■神護寺と空海と大覚寺
大沢池とともに佇む大覚寺はほんとうに広大で寺院というよりは、という言葉がつい出てしまいそうにありますが歴史を知ればなるほどとうなづくもの。

大覚寺は嵯峨上皇の嵯峨離宮として造営が始まり、そして陵墓が造営されたという歴史は既に紹介しましたが、平安遷都とともに平安京に上り、のちに転換点となる真言宗を日本に伝えることとなる空海はその嵯峨天皇から熱い信任を得ていたことでも知られます。

空海はこの嵯峨離宮に招かれた際、持仏堂として五覚院を造営するとともに加持祈祷を行ったといい、考えてみると神護寺と大覚寺の近い関係は、嵯峨上皇と空海の所縁そのものなのだなあ、と気づかされ、この寺院の始まりと空海の不思議な関係を見た思いがする。

真言宗大覚寺派、そして神護寺はここからそれほど離れていません、山を登る必要はありますけれどもね。嵯峨上皇の崩御から時を経た貞観18年こと西暦876年、皇女正子内親王により離宮が寺院に改められた、というのはなにかこう自然流れのように思えるのです。

正子内親王、このひとは淳和天皇皇后というのですが開基としまして開山には恒寂入道親王、淳和天皇と皇后正子内親王との間の長男があたりました。時代が時代ならば高貴な身分となりますが、嵯峨上皇崩御の直後にありました承和の変により廃位されています。

高岳親王の灌頂、廃位されましたが薬子の変により同じような経緯で廃位され、しかし空海に弟子入りすることができた高岳親王、出家の後に真如入道親王、この人は舞鶴の金剛院を開いたことでも知られる、この人のもとで真言宗の僧侶として出家の道を歩みました。

陽成天皇の廃位、結局のところのこの時代の日本は権力基盤が流動的であった、桓武天皇の時代まで続いた遷都と軍事遠征の連続から急制動を掛けたような方針転換が混乱を呼んだのでしょう、陽成天皇の時代に混乱が生じまして恒寂入道親王には復位が求められる。

恒寂入道親王は、しかしこの求めを慎重に断っている。無論、廃太子の復位が呼ぶ混乱を見越してのものとも、混乱しすぎている中央に近づくことの危険性とも、こう読み取れるのですが、廃太子の位置づけはこれにより奈良時代ほど厳しくはなくなり改革を果たす。

後嵯峨上皇の法皇宣下、さてこれまで触れましたようになにか大覚寺には院政という表面的な歴史よりも隠棲という静けさとともに開かれた寺院であることが読み取れます、しかし平安時代を経て鎌倉時代末期のころ、法皇宣下した後嵯峨法皇が門跡となります。

門跡寺院、後嵯峨法皇は第21代門跡となりまして、こののちに院政の場となる下地が重ねられてゆきます、もっとも後嵯峨法皇は院の御所をここには開かず、門跡寺院の一つとして大覚寺は元々兼ね備えた政治的な寺院としての役割を果たすのみではありましたが。

嵯峨御所という歴史を歩むこととなりました転機は徳治2年こと西暦1307年の後宇多天皇法皇宣下の際、後宇多法皇は第23代門跡となられましたが、この際に院の御所を大覚寺に置き、また伽藍の整備に尽力したことで大覚寺中興の祖、とも呼ばれることとなる。

大覚寺統、もっともこのあたりの歴史は後宇多法皇の皇子と亀山法皇の皇子、日本の皇統が二つに分裂する南北朝の時代に繋がるために、順風満帆な格式とは進まないところではあるのですが。ただ、院の御所とともに伽藍が御所に見合う格式へと整備されたという。

大沢池とともに本当に時間をかけて散策、いや拝観しておきますと、これはテレビの時代劇を見た際に、ああこのあたりだ、と懐古するのに興味深い歴史を感じることができます、しかしそれ以上に複雑怪奇な日本史を伽藍一つ一つに秘めた寺院だとも気づくのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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大沢池とともに佇む大覚寺はほんとうに広大で寺院というよりは、という言葉がつい出てしまいそうにありますが歴史を知ればなるほどとうなづくもの。

