泉郵政解散、総選挙では〝刺客〟選挙、〝くの一〟選挙といったマスコミの煽動に煽られた素人政治集団が自民党空前の勝利を演出したのはまだ記憶に新しい05年9月のことである。

 無視し難きは素人政治集団であるからこそ、そのことを認識した自民党、民主党のタレント担ぎ出し合戦なのだろう。

 となれば、これまで政治に無関係なタレント、あるいはタレントまがいの人間たちの立候補記者会見でその立場に応じた雰囲気を演出したとしても、邪道とまではいかないと思うのだが。

 確かにタレントの担ぎ出しに賛否両論がある。否定論の多くは政治のことは何も知らない、政治に素人だ、人気にあやかって当選するのは筋が通らないといったところだろう。だが、大学で政治を学んだり、政治家の秘書を皮切りに政治を学びつつ議員となった者の中でも、実際に学んだのは選挙術だけで、法案採決のときに手を上げたり起立したりするだけの単なる頭数を出ない、政治に素人であり続ける議員がゴロゴロと転がっているのも現実問題としてある事実である。

 国会議員が政治に素人であり続けるといった現実問題が許されるなら、政治に丸きりの素人が立候補しても許されなければ整合性からもバランス上も辻褄が合わないことになる。実際問題としても、自民・民主両党とも当選者を増やすための頭数として利用している面の方が大きいだろうし、そのためのタレント、あるいは著名人の担ぎ出しであろう。

 最近は陣笠なる言葉を見かけることも使われることも少なくなったが、ひと頃前は盛んに「陣笠だ」、「陣笠代議士だ」なる言葉が使われた。『大辞林』(三省堂)には『陣笠』を次のように解説している。

 <政党の幹部に追従し、自分の主義・主張を持たない議員>。当然頭数の役目しか担えないことになる。そしてそういった手合いでも、5期、6期当選すると、大臣になる資格ができたと買官に奔走する。

 陣笠、あるいは頭数で終わるかどうかは、あくまでも本人の問題、本人の責任事項であるが、そもそもからしてそのような政治家を議員に当選させるかどうかは有権者自身の選択にかかっているのであって、タレントやタレントもどきの立候補者や議員となっても政治に素人であり続ける頭数を出ない陣笠議員以上に責任を負わなければならないのは有権者自身の問題、有権者自身の責任事項のはずである。

 さくらパパの立候補の結果が吉と出るか凶と出るか、投票箱の蓋を開けてみないと分からないが、記者会見で新聞記事に書いてないことでどのようなことを言っていたか、当てにもならない記憶を頼りに順不同で記してみる。

 「有名だから、それを利用するようだが、利用してもいいんじゃないんですか?何をするかですから」と、結果論重視のようなことを言っていた。頭数で終わるかどうかは、結果を見てみないことには分からない。そのことを弁えた発言ではないだろうか。

 「自民党からも話があったが、社会保険庁とかの問題が今あって、自民党からの立候補となれば、年金問題で批判できなくなるから、民主党から立候補することにした」

 そう、所属政党議員だからと批判の口をつぐむ人間がどれほどいることか。それを前以て避けようとするはっきりとした意志を見せている。「女性は生む機械」柳沢厚労相の問題でも、与党の女性議員は「女性の立場として絶対許せない発言だ」と言いながら、「辞任する必要までない」とその進退に関しては「絶対許せない」を引っくり返して「絶対」擁護に動く当てにならない「絶対」を見せた。

 上記読売記事が「教育問題に取り組みたい」と書いているが、「午前中は従来どおりの科目事業を行って、午後は生徒の好きなカリキュラム授業を行うべきだ」といったことを言っていた。

 私自身はテストの成績を上げて有名大学に入り、有名企業に入りたい、中央官僚になりたいと思っている生徒には従来どおりのテスト教育を施せばいいと思っているが、テスト教育になじめない生徒には「午後は」とは言わずに、朝から「好きなカリキュラム授業を行うべきだ」と思っている。「好きなカリキュラム授業」のみの勉強であっても、それを通して世間一般の常識、あるいはそれ以上の一般的な知識を学ぶことはできる。本人が望む勉強を与えるということは生徒が望む生存機会を提供するということでもあろう。

 少なくともさくらパパは生徒の身近に立とうとする彼なりの教育論を持っている。安倍首相みたいに「高い学力と規範意識を身につける機会の保障」などと一部の生徒の欲求を満たすことはできるが、すべての生徒が満たせるわけではない、それゆえに生徒の身近に立つのとは逆の、高みから教育状況を眺め降ろすこととなっている、そのためにご大層なハコモノとはなり得るが、中身はないこととなる教育論を振り回したりはしていない。

 どのテレビ局か忘れたが、社会的弱者に思いやり深いことで有名なかの石原慎太郎東京都知事の息子の日本の政治界の若きホープ、参院選対策に駆けずり回っているらしい石原伸晃の車に記者が乗り込んでまでして、さくらパパの立候補について突撃取材(?)を試みていた。

 記者「民主党からの立候補は自民党にとって衝撃ですか?」
 石原伸晃、それはないといったことを言ったと思う。
 記者「学校を変えたいと言ってるそうですが」
 石原(軽く笑いながら)「学校を変える?ゴルフを教えることは上手だろうけど、フィールドが違うから」と変えることができないようなことを言う。

 要するに卒なくうまくかわした。石原伸晃はそのあと自民党から参院選に立候補することになった朝日テレビの元女子アナウンサーがいる都内の歩道上だろう、そこに駆けつけ、有権者に語りかけるとき片足を一歩前に踏み出して語りかけるように注意し、元女子アナが教えられたとおりに一歩前に出る仕草をしたのを見届けてから立ち去っていった。そう、当選をすべてとして、政策とは関係ないことまで学ばなければならない。

 自民党にしても「フィールドが違う」タレント、その他の有著名人を当選議席を増やすだけの選挙対策でゴマンと立候補させ、望みどおりに議席を増やす効果を上げてきた。そのことを無視して「フィールドが違うから」と言う。自分たちがやってきたこと、現にやっていることを省みる能力、客観的自己省察能力が欠けるからこそ言える「フィールドが違うから」であろう。

 相場とは格段にかけ離れた入居料格安の赤坂高級議員宿舎問題にしても、議員宿舎を選挙事務所とする光熱費問題でもテレビに出ては自己都合だけで自民党正当化の強弁を平気で展開する客観性を欠いた人間ぶりを見せていたが、改めてその感を強めた。

 「まあ、自民党もタレントを立候補させているし、有望なタレント候補を物色してもいるのだから、民主党さんも手頃なタレント候補を見つけてきたなといったところじゃないの?」ぐらいの気の利いたことを言えたなら、政治家に特に必要な自他を客観的に認識できる能力の証明となるのだが、自己都合だけで終わっている。政治に素人であり続ける陣笠議員よりもひょっとしたら始末が悪いのでないだろうか。

 だが、そのような客観的認識能力を備えるに至っていない自己都合だけの政治家であっても、若いということと石原慎太郎の息子という毛並み、ルックス等で選挙の顔としていつの日か次期総裁として担ぎ出される幸運に見舞われないとも限らない。その可能性大であろう。本質は自己都合だけの単細胞人間でありながら、安倍晋三が担ぎ出され、まんまと総理大臣になったように。

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自民党公務員改革に見る安倍大言壮語

2007-06-10 18:05:53 | Weblog

 相変らず学習能力なしの安倍晋三

 ≪公務員法案断念を撤回 自民、首相の意向を受け≫(07.6.6.『朝日』朝刊)

 内容は、成立を一旦は断念しかけた公務員制度改革関連法案を安倍首相の強い意向を受けて衆議院を通過させ、今国会で成立を目指すことにしたというものだが、その中に安倍首相が、<4日の自民党の役員会で「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」と発言>したと出ている。

 国家公務員法改正案は翌7日の与党の賛成多数で可決され、めでたく衆院を通過したものの、当ブログ記事≪安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇≫で安倍晋三の学習能力のなさを批判したが、「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」は相変わらずの学習能力の欠如をさらけ出している。

 本気で「終止符を打」てると思っているとしたら、誇大妄想人間が大言壮語を得意としている人間でなければできない至難の技と言わざるを得ない。まあ、誇大妄想的・大言壮語的気(け)がないわけではない我が日本の総理大臣、安倍晋三ではある。私自身のブログ07年3月6日の記事『安倍従軍慰安婦論/業者の強制は軍の強制』の中でも「安倍晋三という人間にある心性は名を残そうとする功名心だけで、真心とか優しさといったもの柔らかい感受性は彼の心の中には住み着いていないらしい。単純さだけは十分に感じ取ることができる」と批判したが、昭和史研究家であり作家でもある半藤一利氏も朝日記事(07.6.9.夕刊≪悩める首相どう見る≫)で<「祖父の岸信介氏や大叔父の佐藤栄作氏らのように、大きな仕事をして歴史に名を残したいと思い込んでいる」>、<半藤さんは採決の強行も辞さなかった最近の国会運営を見て、「名宰相になりたい一心からではないか」>とその功名心を衝いているが、半藤氏が言う「大きな仕事をして歴史に名を残したい」はその政治が国家というハコモノの中身たる国民の福祉・生活を出発点としているのではなく、国家なるハコモノそのものを出発点としていると言うことだろう。だから当初は改憲を今夏の参院選の争点に掲げたのであり、それが不人気と見て、国民の目下の最重要関心事である年金問題に切り替えるという豹変を君子に非ずだから簡単に見せることができた。

