「聴覚障害」偽装から見て「日本人性善説」は客観的認識能力欠如の証明(1)

2008-03-20 12:17:56 | Weblog

 3月17日(08年)の『朝日』朝刊≪聴力偽り?障害手帳≫(副題:札幌の医師診断 300人返還)は、当たり前に耳が聞こえるにも関わらず、聞こえない振りをして医師の診断を受け、「聴覚障害2級」の障害手帳の交付を受けていた「不正」を伝えている。記事は障害手帳が交付されると税の控除を受けることができるとしているが、3月19日の「asahi.com」記事は「障害年金の受給」を受け取ることができることを伝えている。このことを3月18日の「毎日jp」記事≪聴覚障害手帳問題:障害年金受給の18人が辞退 社会保険事務局調査へ≫で見てみる。

 <札幌市中央区の耳鼻咽喉(いんこう)科の医師(73)が聴覚障害をめぐり虚偽の診断書を作成した疑いが持たれている問題で、北海道社会保険事務局は18日、この医師の診断書に基づいて障害年金を受けていた18人が辞退を届け出たことを明らかにした。受給額は精査中だが、少なくとも1000万円を超えるとみられる。

 障害年金は重度の障害を持つ年金加入者が対象。初診から1年半後の診断書や請求書などを提出、障害者手帳を取得してれば参考として複写の添付が求められる。年間受給額は障害基礎年金で1級99万100円、2級79万2100円。障害厚生年金1~3級で200万円超~100万円

 18人は2月末から3月にかけて、年金を受給する障害等級に該当しなくなったとして届け出た。「漢方薬を飲んだらよくなった」と辞退理由を記した人もいた。この医師の診断書に基づいて年金を支給されたのは02年以降、約140人。受給総額は億単位に上る。道社会保険事務局年金課は「受給資格に該当するか、早急に調査を進め再検査を求める」と話した。【内藤陽】>・・・・

 この不正は食品原料偽装・食品産地偽装・食品表示偽装・食品消費期限偽装等々の偽装、政治家による政務調査費の領収書付け替えの偽装、事務所費偽装、官僚の省庁予算の私的娯楽費への付け替えといった偽装と同じ線上の「偽装」――正常器官でありながら障害と偽る偽装――行為であろう。

 「障害偽装」はブローカーがいて、いとも簡単に障害認定してくれる札幌市の医師を紹介する手口で行われたということだが、上記「朝日」記事はブローカーが「税金が免除になる。検査だけでも受けてみろ」と利益提示をして顧客を勧誘し(ブローカーにとっての顧客)、その上念入りにも「聞こえないふりをしろ」と偽装の心得を伝授し、「ばれないから大丈夫。政治家だって不正をしている」と勇気付けの心構えを教示したことが出ている。

 しかしブローカーは顧客を勇気付けるとすうなら、「政治家だって不正をしている」と政治家に限定すべきではなかったろう。最低限官僚も付け加えなければ社会的現実に合致しないことになる。それに「政治家だって、官僚だって不正をしている」と言った方が、大勢の偉い人がやっている、偉くない俺たちがやったってどうってことないだろうと自己正当化の口実にもなる。「上のなすところ、下これに倣う」で責任転嫁にもなる。

 いや、社会的現実に正確に合致させるとしたら、「誰も彼も不正を働いている。働いていない人間を探す方が難しいくらいだ。ただそういった連中の仲間入りするだけのことだ」ぐらい言うべきだったかもしれない。誰も彼もとなれば「赤信号、みんなで渡れば怖くない」で大勢の中の一人となって良心の呵責を、「痛いの痛いの飛んでいけー」で麻痺させることもできる。

 確かに不正の横並び現象と言えないこともない。よくもまあ日本全国、こうも「偽装」が跳梁跋扈しているものかと感心するくらいだ。なぜか理由は分からないが、「日本人性善説」なる言葉をふと思い出した。どこからどうして生じた「日本人性善説」なる日本人による日本人に対する自己評価なのだろうか。

 政治家・官僚のコジキ行為を含めて「日本人性善説」とあまりに異なる、あるいはあまりにも懸け離れた偽装行為・不正行為の横行に改めて「日本人性善説」を問い質したくなったが、前々から問い質していることで、姉歯1級建築士の耐震偽装問題に関係させて05年4月にメーリングリストに書き込んだかなり古い記事だが、それと横着にも置き換えることとした。
             
                「聴覚障害」偽装から見て「日本人性善説」は客観的認識能力欠如の証明(2)に続く

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聴覚障害」偽装から見て「日本人性善説」は客観的認識能力欠如の証明(2)

2008-03-20 12:14:42 | Weblog


From: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
To:<kokkai2@yahoogroups.jp>
Sent: Sunday, December 04, 2005 1:51 AM
Subject: [kokkai2][07395] 日本人の行動様式は「性善」説に則っているのか

 性懲りもなく長文の手代木です。悪しからず。

 マンション・ホテル等の構造計算書偽造問題の発生後、監督官庁である国土交通省は次のようなことを言っている。

 「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた。今後は性悪説で制度全体を考える必要がある」

 構造計算の偽装を見抜けずに建築確認を承認した地方公共団体及び民間の指定確認検査機関にしても、いずれも「性善説」に立って、釈明している。

 平塚市「法令の解釈に誤りがないかどうか確かめるのが建築確認の趣旨であり、偽造しているかも知れないという前提で見ていません

 あるいは、「資格を持った人が設計しているわけで、名前を出してですね。全然疑いを持っていません。きちんとできていると思い、審査しているんです

 伊勢崎市「こういった改竄があるとは、正直言って、夢にも思っていなかった

愛知県担当者「1級建築士による偽造は想定しておらず、巧妙な手法なら見抜けない。       全部再計算するには人もカネも時間も、設計事務所並みの態勢が必要になる」
 
松本市「建築基準法に沿った書類が出されるという前提で建築確認しており、偽造があるという前提には立っていない

松本市が建築確認、書類の偽造を見逃した長野県「計算書は国の認定プログラムで作られ、審査で確認する必要のないコンピューターの計算過程で改竄されていたので、見抜けなかった
    
 民間検査機関であるイーホームズ「建築士が書類を作ったので、改竄とは思えなかった

 全員が全員、国家試験を合格して資格を持っている人間が計算・設計した構造計算書なのだから、誤魔化しをするはずはないし、誤魔化しはないという「性善説」を前提に検査していた。裏を返すなら、誤魔化しはいくらでも罷り通るということになる。

 こういったことは日本人すべてがとまでいかなくても、少なくとも社会的に高度な資格を持った日本人は道徳的に誤魔化しを犯さない人格者だと卓越視することによって成り立つ認識であろう。

 選挙で国民の選択を受けて当選した国会議員及びそれ以下の政治家はすべて人格者である。選挙違反も犯さないし、不法に政治資金を取得もせず、収賄といった薄汚い犯罪はとてもとても犯すはずはない。

 東大とかの最高学府を出て、国家公務員試験Ⅰ種を合格したキャリア官僚は接待の名のもと、他人のカネで呑んだり食ったりの乞食行為といったことは絶対にしない。ましてやノーパンしゃぶしゃぶで接待に与ったことのある大蔵官僚などは日本には絶対に存在しない。

 そうでなければ、「性善説」は、我々日本人がお互いに日本人を見る目(客観的認識能力)を持たず、いたずらに買い被ることによって成り立たせていることになって、おおいにまずい。

 日本人は性善説で、欧米は性悪説に立っているとよく言われ、広く認知されている。契約書も、よく読まずに、というよりも、殆ど読ますに判を押すのも、契約書だから、間違いがあるはずはないという「性善説」を前提にしているのだそうだ。

 欧米は後で問題が起きないように、事細かに取り決めを交わし、交わした約束事を契約書に契約事項として明確に記して、確認してからサインすると言われている。

 「性善説」は、人間という生きものが常に性善であることによって正当化される。欧米人は人間が常に性善ではなく(常に性悪と言うことはないだろうから)、ときに応じて性悪となることを予備知識として、社会生活に関わる自己防衛に務めているということだろう。

 そう、人間は犯罪を犯す生きものであるとの認識を常のものとしている。

 日本人が日本人のことを「性善説に立っている」と言うとき、当然そこには日本人が人種的に性善であるという暗黙の認識が生じる。生じなければ、矛盾することになる。

 日本の社会は「性善説」を基本として動いている。何と素晴しいユートピア社会ではないか。

 但し、現実には日本人にも悪党は存在する。悪党の存在と日本人「性善説」に整合性を持たせるとするなら、後者の予定調和を崩した日本人だけが、性善から離れて、性悪化するとしなければならない。いわば使い分けを用いることによって、日本人「性善説」の一般化が可能となる。だとしても、今度は何というご都合主義な日本人「性善説」なのかということになる。

 さらに言えば、構造計算書偽装を見過ごしてしまった民間検査機関や国土交通省及び自治体が自らを性善状態に置いたまま、1級建築士を含めたマンションやホテル建設に関わった者のみを日本人「性善説」を裏切った「性悪」者とする自己性善化の構図は、自らの役目不履行を自ら免罪する責任逃れの口実として利用することも可能であることを示している。

 利用したとき、そのこと自体が既に日本人「性善説」をあやふやにする背信行為であろう。利用することはないとするなら、日本人には責任転嫁行為は存在しないことになる。

 もし日本人が必ずしも性善でないとしたなら、日本人「性善説」はどうして生じたのかという新たな疑問が持ち上がる。

 05年11月29日に行われた衆院国土交通委員会耐震強度偽装問題の参考人質疑テレビ中継を取っかかりとして、日本人「性善説」を考えてみた。

 なかなか見ごたえがあって面白かったと言ったら、強度不足で倒壊の恐れあるとされたマンションの購入者や営業停止に追い込まれたホテル会社に対して失礼に当たるだろうか。

 リポーターの大袈裟な語りやインタビューを駆使してあの手この手で衝撃性を持たせようと手を尽くすワイドショーのわざとらしい作為からは生まれない、それとは無縁の、それぞれが落ち着いてはいたものの、如何に自分には責任がないと証明するか、しぶとさと必死さを露にした生々しい人間ドラマが拝見できた。但し一言で言えば、ワイドショーを取り仕切る連中が見せる正義感と同じく、質問する側も含めて日本人「性善説」からは程遠い、それとは無縁の風景であった。

 ワイドショーの小賢しげな正義感に立った見せ物仕立ての演出に日本人の性善を感じ取ることができる日本人がいたとしたら、お目にかかりたい。

 6人招致された参考人の中で、ただ一人胡散臭さもなく正直に責任逃れしていたのは、建築確認業務を行った民間指定確認検査機関のイーホームズの藤田東吾社長であった。

 「今回のように偽造された構造計算書をいちいち計算するようにという明文規定はなく、適法に業務を行った。偽造を見抜けなかったのは当社だけではなく、多くの行政、他の民間機関も同じだ」と、同罪者を出すことで不可抗力に重点を置く責任逃れを主張した。

 「いちいち計算するようにという明文規定はなく」ても、偽装された構造計算書を通してもいいという規定もないはずだ。

 偽装は検査して判明する。検査を経ずに判明する類の偽造をやらかす間の抜けた国家資格所有者などまず存在しない。イーホームズの社長以下、「偽装」という思いは頭に一切なかった、一度も持ったことがなかったということだろう。誤謬なきものとして扱っていた。

 これは彼らが釈明しているように日本人「性善説」に則って生じた認識光景なのだろうか、それとも単にお目出度い人種だから、自然熟成した認識程度と言うことなのだろうか。

 何と言っても一番の役者はマンション販売会社のヒューザーの小嶋進社長だろう。

「コストダウンの努力と経済設計が悪いと言うなら、コストアップの努力と不経済設計をしろと言うのですかっ」と食ってかかりさえした。委員席から「開き直るな」と言う野次が飛んだが、「政治家ではないから、開き直るといったことはしません」となぜ言い返してやらなかったのだろう。

 なぜか小嶋社長の肩を持ちたくなった。小嶋社長は次のようなことを言って、自分に責任はないとした。

 「正常ではない建築士の偽造の計算書とそれを取り巻く設計事務所、自治体、イーホームズなどの民間確認検査機関が偽造とは知らずに許可を出した。私たちは確認済みという神聖な公文書を疑うことなく着工しただけだ。適法に確認を終え、適法に中間検査を得て、適法に販売した」

 どこが悪い、と言うわけである。マンションを安く作って、安い値段で大量に売る。安さ追求の過程で自己利益を削ることをせずに安さを維持しようとすると、建築単価を不必要に下げる選択肢しか残らない。そのような選択肢を実現するための圧力を設計士や施工業者にかけなかったか。参考人質疑ではその点を追及すべく、施工業者の木村建設に、「鉄筋の数を減らすように姉歯設計事務所に圧力をかけなかったか」問い質したが、「そう言ったかもしれないが、あくまでも遵法の範囲内でという認識だった」と、軽くかわされてしまった。

 要は偉大なイエスマンの自民党武部幹事長が口にした、「悪者探し」に終始しただけであった。

  「聴覚障害」偽装から見て「日本人性善説」は客観的認識能力欠如の証明(3)に続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聴覚障害」偽装から見て「日本人性善説」は客観的認識能力欠如の証明(3)

