■建保木造釈迦如来立像を拝む
京都市内の散策は、何処其処に云々の講釈抜きに先ず散策し、いっそ迷ってでも歩みをすすめ、そして知る歴史の縁と妙を愉しむ事が街歩きの一つの極意かもしれません。
因幡薬師平等寺、下京区松原通烏丸東入ル上ル因幡堂町に所在する寺院です。寺社仏閣溢れるという印象の京都ですが、下京区松原通烏丸までやってきますと電気街とビジネス街の狭間に住宅街、という印象ですが散歩していますと仏光寺始め寺院もやはり数多い。
洛陽三十三所観音霊場27番札所であり、京都十三仏霊場7番札所且つ、京都十二薬師霊場1番札所という。どう行くのか、と問われますと仏光寺通りを烏丸通へ散策していまして洛陽三十三所観音霊場札所があると聞き、歩みを進めたという、文字通り街中の札所ですね。
京都は寺社仏閣の街、そんな先入観がありますが、平安遷都は元々南都平城京の仏教勢力政治介入を厭い長岡京等を経て京都へ至った経緯に見られるように、元々京都は東寺と失われた西寺のみが官寺として在ったのですが貴族の持仏堂と町の辻堂は認められています。
癌封じの寺院として知られていまして、毎年一千もの祈祷が行われるとも。宗教で医療を置き換える荒唐無稽な集金民間療法とは異なり、現代医学と仏教連携を重視していまして講演会等を通じ、現代医療へ向き合う際に患者が最後まで希望と意志を失わぬよう説く。
橘行平は因幡薬師平等寺開山、少将で大納言橘好古の孫に当ります。長徳年間の997年まで因幡国司の大任を果たした橘行平、しかしいざ帰京と任期を終える過渡期に重い熱病に置かされ、その夢枕のお告げに従い部下に因幡賀露津の浪間を探させると、漂流物が。
山城名勝志因幡堂縁起によりますと、因幡薬師とは、夢枕のお告げに天竺より賀露津に流れ着いたものが有るとの事で、部下に命じ此れを引き上げるとそれは流木などではなく等身薬師如来像であったという、そして等身薬師如来像と共に熱病は平癒し帰京成った、と。
長保年間の西暦1003年、橘行平の邸宅、即ち今日の因幡薬師平等寺この場所に等身薬師如来像が辿り着きまして、持仏堂を建立する事となります。山城名勝志には薬師如来像自ら飛んできたとあるようですが、国司治世を慕う賀露津の領民が運んだ、という事でしょう。
等身薬師如来像はこうして御本尊として持仏堂に安置されたのがここ因幡薬師平等寺の始まりとされます。賀露津の御本尊と伝わる木造薬師如来立像と鎌倉初期の建保木造釈迦如来立像に木造如意輪観音坐像が安置されており、共に国指定重要文化財となっています。
辻堂へ、と転じたのは持仏堂として安置した等身薬師如来像の御利益が広く町衆の信仰を集めた為と云いまして、成程平安朝末期には天候不順の飢饉に栄養状態の悪い厳しい環境に当時は鴨川の堤防も無き時代故に多少の大雨が洛中を泥で覆う、病平癒は重要でした。
高倉天皇治世下の承安元年即ち1171年、辻堂として町衆の信仰を集めた木造如意輪観音坐像は朝廷が知るところとなり、高倉天皇により平等寺の山号が下賜される事となりまして、今日では嵯峨釈迦堂釈迦如来と信濃善光寺阿弥陀如来と併せ日本三如来と崇敬を集めます。
明治初期の本堂に建保木造釈迦如来立像始め御本尊は祀られています。実は街中の立地にあり、この平等寺は度々火災被害に見舞われてきました。幸い御本尊はその都度僧侶門徒らの尽力にて難を逃れ、本堂は維新動乱の焼失を最後に明治初期の本堂を維持しています。
癌封じの寺院、考えてみれば戦争も昭和の敗戦から平成年間全てと令和時代まで平和な時代が続き、交通事故さえも最盛期よりはるか少なく、残るは癌等病魔のみ、市内の京都大学ではIPS細胞研究も進む、そんな時代の科学と魂の不可分性を考える探訪となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