 マッカーサーが日本の政治家は13歳の少年だと喝破した洞察力に逆らって、祖父岸信介と叔父佐藤栄作を偉大な政治家だと頭から妄想しているのだろう、血を受けついだ者として二人の過去の功績に限りなく近づき(つまり半分以上は過去に目を向けている)、岸・佐藤の次に位置したい妄想もどきの願望を患っているのだろう。それが「戦後レジームからの脱却」という思い込みを取っているに違いない。

 政府与党が衆院を通過させた国家公務員法改正案に盛り込んでいる天下り規制と公務員に対する能力・実績主義の人事管理がどれ程の効力を有するのか、その判断はさて置いて、まずは言っておかなければならないことは、完璧な法律は存在しないということである。

 当然完璧でない法律からは「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」などといった完璧さは望みようがない妄想となる。

 大体が人間社会に法律なるものが存在すること自体が人間が完璧でないことの証明であり、完璧でない人間が形成することとなる人間社会が完璧ではなく、常に矛盾を抱えた集合体であり続ける不備・欠陥は当然の因果性としてある。結果として、完璧な法律の手に入らないこと、永遠のものとなる。改正、改正の繰返しで社会を成り立たせるしか手はない。不備・欠陥の「終止符を打」つことはないと言うことでもある。

 例え新たな法律によって改めるべき矛盾を改めることができたとしても、そこからまた新たな矛盾が生じる。その延々たる繰返しが人間の社会であり、人間の歴史であろう。目指すべきは矛盾を少しでも解消していこうとする謙虚な努力であり、完璧・簡単に不備・欠陥に「終止符を打」てると人間、あるいは人間社会を把えること自体、そこで既に大言壮語の部類に堕する。

 談合罪が刑法に新たに設けられたのが日本敗戦の翌年の1941年で、それから2003年に官製談合防止法が施工され、大手ゼネコン4社が「脱談合宣言」を高らかに謳い上げたのは05年末のことである。1941年から66年も経過していながら、談合は「終止符を打」つことができなかった。談合一つとっても、歴史を経て悪質な企業慣習となっている。それを一内閣が「終止符を打」つなどと簡単にできるものではなく、人間という生きもの、その不完全さへの認識の甘さが許している大言壮語以外の何ものでもないだろう。

 お互いが謀り合って、自分たちにより多くの利益がまわるようにする。きっと人間が貨幣経済を成り立たせたときから発した、人間というしたたかな生きもののしたたかな営為としてあった〝談合〟に違いない。

 入札制度は豊臣秀吉の時代に導入されたということだが、談合は入札制度からのみ社会的慣習として発展したのではなく、安土・桃山・江戸の近世に制度化された、特に江戸時代に徹底化された「営業権・独占権を保証された同業・同種の共同組織」である「株仲間」(『日本史広辞典』山川出版社)が、お上から頂いたその独占的営業権を楯にカルテルの類の談合を可能とし、社会的正当性を獲ち得て日本人の営為となっていったのではないだろうか。

 『日本史広辞典』で株組織の変遷を簡単に見てみると、<18世紀になって、江戸では幕府が享保期に、奢侈禁止や物価引下げのため諸職人や諸問屋に仲間を結成させた。またおもに仲間の側から出願によって、大阪と京都では明和・安永期に、江戸では文化年間に多くの願い株(業者の方から願い出て幕府・藩の許可を得る株のこと)が成立した>。

 だが、<天保の改革で、株仲間・問屋・組合の解散」を命じ>る<「株仲間解散令」が幕府によって発せられる。<幕府は株仲間の独占権が物価騰貴の原因であるという認識から、1841年(天保12)に江戸十組問屋仲間を解散させ、翌年3月には、全国の商人・職人に対して適用した。これにより冥加金や無代納物・無賃人足などは免除されたが、営業上の独占が排され、新たに仲間・組合を結成したり問屋と称することも禁じられて、素人直売買(じかばいばい)などの自由な取引が奨励された。その結果流通上の混乱を招き、かえって物価が高騰したために51年(嘉永4)><「株仲間再興令」>が出された。そして明治に入り、<新政府は1868年(明治元)『商法大意』を布達し、株仲間の特権と諸株の廃止を宣言、商売仲間には新鑑札を下付して取り締まることにした>。ところが、<新鑑札は旧来の株と同様に扱われる悪影響を生じたため、70~73年に和歌山県・滋賀県・新潟・大阪・東京・神戸で仲間廃止令が出された。しかし、71・72年の華士族・農民の商業許可とあいまって取引混乱を引き起こし、株仲間的な性格を継承した同業組合が各地に設立された>

 かくかように一つの矛盾・欠陥を法律を新たに制定することによって正そうとしたとしても、新たな別の矛盾・欠陥が生じる。その繰返しが今日まで続いていて、あたかも歴史のルールのようになっている。このことをしっかりと認識して心して取り掛かろうと意志を働かせることのできる人間なら、「終止符を打ちたい」は大言壮語になると自ら気づき、簡単には言えない言葉となるだろう。

 「営業権・独占権」を幕府・藩によって公認された「株仲間」たちがそれを権力の道具としてひけらかし、自分たちの利益獲得に都合のよいように販売量や値段を調整する談合・カルテルに向かう。自然な流れであろう。それが米不作時の米の買占めだったり、売り惜しみだったりする。

 山陽新聞の4月24日のインターネット記事を利用して自民党の国家公務員法改正案の要旨を改めて列記すると、<
1.中央省庁の天下りあっせんは営利企業と全非営利法人と
  もに全面禁止し、2008年中に内閣府に設置する「官民人
  材交流センター」に一元化する。完全一元化時期はセン
  ター設置後3年以内。設置から5年経過後に体制見直し
1. 現職職員が自らの職務と利害関係がある一定の営利企業
  などに対し、求職活動を行うことを規制。
1.再就職したOBが退職後2年間、国の機関に対して、退
  職前5年間に担当していた職務に関する契約や処分につ
  いて働き掛けることを規制。
1.関係企業への天下りを退職後2年間禁止する事前規制は
  、センターに再就職あっせんを一元化後、撤廃する。
1.再就職監視委員会を内閣府に設置。再就職監察官が再就
  職に関する規制違反の調査を実施。
1.規制違反は懲戒、過料。不正行為は最高で懲役3年の刑
  事罰。
1.採用試験の種類や年次にとらわれず、人事評価に基づき
  適切に実施する能力・実績主義の導入。

【今後の基本方針】
▽基本認識
1.21世紀にふさわしい行政システムを支える公務員像を実
  現するため、押しつけ的あっせんや官製談合への批判を
  踏まえた改革が必要。
▽人材交流センター
1.センター職員は出身省庁職員の再就職あっせんを行わな
  い。人的情報把握のため省庁人事当局と必要に応じて協
  力。
1.センター設置後、随時、効率性、実効性の観点から見直
  しを行い、追加的措置を講ずる。
▽改革の全体像
1.首相の下に設置する有識者検討会で、定年延長や幹部職
  員の公募、官民交流の拡大、専門スタッフ職制の実現な
  ど人事制度を総合的に検討。基本方針を盛り込んだ国家
  公務員制度改革基本法案を立案、提出する。
1.地方公務員制度改革は、国家公務員法改正案の内容や地
  方の実態を踏まえて検討、必要な法案を速やかに提出す
  る。
1.公務員への労働基本権付与問題は、政府の専門調査会の
  審議を踏まえ引き続き検討。>――

 <中央省庁の天下りのあっせんは営利企業と全非営利法人ともに全面禁止>とするが、<「官民人材交流センター」に一元化>の衣替えによって天下りの斡旋そのものは行う。つまり、天下り制度は形を変えて維持する。

 その一方で、<首相の下に設置する有識者検討会で><定年延長>等の<人事制度を総合的に検討>するとしている。

 定年延長の見直しはいわゆる〝早期勧奨退職制度〟が天下りを蔓延化させているそもそもの原因なのだから、当然の措置だが、それを見直すことになる<定年延長>は上がつかえる人事停滞を引き起こして、そのことが優秀な人材確保を妨げることになると自民党が最も反対している人事案件であろう。

 その根拠を≪(3)天下り問題とキャリア制度( 1)なぜ癒着が起きるのか≫が次のように解説している。

 <国家公務員(霞ヶ関、以下同じ)の制度設計が、早期勧奨退職等、天下りを前提とした制度設計になってい>て、<「天下り禁止」で早期勧奨退職を完全に止めた場合は、キャリアの幹部は行き先がないというか、50歳課長補佐という今のノンキャリア並になってしまうわけで>、<このポスト問題を解決しなければ、いくら天下り禁止を叫んでも、制度がうまく立ちゆかない上、人事の停滞という組織を最も停滞(腐敗)させる現象が起こるとともに、キャリア組といいつつ実態は今のノンキャリア並というよく分からない状況を生み出すことになるのです。>と、先がつかえることの悪弊を説いている。

