■横須賀地方隊観閲式と観閲飛行
イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、以下多数の伊勢湾上での観閲式に続き観閲飛行の航空部隊が飛行します。

横須賀地方隊伊勢湾展示訓練、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き実施されました。横須賀地方隊は護衛艦を有しませんが、地方総監部は指揮機構である為、必要に応じ自衛艦隊から部隊の加入を受け対応する。

横須賀地方隊、横須賀地方総監部の幕僚機構は、横須賀地方総監へ海将が補職され、幕僚長に海将補が補職、政策補佐官に事務官が補職、防衛部長、管理部長、経理部長、技術補給監理官、監察官、とそれぞれの部長へ1等海佐が補職され幕僚機構を構成しています。

高嶋博視海将の隷下に地方隊の部隊についてみてみましょう。地方総監部、第41掃海隊、横須賀警備隊、直轄艦艇、横須賀教育隊、横須賀弾薬整備補給所、横須賀造修補給所、横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀音楽隊、観音崎警備所、父島基地分遣隊など。

横須賀警備隊は隷下に横須賀水中処分隊、横須賀陸警隊、横須賀港務隊を有しています。また、直轄艦は、輸送艇 2号、多用途支援艦えんしゅう、砕氷艦しらせ、以上3隻で、今回展示訓練乗艦のお世話になりました多用途支援艦えんしゅう、は直轄艦となっています。

2008年まで、横須賀地方隊には第21護衛隊が置かれていました。しかし、護衛艦の減少と大型化が訓練を変え、地方隊管区を越えて脅威へ対応するには自衛艦隊へ護衛艦部隊を集約する事が効率的であるとして自衛艦隊改編の際に地方隊から管理替えとなっています。

20年ほど前の横須賀地方隊には、第33護衛隊と第37護衛隊が置かれ、第33護衛隊隷下に護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、第37護衛隊隷下に護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、沿岸防備へ実に2個護衛隊6隻もの護衛艦が配備されていました。

護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、ともに沿岸防備用の小型護衛艦ちくご型ですが、この老朽化と共に護衛艦の減勢が決定、護衛艦隊から大型の護衛艦に当たる護衛艦はつゆき型が配備される事となりました。

ちくご型護衛艦は駆潜艇の後継、はつゆき型は対空対艦対潜の各ミサイルを搭載しヘリコプターも搭載するシステム艦ですが、その分訓練負担も大きく、これが自衛艦隊への護衛艦就薬へと繋がりました。このおように地方隊の歴史は長く、改編を繰り返してきました。

横須賀地方隊は海上警備隊発足の1952年4月26日に創設されました。しかし、横須賀に総監部をおくことは決まりましても、横須賀はアメリカ海軍が運用していました。何より1952年といえば朝鮮戦争が最盛期にあたり、日本へ軍事圧力が最も高まっていた時代です。

朝鮮戦争中に空母が何隻も最前線日本海や東シナ海に黄海とを往復した時代、横須賀基地はアメリカも手放せません。朝鮮戦争では一時、韓国軍と国連軍が釜山まで追い込まれ、即ち長崎県対馬から100km先は最前線、というそれは大変に緊張した時代だったわけです。

そもそも朝鮮半島は日本が植民地を経て本土に併合し、その間には非常に安定していたのですが第二次世界大戦後の占領とともにソ連側占領地とアメリカ占領地との間に軍事境界線が構築され、戦闘状態となったわけです。今日視点にはしっかりしてくれよ、と思う。

ドイツ占領のようにイギリス軍等他の占領軍が朝鮮半島でも活動し、中華民国軍が国境を接している地域にも駐屯していたならば、これほど大きな戦争の火種、今日に続く対立構造は回避できたのだろうか、と思ってしまいます。歴史にIFは禁忌ではあるのですが、ね。

この横須賀の重要度が戦後もっとも高くなっていた時代、旧海軍にも沿岸防備にあたる鎮守府が横須賀にもおかれていたのですが、横須賀鎮守府庁舎についてもアメリカ海軍が使用中でしたので、創設間もない横須賀地方総監部はその司令部庁舎の確保から始めます。

田浦地区の旧海軍水雷学校庁舎が接収を免れていましたので、横須賀地方総監部は旧水雷学校庁舎を再利用することとなりましたが、終戦後の混乱により重厚な調度品はもちろん事務用品から書棚も無く、窓は窓枠まで扉は蝶番まで亡失した状態から再出発だった、と。

横須賀地方隊創設式典とともに横須賀地方隊はアメリカから供与艦艇として護衛駆逐艦や中型揚陸艇改修警備船などを受領する予定だったのですが、残念ながらこの頃からアメリカは事務能力に不十分、もしくは大らかな部分があったようで、今日でも米軍は遅刻多い。

結果、横須賀地方隊が発足してもフネがないという、引き渡しは遅れることとなりました。アメリカからくれるのは仕方ないと思われるかもしれませんが、実はこの艦艇、大戦中にソ連海軍へ供与する予定の艦艇を返還されたもので、東京湾に置かれていたものなのです。