2008-03-20 12:05:21 | Weblog

 確かに、責任の所在を明らかにする必要はある。但し、自治体が行っていた「建築確認」業務を制度改正して民間にも開放したのは、行政府(内閣)と立法府(国会)の双方が関わってしたことで、民間機関に於いて「建築確認」業務が正常に行われているか検査・監督するのは地方公共団体と、行政府に連なる、民間委託後の監督機関たる国土交通大臣が管轄する国土交通省である。

 自治体と国土交通大臣を含めた国土交通省の責任問題を抜きに耐震偽装に関連した業者だけを「悪者」にして責任を問うこと自体が、参考人質疑を自己免罪を図る片手落ちのものとしていたことに自ら気づいていなかった。

 そう、自己を性善状態に置き、参考人のみの「性悪」を追及する責任転嫁を同時進行で行っていたのである、

 耐震偽装を見抜けずに建築確認を出した地方公共団体の平塚市が参考人の一人として出席していたが、委員からの質問は見抜けなかった理由を問うだけの申し訳程度のものでしかなかった。自治体の出席者が平塚市だけというのは、単なるダミーではなかったかと疑いたくなる。

 先にも記したように、ヒューザーの小嶋社長は「私たちは確認済みという神聖な公文書を疑うことなく着工しただけ」なのである。「確認済み」の認証は水戸の御老公の葵の印籠にも匹敵する絶対的なものだろう。例え不正に獲得した資格であっても。

 「建築確認」を出す段階で不適格を見抜けず、その上地方公共団体が適正に行うべき建築現場での「中間検査」でも、構造上の不適格を見落とした二重の過失責任は、業者に対する「悪者探し」以前にひとえに民間検査機関と地方公共団体が負うべき責任ではないだろうか。

 まずは国土交通省を管轄する国土交通相を任命した政府と地自治体の双方が被害者に対する責任として満足のいく補償を行い、その後、建設に関わった各業者に対して、その責任の多寡を問い、多寡に応じた金額を補填させる方法を取るべきだろう。

 被害者に対して言うなら、マンション販売者や施行業者にではなく、一義的には国と自治体の責任だとして、彼らに賠償請求すべきであると言うことである。

 建築に関わった者が、「鉄筋の数が少な過ぎると思った。しかし設計図通りに仕事をするのが我々の役目だ」と疑問に感じているのである。設計図の検査段階で見落としたとしても、現場検査の経験を何ら生かせずに、書類に目くら判を押しように、そこにある物をある状態でしか形式的に見たに過ぎなかった。

 適正な本数の鉄筋を配筋した場合の鉄筋の全体的な密度を本数を減らして維持するとしたら、柱や梁の太さを細くして、各鉄筋の間隔を狭めなければ、維持できない。つまり、柱や梁の太さをそのままにして鉄筋の数を減らすと、減らした分、鉄筋と鉄筋の間隔が開いて、その間隔の程度と全体的な鉄筋の密度の粗さから、手抜き工事が簡単に露見してしまう。

 建築に関わった者が、「鉄筋の数が少な過ぎる」と感じたのは、柱や梁を細くしても、それでも鉄筋が少なく感じる程に鉄筋と鉄筋の間隔が開いていたからだろう。鉄筋の密度にそれ程の違いがなければ、例え柱や梁が従来の建築物と違って細くても、地震に耐える新しい工法によるものだろうと勘違いするだろうからである。

 柱の縦筋や梁の横筋はフープ筋と呼ばれる箍(タガ――桶の周りにはめる竹や金属の輪)の役目をする四方形に(柱が円筒形なら、円形に)折り曲げた鉄筋を外側から等間隔に何本もかませることで、鉄筋の曲がりやすい性質に強度を与えて、地震が発生した場合の破断や湾曲に備える。

 いわば、鉄筋が配筋された段階で、鉄筋の太さは勿論、その本数と密度、さらに柱や梁の太さまで判断できて、建物の高さに応じた構造を備えているか、経験のある検査官なら
看取できるはずである。また、経験のある検査官なら、各階の配筋過程での「中間検査」で、看取しなければならないはずである。

 素人が言うようにそう簡単には見抜けるものかと思うだろうが、建築に関わった者が、「鉄筋の数が少な過ぎる」と感じたのである。検査官が見抜けなかったとしたら、怠慢以外の何ものでもないだろう。

 設計図段階でのチェック以上に現場でのチェックが重要なのは、構造計算が例え正しく行われた偽装のない設計図であっても、現場での検査が部分的箇所にとどまった場合、それ以外の場所の鉄筋の数を減らすことは可能だからである。設計図で誤魔化すか、現場で誤魔化すか、あるいは設計図でも誤魔化し、さらに現場でも誤魔化す方法が手抜き工事を可能とするパターンとしてある。当然、より機能させるべきは「中間検査」ということになる。 

 それが機能していなかった。参考人質疑では、そこには一切焦点を当てることはしなかった。ヒューザーの小嶋社長に、「適法に確認を終え、適法に中間検査を得て、適法に販売した」と一方的に反論させるだけで、一番に問題にしなければならない「中間検査」の重要性を見過ごしていた。

 となると、国土交通省が言っていた「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた」云々は、言ってる本人が気づいていないだけのことで、日本人「性善説」に反する自己責任逃れの言葉に堕する。

 「民間の指定確認検査機関の建築確認は、検査態勢の充実を目的にした建築基準法改正で99年に始まった」と新聞に出ていた。

 それまでは自治体が抱える建築主事が1人当り年間5~600件を超す建築確認をこなしており、期間内に審査が間に合わないことから、事務処理のスピードを図る必要上の民間開放だという。「中間検査」の導入は95年の阪神大震災で欠陥建築物の倒壊が相次いだこと受けた処置だという。

 つまり、阪神大震災で欠陥建築物の倒壊が相次いだ教訓から導入した「中間検査」制度は、有効に機能させてこそ教訓が生きてくるはずであるのに、何ら生かすことができず、欠陥建築物を次々と完成にまで至らせてしまった。当然、何のための「中間検査」制度の導入だったのだろうかと言うことになる。

 「中間検査」で果たすべき責任を果たさなかった役目上の自らの「性悪」を棚に上げて、「性善説」を口実に責任逃れ、もしくは責任転嫁を図る。何という性善行為なのだろうか。

 ここに見える姿は、日本人「性善説」と言うよりも、日本人「健忘症」、あるいは「学習無能力症」と言った方がいい。

 さらに別の姿も見える。

 予想される東海地震や首都直下型地震といった大規模地震に対する備えてとして「新耐震設計法」 が1981(昭和56)年に施行されたにも関わらず、14年後の 「阪神・淡路大震災」(1995年・平成7年1月17日)で、「新耐震設計法」の施行以後に建築された建築物の多くが設計・施工の不備・不適切、 剛性・強度の不均衡等を原因として倒壊、大破等に至ったという。

 つまり、阪神大震災での欠陥建築物の倒壊は、設計図が適正であったにも関わらず、現場での建築段階で手抜きが行われたケースと、それまでは建築確認を専管事項としていた自治体が剛性や強度を含めた設計の適切性を十分に確認しないまま建築確認を発行し、建築させたケースとが合わさって生じた事態ということだろう。

 その延長上に、自治体の建築確認の段階で建築主事が1人当り年間5~600件を超す建築確認をこなしていた過密性が設計の不備を見過ごしてきた原因でもあるとして、建築確認業務の民間開放へと向かわさせたはずである。

 そのような目標を適切に具体化することができなかった。 

 ・ 民間機関による建築確認
 ・ 検査制度の創設
 ・ 建築基準への導入を始めとする単体規制の見直し、
 ・ 建築確認等の円滑化のための新たな手続き制度の整備、
 ・ 中間検査制度の創設
 等を柱とした「建築基準法の改正」が平成10年6月12日に公布され、非常に大きな改正のため、3段階・3年に分けての施行となったということである。

 いわば、建築物の安全性の一層の確保のために念には念を入れた法律の改正を国は行ったのである。法律の改正に伴って、建築確認と「中間検査」の精査が並行しなければ、改正の意味を失う。そして、実際に意味を失った。
 
 このことについては民間検査機関だけではなく、自治体も国も大きく責任を負っているにも関わらず、阪神大震災で「新耐震設計法」の施行以後に建築された建築物の倒壊の責任の所在が建築士・施工業者・建て主・建築確認の自治体とそれを管轄する国のいずれにあるのか、あるいは重複した関係にあったのか、徹底的に検証せず、曖昧にしたことによって、関係者の意識を建築確認と「中間検査」の絶対的な重要性へと向かわせなかったことが改正意味の喪失をもたらしたのではないだろうか。

 もしも徹底的な検証があったなら、建築確認と「中間検査」を最重要課題とする位置づけを疎かにすることはなかっただろうからである。

 1999年6月に「住宅品質確保促進法」が成立、欠陥マンションの業者に対する保証期間が2年から10年に延長されたのは、手抜き工事の存在が無視できない状態であったからだろう。

 建築確認と「中間検査」は一般家庭の木造住宅でも行われるが、二つの検査をかいくぐって、手抜きされた欠陥住宅が氾濫し、社会問題となってもいる。

 誤魔化しもあった建築の実態とその実態に対処するための法律の改正に関係なく、日本人「性善説」を成り立たせていたこと自体が、建築確認の民間機関開放以前の自治体の建築確認と、開放以後の民間検査機関の建築確認及び自治体の「中間検査」を形式にとどめていたそもそもの原因だろう。

 「建築基準法」を改正しながら、ただ単に改正を政治家や役人の仕事にしただけで、地震等によって生じる建築物の倒壊がもたらす予想される住民の生命の危険に対する危機管理を意識の上では国も民間も真剣には受止めていなかったということである。

 公民館や図書館を建設したとしても、ただ単に政治家や役人の仕事のためにつくるだけだから、建物をつくっただけの箱物行政に終わるのと同じである。

 このようなことを以て日本人「性善説」が然らしめた成り行きだとするなら、エキセントリックな倒錯だと言わざるを得ない。

 なぜ阪神大震災時の欠陥建築物の倒壊を徹底的に検証しなかったのだろう。建築確認は自治体の専管事項であったために、自治体と国の責任を暴くことになるから、倒壊は予想しない地域での地震の予想しない震度が原因だったとして、自ら検証の足を縛ったのだろうか。

 今回の構造計算書偽装問題で、自治体と国の責任に関しては検証せず、民間業者の責任だけを問う姿勢からも疑うことができる構図である。

 だとしたら、建築確認の民間開放は、自治体が建築確認を続けていた場合は「建築基準法」改正によって倒壊の責任を阪神大震災のような地震の規模に肩代わりできなくなった制約上、民間にも肩代わりさせるための責任転嫁を目的としたものと疑えないことはない。

 このような疑いを程度の低い下司の勘繰りだとするなら、常に性善であったわけではない建築の実態を常に客観的に認識し、把握し続けなければならないのに、そのことを無視して、民間業者の性善に頼るだけの、それがなければ有効に機能しない民間建築確認制度と「中間検査」制度を法律として何のために設けたのかと言うことになる。 
 
 となると、国土交通省の「これまで建築確認制度は性善説で運用してきた」とすること自体、誤魔化しの自己免罪でしかないことがより明らかとなる。

 日本人は常に性善でもないのに、なぜこうも広範囲にぬけぬけと日本人「性善説」が罷り通っているのだろうか。国政を預る政治家をざっと眺めただけで、あるいは日本の官僚の生態を一渡りするまでもなく、日本人「性善説」がマヤカシの綺麗事でしかないと分かるはずなのに、それでも日本人「性善説」はしぶとく根を張って信じられている。

 日本の政治家のいい加減さを見るだけで、日本人「性善説」は眉唾と見ないわけにはいかないと主張すると、戦後日本人は西欧化して変ったからだという反論に出会うことがある。元々の日本人は清廉潔白だったが、戦後毒されて変ったのだと、いわば戦後罪悪説を唱える。

 現在も学習院大学教授を務めているのかどうか知らないし、知りたくもないが、大石慎三郎なる男は、「江戸時代というのは上から下まで、儒教を使って作り上げた一種の倫理社会」だったが、「戦後の日本はまったくの無倫理社会」だと、同じように戦後罪悪説を唱えて日本人「性善説」を間接的に擁護していた。

 これは戦前は日本人「性善説」は成り立っていたが、戦後は成り立たなくなったことを言っているはずだが、そのことに関係なしに、戦後の日本で日本人「性善説」は横行している。その不適切さを問い質したときだけ、戦後の変化を言う。これはご都合主義以外の何ものでもないが、気づきさえもしない。

 大石慎三郎の江戸時代は「一種の倫理社会」だったという主張に反して、百姓相手の年貢徴収に関わる代官等の情け容赦のない不正行為は記録として多く残されており、また、将軍の推挙を条件としている朝廷が任ずる官位を得るために、その推挙の口添えを願って老中といった要職者にワイロを贈って覚えをよくすることが慣習化していたことなどを考えると、とても「一種の倫理社会」だとする日本人「性善説」は客観的認識能力を欠いた買いかぶりにしか思えない。