 上記悪弊を考慮に入れて考えると、天下りを維持しながら、一方で定年延長を見直すとすると、定年延長見直しの影が薄くなる可能性も出てくる。いわば<人事停滞>を防止するために、あるいは<人事停滞>防止を口実に天下りにのみ比重を置くことになり、定年延長見直しが疎かになって有名無実とな化して行く可能性が出てくる。

 逆に定年延長見直しが軌道に乗ったとしても、長年の慣行としてきた職務上の人間関係が新規まき直しになることで組織の運営そのものが機能するかどうかも考えなければならない。

 また、次のような問題も起きる可能性がある。迂回献金という隠れ制度が存在する。例えば国土交通省の高級官僚がその所管事務、あるいは自己の経歴とまったく関係のない、厚労省の所管特別法人である社会福祉・医療事業団に「官民人材交流センター」の斡旋を受けて再就職の天下りを行う。そして厚労省の高級官僚がこれまた自らの経歴に関係のない大手ゼネンコンに迎えられる。

 元国土交通省の元高級官僚は社会福祉・医療事業団を拠点として大手ゼネコンに天下った元厚労省の元高級官僚を通して密かに大手ゼネコンを指示・誘導して談合を操る。大手ゼネコンに天下った元厚労省の元高級官僚は厚労省が所管・監督する事業を展開している企業、もしくは公益法人に天下った、厚労省及びその関連機関とは無関係の省庁に所属しいた元高級官僚を通して、特別養護老人ホーム等の社会福祉施設や病院・診療所・老人福祉施設等の設置の許認可や資金貸付に特別便宜を図る口利きを迂回天下りによる迂回談合を手段に遠隔操作する。1996年に特別養護施設の設置に便宜を図って1600万円のゴルフ会員権と高級新車の利益供与を受け逮捕された岡光厚生次官がいるが、そういった直接的口利きを迂回形式に変える。

 迂回献金と同様のこのような迂回構図は決して不可能ではない。携帯電話・パソコンと通信手段は飛躍的に発達している。<自らの職務と利害関係がある一定の営利企業>に天下って、そこを活動拠点としなければならない必要性を絶対条件ではなくなっている。

昨06年の防衛施設省の空調設備工事や岩国基地滑走路移転工事の官製談合事件に関わった官僚は自衛隊法では退職後2年間は施設庁の工事を受注するなどした営利企業への天下りを禁じられていたが、防衛施設庁所管の公益法人「防衛施設技術協会」に一旦2年間天下って、そこから禁止事項対象の営利企業、大手ゼネコンへと天下り、受け入れ企業の天下り実績を基準に工事入札を決定する迂回手口を既に見せている。これをさらに発展させて、非関係営利企業に天下る迂回を行い、そこから口利き・談合等の遠隔操作を行う。

 振込め詐欺にしても、最初は自動車事故の示談金から痴漢の示談金、さらに喧嘩をして怪我を負わせた示談金、サラ金への返金、最近は社会保険庁職員を名乗り、年金を振り込むと騙して逆に振り込ませる手口へと進化している。天下りや談合・口利きの手口が進化していかない保証はどこにもない。

 天下りを完全に禁止して〝早期勧奨退職制度〟を見直すことにしたら、上がつかえる人事停滞を引き起こし、そのことが優秀な人材確保を妨げるとする主張を検証してみる。

〝早期勧奨退職制度〟なるものがどのようなものか、HP『NAGURICOM [殴り込む]/北沢栄(2002年8月29日)更新』から見てみる。

 <「早期勧奨退職慣行」というのがある。幹部職員の大半が、50歳代前半で肩たたきにより退職していく慣行である。
I 種採用のキャリア官僚は、50歳前後から所属省庁から再就職先(天下り先)をあっせんされ、間引きされるように退職していく。同期入省組で最後に残るのは事務次官1人となる。次官を頂点にピラミッド組織に維持するための長年の人事慣行である。 
 この慣行は、何をもたらすか。一つは、大量の天下りだ。
  役所はこの慣行のせいで、早期退職する働き盛りの職員に天下り先の受け皿を常時つくっておかなければならなくなる。それも、高官には高官にふさわしい待遇を、中堅幹部にも安心して「第二の人生」を送れる待遇を、というふうに、安定して厚遇が保証された受け皿でなければ、となる。すると「受け皿」の容量と質を一定以上に保つ必要が生じる。
  こうして天下りの受け皿のメンテナンスと拡大再生産が早期退職慣行を維持するための必要不可欠の条件となる。
  慣行のもう一つの産物は、高額の退職金である。肩たたきして定年前の働き盛りに辞めていってもらうには、それなりの待遇が必要だ、という考え方が背景にある。退職手当制度を企画立案する総務省人事恩給局は、肩たたきで早期退職していく職員のために巧妙な仕掛けを考案した。退職金の特例的な割増手当だ。早めに辞めて再出発したほうが有利、と思わせるようにする制度である。
 だが、その割増手当も「国民の税金」によって賄われているのだ。

 9500万円の退職金

外務省が引き起こした前代未聞の一連の公費詐取・流用事件と外交の機能喪失。その責任を問われる形で辞任・退官した元事務次官三人の退職金がことし5月、明らかになる。川口順子外相が受給者を匿名で明かした退職金は、勤続年数、キャリアなどから推定すると、林貞行・前駐英大使が約9500万円、川島裕・元事務次官が約9100万円、柳井俊二・前駐米大使が約8900万円である。一月に退官したBSE(狂牛病)問題発生時の熊澤英昭・前農水省事務次官も、8900万円近い退職金が支給された。重大な不祥事、失政に関わった最高責任者なのに、この超高額の退職金なのである・・・ >

 まず高額の退職金支払い制度の裏を返すと、<早めに辞めて再出発したほうが有利、と思わせる>ためだけではなく、政治家が官僚を高く買っていることの報償としての金額であろう。大リーグのレッドソックスが松阪に60億もの金額をつけたのは彼の才能を60億の金額で買ったということで、それと同じ原理が働いた高額退職金であろう。

 官僚の才能を高く買わざるを得ない状況とは、政治家が政策作りに関しても国会答弁にしても、そのことに必要とする才能を官僚の才能に頼っている、依存していて、ケチを働いて退職金に高い値をつけなければ、政策作りや国会答弁に応えてくれる必要な人材が集まらないこととなって、ケチのツケは最終的には政治家に回ってきて、自分たちが困難な立場に追いやられる状況のことであろう。幸いにも退職金は国民の税金で賄っているから、政治家自身の懐は痛まない。安心して高額の退職金を大盤振舞いできる。

 政治家自身が優秀になって官僚を単なる情報集めの事務屋に変え、情報の分析・検証、そしてそれらを組み立た政策の創造は政策秘書等のスタッフの協力を得て自らの頭脳に恃(たの)むようにすれば、退職金に高額の値をつける必要もなければ、上がつかえるからと〝早期勧奨退職制度〟を維持して人事の入れ替わりを円滑にする必要も生じないはずだが、官僚におんぶに抱っこの楽チンからいつまでも脱け出れないでいる。その怠慢さは社会保険庁職員の怠慢さの比ではない。

 しかし何よりも問題なのは、<同期入省組で最後に残るのは事務次官1人となる。次官を頂点にピラミッド組織に維持するための長年の人事慣行>であろう。

 <同期入省組で最後に残るのは事務次官1人>の〝1人〟は、前年度も同じ人事構図が働いているから、事務次官を譲って〝元〟となった事務次官も天下っていけば、同期及び先輩はすべて存在しない〝1人〟――いわばすべての意味に於いて目の上のタンコブが一切存在しない完璧にお山の大将となった<次官を頂点>とした<ピラミッド組織>ということで、そういった構造を取ることで初めて機能する組織とは、<同期入省組>の同輩や先輩が目の上のタンコブの邪魔な存在となるからそれを排除することで自らを最上位権威に位置づけ、結果としてすべての他を後輩として下位権威に置く権威主義の階級性をつくり上げることで力を持ち、機能する組織と言うことだろう。

 譬えて言うなら、中学・高校・大学の部活によく見られる先輩・後輩の権威主義的階級性の支配によって機能させている組織と構造的に共通項をなしていると言える。先輩に絶対権力があり、後輩は先輩に対して絶対服従を強いられる。1年生部員が如何に優秀でも、自分が思い通りに振舞うにはすべての先輩が卒業して、自分が最上級の3年になるまで待たなければならない。官庁に於いて次官を除いて同期入省組とそれ以上がすべて天下り、自分が最上級者となることによって思い通りに振舞うことができるようになるようにである。

 同輩や先輩が存在したならトップが力を発揮できない権威主義の支配を受けていることから逆にトップだけを残す権威主義を恃んでその力を引き出す階級組織とは、自由と平等の民主主義の社会に於いてどのような意味をなしているのだろうか。少なくとも中学・高校・大学の部活から何ら発展・進化を見ていない組織であることを意味している。

 官僚たちが権威主義の階級性を恃まなければ力を発揮できない存在であるなら、「早期勧奨退職慣行」は組織にとって必要不可欠の制度であり、<定年延長>は組織機能の阻害要件となる。つまり天下りは永遠になくならない。
 