供与艦艇の一部は既に横須賀へも回航されていたといいますから、すぐ近くに置かれていたものが受領書類不備により引き渡されなかった、というものでして、ちょっと情けない。とりあえず、横須賀回航の艦艇の引き渡し訓練だけ、正式貸与前に訓練を始めました。

こうしてアメリカ海軍護衛駆逐艦による訓練が海上自衛隊での艦艇訓練の始まりとなりました。もっとも、乗組員の選定は行わず、基礎訓練を教育の形から始めたという構図ではありましたが、ね。横須賀地方隊とともに舞鶴地方隊が創設、海上防衛が始まりました。

横須賀と舞鶴、現在海上自衛隊の地方隊は佐世保や呉に大湊とありますが、この日創設されたのは横須賀と舞鶴のふたつでした。横須賀地方隊は北海道から本州に四国と九州太平洋沿岸や九州東シナ海側までという、それはもう広大な海域を担当することとなりました。

舞鶴地方隊は日本海全域を、といいましても現在の舞鶴地方隊は日本海全域を担当しているようなものですが、広大な海域の任務を任されました。地方隊は、船隊と航路啓開隊に練習隊、この三部隊から構成されていました。供与艦と練習部隊に掃海部隊、にあたる。

しかし、海上保安庁が勇壮な海防艦を運用していたのに対し、海上警備隊に渡されたのは艦隊というには少々貧弱と云わざるを得ない水準の物でして、アメリカ海軍供与の護衛駆逐艦をのぞけば旧海軍から継承しました駆潜特務艇と哨戒特務艇に航空機救難船のみ。

航空機救難船といいますと響きだけは航空母艦のようで勇壮ではありますが、実際には墜落した航空要員を救助する高速船、ヘリコプターや飛行艇という墜落した搭乗員救難用の機材以上に墜落海域が明確にわかっている場合には高速艇で駆けつける単なる高速船です。

アメリカ海軍からは魚雷艇が多数供与されていたらば、艦隊の再編に早く進むことが出来たのかもしれませんが、実現しませんでした。PTボートとして哨戒魚雷艇はアメリカが800隻以上を量産、40ノット速力で魚雷を主武装に機銃で針鼠の様に固めた局地防衛用のもの。

海上警備隊発足当時供与されなかった理由ですが、当時の日本海軍へのアメリカの認識があったのかもしれません。日米関係は今日もっとも良好で、創設当時からアメリカ海軍は日本の海上防衛力再建へ注力、アーレイバーク海軍大将が個人的な尽力がありました。
北大路機関:はるな くらま
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イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、以下多数の伊勢湾上での観閲式に続き観閲飛行の航空部隊が飛行します。

横須賀地方隊伊勢湾展示訓練、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き実施されました。横須賀地方隊は護衛艦を有しませんが、地方総監部は指揮機構である為、必要に応じ自衛艦隊から部隊の加入を受け対応する。

横須賀地方隊、横須賀地方総監部の幕僚機構は、横須賀地方総監へ海将が補職され、幕僚長に海将補が補職、政策補佐官に事務官が補職、防衛部長、管理部長、経理部長、技術補給監理官、監察官、とそれぞれの部長へ1等海佐が補職され幕僚機構を構成しています。

高嶋博視海将の隷下に地方隊の部隊についてみてみましょう。地方総監部、第41掃海隊、横須賀警備隊、直轄艦艇、横須賀教育隊、横須賀弾薬整備補給所、横須賀造修補給所、横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀音楽隊、観音崎警備所、父島基地分遣隊など。

横須賀警備隊は隷下に横須賀水中処分隊、横須賀陸警隊、横須賀港務隊を有しています。また、直轄艦は、輸送艇 2号、多用途支援艦えんしゅう、砕氷艦しらせ、以上3隻で、今回展示訓練乗艦のお世話になりました多用途支援艦えんしゅう、は直轄艦となっています。

2008年まで、横須賀地方隊には第21護衛隊が置かれていました。しかし、護衛艦の減少と大型化が訓練を変え、地方隊管区を越えて脅威へ対応するには自衛艦隊へ護衛艦部隊を集約する事が効率的であるとして自衛艦隊改編の際に地方隊から管理替えとなっています。

20年ほど前の横須賀地方隊には、第33護衛隊と第37護衛隊が置かれ、第33護衛隊隷下に護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、第37護衛隊隷下に護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、沿岸防備へ実に2個護衛隊6隻もの護衛艦が配備されていました。

護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、ともに沿岸防備用の小型護衛艦ちくご型ですが、この老朽化と共に護衛艦の減勢が決定、護衛艦隊から大型の護衛艦に当たる護衛艦はつゆき型が配備される事となりました。

ちくご型護衛艦は駆潜艇の後継、はつゆき型は対空対艦対潜の各ミサイルを搭載しヘリコプターも搭載するシステム艦ですが、その分訓練負担も大きく、これが自衛艦隊への護衛艦就薬へと繋がりました。このおように地方隊の歴史は長く、改編を繰り返してきました。