 また、日本の敗戦を受けて、旧大日本帝国軍隊の軍関係者及び軍属による軍需物資の隠匿を見ただけでも、敗戦後西欧化されて日本人は変ったとする戦後罪悪説は怪しくなる。

 NHKテレビが『敗戦、そのとき日本人は』と題して1998年に放送している。

 「本土決戦に備えて蓄えられていた軍需物資はアメリカ軍の調査によれば、全部で2400億円にのぼる。敗戦と同時に放出された軍需物資をめぐる不正は内務省に報告されている。軍やその関係者が物資を隠匿・流用していた。東京の陸軍の工場では、ダイヤモンドが2億4000万円程度紛失した。滋賀県では、特攻隊員が特攻機に物資を満載し、自宅に運んだあと、機体を焼却。不正に流失した軍需物資は闇市に溢れた――」

 表面に現れた事実関係は氷山の一角に過ぎないだろう。大なり小なりの軍人・軍属が敗戦の混乱を利用して、立場上可能な物資の隠匿・流用を働いたことは想像に難くない。

 戦争中の「勝つまでは欲しがりません」と言っていた物資不足時代でも、お互いの生活困窮を無視して、生活物資の横流しが可能な立場にいた者はこぞって役得行為に走り、不正取得に与っていたのである。

 それにしても天皇の兵隊として規律を重んじたはずの帝国軍人とその関係者が西欧化する暇もない敗戦と同時に行った隠匿・流用が2400億円に上るとは、驚きの日本人「性善説」である。昭和20年12月時点で米10Kが6円だというから、現在5000円としても、2400億円の833倍、現在の貨幣価値に換算すると、200兆円近くのネコババである。

 かつて欧米社会で児童虐待問題がクローズアップされたとき、日本の学者・教育者はこぞって、「日本には児童虐待は存在しない、欧米に特有の問題だ」とした。

 このことは結果的に日本の親は子育てに関して優秀だとする、日本人「性善説」にもつながる信念を導き出す主張となったに違いない。しかしその主張は一時の安息を得ただけで、児童虐待が社会の表面に現れ、問題化していった。 

 日本社会に於いて、以前は児童虐待は存在しなかったが、犯罪の欧米化・凶悪化が児童虐待にまで及んだと言うことだろうか。それとも元々存在していたが、人目につかない隠れた場所で行われていただけのことで、建築確認で構造計算書が偽造される場合もあり得ることを認識することができなかった無考えに犯されていたように、学者や教育者がその可能性を推察することができなかったと言うことだろうか。

 児童虐待のパターンの一つとして、再婚した、あるいは同棲中の若い女の連れ子に言うことを聞かない、なつかない、あるいは泣いてばかりでうるさいと若い夫、あるいは若い男の愛人が暴力を振るい、死に至らしめる、いわば継子いじめの形を取った児童虐待が存在する。

 継子いじめは今に始まった現象ではなく、物語の形で平安時代から存在する。とすると、両端の時代を除いて、断絶していたと取るのは不自然に過ぎ、遠い過去から現在につがっている継子いじめの風景として把えた方が、人間の姿からしても、遙かに自然であろう。

 だとしたら、学者や教育者が「日本には児童虐待は存在しない、欧米に特有の問題だ」としたのは、人間の姿に対する客観的認識能力の欠如がもたらしたに過ぎない日本人「性善説」以外の何ものでもないということになる。

 日本人は常に性善で行動しているわけではない。社会的な肩書きに関係なしに他人種と同じく、状況に応じて、間違いも誤魔化しも、さらに犯罪も犯す生きものである。

 にも関わらず、かつて日本は「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ユキ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」としてきた。いわば日本民族優越意識である。その意識に乗って、勝てるはずもない戦争を仕掛け、手痛い敗北を受けた。

 日本民族優越意識がアメリカと日本の国力の格差を客観的に認識する目をくらませたことからの無謀な戦争だったに違いない。

 敗戦によって、日本民族優越性の化けの皮が剥がされた。客観的に認識する目を回復したはずである。

 にも関わらず、現在の日本で、人間の現実的な姿を客観的に認識し得ずに、日本人「性善説」を罷り通らせている。かつて優越的ではないのに、優越的だとし、現在、性善でもないのに性善とする。両者はまるで客観的な認識とは無縁の独善的な自尊意識でつながった同じ人間の生まれ変わりみたいな姿を取っている。

 とすると、日本民族優越意識が日本人の意識の底に暗流となって戦後も脈々と生きづき、よりソフトな日本人「性善説」に姿を変えて、この世に現れていると言うことだろうか。

 その上、自分の職掌に関わってくる他人の悪事を日本人「性善説」で無化・回避して、見抜けなかった責任を自己免罪する方便にも利用する。何という巧妙さであろう。

 日本民族優越意識からも、日本人「性善説」からも、そろそろ目を覚ます時期に来ているのではないだろうか。

 万世一系を理由として日本の歴史と天皇を尊いとする天皇主義者には受入れ難い選択ではあろうが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「靖国 YASUKUNI」とNHK「ETV 問われる戦時性暴力」に見る政治家の干渉とその類似性

2008-03-19 10:21:27 | Weblog

 例えどのように「反日」であっても、民主主義の制度に則った「反日」なら憲法が保障する思想・信条の自由に入る。すべての人間が同じ「日本」をイメージするわけではないにも関わらず、自分がイメージしている「日本」に否定的な場合、「反日」だとレッテルを貼る。その偏狭さ・非寛容が罷り通っている。
 
 4月12日から東京と大阪でロードショーされる李纓(リ・イン)中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が「反日的」内容と聞いたからと一部自民党議員が配給会社に文化庁を通じて試写を求めたのに対して監督と配給側が「検閲のような試写には応じられない」からと全議員を対象とした試写会を開くことに決定、3月12日に行われた試写会には自民党、民主党、社民党の40人の議員と代理出席の40人、計80人が出席したと言う。

 そのイキサツを≪靖国映画「事前試写を」 自民議員が要求、全議員対象に≫(asahi.com/2008年03月09日03時24分)と≪国会議員横槍の「靖国」試写会に80人 偏向指摘も≫
(asahi.com/2008年03月12日23時16分)の二つの記事から見てみる。

 先ず最初に、「靖国 YASUKUNI」が文化庁が指導する独立行政法人管理の芸術文化振興基金から06年度に助成金750万円を受けて製作されていることを問題にしたという。

 同基金は政府出資と民間寄付を原資とし、運用益で文化支援している機関だそうだ。お決まりどおりに幹部は天下りで占められているに違いない。

 「試写」を要請したのは自民党稲田朋美オバサン衆院議員と稲田が会長を務める同党若手議員の勉強会「伝統と創造の会」(41人)。文化庁から「ある議員が内容を問題視している。事前に見られないか」と問い合わせがあったそうだが、勉強会の誰かが言い出して稲田朋美を嗾けたのを受けて会長の立場で代表して言い出したのか、稲田自身が言い出して個人が突出するのを避けるために会全体の要請の形を取ったのかは記事からでは判断できない。

 文化庁清水明・芸術文化課長は「公開前の作品を無理やり見せろとは言えないので、要請を仲介、お手伝いした。こうした要請を受けたことは過去にない」

 稲田「一種の国政調査権で、上映を制限するつもりはない」

 「制限」などできないことを「制限するつもりはない」と言うのは内心の衝動としては「制限し」たい気持を抱えているということなのだろう。

 稲田「客観性が問題となっている。議員として見るのは、一つの国政調査権」
   「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取
   り上げられている問題を議員として検証することはできる」

 思想・信条に関わることを「国政調査権」を振りかざして調査する。国家をすべてに優先させる国家主義的行為であろう。

 「平和靖国議連」と合同で試写会を開き、試写後に同庁職員と意見交換する予定でいるとのこと。

 配給会社「事実上の検閲だ」
 李監督「『反日』と決めつけるのは狭い反応。賛否を超えた表現をしたつもりで、作品をもとに議
    論すべきだ」

 試写終了後――

 稲田議員「助成金にふさわしい政治的に中立な作品かどうかという一点で見た」
     「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを
     感じた」

 自民党島村宜伸衆院議員「一貫したストーリーを見せるというよりは、様々な場面をつなげた映画。
     自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった」
 民主党横光克彦衆院議員「戦争の悲惨さを考えさせる映画だが、むしろ靖国賛美6割、批判4割とい
     う印象を受けた」

 自民党稲田と民主党横光の把え方がかなり違うが、歴史認識の立場の違いに応じた解釈なのだろう。

 映画であれ何であれ、如何なる情報媒体を駆使して「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージ」を出そうが出すまいが思想・信条の自由である。すべての人間にとって同じ「日本」ではないからだ。自分がイメージしている「日本」が絶対的に正しく、そのイメージの「日本」以外は許さないず、自らの「日本」で以ってすべての人間の思想を統一し、支配しようとするのは金正日がしていることと同じ危険な独裁主義となる。例えどのように「反日」であっても、民主義の制度に則った「反日」なら、憲法が保障する思想・信条の自由によって保護される。

 「事実」は人それぞれの解釈によって成り立つ。稲田朋美が自らの考えとしている「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置」ではなかったとする「イデオロギー的メッセージ」にしても、稲田朋美なる人間が解釈した「事実」に過ぎない。稲田朋美にしたら自分が解釈した「事実」を正しいとするだろうが、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だった」とする「イデオロギー的メッセージ」にしても、そう解釈する人間にとっては正しい「事実」に当たる。

 「靖国 YASUKUNI」の感想を一つ取っても、それが描く「事実」に対して同じ自民党に所属していながら稲田朋美と島村宜伸の解釈に違いが生じている。それぞれの解釈に応じて「事実」は異なる姿を取る。

 但し自分の「日本」を強制しないという絶対条件つきで批判は許される。批判に対して自分の「日本」を変えるか変えないかはその人の解釈に関わる問題であって、どう解釈を付け加えるかは自由である。

 要するに稲田朋美は「靖国 YASUKUNI」が取り上げている「日本」が自分の「日本」とは違うからと言って、女性に対して使いたくない表現だが、ケツの穴も小さく自分の「日本」に合わせたい衝動に衝き動かされたものの、上映禁止や映画の内容そのものを変えることは言論弾圧者の美名を着ることとなって不都合・不可能だかから、補助金を出したことを攻撃材料に芸術文化振興基金の親玉の位置にいる文化庁を介する形で「審査を厳正にして、反日的な創作に金銭的援助の手を差し伸べるべきではない」とする意思表示で暗に異議申し立ての干渉を行ったのだろう。それを試写後の文化庁の「職員と意見交換する」場で行う。

 問題は文化庁が政治家の「意図を忖度」して少しでも「反日」と受け取れる創作活動には援助を控える、思想・信条の自由を制限することとなる過剰反応で応えるかどうかである。

 もしも上記過剰反応で応えたとしたら、主催者側から「番組提案表」を受け取って「女性国際戦犯法廷」を取材しなら、政治家の圧力を受けて「番組提案表」に反する変更した内容で放送して訴訟を起こされた、いわゆる「NHK番組改編訴訟」で東京高裁が示した判決内容と同じ構図を踏むことになる。

 07年1月30日『朝日』朝刊記事≪番組改変訴訟 NHKに賠償命令 「議員の意図忖度」≫は、「製作に携わる者の方針を離れて、国会議員などの発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度し、当たり障りのないよう番組を改変した」と高裁の判決要旨を伝えてNHK側の過剰な「自己規制」を解説している。

 ここで言う「国会議員」とは安倍晋三と中川昭一の二人の国家主義者のことで、二人は「靖国 YASUKUNI」に於ける稲田朋美と相互対応し合った関係にあり、同じ役割を担っていると言える。

 同日付の関連記事≪「政治家に過剰反応」認定≫は判決は「NHK側が安倍氏との面会の約束を取り付けたと認定」、中川昭一に関しては「番組放送前にNHK担当者に意見を述べたと認めることは困難」としているが、面会の有無はさして問題ではないだろう。面会だけが望んでいるメッセージを相手に伝える手段とは限らないからだ。直接NHKに向けなくても、第三者に向けてメッセージを発しながら、迂回させる形で間接的にNHKに伝えることも可能である。

 高裁判決はNHKに200万円の支払いを命じたが、最高裁が双方の意見を聞く弁論の期日を今年4月24日に指定したということで、東京高裁判決が見直される可能性が出てきたと新聞は伝えている。
 
 政治家はそこに存在するだけで国家権力を背景に暗黙的な圧力者足り得る。自己のイメージする「日本」に添わないからと言って異なる「日本」を自己の「日本」に同調させようと言葉の圧力をかけるのは自由と民主主義に反する権威主義者がよくすることである。

 政治家がなすべきことは国民の意見を二分三分し、修復不可能としてしまった過去の「日本」を自分たちがイメージする「日本」で統一する意味もない見せ掛けの歴史改竄を行うことではなく、最大公約数の日本人が肯定的なイメージで統一できる未来の「日本」を築いていく努力をすることであろう。解釈に違いをきたさない「日本」と言うことである。

 そのことを政治家の究極の目的としなければ、過去に拘らずに未来を建設的に志向していくという「未来志向」の名が泣く。口先だけの「未来志向」で終わっているからだ。

 現在の「日本」は国民が押しなべて肯定的なイメージで描くことができる「日本」とは程遠い姿をしている。政治家や官僚が自らの責任を果たしていないからだ。現在と未来の「日本」を肯定的な形で創り替えることができないから、過去の「日本」を創り替えて誤魔化そうとする。戦前の日本は美しい国だったんだよ、素晴らしい歴史と伝統と文化を連綿と受け継いできたんだと。