 「早期勧奨退職慣行」によって退職した官僚は既に権威主義の行動性と人間関係に慣らされていることによって、天下り先でも同様の振る舞いでしか自己存在証明を示し得なくなる。それが許される省庁所管法人が天下り先なら問題はないが、実力主義の営利企業に於いて過去の権威を恃まない実力を要求され、それを満たせない場合、元の職場で手に入れた省庁の先輩・後輩の権威主義の力を借りてそこから引き出す生半可ではない利益――談合や口利きで自己を権威付け、自己存在証明を図るこれまでどおりの振る舞いを繰返さない可能性はない。

 こう考えてくると、安倍首相の「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」はますます大言壮語、あるいは誇大妄想に見えてくる。

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安倍首相の脱北者対応に見るお粗末な政治創造性

2007-06-08 10:54:19 | Weblog

 今月2日の朝、小型船で新潟港に向かうつもりの北朝鮮国籍の4人が青森県深浦港に漂着した脱北問題を受けて安倍首相が東京都内で、「日本は自由を守り、人権を尊重する国だ。北朝鮮から逃れ、日本に4名の脱北者の方々が来られた。人道上の観点から、この問題に私たちは対応していくということをお約束したい」と勇ましく街頭演説している。

 安倍首相は続けて「自由と人権のない国、よその国の人間を拉致して平気な国だ。人権問題と拉致問題への回答を北朝鮮が拒否し続けているならば、国民が国を捨て脱出する悲惨な状況を変えることはできないだろう」と断固とした口調で訴えていた。

 それを聞いたとき、相変わらず政治的創造性のない人間だな、外交オンチだなと思った。元々が自由と人権の無視によって成り立っているキム・ジョンイル政権であり、それが国体となっている北朝鮮である。そのような国体維持のために自由・人権に関して聞く耳を持たない状況は当然の姿としてある。

 このことを裏返すなら、拉致問題や脱北問題の解決には自由・人権に関して北朝鮮に如何に聞く耳を持たせるかにかかっているが、それが如何に難しい政治課題であるかを示している。キム・ジョンイルに独裁の国体を変えよと迫るのである。日本は敗戦国でありながら、戦後GHQの民主化要求に国体維持で散々に抵抗する、他国のことは言えない過去を抱えている。

 北朝鮮にとっては例え韓国向けと同様の経済援助方式であろうと日本からの戦争賠償と日本との経済関係の確立が北朝鮮経済建て直しに喉から手が出るほどに欲しい最重要な宝の山のはずだが、そのような宝の山を手に入れることよりも拉致問題は解決済みの無視を優先させている。

 普通の感覚なら、宝の山を手に入れることが拉致問題よりも優先事項のはずで、拉致解決に早々に取り掛かるはずだが、その逆で、宝の山を自ら遠くに追いやることとなっている拉致解決の引き延ばし、あるいは解決済みとして無視する態度はそれが宝の山に代えてもそうすべき国家的重要事項となっているからだろう。つまり両者を天秤にかけて、宝の山は秤から外せても、拉致問題は秤に乗っけたままにしておかなければならない状況にあるということを意味している。

 別の言葉で言い換えるなら、宝の山はキム・ジョンイル体制の強化につながる重要事項の一つでありながら、それを無視すると言うことは、拉致解決抜きをスケジュールに乗せて初めて体制強化の保証となるということだろう。拉致解決への取り組みはキム・ジョンイル体制維持・強化を相殺しかねない、あるいはそれ以上の障害物だということを裏返しに証明している。

ここに拉致がキム・ジョンイルの直接指令による国家犯罪だと主張する根拠がある。

 現実問題としても、日本の拉致解決要求に現在のところ聞く耳を持たないし、既に指摘したように自由と人権に関しても聞く耳を持たない、それらを無視することによって成り立っているキム・ジョンイル政権であり、それが国体となっている北朝鮮であって、そのような二重の聞く耳を持たない状況に向けた安倍首相の「人権問題と拉致問題への回答を北朝鮮が拒否し続けているならば、国民が国を捨て脱出する悲惨な状況を変えることはできないだろう」はタテマエ上は「日本は自由を守り、人権を尊重する国だ」となっている日本で日本国民に向けて声を張り上げ、訴えたものに過ぎないということだけではなく、キム・ジョンイルが間接的な情報として伝え聞いたとしても、とても北朝鮮に聞く耳を持たせるだけのインパクトも内容も備えているとは言えず、キム・ジョンイルにはカエルの面にショウベン、犬が遠くから吼えたに過ぎない効果しかない出せない街頭演説としか言いようがない。

 内心せせら笑われるのがオチで、安倍首相、自分では強い態度を示したつもりの独りよがりに浸ったといったところが精々で、意味もない虚しい努力に過ぎないし、そのことにチラッとでも気づいていないお粗末な政治的創造性である。

 7日(07年6月)の『朝日』朝刊(≪対北朝鮮 「強い意思表明」 G8,日米首脳が一致≫)が、<ドイツ訪問の安倍首相は6日午後(日本時間同夜)、ブッシュ大統領と会談した。安倍首相の日本人記者団への説明によると、両首脳は北朝鮮が核問題をめぐる6者協議で合意した初期段階の措置をとっていないことについて、「G8(主要国首脳会議)の場を通して、力強いメッセージを発するべきだ」という認識で一致した>云々と伝えているが、自身が「力強いメッセージを発」する能力がないにも関わらず求めるのは、安倍首相十八番の言行不一致としか言いようがない。、

 北朝鮮が<7日、午前と午後に1発ずつ、黄海に向けて短距離ミサイルを発射した>(≪北朝鮮、黄海に向けて短距離ミサイル2発発射北朝鮮の核実験≫07. 6. 7. 読売新聞インターネット記事)ということだが、ブッシュ大統領がドイツのG8出席途次のチェコで演説した<「北朝鮮の住民たちは政権に反対する人々が野蛮に抑圧される、閉鎖された社会に生きている上、北朝鮮の住民たちは韓国にいる兄弟姉妹とも会うことが禁じられている」と言った。そして「我々は決して皆さんの抑圧者を許さないし、いつも皆さんの自由のために共に立っている」>(2007.06.06/中央日報インターネット記事≪ブッシュ大統領、北朝鮮「最悪独裁国家」また非難≫)とした非難に対する反応が一番に考えられるが、その発射が日本列島を越えて米国に近い太平洋に打ち込んだものではなく、朝鮮半島と中国大陸東部に挟まれたより日本に近い黄海に打ち込んだもので、ほんの少し方向をずらせば日本に向けることができることを考えると、安倍首相の脱北問題に関する都内の街頭演説とブッシュ大統領との会談で打ち出した<「G8(主要国首脳会議)の場を通して、力強いメッセージを発するべきだ」>とする姿勢への返答も兼ね備えたミサイル発射の可能性もある。

 そしてこのことは聞く耳を持たない者のそのことを自ら証明する反応でもあろう。自由と人権だって?オレは聞く耳なんか持たないよ、クソッタレめが今回のミサイル発射だというわけである。

 少なくとも北朝鮮の聞く耳は持たない状況の変化のないことを証明するミサイル発射だと言うことだけはできる。北朝鮮には効果なしの安倍街頭演説であり、日本国民に向けたものであっても、分かりきっていることを言ったまでのことで、それ以上の意味はない政治創造性なし、外交オンチの街頭演説だったと言うことだろう。

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年金記録消失/安倍首相の言う「私にすべての責任がある」は見せかけ

2007-06-06 07:59:51 | Weblog

 政権交代がないことが政治家・官僚の緊張感を失わせている

 安倍首相が内閣支持率バカ落ちにたちまち浮き足立ったらしく、年金記録消失問題の責任は民主党の菅直人にあるとなり振り構わぬ責任転嫁戦術に出た。

 <安倍晋三首相は2日、大津市で講演し、公的年金の納付記録漏れ問題の責任は民主党の菅直人代表代行にあると強調した。「(記録漏れを起こした)システムをつくった時の厚相は、いま口を極めて自民党を攻撃している菅さんだ」と表明。そのうえで「与野党で争っているときではない。互いに非難し合うのは無意味で非生産的だ」と民主党の動きをけん制した。>(≪首相、年金問題で民主をけん制≫(日本経済新聞/2007年6月2日/一部引用)

 事実菅直人に責任があろうと、非難して解決するわけではなく、責任追及と年金記録消失問題の解決とは別枠で扱わなければならない事柄であろう。いわば講演での非難が年金記録消失問題解決に向けていくらかの意味があって生産的な前進要素となるわけではない。

 そこまで考えが回らずに菅直人を非難する「無意味で非生産的」なことをしておきながら、「与野党で争っているときではない。互いに非難し合うのは無意味で非生産的だ」はやっていることと言うことが正反対に違う言行不一致をさらけ出すもので、要するに自身をきれいに見せる口先だけのレトリックに過ぎないことを証明している。

 国民の自身に向けられた不人気を少しでも菅直人の方に振り向けて支持率低下を押しとどめたい願望にも促された責任転嫁なのだろう。

 「無意味で非生産的だ」は安倍晋三のお得意の決めゼリフとなっているが、そう言える資格は意味があり生産的な行いをしている人間のみに限定されるが、そのルールを巧妙に利用して、さも自分がそういった人間であるかのように見せかける誤魔化しなのは、これまた安倍晋三の属性としている数々の言行不一致が証明している。