京都市内の散策は、何処其処に云々の講釈抜きに先ず散策し、いっそ迷ってでも歩みをすすめ、そして知る歴史の縁と妙を愉しむ事が街歩きの一つの極意かもしれません。
因幡薬師平等寺、下京区松原通烏丸東入ル上ル因幡堂町に所在する寺院です。寺社仏閣溢れるという印象の京都ですが、下京区松原通烏丸までやってきますと電気街とビジネス街の狭間に住宅街、という印象ですが散歩していますと仏光寺始め寺院もやはり数多い。
洛陽三十三所観音霊場27番札所であり、京都十三仏霊場7番札所且つ、京都十二薬師霊場1番札所という。どう行くのか、と問われますと仏光寺通りを烏丸通へ散策していまして洛陽三十三所観音霊場札所があると聞き、歩みを進めたという、文字通り街中の札所ですね。
京都は寺社仏閣の街、そんな先入観がありますが、平安遷都は元々南都平城京の仏教勢力政治介入を厭い長岡京等を経て京都へ至った経緯に見られるように、元々京都は東寺と失われた西寺のみが官寺として在ったのですが貴族の持仏堂と町の辻堂は認められています。
癌封じの寺院として知られていまして、毎年一千もの祈祷が行われるとも。宗教で医療を置き換える荒唐無稽な集金民間療法とは異なり、現代医学と仏教連携を重視していまして講演会等を通じ、現代医療へ向き合う際に患者が最後まで希望と意志を失わぬよう説く。
橘行平は因幡薬師平等寺開山、少将で大納言橘好古の孫に当ります。長徳年間の997年まで因幡国司の大任を果たした橘行平、しかしいざ帰京と任期を終える過渡期に重い熱病に置かされ、その夢枕のお告げに従い部下に因幡賀露津の浪間を探させると、漂流物が。
山城名勝志因幡堂縁起によりますと、因幡薬師とは、夢枕のお告げに天竺より賀露津に流れ着いたものが有るとの事で、部下に命じ此れを引き上げるとそれは流木などではなく等身薬師如来像であったという、そして等身薬師如来像と共に熱病は平癒し帰京成った、と。
長保年間の西暦1003年、橘行平の邸宅、即ち今日の因幡薬師平等寺この場所に等身薬師如来像が辿り着きまして、持仏堂を建立する事となります。山城名勝志には薬師如来像自ら飛んできたとあるようですが、国司治世を慕う賀露津の領民が運んだ、という事でしょう。
等身薬師如来像はこうして御本尊として持仏堂に安置されたのがここ因幡薬師平等寺の始まりとされます。賀露津の御本尊と伝わる木造薬師如来立像と鎌倉初期の建保木造釈迦如来立像に木造如意輪観音坐像が安置されており、共に国指定重要文化財となっています。
辻堂へ、と転じたのは持仏堂として安置した等身薬師如来像の御利益が広く町衆の信仰を集めた為と云いまして、成程平安朝末期には天候不順の飢饉に栄養状態の悪い厳しい環境に当時は鴨川の堤防も無き時代故に多少の大雨が洛中を泥で覆う、病平癒は重要でした。
高倉天皇治世下の承安元年即ち1171年、辻堂として町衆の信仰を集めた木造如意輪観音坐像は朝廷が知るところとなり、高倉天皇により平等寺の山号が下賜される事となりまして、今日では嵯峨釈迦堂釈迦如来と信濃善光寺阿弥陀如来と併せ日本三如来と崇敬を集めます。
明治初期の本堂に建保木造釈迦如来立像始め御本尊は祀られています。実は街中の立地にあり、この平等寺は度々火災被害に見舞われてきました。幸い御本尊はその都度僧侶門徒らの尽力にて難を逃れ、本堂は維新動乱の焼失を最後に明治初期の本堂を維持しています。
癌封じの寺院、考えてみれば戦争も昭和の敗戦から平成年間全てと令和時代まで平和な時代が続き、交通事故さえも最盛期よりはるか少なく、残るは癌等病魔のみ、市内の京都大学ではIPS細胞研究も進む、そんな時代の科学と魂の不可分性を考える探訪となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)