 政治家の他者の思想・信条への有形・無形の干渉も問題だが、干渉を受けてその意図を忖度して過剰反応や自己規制する側の態度も問題としなければならない。稲田朋美等の薄汚い干渉を受けて、文化庁がどういう態度を取るかである。多分、稲田朋美の「意図を忖度」して、影でこっそりと「反日」か「反日」でないかを補助金交付の条件に付け加える「自己規制」を行うことになるのではないだろうか。
 * * * * * * * *
 参考までに――

 ≪靖国映画「事前試写を」 自民議員が要求、全議員対象に≫(asahi.com/2008年03月09日03時24分)
 <靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画の国会議員向け試写会が、12日に開かれる。この映画は4月公開予定だが、内容を「反日的」と聞いた一部の自民党議員が、文化庁を通じて試写を求めた。配給会社側は「特定議員のみを対象にした不自然な試写には応じられない」として、全国会議員を対象とした異例の試写会を開くことを決めた。映画に政府出資の基金から助成金が出ていることが週刊誌報道などで問題視されており、試写を求めた議員は「一種の国政調査権で、上映を制限するつもりはない」と話している。

 映画は、89年から日本に在住する中国人監督、李纓(リ・イン)さんの「靖国 YASUKUNI」。4月12日から都内4館と大阪1館でのロードショー公開が決まっている。

 李監督の事務所と配給・宣伝会社の「アルゴ・ピクチャーズ」(東京)によると、先月12日、文化庁から「ある議員が内容を問題視している。事前に見られないか」と問い合わせがあった。マスコミ向け試写会の日程を伝えたが、議員側の都合がつかないとして、同庁からは「試写会場を手配するのでDVDかフィルムを貸して欲しい。貸し出し代も払う」と持ちかけられたという。

 同社が議員名を問うと、同庁は22日、自民党の稲田朋美衆院議員と、同議員が会長を務める同党若手議員の勉強会「伝統と創造の会」(41人)の要請、と説明したという。同庁の清水明・芸術文化課長は「公開前の作品を無理やり見せろとは言えないので、要請を仲介、お手伝いした」といい、一方で「こうした要請を受けたことは過去にない」とも話す。

 朝日新聞の取材に稲田議員は、「客観性が問題となっている。議員として見るのは、一つの国政調査権」と話す。同じく同党議員でつくる「平和靖国議連」と合同で試写会を開き、試写後に同庁職員と意見交換する予定だったという。

 「靖国」は、李監督が97年から撮影を開始。一般の戦没遺族のほか、軍服を着て自らの歴史観を絶叫する若者や星条旗を掲げて小泉元首相の参拝を支持する米国人など、終戦記念日の境内の様々な光景をナレーションなしで映し続ける。先月のベルリン国際映画祭などにも正式招待された。アルゴの宣伝担当者は「イデオロギーや政治色はない」と話すが、南京事件の写真で一部で論争になっているものも登場することなどから、マスコミ向けの試写を見た神社新報や週刊誌が昨年12月以降、「客観性を欠く」「反日映画」と報道。文化庁が指導する独立行政法人が管理する芸術文化振興基金から06年度に助成金750万円が出ていたことも問題視した。同基金は政府出資と民間寄付を原資とし、運用益で文化支援している。

 稲田議員は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取り上げられている問題を議員として検証することはできる」。

 アルゴ側は「事実上の検閲だ」と反発していたが、「問題ある作品という風評が独り歩きするよりは、より多くの立場の人に見てもらった方がよい」と判断し、文化庁と相談のうえで全議員に案内を送った。会場は、同庁が稲田議員らのために既におさえていた都内のホールを使う。

 李監督は「『反日』と決めつけるのは狭い反応。賛否を超えた表現をしたつもりで、作品をもとに議論すべきだ」と話す。
 * * * * * * * *
 ≪国会議員横槍の「靖国」試写会に80人 偏向指摘も≫(asahi.com/2008年03月12日23時16分)

 <靖国神社を題材にした中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の国会議員向け試写会が12日夜、都内で開かれ、約80人の議員らが出席した。試写を求めていた自民党の稲田朋美衆院議員は「偏ったメッセージがある」と話し、映画に政府出資法人から助成金が出されたことの是非を、さらに検証し続ける姿勢を示した。

 「靖国」の国会議員向け試写会終了後、記者の質問に答える稲田朋美衆院議員(右)=12日夜、東京・京橋で

 「靖国」の試写会で、上映を待つ国会議員ら=12日夜、東京・京橋で

 会場となった都内のホールには、黒塗りの車が次々と乗り付け、議員らが試写室に入っていった。主催した配給・宣伝会社「アルゴ・ピクチャーズ」(東京)によると、自民、民主、公明、社民の各党派の議員40人と、代理出席で自民、民主、共産、国民新党秘書約40人が出席。計約80人のうち、自民が50人以上を占めた。稲田議員も10分前に会場入りした。入り口には約40人の報道陣が構え、私服警官による警備態勢が敷かれた。

 2時間の試写終了後、報道陣に囲まれた稲田議員は「助成金にふさわしい政治的に中立な作品かどうかという一点で見た」としたうえで、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と語った。

 ただ、試写を見た自民党の島村宜伸衆院議員は「一貫したストーリーを見せるというよりは、様々な場面をつなげた映画。自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった」とした。また、民主党の横光克彦衆院議員は「戦争の悲惨さを考えさせる映画だが、むしろ靖国賛美6割、批判4割という印象を受けた」と話した。

 映画は4月12日から都内と大阪の計5館で公開予定で、昨年12月からマスコミ向け試写が始まっていた。映画の中で南京事件の写真が使われていることなどから、週刊誌などが「客観性を欠く」「反日映画」などと報道。政府出資の基金から助成金が出ていたことも問題視した。これを受け稲田議員は「助成が適切だったかどうか、議員として検証したい」とし、同議員が会長を務める自民若手議員の勉強会「伝統と創造の会」と、同じく同党議員でつくる「平和靖国議連」との合同の試写会を、文化庁を通じて要請していた。

 監督側とアルゴ社は「検閲のような試写には応じられない」として、逆に全議員を対象に、今回の異例の試写会を開くかたちになった。

 稲田議員は製作会社が出していた助成の申請書類一式も文化庁を通じて取り寄せており、「助成金の要綱なども確認し、適切だったかどうかまた検討したい」としている。13日午前には、自民党本部で文化庁の職員を交え、伝統と創造の会と平和靖国議連との合同で「勉強会」を開く。 >・・・・
 * * * * * * * *
 ≪NHK番組改変訴訟、最高裁が判決見直しか≫(asahi.com/2007年12月21日07時13分)

 <旧日本軍による性暴力をめぐるNHKの番組が放送直前に改変されたとして、取材を受けた市民団体がNHKなどに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は20日、双方の上告受理申し立てを受け入れ、上告審として審理することを決めた。そのうえで、双方の意見を聞く弁論の期日を来年4月24日に指定した。

 上告審で結論を見直す際に必要な弁論を開くことから、取材を受ける側に番組内容に対する「期待権」があることを認めて200万円の支払いをNHK側に命じた二審・東京高裁判決が見直される可能性が出てきた。

 問題となった番組は、NHK教育テレビが01年1月30日に放送した「ETV2001 問われる戦時性暴力」。00年12月に旧日本軍の性暴力を民間人が裁く「女性国際戦犯法廷」を開いた「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」(バウネットジャパン)が、取材に協力したにもかかわらず当初の趣旨とは異なる番組を制作されたとして賠償を求めた。

 東京高裁は今年1月、バウネット側に番組内容に対する期待と信頼が生じていたのに、NHK側には改変内容を説明する義務を怠った不法行為責任があると判断。NHKに200万円の賠償を命じ、下請け制作の「NHKエンタープライズ21」(当時)と孫請けの「ドキュメンタリー・ジャパン」の2社に、このうち100万円について連帯責任があるとした。>

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闇(新銀行東京)が光(東京マラソン)を覆ったとき石原慎太郎の「東京はバラバラになる日」

2008-03-18 12:56:10 | Weblog

 「東京マラソン2008」の公式HPに「東京が一つになる日」の謳い文句が流れる。「東京マラソン」のようなお祭りと違ってその場で終わらせることのできない「新銀行東京」は42.195キロを完走できるのか――

 東京マラソン2008は08年2月17日に行われた。


<澄み渡った晴天のもとで17日、開催された東京マラソン。全国から集まった3万2000人のランナーが都心を駆け抜け、マラソンの部の完走率は昨年を上回る97・4%を記録した。沿道には166万人の観衆が押し寄せ、ランナーに熱い声援を送った。・・・・・>――

 それを以て「MSN産経」記事(≪東京マラソン 沿道ダイジェスト ランナーに声援 心ひとつ≫2008.2.18)は「東京マラソン2008」の公式HPの「謳い文句」に重ねて「東京が一つになった日」と高らかに宣言している。日本の美しい首都・東京の一大国民イベントである。メデタキかな。石原裕次郎も草葉の陰で嬉し涙を流していいたことだろう。

 だが、「東京マラソン」は東京という場所柄のみで地の利・注目の利・宣伝の利を自然発生させる長所の後押しを受けた、前準備は必要ではあっても、本番そのものは1日完遂のお祭り・イベントであるから、カネの掛け具合と見栄えのいいコースの選択といった1+1=2の機械性以外の創造性を特に必要とはせず、石原慎太郎ではなくても誰が知事でも経営可能であったろう。

 要するにカネを掛けた特大の花火を夜空一杯に何発か一斉に打ち上げるようなもので、ハコモノの発想で済ますことのできる儀式に過ぎない。
 東京という場所が如何に地の利・注目の利・宣伝の利を自然発生させる要素に恵まれているかは後援会社や共催関係者を見れば一目瞭然である。

共催 読売新聞社・日本テレビ放送網・フジテレビ・産経新聞・東京新聞
後援 スポーツ関係の団体以外に経団連・経済同友会・日本財団・東京商工会議所・東京都医師会・
   東京都看護協会・東京観光財団、 東京都町会連合会、東京都商店街振興組合連合会、東京都商
   店街連合会、 (財)東京都体・報知新聞・ラジオ日本・サンケイスポーツ・夕刊フジ・サンケイ
   リビング新聞・ニッポン放送・フジサンケイビジネスアイ・SANKEI EXPRESS・扶桑社・東
   京中日スポーツ
特別支援 笹川スポーツ財団
特別協賛 東京メトロ
協賛 スターツ・アシックス・大塚製薬・セイコーホールディングス・トヨタ・日本光電・久光製薬・
   広友リース・コナミスポーツ&ライフ・ジェイティービー・セブン-イレブン・東京ビッグサイ
   ト・フォトクリエイト
協力 青森県りんご協会・カリフォルニア・レーズン協会・JAグループ新潟・新潟県・田中貴金属・築
   地市場・東京青果卸売組合連合会・ドール・はとバスetc.etc。

 何と錚々たる面々か。動員社会日本である。各団体は所属員にコース沿道に駆けつけてお祭りを盛り上げろ、マラソンに参加して何が何でも成功させろと動員を掛けたに違いない。いわば動員も相当数加わった3万2000人のランナーであり、沿道の166万人の観衆ということなのだろう。

 東京マラソンの発案者に石原慎太郎以外に曽野綾子やマラソンの小出監督の名前をブログで見かけるが、石原慎太郎が発案者でなくても、強力な推進者だったろうから、石原慎太郎センセイ、大成功に自らの手柄と鼻を高くしただろうが、1+1=2の予定調和としてもたらされた果実に過ぎない。そうである以上、実質的には選手に配ったバナナの総量にちょっと毛が生えただけの果実といったところだろう。

 残念なことに「東京マラソン2008」の成功の喜びに長く浸っていることはできなかった。マラソン開催日の2月17日から2週間ちょっと経って、1000億円を出資して経営難に陥っていた新銀行東京の融資先1万3000社のうち約600社が事実上破綻し、計86億円が焦げ付いていることが明らかにされたからだ。

 尤もそのことは前以て知らされていたことだろうが。
 
 新銀行東京は紛れもなく石原慎太郎センセイ、その人の発案である。<金融機関の貸し渋りで資金繰りに苦しむ中小企業の支援を目的に、石原慎太郎都知事が03年の選挙公約に掲げ、都が1000億円を出資して05年4月に開業した。>(asahi.com記事)

 都知事として発案し、都が関わって開業している銀行であるなら、都知事として都全体の経営責任者である間は経営状況を見極める責任が発生する。いわば経営陣を管理・監督する責任を有する。管理・監督の方法は経営情報の常なる共有以外にないことは断るまでもない。

 1日限りのお祭りで結果が目に見える形で出る「東京マラソン」と違って、銀行経営は1+1=2のハコモノで片付けることはできない、そのような機械性以外の経営上の創造性を不可欠とする。経営難が報道が伝えているようにズサン経営が原因ということなら、経営上の創造性を欠いて1+1=2のハコモノ的機械性で経営に取り掛かっていたとしか思えない。