 言行不一致の最大にして象徴的な例は自身が任命責任を以って採用した閣僚、例えば松岡利勝といった人間の規範意識を問わなかったのだから、規範意識を云々する資格はないはずだが、「すべての子供に高い学力と規範意識を身につける機会を保障するために公教育を再生する」といった教育政策を公約に掲げて「規範意識」を云々する「美しい国づくり」を目指す美しい政治家にふさわしい美しい二重基準に的確に現れている。

 企業ぐるみの犯罪とか企業ぐるみの不正といった言葉があるが、菅直人責任転嫁は安倍首相一人だけの美しい仕業ではなく、自民党ぐるみの責任転嫁となっていて、そのことが朝日新聞のインターネット記事に(asahi.com/07.06.05/02.≪首相、年金を争点化 「正面から取り上げないと勝てぬ」≫に出ている。

 <自民党は先週末、年金記録問題についてチラシを作成し、都道府県連などに発送。チラシでは「基礎年金番号設計・導入時の厚相は菅直人・民主党代表代行」と批判している。
 しかし、菅氏が厚相だったのは橋本内閣時代で、菅氏の後任の厚相は小泉前首相。責任転嫁ともとれる宣伝戦術に自民党内からも「かえって世論の反感を買う」との声が噴出。森元首相は4日の大阪市の講演で「自民党もみっともない」と批判。首相が演説などで菅氏批判を繰り広げたことについても「総理も一緒になってそんなことを言い出している」と不快感を示した。
 このため、自民党執行部内にはチラシを作り直すべきだとの意見も出始めている。>(一部引用)

 こういった自民党ぐるみの責任転嫁こそが「意味があり、生産的」な参院選の勝利に向けたなりふり構わぬ自民党らしい美しい選挙戦術なのだろう。

 TBSテレビで安倍首相の非難に対して菅直人が「基礎年金番号の導入を私の名前で決定したが、私が厚生大臣を辞めた後、小泉純一郎厚生大臣の下で、基礎年金番号の実際の付与が行われた」といったことを言っていた。
  
 安倍首相は国会で民主党山根隆治議員の「先日の党首討論で我が党の小沢代表質疑に対して安倍総理の答弁は責任逃れに終始しておりました。国民は最終責任者であるあなたに責任を求めているのであります――」との質問に、「政治のトップは私である以上、その責任はすべて私が背負っていると明確に申し上げております。政治の責任者として国民の皆様に大変申し訳ないとの思いでございます」(TBS≪みのもんた朝ズバッ≫07.6.4)と答えているが、「政治の責任者として国民の皆様に大変申し訳ないとの思い」、これも口先だけの反省だろう。これだけのことを言うのに、原稿を読み上げていることがその証拠の一つとすることができる。

 「政治のトップ」が責任のすべてを背負うとするなら、菅直人が厚相だったときの「政治のトップ」だった橋本龍太郎元首相のより大きな責任を言うべきだが、それを言わずに菅直人一人を非難するのは、やはり言っていることとやることの違いを示すもので、安倍首相が性格として抱えている言行不一致の現れとしか言いようがない。

 また、年金記録消失だけではなく、歴史・伝統・文化と化した社保庁のムダ遣い、杜撰で無責任な職務態度・非生産性、私益行為等々は歴代首相のそれぞれが自らの任務として果たすべき最終的な管理・監督の責任を負ってこなかった結果でもあるから、「政治のトップは私である以上、その責任はすべて私が背負っている」はそこまで思い致すべき言葉でなければならない。

 そうなっていないのは民主党やその支持母体の一つである労組を非難はしても(「(社会保険庁職員の多くが所属する)自治労が民主党の支持母体であり、焦点をずらして社保庁が解散させられるのを避けるためだ」森元首相首相)(≪年金問題で民主をけん制≫日本経済新聞 2007年6月2日)、「最終責任者である」歴代首相を輩出してきた自民党政治全体が負うべき責任でもあるとする意識がどこにも見えないことが証明している。勿論森元首相も「最終責任者」の一人なのは言うまでもないが、その意識は上記言葉にはぜんぜん見えない。「政治のトップは私である以上」云々も美しい口先だけの言葉だということである。

 また言行不一致は自分が発する言葉に責任を持たない人間がよくする特技・ウルトラCであろう。自分の言葉に責任を持とうと心がける人間にはとても真似はできない安倍流言行不一致である。

 安倍首相が自分の言葉に責任を持たずに言行不一致を平気で犯す人間だから、安倍首相や首相と同じ穴のムジナたちの言う〝責任〟は、間違いや不正を行って露見した場合のその始末をつける〝責任〟のみとなっていて、立場や地位に与えられ、果たすことを期待されている任務・使命を自らに課せられた義務として全うする〝責任〟とはなり得ず、そこから起きている数々の腐敗・支障・失態の類であろう。

 松岡全農水相にしても、政治家として後者に於ける倫理的に潔白でなければならない〝責任〟を果たしていなかった。

 社保庁も同じで、自分たちに与えられている任務・使命を全うすべき〝責任〟を一つ一つ果たしてこなかったことの積み重ね、あるいはツケが今日の「年金記録消失」であり、その他の不正・不祥事の類であろう。いわば先に置くべきは役目上の義務を全うする〝責任〟なのだが、先に置いていないから、顔を覗かせなくてもいい後始末をつける〝責任〟だけが顔を覗かせることになる。

 つまり仕事上の与えられ、期待されている任務・使命を果たす〝責任〟をないがしろにした結果、その始末をつける〝責任〟が生じるのであって、任務を果たす〝責任〟を全うしていたなら、まずは生じない後始末をつける〝責任〟なのである。それをきちんと押さえて役目を果たそうと意志していないから、後始末をつける〝責任〟だけがのさばることになるし、そもそもから役目上の責任を果たそうとする強い意識がないから、後始末をつける責任さえも満足に果たそうとせず、責任転嫁や無責任行為がのさばることになる。そういったことを安倍首相も演じているに過ぎない。

 例え責任を取ることとなっても、立ち上がって雁首を揃えて頭を一斉に下げるといった形式的な謝罪や取り繕いの責任の取り方の主流に追随するだけとなる。

 責任として課せられた任務・使命を形式でやり過ごし、生じた混乱の責任を形式的な謝罪や取り繕いでやり過ごす。一次的な責任の形式に対応する二次的な責任の形式として顔を向き合わせることになる。

 安倍は富士山と同じ。遠目には美しく見えたとしても、その登山道はポイ捨てのゴミの山で醜く汚れている。選挙の顔としては外見(そとめ)にはもっともらしく見えるが、あるいは美しく見せようともっともらしげな言葉をあれこれと駆使しているが、口先だけの責任や言行不一致といった人目につかない欠陥を隠しようもなくさらけ出すこととなっている。

 前にも言ったことだが、政権交代がないことが政治家・官僚の緊張感を失わせしめ、自らに与えられ、期待されている任務・使命をそれぞれの責任行為とする厳しい態度を取らせないでいる。

 選挙や支持率のためにのみ目の色を変える政治家にしている。天下りや私益のためにのみ血眼となる官僚にしている。 

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安倍の言う「責任」が言葉だけのものとなっている(2)

2007-06-03 11:41:40 | Weblog

 怠慢な年金記録消失による不受給問題  

 小沢「ですから、私は勿論さっき申し上げましたが、申し出があったから自動的に全部ハイ払えと言うことではないことは勿論です。それはその中に一定のプロセスを経ることは、それは当然ですけれども、しかしながら、その第三者機関なら第三者機関でも何でもいいですけども、そこでやっぱ国民の主張をちゃんと保険料をかけたんだという主張をきちんと尊重する前提に立たないと、結局はそのー、証明しなければダメというのと同じことになっちゃうんじゃないですかと。ですから、そういう意味で、えー、是非、その総理がおっしゃるようなお考えならば、国民の申し立てを前提として尊重すると、尊重するという前提に立って、その対応をしてもらわないといけないと、いうことを言っているわけです。
 それから時間がなくなりましたが、時間最後は端折りますけれども、昨日、きのう何か政府与党から時効に関する法案が出たそうですございます。ま、これはですね、基本的にその、記録が見つかると言うんであれば、それは当然給付しなきゃならない話で、本当は年金というのはその制度は基本的に政府が、行政が管理運営している国の制度ですから、その意味に於いて、その記録を自分たちの責任でなくなっっちゃたから、だからと言って、その時効を進行させること自体が法としておかしいんですよ。法の論理としては。ですから、そういう意味に於いてこの法案が本当に多くの人のみなさんの、こういったことの被害を受けているみなさんの役に立つとは決して思えない。勿論ごく一部の方々には適応されるでしょうけれども。ま、いずれにしても、そういう色々な議論があるわけですから、何かあの、風の頼りにお聞きしますと、明日ですか、本会議にまた案を強行するようなお話ですけれども、是非ね、これはもうみんな本当に年金のことは国民のみなさんが本気にやっぱり心配している問題なので、多少時間がかかっても、私は与野党それぞれ主張は違うでしょうけれども、主張は違っても、やっぱり議論が出尽くすまでね、やっていくと、いうのが特に与党の総理総裁としての立場として、国会運営するに当たっての遣り方じゃないかなと、言うことを申し上げているんですが、もう一度最後にお聞きします」

