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【京都発幕間旅情】近江神宮,令和時代初の正月初詣は時計と時を奉じる近江大津宮所縁の社殿

2020-01-28 20:18:34 | 旅行記
■近江は大津京にも遷都の歴史
 この一月の初詣は昨年平成31年に続きます令和時代最初の正月初詣となるのですが、皆様は新年の祈念をどちらへ参られたでしょうか。

 近江神宮。滋賀県大津市神宮町に鎮座します神社です。京都から地下鉄東西線で大津へ、そして京阪石山坂本線は近江神宮前駅から徒歩にして五分強、神宮の森は参道を神々しく覆い、その先に二の鳥居、そして更に歩み進めますと朱色の楼門が参拝者を迎えます。

 初詣は近江神宮。ここ数年は滋賀県と御縁が深くなりまして、初詣は平野神社に下鴨神社や伏見稲荷大社と巡っていたのですが昨今はお隣の滋賀県へ詣でている次第です。御縁というものは大切にしたいものですが、そんな中でも近江神宮は不思議な歴史を湛えている。

 紀元二六〇〇年。近江神宮の建立は歴史が新しく日米関係が風雲急告げた開戦前夜昭和15年の紀元2600年を記念し創建された、本当に新しい社殿です。昭和の造営ながらその社格は旧官幣大社に列せられる勅祭社であり、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。

 天智天皇を祭神として奉じる社殿。実は大津の方とお話しした際に、この社殿の創建を千年ほど勘違いしていたという話題がありまして、昭和初期の創建と伝えますと、最後まで信じてもらえませんでした。新しいのに昔からあるような、大事にされている社殿ですね。

 大津京。湖西線の西大津駅が平成後期に入り大津京駅へと駅名が改められましたが、歴史を遡れば天智天皇年間の西暦667年に時の天智天皇が飛鳥宮から近江大津宮へと遷都した歴史がありまして、近江神宮の祭神に天智天皇を奉じる所縁には近江大津宮がありました。

 近江大津宮遷都は、我が国と親交のあった百済国が滅亡し、続いて大陸からの軍事圧力が本土へ迫るのは必至と危惧した朝廷が、大阪湾からの侵攻に脆弱性の高い飛鳥宮から内陸部の近江へ遷都したという、太平洋戦争末期の松代大本営造営と似た背景があったのです。

 白村江の戦い、663年に朝鮮半島出兵による日本影響下の同盟国再建が試みられますが、日本軍敗北という緊張下での遷都ではありますが、日本最初の戸籍制度である庚午年籍作成や後の律令制に繋がる近江令等、強靭な中世国家への整備が行われたのは大津宮、という。

 古くからある神社という認識、これは考えてみますと近江神宮の歴史というよりは平安遷都に遡る大津京の歴史、大津宮の歴史と重ねての印象、そんな背景もあるのでしょうか。そして大津には三井寺はじめ連綿歴史を紡ぐ寺社仏閣も多く、古い趣きの街並みが広がる。

 飛鳥への帰京は天武天皇元年の672年である為、大津宮として朝廷がこの地に置かれたのは667年から672年まで、日清戦争時代の広島遷都、あの遷都は最前線に向けて東京から国会や政治中枢と皇居を前進させた構図ですが、大津宮は一種の戦時下の施策といえます。

 太平洋戦争前夜といえる紀元2600年、西暦1940年に造営された近江神宮ですが、1941年の日米開戦と共に戦い抜いた後の1945年、我が国は敗北したのは世界が知る通り。しかし、この1945年、戦後翌月に近江神宮は昭和天皇勅願により官幣大社となったのですね。

 戦後復興を祈念すると共に天智天皇は漏刻時計として我が国初の時計を国産したという遺功から、近江神宮には数多古式時計が並びまして、近年は競技カルタの聖地としても全国に知名度を伸ばすところです。日時計に火時計、機械時計、実物が参拝者を迎えています。

 大津宮。さて実に短期間の臨時遷都と云えた造営であり、その遺構はあまり残っては居ません、しかし1974年に近江神宮前駅その駅前に柱の跡や建築物の痕跡など遺構が発見されていまして、近江神宮と大津宮、造営の頃に位置は不明瞭だったはずですが縁を感じます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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