 だが何よりも「400億円の追加出資」という差し迫ったところまできたと言うことは、経営情報を常に共有していなかったからではないか。その証拠がある。

 都議会での共産党の吉田信夫氏の質問
 「知事は慎重な姿勢が欠けていた」
 石原「私にも『責任』がありますよ。墜落寸前の銀行を上昇させることだ。さんざん話してきたじゃ
   ないですか」
 吉田氏「あなたが会社の社長だったら、1000億円の大穴をつくれば即辞任だ」
 石原「最初から私が社長だったらもっと大きな銀行にしていますよ」
                   (asahi.com/2008年03月12日記事」
 「社長」の資格者として存在していなかったことを言っているが、同時に情報の共有者としても存在していなかったことを言っているのでる。発案者であると言うことだけではなく、銀行経営も含めて都全体の経営責任者である石原都知事の情報を把握・共有せずに放置していた責任は重い。

 如何にズサンな経営であったか、3月7日の「MSN産経」記事≪粉飾企業に多数融資、「焦げ付きは不問」と旧経営陣 新銀行東京≫から箇条書きに書き出してみる。

1.融資先企業の中に自社決算書を粉飾していた会社が相当数上るにも関わらず、精査しなかった。「
  融資先への訪問調査や通帳による資金確認を行わないまま融資していた」(関係者)
2.破綻した企業は法的処理を伴うものだけで約600社、回収不能額は約86億円に上る。
3.融資の返済が3カ月以上6カ月未満の期間、滞っている企業が520件(総額54億円)、6カ月以上の
  延滞が1100件(総額132億円)に上る
5.累積赤字は、昨年9月中間決算で936億円。今年3月末には1000億円程度に膨らむ見通し。
6.融資がビジネス実体のないペーパーカンパニーに対しても行われいた。

 (これなどは最初から融資を詐取してやろうとしていた詐欺師たちにとっては新銀行東京はいいカモだったに違いない。)

7.新銀行が行ってきた“乱脈融資”の背景として、旧経営陣が実績を積み重ねるために無担保融資を
  積極的に奨励していた。「融資先の焦げ付きは不問にする」と指示していたほか、「半年つぶれな
  い会社だったらどんどん貸せ」との方針を示し、回収を問わず融資実績を上げた行員には最大で20
  0万円の報奨金まで出していた。
 
 (何と社保庁といいとこ勝負のズサンさである。)

 新銀行東京の経営が42.195キロ完走できずに途中棄権といった事態に至ったなら、都知事3選、3期12年の功績も、東京マラソンの成功も、いわば石原慎太郎が背負った東京の光の部分は銀行経営破綻の闇に飲み込まれ、銀行を破綻させて都民に借金を付回した都知事として負の業績を通して語られることになるだろう。

 「負」は負を吸い寄せ、負の面を膨らませていく。大きな一つの否定がその証明として他のすべての否定を傍証とするからだ。

 「中国人犯罪民族DNA論」や不法入国した多くの三国人・外国人が東京で凶悪犯罪を繰返しているといった「三国人発言」、「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」(Wikipedia)と言ったとされるいわゆる「ババア発言」、あるいは01年のワシントン出張では、最高で1泊26万3000円のホテルに宿泊したことやガラパゴス諸島への出張では、大型クルーザーを5日間借り切り、1泊あたり13万1000円の夢のような旅を愉しんだ物見遊山の海外出張・海外視察等々、過去の負の評価を洗いざら吸着して石原慎太郎自身を否定すべく語られることになるだろう。

 勿論、新銀行東京が奇跡の経営回復を成し遂げた場合は、上記負の業績は忘れ去られて、東京マラソンと共に光の部分のみでその功績は語られ、肯定されるべき人物の評価を受けることになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チベット暴動/権威主義+共産党一党独裁が民族的多様性を許さない中国

2008-03-17 06:41:32 | Weblog

 14日(08年3月)中国チベット自治区ラサで発生した中国共産党政府に向けたチベット人の抗議行動に対する武力鎮圧でラサ市内で少女5人を含む80人の遺体が確認されたとインド亡命チベット政府が記者団に明かしたと言う。

 「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のHPによると、 

 1950/11/11
 ・チベット政府「共産中国による侵
  略」を国連に提訴
 1959/03/10
 ・ラサでチベット蜂起開始。中国は
  チベット人87,000人を殺害し
  て蜂起(チベット動乱)を鎮圧
 ・ダライ・ラマとともに80,000人のチベット人がインド亡命
 ・周恩来首相、チベット政府の解散を宣言

 それ以来、中国によるチベットに対する厳しい弾圧政策。さらにイスラエルのパレスチナ入植と同じ構図の中国人のチベット入植による中国化政策は中国人とチベット人の人口比率を逆転させるまでに至っているという。

 そして今回の中国の弾圧政策に対する抗議行動と中国政府による武力鎮圧。

 中国のチベット中国化政策をHP<「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」/チベットの教育事情>で見てみる。

 <公式には、大学の入学枠のうちの一定数が、毎年チベット人に割り当てられていた。その学費にも、チベットの教育費用の1部が当てられた。それでも、定員の多くは中国人学生に占められているのが実状だ。大学に進学するには、高校を卒業し、倍率の高い入学試験に合格しなければならない。入学試験は中国語で行われるため、チベット人には不利である。そのためどうしても中国人に席を譲ってしまう。近年では、地元で受験に失敗した中国人学生が、チベットに来て再受験するという傾向も増えている。一般にチベットの教育水準は中国よりもずっと低いので、こういった学生でもチベット人となら十分に対抗でき、その結果入学できないチベット人が増えるのである。

 1991年にチベットと中国を訪れた第1次オーストラリア人権代表団は、その報告のなかで次のように述べている。

 「チベットの教育水準を上げようとする政府決定に私たち一同は注目していたが、多くのチベットの子どもたちは、いまだ正式な教育を受けていないようだ。ラサ地区のチベット人は、小中学校で少数の科目しか勉強する機会がないようである。なかには学校に行ったことがないという子や、経済的な理由から10歳で学校をやめてしまったという子もいた。」>――
 
 <1966年以降、漢化をすることがスローガンとなった。
チベット語は仏教のための言葉だとされ、学校で教えることが禁止された。1960年代のある時期には、僧尼や免状のある俗人教師のほとんど全員が教壇から去るように指示を受けた。チベット語の文法書『三十頌』は「迷信の書」というレッテルを貼られ、教育の場から遠ざけられた。その代わりに毛沢東語録や新聞が教科に組み入れられた。
 
 子どもたちは、チベット仏教は迷信、チベットの因習は「古く青くさい考え」、チペット語は「無用で遅れた言葉」、そして昔のチベット社会は「きわめて後進、野蛮かつ差別に満ちていた」と教えられた。中国人の言うとおりだと同意する人々が進歩的だとされ、反対する人たちは反革命分子、反動主義者、階級の敵などと、さまざまな呼ぴ方をされた。当然ながら子どもたちの世代はみな、自分たちの文化や歴史、生活様式をまったく知らないまま育つことになる。
 
 マルクス主義的な中国風の名前がチペット式の名前に取ってかわり、建物や道路、広場などに名付けられた。また、チベット人の多くが中国風に改名させられもした。ダライ・ラマの夏の離宮ノルブリンカは「人民公園」になった。チベット語は中国語の単語と言い回しによって徐々に侵食されていった。
 
 「チベット自治区」のある中国人官吏は、『チベット民族特集 1965~1985』という著書のなかで、チベット語の使用と学習を妨げる政策を批判的にこう書いている。

 「チベット人の先生とチベット語翻訳のできる人間が、とても少なくなっている。その結果、チベット語と中国語の両方において、公文書の利用や発行がとても骨の折れるれる作業となった。チベット語を正しく読み書きできないチベット人役人がひじょうに多い。党の政策をチベット人に布告することもできない。」
中国チベット学研究センターの発行する冊子のなかで、青海民俗学院で講師を務めるサンガイは次のように書く。

 「チベット語を使うと経済発展が阻害される、と考える人たちがいる。地方当局は中国語のみを教え、中国語のみを使うべきだとしてきた。この政策が始まってからもう何年にもなる。その結果、人々は中国語はおろか、チベット語も書けなくなった。そして経済は停滞した。」

 中国当局は、チベットの教育基盤を改善したがらない。1985年以降、チベット人に対して、より高い教育を受けさせようと努力が払われてきた。しかしそうした結果、中国の大学や学校に送り込まれる学生が増えることになった。成績のよいチベット人の子どもはチベットの学校から引き抜かれ、中国の学校に入れられる。チベット人は当然これに対し、チベット文化の衰退を狙った政策だとして憤慨する。パンチェン・ラマ10世は、チベットの子どもを中国に送っても、彼らをチベットの文化土壌から遠ざけるだけだと言っている。

 1985年にラサで英語の教師をしていたカトリーナ・バスは言う。

 「この時期、中国では4,000人のチベット人が勉強していました。その子どもたちは、勉学という意味ではまぎれもなく恩恵を受けています。チベットではいまだ設備が不十分なので、チベット人に短期で学ばせるにには、これもひとつの有効な方法であるのかもしれません。

 この政策は、1950年代に始められました。現在でも、中国に送られる子どもの数は減ることがなく、政府発表では、チベットに教育費を投じるかわり、1993年には中国に送る子どもの数を10,000人に増やす計画だといいます。
私たちの会ったチベット人の多くが、この政策は、なによりもチベット文化のアイデンティティーを脅かすものだと感じていました。中国からチベットに帰ってきたとき、チベットの伝統を理解せず、むしろ嘲笑する若者が増えています。チベット人のなかには、この政策は中国政府の陰謀であり、チベット文化の価値を内側から腐食させるのが狙いだという人もいます。 」>――

 上記事情が事実とすると、中国がチベットに対して行ってきたことは戦前の日本が朝鮮に対して行ってきた「皇民化政策」にほぼ等しい、相互に負けず劣らずの弾圧政策の競い合いと言える。

 いわば中国は日本に70年遅れて戦前の日本を演じている。創氏改名、日本語の強制、「内鮮一体」と称しながら、日本人による朝鮮人支配・人種差別・・・。

 チベットの子供たちを中国に送り込んで中国化を謀るだけではなく、伝統的な放牧生活を送っている成人チベット人を都市部に住まわせて都市化させ、その伝統的な習慣・民族意識を剥ぎ取る政策を行っていると伝えている昨年7月の記事もある。

 ≪強制移住で「中国化」進む チベット遊牧民の人権報告≫ (2007/06/18 08:56 【共同通信】)

 <【北京18日共同】国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は18日までに、中国西部で伝統的な放牧生活を続けるチベット民族が都市部に相次いで強制移住させられ、チベット遊牧文化の衰退と同民族の「中国化」が急速に進んでいるとする報告書を発表した。

 同団体は、強制移住政策の背景について「(中国化の推進で)チベット民族の独立運動を弱体化させ、封じ込めようとする中国政府」の思惑が透けて見えると指摘。また放牧地には、上海などから採鉱業者が進出し環境破壊をもたらしているなどとして「遊牧民は深刻な人権侵害を受けている」と警告した。

 報告書は実際に移住させられた遊牧民約150人の証言や中国国内の研究論文などをもとに作成。強制移住は2000年以降、チベット自治区と青海、四川など4省にわたる広い地域で実施されていると結論付けた。中国政府はチベット民族の移住人口を公表していない。>――

 漢民族、朝鮮民族、日本民族は民族的に兄弟の関係にあり、等しく権威主義を行動様式としている。その素地の上に中国人は思想・言論の自由、信教の自由等の民主的手続きを否定する共産党一党独裁体制の政治を敷いている。

 権威主義と独裁体制――「上を絶対として上に従わせる」この二重性が中国では思想や信条、宗教、文化の多様性を認めない、多様性を拒絶する始末の悪さとなって現れているのだろう。チベット人に対してだけではなく、同じ中国人に対しても報道規制といった言論の自由を認めない政策を行う。

 日本は民主主義体制を採用しているから思想・信教の自由といった基本的人権は憲法で保障し思想・信教、文化等の多様性を一応認めているが、権威主義の行動性に囚われて民族の多様性の認知に反する日本民族を上に置く「単一民族主義」から抜け出れない日本人が多くいる。

 中国の多様性を認めない非寛容さが1989年6月の天安門での民主化要求抗議行動に対しても、1959年の中国のチベット併合に反対して起こしたチベット動乱に対しても、過酷な情け容赦のない弾圧を行い得たのだろう。

 そして今回のチベット・ラサでの抗議活動で80人もの死者を出したという世界的な民主化の流れ(=多様性への志向)を否定する武力鎮圧。

 再度言う。中国は日本に70年遅れて戦前の日本を演じている。日本が戦前の日本を否定しきれずに擁護する姿勢に囚われているように、中国もそう遠くない将来に現在の中国を振返らざるを得ないときを迎えた場合、戦後の日本のように様々な口実を設けて自己正当化のレトリックの駆使に汲々するのだろうか。やはり自己を上に置きたい権威主義に囚われている以上。
* * * * * * * *
 参考までに引用――

 ≪チベット:ダライ・ラマ「大虐殺」と中国非難≫(『毎日jp』2008年3月16日 20時11分)

 【ニューデリー栗田慎一】チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世は16日、ダラムサラで暴動発生後初めて記者会見した。中国当局による鎮圧行為を「大虐殺」と厳しく非難するとともに、「中国が私をスケープゴートにするなら、真相究明のため国際社会の調査を受ければよい」と述べ、中国側に国際調査団の受け入れを求めた。