 安倍「時効の消滅についてもですね、私ども時効を消滅させなければいけない、こう考えています。そしてすべての方々にしっかりと真面目に払ってきた方々に対して支給できるようにしなければいけないと考えています。しかし私たちとしてもですね、立法なしにできるんであれば、当然それはやりたいと思います。しかしですね、しかし法的なヨウチョー(?/要証=「立証の必要があること」か。)として行政庁が請求権を著しく困難にさせたという理由がなければダメですから、その立証には時間がかかってしまう。 かえってですね負荷を与えることになってしまうわけであります。ですから、私たちは法的な根拠をしっかりと私たちの責任で法的な根拠をつくらなければいけない、ということで今回立法させて頂きたい、法案を提出させて頂きたい、議員立法でありますが、できるだけスピーディに行ってということで私たち議員立法させて頂きたい、こう思う次第でございます。どうかですね、年金の加入者の方々の気持に立って、この法案ですね、審議をして頂き、速やかに成立せしめて頂きたいと、このように思う次第でございます」

 (「しっかりと真面目に払ってきた方々に対して支給できるようにしなければいけない」は政府・行政側が管理・監督の責任を十分に果してこなかったことも関わって生じた支障に対する補償行為であって、その構図をしっかりと踏まえないと、今までどおりの事務的な役所仕事の性格を帯びかねない。そのことは安倍首相の「私たちの責任で法的な根拠をつくらなければいけない」という言葉に既に表れている。「私たちの責任」でとさも政府という立場上の義務行為のであるかのように言っているが、管理・監督の責任を果してこなかった責任の一端に関わっているのだから、言うのだったら、義務行為ではなく、「政府として果してこなかった責任を取るために」と責任行為とすべきだろう。そうすることによって、責任行為はより確かな形を取る。

 最終上位者の義務行為としている間は「年金の加入者の方々の気持に立って」は形式で終わるだろう。「責任」が言葉だけとなっている場面でもある。

 小沢「まあ、再度申し上げますが、色んな議論があるわけですから、是非とにかくそれを採決するという必要は私はないと思います。どうぞそういう意味でもう一度重ねて申し上げますが、審議をさらに十分尽くして貰いたいと、そのように要望しておきます」

 (次の機会に憲法について議論したいといったことを付け加えて終える。どうも生煮えの追及に終始した感が否めない。「こちらが何と言おうと強行採決に持ち込むだろうが、十分に議論を尽くさない強行採決は我々は絶対認めない。認めるわけにはいかない」と断固とした調子で一度言うだけで、後は突き放した態度に出るだけで十分と思えるが、何度もお願いするように繰返していたのは、追及のインパクトを自ら殺ぐ行為に思えた。)

 安倍「最後にもう、もう一言年金について申し上げておきたいと思いますが、年金というのは国民の信頼があって初めて、私は生まれた制度である、このように思うわけでございます。ま、ですから、国民のみなさまの不安をなくしていくために我々は全力で取り組んでいかなければ、いけない。このように考えているわけでありますし、そして年金を真面目にコツコツと払ってきた方々の立場に立って、この問題を解決していくということを申し上げたい。そしてなお、もう一言を申し上げればですね、この問題についてはお互いにですね、政党同士の対立、政争の具にすべきじゃない。私たちはこう思うわけでございます。私たちはこの議論を通じ、この議論を通じですね、この議論を通じ、民主党の主張も受け入れてきたところであります。みなさま方のご指摘も私は有意義であったと、そのように率直に認めたいと思います。その上に於いて、国民のみなさま、年金の、これはまさに信頼を回復していくために国民のみなさまの心配を払拭していくために全力で取り組んでいくことをお誓いいたしまして、私の答弁としたいと思います」

 (「年金というのは国民の信頼があって初めて、私は生まれた制度である」――これはごく当たり前のことである。だが、当たり前のことが当たり前の制度ではなくなった。年金不信がどれ程に国民の間に浸透して深刻な様相を呈しているか、感受する能力もないから、ごく当たり前のことを当たり前のこととして披露することしかできない。

 そして「国民の信頼」を失わせた制度としたことについては政府も共犯者であって、そのことに対する責任意識がないから、「国民のみなさまの立場に立って」とか、「年金を真面目にコツコツと払ってきた方々の立場に立って」と軽々しく言える。いや、政府が最終責任者の立場であることから言えば、ある意味主犯者とも言える。言えないとしたら、子供のしつけは親の責任であるなどと言えなくなる)

 「政党同士の対立、政争の具にすべきじゃない」――

 「政党同士の対立、政争の具」にしてどこが悪いというのだろうか。安倍自身が一人のみの責任に帰することはできないはずなのに、年金システムをつくった当時の厚相は菅直人だと名指しで非難する「政争の具」にしているではないか。そのくせ「この問題で非難し合うのは無意味だ、非生産的だ」といったことを言って、与党自民党と安倍政権に波及しかねない不利な形勢に収束を打つべく自己都合をも働かせてている。

 有効な解決策を講じることにこそが意味があり、生産的な政策行為と言うべきもので、自ら非生産的な菅直人非難を行いながら、「無意味だ、非生産的だ」は滑稽である。

 政権交代がないことが、官僚の緊張感を失わせ、政治家を単に選挙に当選するだけ、与党の座を失わないためだけの選挙屋に進化させ、日本の政治を劣化させているのである。日本の政治に政権交代を慣行化させて政治を活性化させるためには大いに勝つか負けるかの「政党同士の対立、政争の具にすべきじゃない」か。「選挙の争点」ともすべきだろう。

 安倍首相だけではなく、マスコミの間にも「政党同士の対立、政争の具にすべきじゃない」、「選挙の争点とすべきではない」といった主張があるが、愚かなことである。

 2日(07年6月)の『朝日』夕刊記事(≪年金記録、入力漏れ2割≫)によると、「宙に浮いた年金記録」はオンライン上に5千万件あり、民主党の「台帳とオンライン上の記録をすべて突き合わせてミスを修正したうえで、5千万件の照合をするべきだ」とする主張に対して、政府・与党は「突合せに10年くらいかかる」として、まずオンライン上の5千万件を台帳と突き合わせて統合することを優先させるとしているらしいが、オンラインに未入力、もしくは重大な入力間違えがあるケースの可能性のある件については、突き合わせから漏れることとなって統合は不完全となる。

 つまりオンラインから出発したのではオンライン上の脱漏・間違いによって台帳に行き着かないケースも生じるわけで、それを正すには例え10年かかろうと20年かかろうと、台帳から出発してオンラインの脱漏・間違い訂正しつつ正確な内容に変えていく以外に道はないはずである。そうすることが正真正銘の「国民に対する責任」、ではないか。

 台帳をすべて検証し直して一つ一つオンライン上の記録と突き合わせていく。例え優先順位をつけることになったとしても、必要年限を無視した台帳の見直しは避けることができない作業なのは間違いないだろう。

 当然10年先に年金を受け取ることなく、あるいは少ない年金で、それが少なくなっていることに気づかない場合もあり、この世から去る人間も出てくるわけで、それでは不公平と言うよりも、政府は「国民の立場に立って」と言いながら責任を償わないことになる。それを避ける暫定措置として、保険料を支払ったと申請した国民すべてに支払った大体の額を聞いた上で、自動的にそれ相当の給付額を支給すべきだろう。支払いを優先させてこそ、国民に対する誤魔化しのない、真正な責任となる。

台帳の突き合わせが終わった国民から順番に支給額が多ければ、多い額を返還して貰い、少なければ少ない金額分を本人が生存していれば本人に、生存していなければ、その家族に支給する。

 もし保険料を1円も支払っていなくて、その場利益に支払ったと申請して給付を受けた場合は、台帳との突き合わせて判明した時点で、詐欺罪として立件し、特別に重い刑に課す特別立法を行うぐらいのことをすればいい。

 誤魔化しの詐欺を働いた人間が亡くなっていたなら、支払った金額を家族に前以て周知させた上で、返還させる取り決めも必要だろう。独居者で、家族がいなければ、回収不能に処するしかない。

 しかしこのくらいのことをしなければ、政府・行政自らが招いた〝年金不振〟の責任を取り戻せないのではないだろうか。年金記録の消失・遺漏の原因をつくり出した原因責任者はあくまでも社保庁であり、社保庁を管理・監督する内閣・厚労省であり、最終的にはそれぞれの長の任免責任者たる内閣の長である総理大臣であって、領収書をなくしたといった国民が原因をつくり出したわけではない。口にする「責任」という言葉を言葉だけで終わらせないためにも、
支払いを優先させるべきだろう。

 財源は社保庁職員だけではなく、他の省庁職員、及び国会議員の給与からも徴収するといった自分の身を削るぐらいのことをさせればいい。税金のムダ遣いはすべての省庁に亘って行っている慣行であるということだけではなく、政治の責任・行政の責任であるとする位置づけのためにも、緊張感を持って職務を遂行させるためにも、また責任の所在を明確にするためにも、徴収は止むを得ない懲罰ではないだろうか。

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安倍の言う「責任」が言葉だけのものとなっている(1)