大覚寺は嵯峨上皇の嵯峨離宮として造営が始まり、そして陵墓が造営されたという歴史は既に紹介しましたが、平安遷都とともに平安京に上り、のちに転換点となる真言宗を日本に伝えることとなる空海はその嵯峨天皇から熱い信任を得ていたことでも知られます。

空海はこの嵯峨離宮に招かれた際、持仏堂として五覚院を造営するとともに加持祈祷を行ったといい、考えてみると神護寺と大覚寺の近い関係は、嵯峨上皇と空海の所縁そのものなのだなあ、と気づかされ、この寺院の始まりと空海の不思議な関係を見た思いがする。

真言宗大覚寺派、そして神護寺はここからそれほど離れていません、山を登る必要はありますけれどもね。嵯峨上皇の崩御から時を経た貞観18年こと西暦876年、皇女正子内親王により離宮が寺院に改められた、というのはなにかこう自然流れのように思えるのです。

正子内親王、このひとは淳和天皇皇后というのですが開基としまして開山には恒寂入道親王、淳和天皇と皇后正子内親王との間の長男があたりました。時代が時代ならば高貴な身分となりますが、嵯峨上皇崩御の直後にありました承和の変により廃位されています。

高岳親王の灌頂、廃位されましたが薬子の変により同じような経緯で廃位され、しかし空海に弟子入りすることができた高岳親王、出家の後に真如入道親王、この人は舞鶴の金剛院を開いたことでも知られる、この人のもとで真言宗の僧侶として出家の道を歩みました。

陽成天皇の廃位、結局のところのこの時代の日本は権力基盤が流動的であった、桓武天皇の時代まで続いた遷都と軍事遠征の連続から急制動を掛けたような方針転換が混乱を呼んだのでしょう、陽成天皇の時代に混乱が生じまして恒寂入道親王には復位が求められる。

恒寂入道親王は、しかしこの求めを慎重に断っている。無論、廃太子の復位が呼ぶ混乱を見越してのものとも、混乱しすぎている中央に近づくことの危険性とも、こう読み取れるのですが、廃太子の位置づけはこれにより奈良時代ほど厳しくはなくなり改革を果たす。

後嵯峨上皇の法皇宣下、さてこれまで触れましたようになにか大覚寺には院政という表面的な歴史よりも隠棲という静けさとともに開かれた寺院であることが読み取れます、しかし平安時代を経て鎌倉時代末期のころ、法皇宣下した後嵯峨法皇が門跡となります。

門跡寺院、後嵯峨法皇は第21代門跡となりまして、こののちに院政の場となる下地が重ねられてゆきます、もっとも後嵯峨法皇は院の御所をここには開かず、門跡寺院の一つとして大覚寺は元々兼ね備えた政治的な寺院としての役割を果たすのみではありましたが。

嵯峨御所という歴史を歩むこととなりました転機は徳治2年こと西暦1307年の後宇多天皇法皇宣下の際、後宇多法皇は第23代門跡となられましたが、この際に院の御所を大覚寺に置き、また伽藍の整備に尽力したことで大覚寺中興の祖、とも呼ばれることとなる。

大覚寺統、もっともこのあたりの歴史は後宇多法皇の皇子と亀山法皇の皇子、日本の皇統が二つに分裂する南北朝の時代に繋がるために、順風満帆な格式とは進まないところではあるのですが。ただ、院の御所とともに伽藍が御所に見合う格式へと整備されたという。

大沢池とともに本当に時間をかけて散策、いや拝観しておきますと、これはテレビの時代劇を見た際に、ああこのあたりだ、と懐古するのに興味深い歴史を感じることができます、しかしそれ以上に複雑怪奇な日本史を伽藍一つ一つに秘めた寺院だとも気づくのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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