 ダライ・ラマは「自治区では(中国政府による)恐怖統治が続けられてきた」と明言し、チベット文化や民族性を破壊してきたとする中国政府の「同化政策」を改めて批判。暴動はこうした「差別的な対応」に起因するとの見方を示した。

 中国当局の鎮圧も「見せかけの平和を取り戻すために力を行使している」と非難。抗議デモは「怒りの表現」と理解を示す一方、「完全な非暴力と平和が私の原則」と述べ、中国国内のチベット人と中国当局の双方に自制を求めた。

 北京五輪への対応については「中国は五輪を開催する資格があるし、中国人は自信を感じていい」と述べた。暴動が北京五輪のボイコット運動に根ざしているとの指摘が中国側にあることから、批判をかわす狙いもあるとみられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜市大博士号謝礼/感謝をカネで換算する日本人、当然の慣習

2008-03-16 06:21:13 | Weblog

 横浜市大の医学部長が博士号を取得した大学院生から過去5年間に謝礼の金を受け取っていた問題が事件として報じられたが、日本の歴史的常識に照らした場合、何ら不都合のない現金授受であろう。

 <教授は毎日新聞の取材に「過去5年間で4~5人から、5万~10万円ずつもらった」と話している。>(08年3月13日/毎日jp≪横浜市大:医学部長謝礼問題 別の教授も博士号取得の謝礼 過去5年、4~5人から≫)ということだが、別の「毎日jp」は30万円渡したと言う医師の証言を載せている。

 自分に不都合なことは問題を小さくして話すのも人間の歴史的常識となっている習性だし、政治家・官僚もよく使う手だから、本人の証言との食い違いもたいした問題ではない。

 例えば5000万件の「宙に浮いた」年金記録で安倍前首相は「みな様方から払っていただいた年金、間違いなくすべて、それはお支払いしていくということもお約束を、申し上げたい、と思います。私の内閣で解決する――」(07.6.14・日テレ24)と08年3月末までの突合作業の完了を力強く公約・宣言しておきながら、その公約・宣言を桝添厚労相は突合できずに持主が不明の年金が4割近くも上りながら、照合作業の終了を以って果たしたとする態度は自分たち政府に不都合なことは問題を小さくする歴史的常識に則った何ら恥じることのない矮小化であろう。

 あるいは確かに安倍前首相は「私の内閣で解決する」と言ったが、安倍内閣から福田内閣に変ったのだから、安倍内閣の「間違いなくすべて、それはお支払いしていくという」いわば「一人残らず」の「お約束」ではなくなり、福田内閣では照合作業のみで公約完了ということにしているのだろうか。

 だとしたら、安倍前首相は「お約束」が果たせないと早くから見て取って、「一人残らず」の「お約束」から照合作業を以って公約とする路線変更で自らの公約違反を避けようと総理大臣職を投げ出したのだろうか。

 どちらにしても不都合を隠して小さくする自民党政府の公明党も加担した公約マジック・宣言マジックであることに変りはない。

 部下がお盆と暮れに上司に贈るお中元とお歳暮も感謝をカネで換算する慣習であろう。モノの形で贈るが、部長にはいくら、専務には大体いくら、社長には大体いくらと相場がそれぞれにカネ換算で決められていて、モノはカネの額によって決定される。当然モノにかけたカネが勝負となって上司からの評価に影響する。下手に安い値段の贈答品を持っていこうものなら、「気の効かない人間、空気の読めない人間」と貶められかねない。無理をしてカネを張り込めば、「ほお、こんな高いモノを持ってきたか。なかなか見所のある奴」と高い評価を受けることになる。医学部長に博士号取得の感謝に30万円払ったという医師も、のちのち世話になることもあるかもしれないと日本の歴史的常識に従いつつ相場以上に感謝をカネ換算した口なのだろう。日本人ならこうでなくっちゃあ、オッパッーピー。

 江戸時代は大名が官位を手に入れるために、あるいは幕府役職にありつくために老中その他にそれ相応の品を贈答・贈賄する。官位や役職の程度に応じてお願いする場合のカネ換算した贈答品・贈賄金額を決定する。「五位の官位をお願いする場合は相場は何両の品物だそうだが、どんな品がいいだろうか」とか、「相場は何両包めばいいそうだが、みなと同じでは目立つまいから、色をつけた方がいいだろう」とか。
 
 そこを多く間違えるなら問題はないが、少なく間違うと、望みの地位が夢と消えるばかりか、人間が小さく見られたりする。

 あるいは大名負担となっている過酷な幕府領御手伝普請(城工事や河川工事などの土木工事)を避けるために贈賄したり贈答に走ったりする。すべてに於いて初期の目的を果たした場合の感謝が贈賄・贈答の裏にカネ換算されて隠されていたと言える。期待は感謝の形を取ることで完結するから、期待と同時に感謝の気持が待ち構えることとなり、例え相場であっても、贈答・贈賄にカネ換算されて反映することとなる。「何両も出したんだから叶うはずだ」といったふうに期待と感謝を滲ませる。

 勿論、目的を果たすと果たしたなりに感謝はカネ換算されて改めて贈答・贈賄の形を取る。

 日本の歴史的文化である「接待」も取引成立の期待に伴う感謝がカネ換算されて接待にかける金額に反映されていたことだろう。「こうして戴けたら、誠に有り難いことです」とお願いするとき、実現可能性に向けた感謝がカネ換算されて接待に反映されていなかったなら、小バカにされ、相手にされまい。常に感謝を前以てカネ換算して用意していなければならない。

 日本社会は歴史的に権威主義的階級社会だったから、人間関係が上下に価値づけられ、贈答も賄賂も下の立場から上の立場に向かう。いわば下の者は常に上の者に感謝を捧げる立場にあり、期待や感謝をカネ換算した贈答品や賄賂を贈ることになる。

 今回報道されている博士号取得の感謝として医学部長にカネ換算した謝礼を払った「仕来り」行為は日本の歴史的常識・歴史的文化が健在であることを示した記念すべき出来事であって、褒め称えることはできても、非難される謂れはないはずである。

 このような美しい日本の歴史的常識・歴史的文化となっている感謝をカネで換算する慣習は何も医学部の謝礼だけではなく、詳しく発掘していけば、あっちでもこっちでもやっている慣習だと分かることになるに違いない。

 素晴らしきかな日本の文化・伝統・常識といったところである。
 * * * * * * * *
 参考までに――

 ≪横浜市大:医学部長謝礼問題 別の教授も博士号取得の謝礼 過去5年、4~5人から≫(毎日jp/ 2008年3月13日 東京朝刊)

 <横浜市立大(横浜市金沢区)の嶋田紘(ひろし)医学部長(64)が博士号取得の謝礼として大学院生から現金を受け取っていた問題で、学位審査に携わった別の40代の男性教授も、院生から現金を受け取っていたことが分かった。教授は毎日新聞の取材に「過去5年間で4~5人から、5万~10万円ずつもらった」と話している。大学は嶋田学部長や医学部の全教員、大学院生にアンケート調査や聞き取りを行い、確認を進めている。

 この教授は03年ごろから、学位を審査する主査や副査を務め、博士号を取得した大学院生から、謝礼として現金や菓子折りを受け取っていた。返還はしていない。教授は「審査自体が甘く、よほどのことが無い限り審査は受理する。便宜を図ることはない」と審査への影響を否定している。複数の関係者によると、同大の医学部では主査に10万円、副査に5万円を渡すのが「相場」という。教授は「外科は渡す人が多い」と説明した。

 一方、市は12日午後、医学部長の名を公表した。嶋田医学部長は市を通じてコメントを発表し「学位を取得するまでには、文献の購入など教育的な経費が必要。謝礼の意味で持って来た人もあり、受け取った」と受領を認めた。「医局で積み立てて使用し、個人として受け取ったものではない」と釈明している。

 文部省(現文部科学省)は62年、学位審査で謝礼等の名目による金品授受で不祥事が起きないよう、大学に注意を呼び掛ける通達を出している。【池田知広】>
 * * * * * * * *
 ≪横浜市大:医学部長謝礼問題 「長年の慣例だった」30万円渡した医師証言 /神奈川≫(毎日jp/2008年3月13日)

 <横浜市立大(横浜市金沢区)の嶋田紘・医学部長(64)が医学博士の学位を取得した大学院生から謝礼として現金を受け取っていたことが12日、分かった。同大で医学博士の学位を取得した男性医師は「学位取得後の謝礼は、長年の慣例だった」と毎日新聞の取材に証言した。

 男性医師によると、学位認定の約2週間後、担当の教授を同大の教授室に訪ね、封筒に入れた現金約30万円を3000円程度の洋菓子と一緒に手渡したという。男性医師は「慣習とこれまでの指導のお礼として現金を渡した」と説明。謝礼の額は「以前の学位取得者に聞いた」と話した。渡した後の現金の使途については「分からない」と答えた。

 一方、謝礼が慣例化していることを大学が把握しながら、詳細な調査をしていなかったことも明らかになった。阿部万里雄・福浦キャンパス管理部長は臨時の記者会見で「体質として(現金を)渡すというのは1年半くらい前から聞いていた」と発言。「うわさ話」として調査をしなかったという。大学は現在、コンプライアンス委員会と学内現状検討委員会が実態を調査中で、今月末までに結果をまとめる方針だ。

 学位取得を巡る金品の授受について、毎日新聞は昨年12月、医学研究科を持つ国公立大学院を対象に全国調査を実施。横浜市立大は「謝礼の慣例はない」と回答していた。阿部部長は「各教授に確認し、回答した。コンプライアンス委員会が学部長の疑いを調査していると知る前だった」と釈明した。

 医学部のキャンパスには動揺が広がった。大学院生の男性(31)は「名古屋市立大でも同様のことがあり、院生同士で気を付けなければと昨年末ごろ話し合った。まさか自分の大学までとは。嶋田学部長は厳しい教授で、学校を良くしようとしていたイメージだった」と話した。看護学科1年の女性は「うわさもなかった。聞いてびっくりした」と驚いていた。

 嶋田学部長は市を通じてコメント。謝礼として現金を受け取ったことを認め、「教室員の研究・厚生のために、医局で積み立てて使用した。個人として受け取ったものではない」と釈明した。【鈴木一生、池田知広、梅田麻衣子】>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公務員改革は「監視カメラ」の設置から

2008-03-15 11:37:09 | Weblog

 監視カメラ等の「監視」に持たせた権威主義性が公務員の非能率・怠惰をも消去可能とする

 『労働生産性の国際比較・2007 年版』によると、

 <2005 年の日本の労働生産性(就業者1 人当り付加価値)は、61,862 ドル(789 万円/購買力平価換算)でOECD 加盟30 カ国中第20 位、主要先進7 カ国では最下位(図1)。(この「先進7 カ国で最下位」は1993年以降、13年連続で最下位だそうだ。)
1.日本の労働生産性は昨年(2004 年/59,156 ドル)より2,706 ドル(4.5%)向上したものの、順位は昨年と変わらなかった。
第1 位はルクセンブルク(104,610 ドル/1,334 万円)、第2 位はノルウェー(97,275 ドル/1,240 万円)。米国の労働生産性を1 とすると日本は0.71。対米国比率は2000 年以降ほとんど変化が無い。

2. 日本の製造業の労働生産性(2005 年)はOECD24 カ国中第6 位。日本の製造業の労働生産性水準(2005 年)は86,608 ドル(955 万円)で、OECD 加盟国でデータが得られた24 カ国中第6 位(図2)。2004 年の第7 位から1 つ順位を上げた。主要先進7 カ国でみると米国に次ぐ第2 位となっている。米国製造業の労働生産性を1 とすると日本は0.89 となる。

3. サービス業の労働生産性は、日本を含めG7 各国も停滞続く。日本のサービス業の労働生産性指数は、1991 年から2005 年間の15 年間で年率平均0.3%の伸びにとどまった(日本の製造業は同期間に年率平均3.1%の伸び)。G7 各国のサービス業も同期間に年率平均0.3~マイナス0.5%と各国とも停滞傾向が続いている(図5・6)。

4. 2001 年以降の日本の実質労働生産性上昇率は1.80%(年率平均)で、主要先進7 カ国中第2 位。2001 年以降(2001~2005 年)の実質労働生産性上昇率は、日本は年率平均1.80%で、主要先進7 カ国中第2 位、OECD 加盟30 ヵ国中14 位(図7)。1990 年代後半(1996~2000 年)が0.70%(主要先進7ヵ国中最下位)であり、大幅な改善をみせている。ただ、2001 年以降の米国は1.98%と主要先進7 カ国でトップの上昇率であり、日米間の生産性格差は依然として拡大する傾向にある(図8)。

5. BRICs の労働生産性はロシアの51 位が最高。ブラジルが55 位、中国は69 位。BRICs 各国では、ロシアの労働生産性が22,767 ドルで51 位(2005 年/世界銀行データによる購買力平価換算)が最高。ブラジルは19,016 ドルで55 位、中国は11,625 ドルで69 位(インドの労働生産性はデータ不備で計測できなかった) (表1)。1995~2005 年の実質労働生産性伸び率では中国が7.90%で第3 位に入り、ロシアは3.22%で第19 位、ブラジルは0.67%で第59 位となった(図9)。>となっている。