2007-06-03 11:34:47 | Weblog

 怠慢な年金記録消失による不受給問題

 5月30日に国会で小沢・安倍党首討論があることは知っていたが、最近ボケが始まったのか、失念してしまっていて、その日テレビのチャンネルを変えていて既に途中まで進んでいた党首討論の場面に出食わした。急いで録画した部分を文字に起こしてみた。()内に私自身の解釈を加える。

 小沢「果して政府行政の側に過失があるのか、あるいは国民のみなさんの方が領収書を提示できないと言うことで過失だとおっしゃるのか」

 安倍「国民の気持ちに立って審査を行い、その方々が、その人たちが言っていることが合理的であれば、間違いない、そのような判断することに私はなる、そう思っているわけでございます。小沢代表もですね、小沢代表も、私は、私は、私はですね、給付は受けていないというすべての人たちすべてにですね、自動的に出せっていうことはおっしゃっていないんだろうと、当然そう思うわけであります。そこはなかなか難しいところでありまして、我々はその中でできる限りということで第三者の機関を、委員会をつくる、と言うことを申し上げているわけでございます」
 
 (テレビニュースでは小沢代表の国の責任を認めるかどうかの質問に、安倍首相が「すべての責任は私が負う」と負い切れもしないのに言っていたが、この場面では小沢代表の過失の所在を問う質問に直接答えていない。直接答えることで社保庁本体の「過失」が政府の長たる首相自身に全面的に降りかかる危険が生じかねない恐れを少しでも避けるためにだろう、少なくとも曖昧の線にとどめておこうとする回避姿勢を窺うことができる。

 それにしても安倍晋三君は戦前タイプの国家主義者らしく、物々しいというか、仰々しいというか、格式張ったことさらな言い回しを好みとしているらしい。主語は「私」以外にいないのだから、「そのように判断することになると思います」だけで簡略に済ませことができる場面でも、「そのような(に)判断することに私はなる、そう思っているわけでございます」とわざわざ「私」を前に押し出す付け足しを行った上で使わなくてもいいバカ丁寧な言い回しを最後に持ってくる。そのような言い回しで自己を勿体づけるタイプの人間なのだろうが、内容空疎なことを言う人間ほど、内容空疎をカモフラージュするために勿体ぶった言い回しが必要となる。) 

 小沢「あの、総理が第三者委員会をつくるって、そこでいろいろと作業すると、いう趣旨の、総理が言っているお話は、あの、分かっていますけれども、その場合もいわゆる挙証責任を最終的に国民の方(ほう)に押し付けたんでは、それはもう今と何にも変わりはないことになってしまうわけでありまして、その第三者機関なるものが原則として、今総理は申立人を(に対して)全部払えと言ってるんじゃないじゃないだろうね、というふうにお話なさいましたけれども、私は基本的には確実に保険料を払ったという申立人の国民のみなさんの主張を基本的に尊重すべきだと私は思っております。勿論、それ、全部が全部ね、ええ、正確かどうか、それはまた別な問題ですけれども、いくら第三者機関をつくっても、本人がいくら申し立てても、いくら言っても、いや、それそれがどうやって証明できるんだという話になったならば、それは何にも解決にならないと思うんですよ。ですから、基本的に第三者機関をつくって、そして国民の保険料をちゃんと払った皆さんの主張を基本的に認めるという前提に立って第三者機関が運営されないとですね、何にも今解決にならないどころじゃないですか。そこどうですかね?」

 安倍「あのー、もう一度、今私、小沢代表に確認をしたいわけでありますが、小沢代表は国民の方々から申請があれば、自動的にそれに対して給付をせよとおっしゃってるんですか?」

小沢「あのー、この場は私が総理に質問する場でありますけれども、ま、折角の総理のお話ですので、ええ、お答えいたします。今私が申し上げましたように基本的に国民の側の申し立てを採用するという前提に立って、私は第三者委員会ちょうのは、自動的にという言葉を使われましたが、自動的にと言うふうにつもりはありませんけれども、そういう国民の主張を尊重するという立場に立って、その前提で運営されなきゃ、意味はないじゃないかということを申し上げております」

 (総理が相手の主張を確認する意味で質問する場面まで禁止されているわけではないだろうから、小沢代表の「この場は私が総理に質問する場でありますけれども」は的外れな判断ではないだろうか。安倍晋三君も盛んにそんなことはないというふうに首を振っていたが、自信がなかったのか反論はなかった。)

安倍「私もすね、私も真面目にコツコツと年金を払ってきた方々の立場に立って考える。いわば社会保険庁の親方日の丸的に何年も前の領収書を持って来い、という姿勢は取らないという話をしているわけであります。そこで、お話を丁寧に詳細をよくお伺いをしながら、合理的な説明をしておられるかどうか、そういう判断をしていただき、そして、第三者の機関に於いて、第三者の委員会に於いてですね、そこで判断していただいて、そこで給付を行っていくということを申し上げているわけであります。ですから、小沢代表もですね、今そういう前提に立ったということはですね、そういう前提に立ったということは、一応何らかのですね、それはチェックをするということをおっしゃってるわけですね。そこがやはりはっきりさせておかなければいけないわけでありまして、我々もですね、我々も年金というのはそれは負担があって初めて給付があるわけであります。
ですから、我々は給付に対して、それが負担にも、負担にもですね、それが直接反映するということを考えながら、しかしその中で真面目に、真面目に給付を、えー、納付をしてきた方々に対しては給付をするという仕組みについて今申し上げているわけである。では我々の案以外の案があるんであれば、小沢代表に示して頂きたいと思います」

 (「年金というのはそれは負担があって初めて給付があるわけであります」、「(真面目に)納付をしてきた方々に対しては給付をするという仕組み」――そのような仕組みは確実に維持・運営されて初めて意味を持つ。支給額が減ぜられたり、支給年齢が引き上げられたりの「仕組み」の変質や年金を使った保養施設を造って赤字経営を行い、最終的には二束三文で競売に付す年金のムダ遣いなどを含めて、満足な形で維持・運営されてきていないのだから、既に安倍の言う「仕組み」自体に大分意味を失っているにも関わらず、それを無視して「仕組み」をさももっともらしげに講釈する。

 責任意識など一切感じていないから言える「仕組み」講釈だろう。「負担」を担っても、「給付」から外れた人間が現実に生じているのであり、将来的に外れる人間が生じる状況にもある。「仕組み」が破綻なく機能していてこそ、その「仕組み」のルールを講釈できる資格を得る。資格もないのに、堂々と講釈する。家庭内別居か家庭内離婚している者が、夫婦のあるべき「仕組み」を講釈するのと同じことを安倍晋三は行っている。単細胞だから、そのことには気づきもしないだろう。

 現実にオンライン上に5千万件の「年金記録」の消失が生じていると言うことだが、台帳からオンラインへの移行が不十分であったり、間違えていた件も出てくる可能性を考えると、5千万件以上の不備・脱漏を生じさせている不満足な「仕組み」へと変質せしめた過失は社保庁とそれを管理監督する厚生省及び政府の責任であって、領収書を持つ・持たないを超えて、国民の側の責任ではない。

 そのような責任意識に立たない場所での「では我々の案以外の案があるんであれば、小沢代表に示して頂きたいと思います。」は開き直り以外の何ものでもないだろう。「国民の気持ちに立って」という言葉に含まれていなければならないはずの〝責任〟感覚が言葉だけのものとなっている。)

 小沢「えー、同じことの繰返しなってしまっていますが、我々民主党としては民主党の案を考えて出しております。従って、私が申し上げたようなことは、今そういう話が色んな問題点が、私は素人ですけども、そういう色んな問題があるわけでしょう。それをもう少し時間を掛けて最初に申し上げたとおり、委員会でもう一度論を、審議をするということは、そういう方法を取ったらいいじゃないか如何ですかということを最初に申し上げた。そういう色んな問題があるから、私申し上げたんで、もう一度お聞きしますが、総理はそういうお考えありませんか?」

 安倍「今まさに小沢党首とですね、その年金の問題について議論をさせていただいております。そしてあたしたちの考え方を最初述べさせて頂いております。今後ろで笑った人がいます。少し不真面目ですよ。そして我々は今具体的にお話をさせて頂きました。1年以内に統合していくという話もさせていきました。問題ごとについてですね、丁寧に説明させていただいたつもりです。そして記録が消えている人たちに対する、どう対応すればいいか、これは我々もできればですね、これはもう言ってきて頂いた方々にこれはすぐに給付っていう判断ができればいい。しかし、そういう立場は、それはですね、やはり保険をお預かりしている以上ですね、一定のプロセスを踏まなければならない。そのプロセスの中で我々は、我々の案として、第三者のこの機関をつくるという案を示させて頂いた。その中で我々はどういう姿勢かということも、についてですね、小沢代表の質問に答えさせて頂いたわけでございます。ですから、これがダメであるんならですね、だから私は小沢代表にそちらの案を今お示しを頂きたい、こういうことを申し上げたわけでありますが、それと同時にこういう問題が起こってきたという背景にはやはりですね、社会保険庁の大きな問題があるというってことは、これは小沢党首も、みなさんがもうですね、お認めになるところなんだろうと、このように思います。やっぱり現場に於いてですね、どういう労働慣行がですね、蔓延していたか、やっぱこの問題があるんですね。かつて、かつて国鉄のローズの、労使の大きな問題がある。そしてその国鉄を私たちは改革をしました。だからこそ、私たちは今待ったなしの改革を行わなければならない。このように考えているわけでございます。そういう論点から私は議論を行った。そのように委員会に於いて判断をされたと、私はこのように思うところでございます」

