■高石垣の城郭への歴史
高石垣はこの城郭を象徴するものの一つなのですが、高所恐怖症でなくとも例えばUH-1で京都市街を見下ろしながら扉を開いて編隊を撮影するよりも違う現実的な怖さを感じる。
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伊賀上野城、城郭は再建天守閣という戦前に建てられたものなのですが威風堂々と、そしてなによりこの地に城郭を復活させたいという願いのようなものを遥か時を超えて今なお感じますゆえに、その情景はなかなかに気持ちが良いのです。さてこの城郭とは。
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筒井定次、豊臣政権時代に当地を所領として下賜され、そしてここは緊要地形、領地経営のためにはかりの館ではなく城郭が必要だと思いいたったのでしょう、天正伊賀の乱、その際の織田信長に焼き滅ぼされた仁木氏館の跡地に城郭を造営することとなります。
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仁木氏館の跡地、ここは伊賀盆地の中央部であるとともに四つの河川が集中する交通要衝、交通の結節点はそれだけで緊要地形です。筒井定次は、まず小山の山頂に本丸を整備し三層天守を造営するとともに本丸の西側に二の丸、そして北の山麓に三の丸を置いた。
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天守閣は三層、好記録には残るのですが残念なことにこの最初に造営された天守閣は現在は無く、研究により現在の城代屋敷の北東隅あたりに天守台があったという。そして筒井定次は当地の前に大和郡山城の城主であり、造営意匠にはその影響も考えられます。
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関ケ原の戦い、豊臣秀吉没後に勃発しました慶長5年こと1600年の関ケ原戦役に際して筒井定次は東軍の徳川家康に付き従い、しかしこの伊賀市から若干近い関ケ原ではなく、家康の命により発令された上杉との会戦、会津討伐へと筒井定次は主力を派遣している。
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五大老の一人である上杉景勝の号令一下直江兼続は会津若松に新しく神指城の造営を開始するなど東北地方の防備強化を急いでおり、この防衛行動を明らかな徳川家康への挑発行為と受け取り福島正則と細川忠興に討伐を命じた、筒井定次もこれに呼号しています。
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会津征伐は、徳川家康も主力とともに参加するべく6月29日に鎌倉の鶴岡八幡宮での先勝祈願を行い、そして7月19日に徳川主力を率いた徳川秀忠が江戸城から出陣、その二日後の21日に家康も江戸城を出陣するのですが、なんと7月24日に急報が入りました。
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石田三成挙兵。7月24日にこの情報に接した家康はそのまま一気に方針を転換、まず後退したのではそのまま上杉景勝に背後を突かれる事から、拘束部隊を編制、最上義光と留守政景に対し西軍直江兼続水原親憲が激突する、世にいう慶長出羽合戦が始まります。
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伊賀上野城、こちらに視点を戻しますと大変なのは留守居役筒井玄蕃で、その兵力は非常に限られていました。似たような話は細川幽斎が舞鶴の田辺城で包囲された事例がありますが、田辺城は籠城し攻城戦が展開されたものの、筒井玄蕃はそこまで粘れなかった。
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摂津高槻城主新庄直頼からの攻撃を前に筒井玄蕃は殆ど戦うことなく高野山へ出家という名の逃亡を果たしまして、これを東北の会津征伐から舞い戻った筒井定次、徳川家康の許可を得て城を奪還する上野城の戦いが繰り広げられました、これは一応評価される。
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筒井騒動、慶長13年こと1608年のことですが、関ケ原の戦いで東軍の一員を担った筒井定次は所領安堵と伊賀上野藩20万石を与えられるのですが、軍事的な才覚は薄い懸念がある、何があったのかは難しいが後に豊臣方と密通の疑いを受け切腹を命じられる。
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藤堂高虎。筒井騒動を受けて滅亡した筒井氏に代わり伊賀上野藩を命じられたのは、戦国時代きっての築城の名手である藤堂高虎そのひとでした。そして三重県では津市の津城に壮大な銅像が探訪者を迎えてくれる藤堂高虎が、徳川家康から当地を任されます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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高石垣はこの城郭を象徴するものの一つなのですが、高所恐怖症でなくとも例えばUH-1で京都市街を見下ろしながら扉を開いて編隊を撮影するよりも違う現実的な怖さを感じる。