 また<日本のサービス業の労働生産性が他産業と比較して低いことは明らかであるが、G7各国についても同様の状況がみられる。今後は、各国とも製造業からサービス業へのシフトが進むと考えられるため、サービス業の生産性向上を果たした国の存在感が高まることが予想される。>としている。――

 いわばサービス業の労働生産性は労働製造業の労働生産性よりも低く、さらに一般論として公務員の生産性はサービス業の労働生産性りも低いと見做されている。

 と言うのは、公務員の生産性の統計値を出すのは難しいそうで、統計が存在しないらしいが、省庁に於ける自分のカネを使って満足させるべき性欲や食欲、娯楽欲、金銭欲といった個人的・私的な欲望を公的行為を装いつつ、公的なカネで充足させる卑しいコジキ行為の蔓延は職務に於ける勤勉さを奪ってその方面に勤勉であることの証明だとすることしかできないから、状況証拠のみを取っても低い労働生産性にあると言える。

 ついこの間までは社会保険庁の予算のムダ遣い、私的流用、年金保険料着服等の問題が騒がれていたが、最近は国土交通省とその所管法人に移っている。そのほんの一例を昨日3月14日の読売新聞インターネット記事≪道路財源支出先の22法人、職員旅行費6900万円を支出≫が次のように伝えている。

 <道路特定財源の支出先となっている国土交通省所管の50の公益法人のうち22法人が2006年度中に、職員旅行の費用として計約6900万円を支出していたことが、国交省の調査でわかった。

 法人が負担した職員1人あたり費用は最大約9万4000円に上り、2法人は全額が丸抱え旅行だった。公益法人で、道路整備に使われるはずの財源の福利厚生への流用が常態化していることが明らかになった形だ

 国交省は、公共用地補償機構が職員旅行をほぼ丸抱えしていた問題の発覚を受け、同機構を含めた50法人について調査を実施した。

 その結果、06年度中に22の公益法人が職員旅行の費用を支出していたと回答。参加した職員は計2022人で、支出総額は6877万4460円に上った。

 このうち、先端建設技術センターと河川情報センターの2法人は、職員の負担はゼロで、旅行費用の全額146万円と232万円をそれぞれの法人が支払っていた。先端建設技術センターでは11月、職員44人が1泊2日の日程で山梨県の石和温泉に旅行。親睦(しんぼく)の宴会を開いたほか、渓谷や寺院をバスで巡った。同センターでは「時代遅れという批判を受け止めなければならない。旅行を取りやめるか、職員が負担して続けるかを話し合いたい」と話している。

 また、河川情報センターも、62人が「研修旅行」の名目で金曜日の勤務終了後、群馬県内の温泉宿に集合。宴会を開いていた。

 公共用地補償機構、道路保全技術センター、日本道路建設業協会の3法人でも個人負担はそれぞれ2132円、4671円、1274円だけで、ほぼ丸抱えの状態だった。

 公費の支出額が最も多かったのは近畿建設協会の約1329万円で、これに次いで中国建設弘済会約937万円、中部建設協会約798万円の順。職員1人あたりでは、道路新産業開発機構約9万4000円、公共用地補償機構約8万3000円など、12法人で3万円を超えた。

 同省官房総務課では「公益法人にこれほど丸抱えが広がっているとは驚いた。事業収入の多くを公費から得ている以上、その使途には慎重であるべきで、過去の支出分を含めて見直しが必要だ」 と話している。>・・・・

 「時代遅れという批判を受け止めなければならない。旅行を取りやめるか、職員が負担して続けるかを話し合いたい」、あるいは「公益法人にこれほど丸抱えが広がっているとは驚いた。事業収入の多くを公費から得ている以上、その使途には慎重であるべきで、過去の支出分を含めて見直しが必要だ」は、何か事が露見してから改める姿勢を打ち出したもので、事が露見しないまま放置していたからこそできる、決して褒めることはできない泥縄式の組織管理の構図を曝け出している。そのことに気づかなければ、同じことの繰返しを永遠の宿命とすることになるだろう

 50法人のうちの22法人と半数近くの法人にのぼることと役人たちの予算の私的流用が旅行費用に限った話ではないことを考え併せると、まさしく日本の役人世界を覆った卑しいコジキ行為の蔓延状態と言える。当然そこに注がれるエネルギーが職務能力を阻害し、鈍磨させ、その先の生産性を低下させているのは自然な成り行きとしてある流れであろう。

 『労働生産性の国際比較・2007 年版』は順位は昨年と変わらないが、2005年の労働生産性は04年の59,156 ドルより2,706 ドル(4.5%)向上したとしているが、「日本の製造業の労働生産性 (2005 年)はOECD24 カ国中第6 位。日本の製造業の労働生産性水準(2005 年)は86,608 ドル(955 万円)で、OECD 加盟国でデータが得られた24 カ国中第6 位(図2)。2004 年の第7 位から1 つ順位を上げた」と言っていることと考え併せると、製造業の労働現場に非正規雇用者が多く入り込んだことと関係ないだろうか。正規雇用者ほど身分が保証されていないから、正規雇用者以上に一生懸命に働かざるを得ない。仕事の能力が劣ると、派遣先会社から派遣会社に電話が入り、簡単に首をすげ替えられてしまう。必然的に勤務評定の初期的権限を握る派遣先会社の現場上司の目を意識しながら、懸命に働かざるを得ない。

 正規雇用者にしても製造現場で上司の目が光っている上に仕事量が製品の数量によって計測される。いわば上司の直接的な監視と仕事量という間接的な監視が効いて、否応もなしに生産性を上げざるを得ないが、非正規雇用者の場合は正規雇用者以上に直接的、間接的とを問わず心理的により強い監視を受けているということなのだろう。

 いわば「監視」が働かせるための一種の権威(「他を支配し、服従させる力」『大辞林』三省堂)となっている。上司やその他の「監視」を上の権威とし、自らを下の権威に置いて下が上に従う権威主義性に囚われて行動していることを示している。

 このように労働生産性が他からの「監視」状況に影響を受ける変数であるとすると、公務員の仕事の場合はその能力が製造現場での製品の数量に当たる目に見える形の成績で表しにくい上に主として座仕事であることの関係から、仕事上の立居振舞いの動作からその能力が判断困難で、製造現場に於けるのと違って直接的・間接的「監視」の影響をそれ程受けない恵まれた状況に生息することができていると言える。

 そのような監視の効かない状況――指示・命令の権威主義がそれ程働いていない状況が、「監視」がそれぞれの働く姿勢に影響するとする考えからすると、非能率・怠惰を生じせしめていて、それが公務員の労働生産性を低めている原因とすることができ、その不完全燃焼の生命エネルギーを仕事以外の娯楽――接待ゴルフや予算・財源の類を使った旅行、宴会等々に注ぐことになっているということではないか。

 「日本人は勤勉で真面目だ」という評価が日本人対する全体評価となっていて、日本人自身も多くがそうだと信じているが、これは日本人の陰日向のない行動性を自画自賛も含めて賞賛した言葉であろう。この場合の「陰日向がない」とは、人が見ている、見ていないに関係なしに言葉や態度が変らない表裏一致の行動性を言う。

 しかし製造現場労働者にしても公務員にしても人が見ている、見ていないに関係なしに、あるいは誰からの指示・命令があるなしに関係なしに自らの考えと判断を基準に主体的・自発的に「陰日向がなく」「勤勉で真面目」に行動することを自らの行動性としていたなら、労働環境に関係なしに労働生産性は等しく高い数値を獲得していてよさそうなものだが、実際にはそうはなってはいない。有形無形の「監視」を受けて、それを自らに向けた指示・命令の権威的行動基準とし、それに従う機械的従属性(=非主体的・非自発的従属性)を行動性としているからこそ、同じ日本人でありながら受ける「監視」の強弱の違いがそのまま各労働生産性の違いとなって表れているいるということなのだろう。

 となれば、公務員という役人の世界に何らかの「監視」を設けて、その職務態度を四六時中監視し、彼らの尻を叩く構図で労働生産性を上げるしか公務員の非能率・怠惰を改善する方法はないのではないか。非能率・怠惰を改善するということは役人たちの予算の私的流用の防止の一助にもつながる。

 防衛省は前事務官の守屋武昌天皇の接待ゴルフ漬けによってその休日の行動を把握できなかった反省から防衛省幹部の休日行動を把握する目的で全地球測位システム(GPS)機能付き携帯電話の所持を義務づける方針を示したが、すべての省庁、そしてすべての関連法人のすべての部屋にどの方角にいてもその姿を見逃さずに撮影できる数だけの監視カメラを設置して、すべての公務員の出勤ら退社までの仕事ぶりを一日中監視したらどうだろうか。

 そして「公務員監視機構」といった民間による第三者機関を設けて、カメラが撮影したビデオを常にチェックする。その設置費用とチェック費用は膨大な額にのぼるだろうが、役人たちのムダ遣い・コジキ行為費用の予算からの捻出を抑えることができたなら、補っておツリを出してくれるに違いない。

 いやそれだけでは足りない。省庁内のすべての電話を交換台を通すシステムとし(既にそうなっているかもしれないが)、どこからかかってきたか、どこにかけたかを自動的に記録し、それをもチェックする。当然交換台を通らない携帯電話の勤務時間内の利用は禁止する。

 パソコンを使ったメールのやり取りもすべてのパソコンを省庁内サーバを設けてネットワークで接続し、サーバーを通すことにすれば、そこに送受信の記録が残るような仕組みにすることができて、すべてのメールがチェック可能となる。勤務時間中にアダルトサイトにアクセスすることも、あるいは宝くじを買ったり馬券を購入したりすることも記録が残るから防止可能となる。

 勿論各部署からのカネの出入り、その使用目的も含めてすべてをチェックする必要がある。

 そうでもしなければ、役人たちの予算を使って私的な娯楽を充足させる卑しいコジキ行為はなくならないだろうし、彼らの労働生産性も改善することはできないだろう。

 幹部の休日行動を把握する目的で全地球測位システム(GPS)機能付き携帯電話の所持を義務づける方針を示したとき、石破防衛相は「危機管理官庁なので居場所を明らかにするのは当たり前。行動が把握されるのが嫌だったら、そんな人は防衛省にいなくていい」と言ったが、「公務員なのだから、『陰日向がなく』「勤勉で真面目」に働くのは当たり前。監視カメラで行動が把握されるのが嫌だったら、そんな人は公務員でなくていい」と言わなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の「太平洋分割管理打診」は安倍首相へのメッセージだったのではないか

2008-03-13 07:43:59 | Weblog

 昨12日の昼の1時にNHKが、中国が初の訪中米太平洋軍司令官に太平洋をハワイを境に分割して西の海域を中国が、東の海域をアメリカが管理することを提案したといったニュースを流していた。7時のニュースで改めて詳しく流すと思って待っていたが、全然触れない。ではと次の9時のニュースに期待したが、多分流していなかったと思う。 

 多分と言うのは、パソコンを叩きながら左耳をそばだてていたのだが、最近老化現象を来たしていて相当当てにならない耳になっているからだ。

 そこでNHKのHPを訪問。次の記事に巡り会えた。

 ≪“中国 太平洋分割管理打診”≫ ”(08年3月12日 13時3分)

 <これは、アメリカ太平洋軍のキーティング司令官が、11日、議会上院軍事委員会の公聴会で証言して明らかにしたものです。この中で、キーティング司令官は、去年5月に司令官として初めて中国を訪問し、中国海軍の高官と会談した際に「中国は空母の開発を進めているが、将来、太平洋を分割して、ハワイより東の海域をアメリカが、ハワイより西の海域を中国が、それぞれ管理して情報を共有するというのはどうだろうか。そうすれば、アメリカはハワイの西にまで海軍を配備する労力を省けるはずだ」と真顔で持ちかけられたと述べました。

 そのうえで、キーティング司令官は「冗談だったとしても、これは中国軍が抱いているかもしれない戦略的な思考の一端を示している。中国は明らかに影響力が及ぶ範囲を拡大したいと考えている」と述べ、中国が軍備を増強して自国の影響力を拡大しようとしていることに警戒感を示しました。>・・・・

 この「太平洋分割」案はアメリカが受け入れるはずもない提案であり、中国側もアメリカが受け入れるはずもないことを承知していたはずである。承知していなかったとしたら、余程の政治オンチか、底なしの大国意識に染まっていたかどちらかに違いない。

 第一の理由は太平洋は中国とアメリカだけの海洋ではない。太平洋に接するそれぞれの国の領海を除いた公海は特定の国家の主権に属さず、各国が自由に使用・航行できるエリアと規定されている。中国がそのこと知らないはずはない。それを管理するなどと言うことは特定の国による「海の私物化」を図ることに他ならない。

 第二の理由は分割管理に進んだ場合、太平洋共同管理者から外れた日本の海上自衛隊の太平洋上での活動は排除されるか、もしくは中国海軍の価値を海上自衛隊よりも上に置くことになって、日米安保条約は中国の存在によって相対化され、有名無実化しかねない。アメリカがそのような方向を選択すると中国は思っていただろうか。