 (「言ってきて頂いた方々にこれはすぐに給付っていう判断ができ」る形が受給者側にとっての本来のごく当たり前の姿であって、それを供給側がおかしくしてしまったという認識が安倍には全然ない。いわば被害者は受給者側であって、社会保険庁は加害者であり、そういった加害者をつくり出した責任の一端は社会保険庁を管理・監督しなければならない政府にもあるという意識がないから、「保険をお預かりしている以上ですね、一定のプロセスを踏まなければならない」の「一定のプロセス」が自分たちの都合上必要不可欠とする「プロセス」としてのみの物言いとなっていて、受給者側にしたら本来なら必要としない余分に付け加えられた手続きとなる迷惑な「プロセス」という認識を持てないでいる。

 「社会保険庁の大きな問題がある」、「現場に於いてですね、どういう労働慣行がですね、蔓延していたか、やっぱこの問題がある」は既知の事実であるということだけではなく、管理・監督側が長年見逃してきた事実をも並行して提示すべき「問題」であって、「内閣・厚生省の社保庁に対するどういう管理・監督慣行がですね、蔓延していたか、やっぱこの問題もある」とする提示もなく、見逃してきた事実を抜きに社会保険庁側の事実のみの提示は一種の誤魔化しであり、そこに責任回避が存在する。

 「国鉄を私たちは改革をしました。だからこそ、私たちは今待ったなしの改革を行わなければならない。このように考えているわけでございます」と言っているが、現実に存在する受ける資格のある給付を受け取ることができないでいる受給者を救済するための改革であって、国鉄改革は別問題である。同じ問題として扱うのは国鉄と同様に社会保険庁の組織自体のみに責任を帰属させようとする意識からだろう。いわば政府の責任回避の意識が言わせている同じ扱いと言うことである。)

   <安倍の言う「責任」が言葉だけのものとなっている(2)に続く)

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安倍国家主義/個人の福祉よりも国の形

2007-06-02 04:58:33 | Weblog

 安倍内閣の支持率が最低の36%に低下したことを伝える『朝日』朝刊(07.5.29.)の記事がある。

 ≪内閣支持率最低の36% 26・27日、本社世論調査≫

 <参院選に向けた第3回の連続世論調査(26、27日。電話)によると、安倍内閣の支持率は36%、不支持率は42%で、第2回調査(19、20日)の支持44%、不支持36%と比べて支持が急落した。内閣支持は4月以降、復調傾向で、支持が不支持を上回っていたが、再び逆転した。

 女性の支持が前回の48%から36%に大きく下がり不支持の37%と並んだのが目立つ。公明支持層では支持が35%、不支持が45%で、初めて不支持が上回った。

 参院選比例区について「仮にいま投票するとしたら」との質問に自民、民主を挙げた割合は第1回(12、13日)から今回まで自民28%→31%→26%、民主21%→21%→25%。当初は自民優位だったが今回は拮抗。選挙区も自民29%、民主26%。参院選の結果、議席が多数を占めてほしいのは与党28%(前回36%)、野党48%(同43%)。望ましい政権の形は「自民中心」32%(同37%)と「民主中心」33%(同31%)がほぼ並んだ。
 投票先を決めるとき何の問題を重視するか。3回の調査を通じて最も高かったのは年金の85%。以下教育81%▽財政再建75%▽少子化、公務員制度改革69%▽政治とカネ67%▽格差60%▽憲法改正55%の順。年金記録の消失問題が、支持率急落に影響した可能性もありそうだ。
 政党支持率は自民29%(前回34%)、民主18%(同14%)など。>

 一旦低落傾向にあった支持率が与党絶対多数の頭数に力を借りた自身の主張を譲らない強い姿勢を「安倍カラー」と称して演出することで<4月以降、復調傾向>を示していたが、反転低落の理由を新聞は<年金記録の消失問題が、支持率急落に影響した可能性もありそうだ。>としている。

 中でも、<女性の支持が前回の48%から36%に大きく下がり不支持の37%と並んだのが目立つ>点が全体の支持率低落に無視できない影響を与えているに違いないことが読み取れる。自民党は女性層に人気があり、民主党は逆に不人気という構図が続いていた。小泉女性人気を受け継いだ安倍女性人気だったろうが、その神通力に陰りが生じてきたといったところか。

 だが、特に女性の支持の趨勢は<年金記録の消失問題>といった〝年金不信〟のみを要因としていいはずはなく、女性の地位や権利、生活に直接関係してくるその他の政策や政治姿勢も要因としていいはずであるが、<投票先を決めるとき何の問題を重視するか>の問いに<3回の調査を通じて最も高かったのは年金の85%>で、女性の生活に関係してくる政策は<少子化>問題以外に見当たらないのはなぜなのだろうか。

 例えば柳沢「女性は産む機械」発言や民法772条のいわゆる「300日規定」が暴露することとなった安倍首相を含めた自民党政治全体の女性蔑視や生まれてくる子供に対する人権軽視が女性たち自身の問題として安倍内閣発足後の70%前後の高支持率以後の下落傾向に手を貸したはずだが、それが<4月以降、復調傾向で、支持が不支持を上回>る再逆転の形を見せたのは個人の福祉よりも国の形を優先する国家主義が既にそこに姿を見せていたことに気づかず、単なる一過性の忌避感で終わらせたからではないだろうか。

 「300日規定」の見直しの過程で曝すこととなった「不倫の子も救済対象になりかねい」とか、「離婚して別の男の子を出産しようとはけしからん」、「離婚しないうちに夫とは別の男の子供を妊娠するのはけしからん」といった時代錯誤の女性観・結婚観・貞操観は単に個人的な好悪の価値観としてあるものではなく、個人を家なら家、国なら国といった全体で把えて、それぞれの全体に従わせようとする、いわば個人の福祉よりも家の形・家の制度を出発点として最終的に国の形・国の制度を優先・重視する国家主義からの主張であって、男尊女卑の家体質・国家主義体質が残る日本に於いて女性は決して一過性の忌避感で済ませてはならないはずだが、それができなかった。

 「300日規定」の見直しが個人を優先しない国家主義に制約された内容となったために救済対象が医師の証明付きで離婚後に妊娠して生まれた子どもに限るとする限定的な措置となったのであり、法務省の推計で離婚後300日以内に生まれる年間約3000人の子どものうちのたった一割程度の300人しか救済対象とならない、子供の福祉を無視した限界を抱えることになったのだろう。

  我が国家主義者・安倍首相も言っている。「婚姻制度そのものの根幹に関わることについて、いろんな議論がある。そこは慎重な議論が必要だ」

 女性の生存権及び子供の戸籍獲得を含めた生存権(=個人の福祉)よりも「婚姻制度」を家の形・家の制度の決定要因として上に置いている。本人は気づいていないが、伝統的な「婚姻制度」を優先させることによって、個人の福祉を後回しにしているのである。気づいていないところが国家主義者であることの証明となる。

 上記朝日新聞の世論調査は「300日規定」の見直しの運用が始まった5月21日(07年)から5日経過後の5月26・27日(07年)の両日である。

 当然女性層に於ける安倍内閣支持率急落の要因が<年金記録の消失問題>だけではなく、「300日規定」の見直しの不備・偏頗も影響していなかればならないはずである。見直しの場面から安倍国家主義を読み取ることができなかったとしても、女性と子供の権利・生存権を蔑ろにした見直しとなっていることには気づかないはずはない。

 だが、影響したとすると、<4月以降、復調傾向>期間は力を持たなかった理由は何だろうか。前回調査では今回の<36%>を大きく上回る<48%>の支持を女性は与えている。

 法務省の推計で離婚後300日以内に年間約3000人生まれるうちの300人の子どもが救済対象となるとすると、単純計算で算出することになるが、残る2700人を夫婦で数えて5400人、女性のみとすると子供の数と同じ2700人が直接の不利益を受ける。

 全体の若い女性の数から比較したら、直接不利益を受ける女性は微々たる数字で、その無関係と不利益の直接的な差引きが「300日規定」等の女性に関わる自民党政策への<4月以降、復調傾向>を呼び起こすことに一役買ったに違いない〝一過性〟を招いたとしたら、今回調査の<内閣支持率最低の36%>の原因は<年金記録の消失問題が、支持率急落に影響した可能性もありそうだ>とする新聞の指摘が老若男女に関係なしに誰もが直接生活に影響してくる問題であることによって唯一的を得ることとなり、そのことはまた女性全体に利益・不利益の形で直接的に関係することとなる女性問題でなければ、一過性とは離れた支持判断の要素とはなり得ないことを示すことになる。

 ということは、安倍首相の政治体質である国家主義そのものは生活上の直接の利害に関係ない政治要素と見なされて今後とも支持判断の埒外に置かれることとなるに違いない。

 安倍首相だけではなく自民党政治家の多くが抱えている国家主義の個人よりも国の形・国の制度に価値を置く〝個人と国家の関係式〟が織りなすすべての政策、すべての政治が個人個人の生活・権利問題に満遍なく降りかかってくることに留意すべきではないだろうか。

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