横須賀地方隊は海上警備隊発足の1952年4月26日に創設されました。しかし、横須賀に総監部をおくことは決まりましても、横須賀はアメリカ海軍が運用していました。何より1952年といえば朝鮮戦争が最盛期にあたり、日本へ軍事圧力が最も高まっていた時代です。

朝鮮戦争中に空母が何隻も最前線日本海や東シナ海に黄海とを往復した時代、横須賀基地はアメリカも手放せません。朝鮮戦争では一時、韓国軍と国連軍が釜山まで追い込まれ、即ち長崎県対馬から100km先は最前線、というそれは大変に緊張した時代だったわけです。

そもそも朝鮮半島は日本が植民地を経て本土に併合し、その間には非常に安定していたのですが第二次世界大戦後の占領とともにソ連側占領地とアメリカ占領地との間に軍事境界線が構築され、戦闘状態となったわけです。今日視点にはしっかりしてくれよ、と思う。

ドイツ占領のようにイギリス軍等他の占領軍が朝鮮半島でも活動し、中華民国軍が国境を接している地域にも駐屯していたならば、これほど大きな戦争の火種、今日に続く対立構造は回避できたのだろうか、と思ってしまいます。歴史にIFは禁忌ではあるのですが、ね。

この横須賀の重要度が戦後もっとも高くなっていた時代、旧海軍にも沿岸防備にあたる鎮守府が横須賀にもおかれていたのですが、横須賀鎮守府庁舎についてもアメリカ海軍が使用中でしたので、創設間もない横須賀地方総監部はその司令部庁舎の確保から始めます。

田浦地区の旧海軍水雷学校庁舎が接収を免れていましたので、横須賀地方総監部は旧水雷学校庁舎を再利用することとなりましたが、終戦後の混乱により重厚な調度品はもちろん事務用品から書棚も無く、窓は窓枠まで扉は蝶番まで亡失した状態から再出発だった、と。

横須賀地方隊創設式典とともに横須賀地方隊はアメリカから供与艦艇として護衛駆逐艦や中型揚陸艇改修警備船などを受領する予定だったのですが、残念ながらこの頃からアメリカは事務能力に不十分、もしくは大らかな部分があったようで、今日でも米軍は遅刻多い。

結果、横須賀地方隊が発足してもフネがないという、引き渡しは遅れることとなりました。アメリカからくれるのは仕方ないと思われるかもしれませんが、実はこの艦艇、大戦中にソ連海軍へ供与する予定の艦艇を返還されたもので、東京湾に置かれていたものなのです。

供与艦艇の一部は既に横須賀へも回航されていたといいますから、すぐ近くに置かれていたものが受領書類不備により引き渡されなかった、というものでして、ちょっと情けない。とりあえず、横須賀回航の艦艇の引き渡し訓練だけ、正式貸与前に訓練を始めました。

こうしてアメリカ海軍護衛駆逐艦による訓練が海上自衛隊での艦艇訓練の始まりとなりました。もっとも、乗組員の選定は行わず、基礎訓練を教育の形から始めたという構図ではありましたが、ね。横須賀地方隊とともに舞鶴地方隊が創設、海上防衛が始まりました。

横須賀と舞鶴、現在海上自衛隊の地方隊は佐世保や呉に大湊とありますが、この日創設されたのは横須賀と舞鶴のふたつでした。横須賀地方隊は北海道から本州に四国と九州太平洋沿岸や九州東シナ海側までという、それはもう広大な海域を担当することとなりました。

舞鶴地方隊は日本海全域を、といいましても現在の舞鶴地方隊は日本海全域を担当しているようなものですが、広大な海域の任務を任されました。地方隊は、船隊と航路啓開隊に練習隊、この三部隊から構成されていました。供与艦と練習部隊に掃海部隊、にあたる。

しかし、海上保安庁が勇壮な海防艦を運用していたのに対し、海上警備隊に渡されたのは艦隊というには少々貧弱と云わざるを得ない水準の物でして、アメリカ海軍供与の護衛駆逐艦をのぞけば旧海軍から継承しました駆潜特務艇と哨戒特務艇に航空機救難船のみ。

航空機救難船といいますと響きだけは航空母艦のようで勇壮ではありますが、実際には墜落した航空要員を救助する高速船、ヘリコプターや飛行艇という墜落した搭乗員救難用の機材以上に墜落海域が明確にわかっている場合には高速艇で駆けつける単なる高速船です。

アメリカ海軍からは魚雷艇が多数供与されていたらば、艦隊の再編に早く進むことが出来たのかもしれませんが、実現しませんでした。PTボートとして哨戒魚雷艇はアメリカが800隻以上を量産、40ノット速力で魚雷を主武装に機銃で針鼠の様に固めた局地防衛用のもの。

海上警備隊発足当時供与されなかった理由ですが、当時の日本海軍へのアメリカの認識があったのかもしれません。日米関係は今日もっとも良好で、創設当時からアメリカ海軍は日本の海上防衛力再建へ注力、アーレイバーク海軍大将が個人的な尽力がありました。
北大路機関:はるな くらま
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