 いくら中国の大国としての存在感が日本を上回る勢いを有していたとしても、自由と民主主義の価値観を共有する日本を差し置いてそれらを共有せざる共産主義一党独裁国家中国に信を置く行為は日本に対するだけではなく、「自由と民主主義」の価値観そのものに対する背信行為であり、アメリカは自らの価値観を自ら裏切る矛盾を犯すことになる。果たして中国はアメリカがそこまですると考えて「打診」したのだろうか。

 中国が台湾を軍事攻撃した場合、自らの軍事力で防衛する意志を持つアメリカにとって中国がハワイより西の海域を管理した場合、海で囲まれた島国台湾は四方を中国の自由な管理下に置くこととなって、台湾防衛の障害を自らつくり出すことになる。

 中国はそういった計算もできずに提案したのだろうか。

 最後に「太平洋分割管理」案は「中国海軍の高官」レベルが持ち出すべき提案ではない。話し合うとしたら、中国国家主席とアメリカ大統領のトップ同士が話し合うべき問題であろう。少なくとも両者が承知をしていて、代理の者が交渉する形でなければ不自然となる重要問題である。

 ではなぜ中国はそのような「打診」を行ったのだろうか。中国の「打診」で一つ気づくことは、その影は薄れつつあるもののアジアのリーダーであり、太平洋地域でオーストラリア共々アメリカの最大級の同盟国・友好国である日本の影が一切映し出されていないことである。いわば日本の存在をどこにも置かない「打診」となっている。ここに打診理由のカギがあるのではないのか。

 アメリカ太平洋軍のキーティング司令官が話を持ちかけられたのは昨07年5月。その前年の06年9月26日に安倍晋三が日本国総理大臣に就任している。その12日後に小泉前首相の靖国問題で関係が悪化していた中国をまず訪問、その翌日に同じ状況にあった韓国へと行き、いわば一種の手打ちを行った。

 安倍は日中首脳会談後の内外記者会見で次のように述べている。「靖国神社の参拝については、私の考えを説明した。そしてまた、私が靖国神社に参拝したかしなかったか、するかしないかについて申し上げない、それは外交的、政治問題化している以上、それは申し上げることはない、ということについて言及した。その上で、双方が政治的困難を克服し、両国の健全な発展を促進するとの観点から、適切に対処する旨述べた。私のこのような説明に対して、先方の理解は得られたものと、このように思う。適切に対処する、と申し上げた中身については、今申し上げたとおりである。」(首相官邸HP/平成18年10月8日)
 「靖国神社の参拝についての私の考え」とは、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」でなければならない。そう公言していたのだから。また「外国から言われて、参拝すべきでないと言うべきではない」とも言っている以上、「私の考え」は「あなた方が何と言おうと参拝しますよ」の意思表明でなければならない。

 しかしこの「私の考え」は後段の「私が靖国神社に参拝したかしなかったか、するかしないかについて申し上げない、それは外交的、政治問題化している以上、それは申し上げることはない」の説明と真っ向から矛盾する。

 それに「あなた方が何と言おうと参拝しますよ」はケンカを売りにいくことになる。

 多分次のような密約を交わしのではないか。「参拝しないと中国と公に約束したら、私は支持を失って中国との友好な関係が築けなくなる。靖国神社に参拝したかしなかったか、するかしないかについて申し上げない、それは外交的、政治問題化している以上、それは申し上げることはないを表向きの態度とすることを承知してくれたなら、参拝しないと約束できる」

 そうとでも疑わなければ、記者会見の言葉の辻褄が合わない。中国は参拝の中止を求めている。答は参拝をするか・しないかのどちらかだから、「靖国神社に参拝したかしなかったか、するかしないかについて申し上げない」では済まないはずだ。

 ところが安倍晋三は次の年の07年4月の靖国神社春季例大祭に直接的には参拝はしなかったものの祭壇に供える真榊(まさかき)料として私費から五万円を支出している。

 これは参拝をしない代わりの埋め合せ行為・擬似参拝であろう。政治家が暴力団関係者の結婚式に招待を受けているものの公になった場合はヤバイ、参列できないからと代理の者に祝儀を持たせて、祝儀だけ置いてくる。本人は参列しなかったものの、祝儀を届けさせることを通した擬似参列で埋め合わせたことになる。それと似ていて、真榊料として私費五万円を支出することで次の首相として「国のために戦った方に尊敬の念を表するリーダーとしての責務」を擬似的に埋め合わせたのである。間接的参拝と言われても仕方はあるまい。そのことに中国は無神経であったろうか。

 そして1ヵ月後の5月、訪中したアメリカ太平洋軍のキーティング司令官に対して中国が「太平洋分割管理」案を打診した。中国が実際に「影響力が及ぶ範囲を拡大したい」衝動を抱えていて、中国の覇権主義をなる程なと思わせる提案に見えるが、それは表向きのみの解釈であって、日本の存在に一切触れずにアメリカのみを相手にすることによって逆に日本を相手にしない構図となっていた――。

 これは北朝鮮が6カ国協議で日本を相手にせず、アメリカのみを相手にしている姿勢に通じる。

 性懲りもなくあの手この手を使って参拝と変わらないことをする、好きなようにすればいい、日本など眼中にはないのだからとの安倍首相に向けたメッセージだったのではないか。そう思えて仕方がない。

 日本が中国に対して外交上主導権を握ることができるケースは反日デモでデモ隊が上海の日本領事館や北京の日本大使館の建物に危害を加えているのを中国政府が黙認していたその姿勢を問題にするときや中国の輸出製品に欠陥があってそれを批判するときぐらいなのは情けない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本人拉致首謀者は金正日」は想像できたこと

2008-03-12 18:01:19 | Weblog

 「asahi.com」が昨日の記事≪地村・蓮池さん拉致工作、2幹部浮上 総書記の直属≫で、金正日総書記の側近と見られている北朝鮮工作機関「対外情報調査部」(現35号室)の幹部2人が地村保志夫妻と蓮池薫夫妻の拉致に関与し、実行犯に指示したとの疑いが警察の捜査で分かったと伝えている。

 「対外情報調査部」とは金総書記直属機関で拉致の計画・実行部門であることから、記事は金正日と「拉致部門」とが接点を持つこととなり、金正日将軍様が拉致について何らかの情報を持っている可能性が出てきたと解説している。

 このことは驚くに当たらない。記事は夫婦共々香港から北朝鮮に拉致されて金正日の指示のもと映画製作に携わった、現在は故人となっている夫の韓国映画監督の申相玉と共に金将軍様とも面識のあった夫人の女優崔銀姫に事情聴取を行い、関係者らの証言とも総合した結果の結論だとしているが、当ブログやHPに書いていることでもあるが、拉致が北朝鮮が証言したように「特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って行った」ことで金正日将軍様が関与していないが真正な事実なら、「拉致全面解決」は当事者の処分で済み、朝日国交正常化の障害とは何らならない。

 ところが日本側が国交正常化の譲れない条件とした「拉致の全面解決」を北朝鮮側は「解決済み」として拒み、国交正常化で手に入る日本からの戦後補償と経済援助を自らお預け状態にしている。

 朝日国交正常化のお土産である日本の戦後補償と経済援助が危機的状況にある北朝鮮経済立て直しの大きな一助となり、そのことが飢餓・餓死状態に見舞われている多くの国民をその窮状から救い出し、一部特権階級御用達の将軍さまではなく、ほぼ等しく全国民の将軍様となることが金正日将軍様が自らの独裁権力体制を安泰無事に維持する要件であり、父親の金日成から権力を引き継いだと同じく自分の子どもに権力を無事引き継ぐ将来的な権力の父子継承の保証にも力ともなるにも関わらずである。

 ここから読み取ることができる構図は朝日国交正常化が北朝鮮経済の建て直しのカードとはなり得ても、「拉致全面解決」が金正日独裁体制保証と権力父子継承保証のカードとはなり得ないということであろう。だから、「解決済み」の態度を取らざるを得ない。

 ここに金正日が拉致行為首謀者とする根拠がある。

 日本政府は「金正日拉致首謀説」に立って外交を進めてこなかった。小泉首相は「日朝平壌宣言を誠実に実行に移すことが重要」を決まり文句としていた。北朝鮮は金正日の国だから、拉致首謀者の金正日の「誠実さ」に期待したのである。見事な逆説ではないか。
 * * * * * * * *
 ≪地村・蓮池さん拉致工作、2幹部浮上 総書記の直属≫(asahi.com/2008年03月11日03時02分)

 <北朝鮮による日本人拉致事件で、地村保志さん(52)夫妻と蓮池薫さん(50)夫妻の拉致に関与したとされる北朝鮮の工作機関「対外情報調査部」(現35号室)の幹部2人が、実行犯に拉致を指示した疑いがあることが10日、警察当局の調べでわかった。警察当局はこの幹部2人が金正日総書記の側近だったとみている。一連の拉致事件で金総書記と直接接点のある政府幹部の関与疑惑が浮上したのは初めてで、立件に向けた詰めの捜査を進めている。日本側が「拉致問題の進展」を求めている日朝国交正常化交渉にも大きな影響を及ぼしそうだ。

 関係者によると、幹部は対外情報調査部の李完基(イ・ワンギ)・元部長と姜海竜(カン・ヘリョン)・元副部長。これまでの調べで、2人はそれぞれ部長、副部長だった78年ごろ、日本人の拉致を計画、指示した疑いが持たれている。調査部の工作員辛光洙(シン・グァンス)容疑者(78)=地村さん夫妻と原敕晁(ただあき)さんを拉致した容疑で国際手配=や通称チェ・スンチョル容疑者=蓮池さん夫妻拉致容疑で国際手配=らに男女のアベックの拉致を指示し、実行させた可能性がある。地村さん夫妻は78年7月7日に福井県小浜市で、蓮池さん夫妻は7月31日に新潟県柏崎市でそれぞれ拉致された。

 警察当局は調査部の実態解明を進める過程で、今年2月中旬、78年に北朝鮮に拉致された韓国の女優崔銀姫(チェ・ウニ)さんから事情を聴いた。関係者らの証言とも総合した結果、(1)調査部は金総書記直属の機関で、拉致を計画・実行する部門だった(2)李・元部長らが拉致を指示する立場にあった(3)元部長らが地村、蓮池両夫妻の拉致について「指示したのは自分だ」と関係者に話している――ことが分かり、地村、蓮池両夫妻の拉致を指示した疑いが強まったという。警察当局は、金総書記と李・元部長がともに写った写真なども確認しており、金総書記が拉致について何らかの情報を持っている可能性があるとみている。

 警察当局は元部長らについて国外移送目的略取、国外移送などの容疑を固めるため、さらに複数の関係者から事情を聴くなどの捜査を進めている。

 日本政府は、「日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決」するとの日朝平壌宣言(02年9月)に基づき、6者協議の日朝国交正常化作業部会などを通じて交渉を進めてきた。北朝鮮側には、すべての拉致被害者と特定失踪(しっそう)者の生存者の全員帰国、真相究明、拉致実行犯の引き渡しを要求している。北朝鮮側は、02年9月に小泉首相(当時)が訪朝した際に、金総書記が「特殊機関の一部の妄動主義者による犯行」と述べたが、その後は「拉致問題は解決済み」との立場を取ってきた。

 指示にかかわった幹部の存在が浮かんだことで、北朝鮮が2人の現在の消息や、金総書記と2人の関係について、どう説明するかなどが今後の日朝交渉の焦点となる。ただ、日朝国交正常化作業部会は、核問題をめぐる6者協議の停滞もあり、昨年10月以来、開かれていない。

 北朝鮮は、核開発の申告などの見返りに、米国のテロ支援国家指定の解除を求めているが、日本政府は解除に当たって拉致問題の進展を考慮するよう米国側に要請。米政府も、2月に訪日したライス国務長官が拉致問題について「日本と相談していく」と述べている。>
 * * * * * * * * 
 ≪北拉致経験の申相玉監督が死去・「金総書記の指示」著書で証言≫    
                       (06.4.12/朝鮮日報)
 【ソウル12日上田勇実】韓国映画界の大御所的な存在で、北朝鮮に拉致された後、韓国に脱出するなど波乱万丈の生涯を送った申相玉監督(80)が11日夜、ソウル市内の病院で死去した。

 申監督は1978年、妻で女優の崔銀姫さんとともに香港で北朝鮮に拉致された。映画に格別の関心を抱き、体制維持に巧みに利用した金正日総書記の計らいで、惜しみなく制作費を使い映画を作ったが、その特異な体制になじめず86年、崔さんとともに在ウィーン米大使館に駆け込んだ後、韓国への帰還を果たした。

 申監督夫妻による著書「闇からの谺(こだま)」には、金総書記の人となりが克明に描写されているほか、拉致は金総書記の直接の指示によるものだったことを、金総書記から直接聞いたという話も出て来る。(2006/4/12 21:07) とともに香港で北朝鮮に拉致された。映画に格別の関心を抱き、体制維持に巧みに利用した金正日総書記の計らいで、惜しみなく制作費を使い映画を作ったが、その特異な体制になじめず86年、崔さんとともに在ウィーン米大使館に駆け込んだ後、韓国への帰還を果たした。

 申監督夫妻による著書「闇からの谺(こだま)」には、金総書記の人となりが克明に描写されているほか、拉致は金総書記の直接の指示によるものだったことを、金総書記から直接聞いたという話も出て来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする