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【くらま】日本DDH物語 《第二八回》護衛艦はるな設計開始と砕氷艦ふじ1965年竣工

2017-10-28 20:07:41 | 先端軍事テクノロジー
■ふじ,自衛隊初のヘリ搭載艦
 練習艦かとり、が初の飛行甲板を搭載する練習艦となりましたが、少し前、砕氷艦というかたちで初のヘリコプター搭載艦が竣工していました。

 ヘリコプター艦上運用という新技術、我が国では海上自衛隊よりも海上保安庁の砕氷船宗谷が先行していました。そして海上自衛隊では砕氷艦ふじ、から始まりました。この他、練習艦かとり、が飛行甲板を有しており艦上係留ならばヘリコプター運用能力がありました、実際、南極海におて、ふじ、が流氷に閉じ込められた際には乗員救助へ、かとり旗艦として緊急救援部隊派遣が検討されたほどです。

 ふじ竣工、海上自衛隊最初のヘリコプター運用艦の建造は1965年、S-61輸送ヘリコプター2機等を搭載しています、S-61はHSS-2の輸送型となっていまして、HSS-2B運用後も輸送機として活躍しました、練習艦かとり、は1968年竣工、海上自衛隊ではこの時点で既にヘリコプター搭載護衛艦はるな建造が決定していますが、榛名と香取、練習艦かとり、旧海軍巡洋艦名を引継いだ事例となっています。

 1969年、砕氷艦ふじ、は第11次極地観測支援として南極への輸送任務に当った際に、氷塊に阻まれ、右推進翼4枚全折損という航行能力を半減させる事となり、日本鋼管鶴見造船所にて徹底した修理を行う事となりました。連続砕氷可能氷厚は120cm、最大砕氷能力は6mという性能を有していましたが、厳しい運用環境で船体は急激に痛んでいたのです。

 第12次極地観測支援,輸送任務完了と共に流氷に周囲を囲まれ、航行不能となりました。流氷はますます圧力を増し、時間を経るごとに、ふじ、は氷海離脱困難となり、最悪、船体圧潰という可能性も検討せざるを得ない状況となりました。氷塊に乗り上げ、爆薬使用による振動を利用した離脱を試みるも動かず、後進も推進器が氷塊に接触し、動かせません。

 当時の前田冬樹艦長は海軍兵学校71期、最小限の人員のみ、ふじ、をヘリコプターなどで離脱させ、ふじ艦内での越冬を決意する悲壮な状況となりますが、当該海域は既に日本極地観測拠点の昭和基地より距離があり、ここで海上自衛隊は練習艦かとり飛行甲板へ救難ヘリコプターを係留し、ふじ救出任務への派遣を検討します。近寄れるだけ近寄ればよい。

 S-62救難ヘリコプターは970kmの長大な航続距離があり、人員を満載した場合でも350kmは往復可能です。そして、ふじ、にもS-62ヘリコプターが輸送用として搭載されており、燃料補給や整備支援を受ける事が可能、天候の良い気象条件下ならば、ふじ近傍800kmまで、かとり、が接近し、人員だけでもヘリコプターにて救出という運用が考えられました。

 しかし、観測機により氷床の薄い区間が発見され、完全に航行不能となる前に氷床の薄い海域まで独力航行できるめどが立ちました。最も懸念されたのは全ての推進装置を氷海で破損させ、完全に航行不能となってしまう事ですが、一軸でも推進器が稼動するならば離脱は出来ます。氷海を離脱後は何とかオーストラリアのフリーマントル港へ到達できます。

 ふじ、氷海での航行不能期間は1296時間、実に54日間にも及んでいます。この離脱成功により、練習艦かとり旗艦の救援部隊派遣は見送りとなりました。もちろん、かとり、は飛行甲板を有しているものの航空機格納庫は上部構造物には無く、航空機運用能力は極めて限定的ではありました。しかし、甲板係留で実任務派遣が真剣に検討されていたという。

 HSS-2の運用試験は、揚陸艦しれとこ、での運用実験によりその能力が慎重に検証された後に設計となり、運用に加えて航空要員養成は砕氷艦ふじ、練習艦かとり、等で繰り返し、護衛艦での運用が実現した。HSS-1からHSS-2まで海上自衛隊にはヘリコプター運用の歴史がありましたが、その上で実験と計算を経て、ヘリコプター搭載護衛艦は実現しました。

北大路機関:はるな くらま
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