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伊賀上野城、城郭は再建天守閣という戦前に建てられたものなのですが威風堂々と、そしてなによりこの地に城郭を復活させたいという願いのようなものを遥か時を超えて今なお感じますゆえに、その情景はなかなかに気持ちが良いのです。さてこの城郭とは。
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筒井定次、豊臣政権時代に当地を所領として下賜され、そしてここは緊要地形、領地経営のためにはかりの館ではなく城郭が必要だと思いいたったのでしょう、天正伊賀の乱、その際の織田信長に焼き滅ぼされた仁木氏館の跡地に城郭を造営することとなります。
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仁木氏館の跡地、ここは伊賀盆地の中央部であるとともに四つの河川が集中する交通要衝、交通の結節点はそれだけで緊要地形です。筒井定次は、まず小山の山頂に本丸を整備し三層天守を造営するとともに本丸の西側に二の丸、そして北の山麓に三の丸を置いた。
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天守閣は三層、好記録には残るのですが残念なことにこの最初に造営された天守閣は現在は無く、研究により現在の城代屋敷の北東隅あたりに天守台があったという。そして筒井定次は当地の前に大和郡山城の城主であり、造営意匠にはその影響も考えられます。
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関ケ原の戦い、豊臣秀吉没後に勃発しました慶長5年こと1600年の関ケ原戦役に際して筒井定次は東軍の徳川家康に付き従い、しかしこの伊賀市から若干近い関ケ原ではなく、家康の命により発令された上杉との会戦、会津討伐へと筒井定次は主力を派遣している。
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五大老の一人である上杉景勝の号令一下直江兼続は会津若松に新しく神指城の造営を開始するなど東北地方の防備強化を急いでおり、この防衛行動を明らかな徳川家康への挑発行為と受け取り福島正則と細川忠興に討伐を命じた、筒井定次もこれに呼号しています。
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会津征伐は、徳川家康も主力とともに参加するべく6月29日に鎌倉の鶴岡八幡宮での先勝祈願を行い、そして7月19日に徳川主力を率いた徳川秀忠が江戸城から出陣、その二日後の21日に家康も江戸城を出陣するのですが、なんと7月24日に急報が入りました。
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石田三成挙兵。7月24日にこの情報に接した家康はそのまま一気に方針を転換、まず後退したのではそのまま上杉景勝に背後を突かれる事から、拘束部隊を編制、最上義光と留守政景に対し西軍直江兼続水原親憲が激突する、世にいう慶長出羽合戦が始まります。
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伊賀上野城、こちらに視点を戻しますと大変なのは留守居役筒井玄蕃で、その兵力は非常に限られていました。似たような話は細川幽斎が舞鶴の田辺城で包囲された事例がありますが、田辺城は籠城し攻城戦が展開されたものの、筒井玄蕃はそこまで粘れなかった。
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摂津高槻城主新庄直頼からの攻撃を前に筒井玄蕃は殆ど戦うことなく高野山へ出家という名の逃亡を果たしまして、これを東北の会津征伐から舞い戻った筒井定次、徳川家康の許可を得て城を奪還する上野城の戦いが繰り広げられました、これは一応評価される。
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筒井騒動、慶長13年こと1608年のことですが、関ケ原の戦いで東軍の一員を担った筒井定次は所領安堵と伊賀上野藩20万石を与えられるのですが、軍事的な才覚は薄い懸念がある、何があったのかは難しいが後に豊臣方と密通の疑いを受け切腹を命じられる。
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藤堂高虎。筒井騒動を受けて滅亡した筒井氏に代わり伊賀上野藩を命じられたのは、戦国時代きっての築城の名手である藤堂高虎そのひとでした。そして三重県では津市の津城に壮大な銅像が探訪者を迎えてくれる藤堂高虎が、徳川家康から当地を任されます。
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