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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】伊賀上野城(三重県伊賀市)織田信長と天正伊賀の乱-豊臣政権時代筒井定次の城郭造営

2023-06-28 20:23:34 | 旅行記
■高石垣の城郭への歴史
 高石垣はこの城郭を象徴するものの一つなのですが、高所恐怖症でなくとも例えばUH-1で京都市街を見下ろしながら扉を開いて編隊を撮影するよりも違う現実的な怖さを感じる。

 伊賀上野城、城郭は再建天守閣という戦前に建てられたものなのですが威風堂々と、そしてなによりこの地に城郭を復活させたいという願いのようなものを遥か時を超えて今なお感じますゆえに、その情景はなかなかに気持ちが良いのです。さてこの城郭とは。

 筒井定次、豊臣政権時代に当地を所領として下賜され、そしてここは緊要地形、領地経営のためにはかりの館ではなく城郭が必要だと思いいたったのでしょう、天正伊賀の乱、その際の織田信長に焼き滅ぼされた仁木氏館の跡地に城郭を造営することとなります。

 仁木氏館の跡地、ここは伊賀盆地の中央部であるとともに四つの河川が集中する交通要衝、交通の結節点はそれだけで緊要地形です。筒井定次は、まず小山の山頂に本丸を整備し三層天守を造営するとともに本丸の西側に二の丸、そして北の山麓に三の丸を置いた。

 天守閣は三層、好記録には残るのですが残念なことにこの最初に造営された天守閣は現在は無く、研究により現在の城代屋敷の北東隅あたりに天守台があったという。そして筒井定次は当地の前に大和郡山城の城主であり、造営意匠にはその影響も考えられます。

 関ケ原の戦い、豊臣秀吉没後に勃発しました慶長5年こと1600年の関ケ原戦役に際して筒井定次は東軍の徳川家康に付き従い、しかしこの伊賀市から若干近い関ケ原ではなく、家康の命により発令された上杉との会戦、会津討伐へと筒井定次は主力を派遣している。

 五大老の一人である上杉景勝の号令一下直江兼続は会津若松に新しく神指城の造営を開始するなど東北地方の防備強化を急いでおり、この防衛行動を明らかな徳川家康への挑発行為と受け取り福島正則と細川忠興に討伐を命じた、筒井定次もこれに呼号しています。

 会津征伐は、徳川家康も主力とともに参加するべく6月29日に鎌倉の鶴岡八幡宮での先勝祈願を行い、そして7月19日に徳川主力を率いた徳川秀忠が江戸城から出陣、その二日後の21日に家康も江戸城を出陣するのですが、なんと7月24日に急報が入りました。

 石田三成挙兵。7月24日にこの情報に接した家康はそのまま一気に方針を転換、まず後退したのではそのまま上杉景勝に背後を突かれる事から、拘束部隊を編制、最上義光と留守政景に対し西軍直江兼続水原親憲が激突する、世にいう慶長出羽合戦が始まります。

 伊賀上野城、こちらに視点を戻しますと大変なのは留守居役筒井玄蕃で、その兵力は非常に限られていました。似たような話は細川幽斎が舞鶴の田辺城で包囲された事例がありますが、田辺城は籠城し攻城戦が展開されたものの、筒井玄蕃はそこまで粘れなかった。

 摂津高槻城主新庄直頼からの攻撃を前に筒井玄蕃は殆ど戦うことなく高野山へ出家という名の逃亡を果たしまして、これを東北の会津征伐から舞い戻った筒井定次、徳川家康の許可を得て城を奪還する上野城の戦いが繰り広げられました、これは一応評価される。

 筒井騒動、慶長13年こと1608年のことですが、関ケ原の戦いで東軍の一員を担った筒井定次は所領安堵と伊賀上野藩20万石を与えられるのですが、軍事的な才覚は薄い懸念がある、何があったのかは難しいが後に豊臣方と密通の疑いを受け切腹を命じられる。

 藤堂高虎。筒井騒動を受けて滅亡した筒井氏に代わり伊賀上野藩を命じられたのは、戦国時代きっての築城の名手である藤堂高虎そのひとでした。そして三重県では津市の津城に壮大な銅像が探訪者を迎えてくれる藤堂高虎が、徳川家康から当地を任されます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】伊賀上野城(三重県伊賀市)白鳳城,新緑つつむ城郭はじまりは平清盛寺院と守護大名仁木氏館

2023-06-28 20:00:34 | 旅行記
■三重の奥地に白い城郭
 伊賀と云えばニンジャなのかもしれませんがニンジャの街には白い城郭が迎えてくれる。

 伊賀上野城、近鉄から切り離された伊賀鉄道を進んでいきまして伊賀鉄道伊賀線上野市駅という、東京にでも来たのだろうかとちょっと心躍る駅名で下車しますと、徒歩でそれなりにかかると聞いていたのですが、駅から直ぐに伊賀上野城は見えて近く感じます。

 上野市駅駅舎も古い建物を利用していて、そして駅前には小さいけれどもアーケードの商店街が広がり、駅前広場も広々として路線バスやタクシーも乗り入れ、なるほど理想的な地方の城下町というのはこういうところなんどあなあ、と考えさせられたものでした。

 三重県伊賀市上野丸之内、伊賀市の人口は九万弱となっていて、2004年に上野市と伊賀町そして阿山町と名賀郡青山町更に大山田村と島ヶ原村にわたる広い地域が町村合併により誕生した経緯があります、そしてなによりこの伊賀市は忍者の街として知られる。

 城郭までは徒歩、なのですけれども、昔行ったことがあるらしいのですが経路まで記憶にない、だから林間道路みたいなところを登って行った、学校の方に進むと入り口がしっかりとした門構えで迎えてくれるのですね、しかし近道のような林間道路から上った。

