■静けさ求め雪舟寺へ
紅葉も場所によっては青椛が少しは残る場所も見つけるのはまた楽しいのですが。

東福寺の伽藍面、こう呼ばれますのは東福寺を京都最大の寺院に、とする機運から延々と寺域とともに伽藍を造り続け、いかにも偉そうだ、という町衆の声によるものという。云う程でもない、四条のビル群を視た後に東福寺を拝観された際に思われるかもしれない。

明治の廃仏毀釈、しかし注意しなければいかないのかな、と思うのは今見ている東福寺は江戸時代の幕府影響とともにその拡大から伽藍の維持へと転じ、そしてその後の幾つかの大火、あの仏殿さえ焼失し御本尊は手を残すのみという火災などを経た今の姿なのですね。

法住寺はじめ当地には元々藤原家所縁の寺院など、要するに荒野へ寺院を拓いたような恰もいまの新興宗教の敷地と建物だけ凄い寺院とは異なり、ここは平安遷都後に連綿と開発された地域、いまでいえば東京の丸ノ内あたりに当る地域に広がっていたという構図です。

伽藍面と呼ばれるのは、保守的ではないにしてもどんどん伽藍を立て続け、なにしろ日本全体が余裕の無い時代も含め景気の良いところから、なにかこう伽藍面だなあ、という所感を反映したものなのかもしれません。しかし、伽藍面というのもすべてではありません。

雪舟寺、かの雪舟が作庭したという庭園がある塔頭寺院が、しかしここは京都市東山区本町、つまり東福寺の白壁が連なるその先に広がっているのです。あの仏殿からは京阪電鉄の方へ坂道を下ったところにありまして、本堂拝観の際には先ず通過するとことにある。

芬陀院というのが正式な名前でして東福寺の塔頭その一つ、数多くありました東福寺の塔頭は失われたものが多いのですけれども、こう東山の山麓に寄り添うように一つの寺町、東福寺の街並みを東山区本町として形成しています、雪舟寺というのは通称というもの。

静かな寺院ではないですか、こうおもうのは東福寺の伽藍面というのは仏殿と三門くらいのもの、という実感なのでしょうか。そして紅葉の季節と云うのにそれ程混雑していない、と云いますか他に一組ほどでしょうか、いや徒歩数分先の喧騒とは別世界とさえおもう。

一条経通がその実父一条内経の菩提を弔う為に元亨年間、これは西暦ですと1321年から1324年の時代ですので東福寺開山の円爾さんの時代から少し今日に近づくのですが、その法孫にあたる定山祖禅を開山に招きまして開きました寺院、七百年の歴史を湛えています。

鶴亀の庭、これは雪舟が作庭したと伝わる枯山水庭園があります、ただ幾度か火災に見舞われていますので、書院が宝暦5年こと西暦1755年の建物という他は、なかなか古い建物は無く、雪舟の作庭というはなしも伝わる伝承のみであり、確証はないのだとも云われる。

重森三玲、日本庭園史における巨人というべき昭和の作庭家ですが、じつはこの鶴亀の庭は江戸時代の度重なる火災と共に明治の廃仏毀釈により荒れ果て、想像もつかないかもしれませんが、庭園跡が荒廃したままの寺院をわたしは幾つも知っている、それを再興した。

恭礼門院、桃園天皇の女御という方なのですが、元禄年間の火災により荒廃した寺院は江戸時代の関白である一条兼輝により再建されています。この際に本堂、庭園を眺めるその場所は恭礼門院の旧殿を移築し再建され、これは今に至るも当時の気風をのこしています。

図南亭という茶室の丸窓は昭和中期に造営されたもので寺を再興した一条家の系譜にある茶人であり公卿の一条恵観を偲んで開かれたという。紅葉の季節もそろそろ、という頃合いではありますが僅かな朱色の木々が凛と存在感を醸す、感慨深い一時を過ごしましたね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
紅葉も場所によっては青椛が少しは残る場所も見つけるのはまた楽しいのですが。

東福寺の伽藍面、こう呼ばれますのは東福寺を京都最大の寺院に、とする機運から延々と寺域とともに伽藍を造り続け、いかにも偉そうだ、という町衆の声によるものという。云う程でもない、四条のビル群を視た後に東福寺を拝観された際に思われるかもしれない。

明治の廃仏毀釈、しかし注意しなければいかないのかな、と思うのは今見ている東福寺は江戸時代の幕府影響とともにその拡大から伽藍の維持へと転じ、そしてその後の幾つかの大火、あの仏殿さえ焼失し御本尊は手を残すのみという火災などを経た今の姿なのですね。

法住寺はじめ当地には元々藤原家所縁の寺院など、要するに荒野へ寺院を拓いたような恰もいまの新興宗教の敷地と建物だけ凄い寺院とは異なり、ここは平安遷都後に連綿と開発された地域、いまでいえば東京の丸ノ内あたりに当る地域に広がっていたという構図です。

伽藍面と呼ばれるのは、保守的ではないにしてもどんどん伽藍を立て続け、なにしろ日本全体が余裕の無い時代も含め景気の良いところから、なにかこう伽藍面だなあ、という所感を反映したものなのかもしれません。しかし、伽藍面というのもすべてではありません。

雪舟寺、かの雪舟が作庭したという庭園がある塔頭寺院が、しかしここは京都市東山区本町、つまり東福寺の白壁が連なるその先に広がっているのです。あの仏殿からは京阪電鉄の方へ坂道を下ったところにありまして、本堂拝観の際には先ず通過するとことにある。

芬陀院というのが正式な名前でして東福寺の塔頭その一つ、数多くありました東福寺の塔頭は失われたものが多いのですけれども、こう東山の山麓に寄り添うように一つの寺町、東福寺の街並みを東山区本町として形成しています、雪舟寺というのは通称というもの。

静かな寺院ではないですか、こうおもうのは東福寺の伽藍面というのは仏殿と三門くらいのもの、という実感なのでしょうか。そして紅葉の季節と云うのにそれ程混雑していない、と云いますか他に一組ほどでしょうか、いや徒歩数分先の喧騒とは別世界とさえおもう。

一条経通がその実父一条内経の菩提を弔う為に元亨年間、これは西暦ですと1321年から1324年の時代ですので東福寺開山の円爾さんの時代から少し今日に近づくのですが、その法孫にあたる定山祖禅を開山に招きまして開きました寺院、七百年の歴史を湛えています。

鶴亀の庭、これは雪舟が作庭したと伝わる枯山水庭園があります、ただ幾度か火災に見舞われていますので、書院が宝暦5年こと西暦1755年の建物という他は、なかなか古い建物は無く、雪舟の作庭というはなしも伝わる伝承のみであり、確証はないのだとも云われる。

重森三玲、日本庭園史における巨人というべき昭和の作庭家ですが、じつはこの鶴亀の庭は江戸時代の度重なる火災と共に明治の廃仏毀釈により荒れ果て、想像もつかないかもしれませんが、庭園跡が荒廃したままの寺院をわたしは幾つも知っている、それを再興した。

恭礼門院、桃園天皇の女御という方なのですが、元禄年間の火災により荒廃した寺院は江戸時代の関白である一条兼輝により再建されています。この際に本堂、庭園を眺めるその場所は恭礼門院の旧殿を移築し再建され、これは今に至るも当時の気風をのこしています。

図南亭という茶室の丸窓は昭和中期に造営されたもので寺を再興した一条家の系譜にある茶人であり公卿の一条恵観を偲んで開かれたという。紅葉の季節もそろそろ、という頃合いではありますが僅かな朱色の木々が凛と存在感を醸す、感慨深い一時を過ごしましたね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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