 白鳳城という別名でも親しまれるという城郭は海抜184m、服部川と柘植川、久米川に木津川、と四つの河川に守られた盆地にある台地の上に築城されていまして、そして城下町を配置した城郭となっています。この一帯は今も名阪物流の大動脈上に立地しています。

 平安時代には当地に平清盛の発願により造営された平楽寺という、大きな寺院があったという事ですが残念ながら遺構は残されていません、いや実は後述する戦国時代の激戦により当地には破壊の嵐が吹き平安時代や鎌倉時代の建物は基本的に残っていません。

 仁木氏館という、室町時代には守護大名の拠点が造営されているのですが、これは応仁の乱の頃に衰退してしまったようで、戦国時代には南伊賀への統治が柘植氏の台頭により及ばなくなり、権威回復への南伊賀討伐は逆に失敗、仁木氏当主が討ち取られてしまう。

 仁木氏は権威回復を文化に求めますが、そんなもので戦国乱世は乗り切れないと地方豪族たちの反発を買い、仁木氏は館を捨てて逃亡し、その仁木氏を援助したのが織田信長でしたが、逆に織田信長が伊賀での支持を失うという、逆効果になってしまった歴史が。

 織田信長と伊賀惣国一揆、当初は織田信雄が8000名の兵力で鎮定しようとしたのが天正7年こと1579年でしたが、山間部でゲリラ戦を展開され敗北してしまいます。これは織田信長に衝撃を与え、これをのちに天正伊賀の乱ともいうようになりました。しかし。

 天正伊賀の乱、天正9年こと1581年に今度は織田信長が蒲生氏郷などの地形案内など綿密な情報収集の上で丹羽長秀、滝川一益、筒井順慶、堀秀政、浅野長政、といった配下の武将4万5000名の兵力を派遣し制圧徹底的に破壊、滝川雄利の所領として与えました。

 中世の頃の建物が、この城下熊本より伊賀市全般に見当たらないのはこうした事情がありまして、豊臣秀吉政権時代には脇坂安治、筒井定次と配置されます。この頃城郭は無く、筒井定次は仁木古館跡に城郭造営を決断、こうして当地、伊賀上野城が造営されます。

 石垣が、しかし凄いなあ、と唸らせられる。大阪城も名古屋城もそうですが石垣は空襲にも耐え、いや広島城の石垣は核攻撃に耐えている。そして土塁のように自然に変えることもありません。しかし、この城郭に今に至る石垣が築かれるのは、もう少し先でした。

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ウクライナ情勢-ドニエプル川アントノフスキー橋付近渡河に続きコンカ川橋梁を確保,ドニエプル軍集団移動後

2023-06-28 07:00:41 | 防衛・安全保障
■臨時情報-ウクライナ情勢
 渡河作戦の直ぐに出せる映像が無かったので自衛隊の揚陸訓練の様子とともにウクライナ情勢を見てみましょう。

 ウクライナ軍はドニエプル川のアントノフスキー橋付近での渡河に続いて南にあるコンカ川の橋梁を確保しました。アントノフスキー橋は昨年の戦闘で破壊され崩落、通行不能となっていますがコンカ川の橋梁はロシア軍が占領中のところを急襲しロシア軍が破壊する前に奪取しました。この橋梁はクリミア半島に向かうE97高速道路の一部です。

 コンカ川の橋梁確保と同時にウクライナ軍はアントノフスキー橋付近に浮橋を架橋しています、浮橋は先々週にNATOがルーマニアにおいて大規模渡河訓練セイバーガーディアンを実施していましたが、今回ウクライナ軍の架橋作戦に影響を与えた可能性はあります。なお、ここからクリミア半島のクラスノペレコプスクまでは110㎞となっています。
■ドニエプル川に架橋
 戦争は余分な事を遣った方が無駄の無い側に負けるのでしょう。

 ウクライナ軍がドニエプル川に架橋できた背景について、アントノフスキー橋の上流にロシア軍が破壊したカホフカダムが存在しています、ロシア軍はこの破壊によりウクライナ軍が洪水により当面この地域での戦闘が不可能であると判断し、この地域を占領するドニエプル軍集団から第34独立自動車化狙撃旅団や空挺部隊と海軍歩兵を移動させた。

 ドニエプル軍集団から抽出して移動させたのは1200㎞先のバフムトでのウクライナ軍反攻作戦を迎撃する、もしくはルガンスク州セレブリャンカでの再攻撃を実施する為と思われ、この移動は19日までに実施されました。当たり前の話ですがダム破壊の慢心により兵力を抽出したことで開いた軍事空白地帯へウクライナ軍が渡河したこととなります。
■アゾフ海まで100㎞以内
 ハリウッド映画のようにはいかない、こうゼレンスキー大統領がくぎを刺しました。もっともその24時間後にハリウッド映画のような六月の十五時間ワグネル反乱事件が起きましたが。

 ウクライナ軍は6月23日時点で南部戦線のロシア軍主陣地まで到達していない可能性がありますが、既にウクライナ軍は南部戦線でアゾフ海まで100㎞以内を奪還している可能性があります。100㎞という距離はHIMARS高機動ロケットシステムより投射するGMLRSによりロシア軍の南部補給路を破壊できる可能性を示しているにほかなりません。

 ウクライナ軍の反撃は前線突破よりも、攻撃前進、威力偵察の可能性さえある前進に対し砲撃を加えるロシア軍砲兵を対砲兵戦により着実に潰している段階であり、他方、前哨陣地付近ではロシア軍戦闘ヘリコプター部隊の活躍が伝えられるも、HIMARSやカエサル自走榴弾砲、PzH-2000自走榴弾砲などウクライナ軍砲兵に被害は発表されていません。

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